―――時間はすでに夜。太陽も完全に沈み、明かりがなければ周囲一帯をまるで確認出来ない真っ暗な状態になっている。もう冬ほどの寒さはないとはいえ、まだ日が暮れるのは早く、日が昇るのは遅い。
毎朝起きるのが早いため、眠くなるのも早いのだが、春眠暁を覚えずなんて言葉があるように、早く寝たとしても朝起きたくないという気持ちは強い。布団が恋しくなる事も、対して珍しいことではなかった。
さて、今日の事を振り返るとするのなら、午後の授業をそつなくこなし、チャイムがなると同時に俺は寮へと戻った。一夏はというと、篠ノ之とセシリアに問答無用でアリーナへ連行され、特訓を受けたんだと思う。
何故篠ノ之までアリーナに向かったのかというと、今日は篠ノ之も打鉄を借りる事が出来、一夏と共に特訓をするからだ。
まぁ、半分くらいは二人きりにさせたくない願望が入っているんじゃないだろうか。
とはいえ、現場を見た訳じゃないので俺も詳しいことは分からない。分かっているのは、さっき寮に帰ってきた一夏が、息も絶え絶えで魂を引っこ抜かれたような顔をしていたことくらいだ。
立てなくなるレベルまでしごいたようで、夕食の時も机に屈伏したまま十数分くらい動かず、そんな一夏の状態に苦笑いを浮かべるしかなかった。
「ストーカーに強盗に殺人か……この世の中も物騒だな」
自室の机に向かいながら、ディスプレイモニターに映る記事を一つ一つ確認していく。インターネットの記事は時間が経てばすぐに更新され、次々に新しい記事に差し替えられる。学校にいる間は全てを確認することは無理なため、帰宅後に見る必要があった。
一日も経てばかなりの件数が更新されていて、全ての内容を把握するには二、三時間かかる。
記事の内容も経済やエンタメ、スポーツに事件など様々。その中でも俺は特に事件関連のものをよく見ている。どうしてこんなことが起こってしまったのか、つまり原因を探るためだ。
楯無さんの言っていた女性権利団体の動向には、細心の注意を払う必要がある。
昨日のうちにある程度は調べてみたが、あまり表立った記録は残っていなかった。おそらく自分たちにとって、不利益になる情報は全て隠蔽しているんだと思う。
都合の良い連中だ、奴らがやっていることを考えるとヘドが出る。
これで二日間女性権利団体について調べているが、これといった情報を手に入れられないままでいる。
ここはIS学園、そう簡単に襲撃することは出来ないが、遠くから監視や偵察をすることくらいは出来る。もしタイムスケジュールを把握され、一人の時に襲撃されたらたまったものではない。
今はまだ、本家と楯無さんからの情報を頼りにするしかない。頭に浮かぶ最悪の状況を想定しながら、ディスプレイモニターを眺め続ける。
「あー!! もう、やめやめ! 一息ついてから考えよう!」
パソコンをスリープモードにして、キッチンにコーヒーを取りに行く。お湯は前もってポットを使って沸かしてあるから、後はコーヒー豆を入れてお湯を注ぐだけ。
コップに豆を入れ、ポットからお湯を注ぎ入れる。コーヒー独自の香りと風味が嗅覚を刺激し、思わず顔がにやけそうになる。その感情をグッと押し殺し、スプーンを使って軽く混ぜ、混ざりあったものを持って再び机に戻った。
椅子に座って淹れたばかりのコーヒーを口に運び、自分にとっての優雅な一時というものを過ごす。身体をリラックスさせ、何も考えずに無心で飲むコーヒーが俺は大好きだ。この時ばかりは、誰のも邪魔されたくないという変なこだわりがある。
「というわけで、私も―――」
「ふざけるな! 大体誰が許可を―――」
誰にも邪魔されたくないと強く思う時こそ、逆に邪魔が入るものだ。
聞き慣れた二つの声が廊下を通じて聞こえてくる。部屋を一つ挟んで隣の俺のところまで聞こえてくるということは、入り口を開けたまま、かなり大きな声で言い合っていることになる。
俺が言いたいのは、一夏の部屋でこの論争が起こっているということについてだ。声の質からして、言い争っているのは篠ノ之と凰だろう。
「寮長が千冬さんなのによくあれだけ騒げるな。つっても、まだ消灯時刻にはなっていないか」
部屋の時計を確認すると四十分を少し過ぎた辺り。まだ特に咎められることは無いが、それが許されるのも後十数分。消灯時間を過ぎてまで騒いでいたら、もれなく千冬さんの『OHANASHI』がプレゼントされる。
なぜ二人が騒いでいるのか知らないが、食堂での一件があるためにあまり口出ししたくないというのが本音だったりする。
聞かなかったことにしようと、俺は再びコーヒーを傾けながら、机のフックにかけた鞄を机の上に乗せ、明日の準備に取りかかる。明日何があったっけとスケジュールを確認しつつ、教科書や参考書類を入れ替えていく。
机の中に教科書全部置いてくるのも考えたけど、よくよく考えたらそれでは机の中が魔窟になって、授業始まる前に取り出すのが非常に面倒になる。授業の準備はスムーズに終わらせたいし、自分の座っている場所くらいは綺麗に整頓しておきたいもの。
教科書を明日のものへと入れ替え終わり、鞄を再び机のフックに掛けて、飲み終えたコップを片付けるためにキッチンへと向かう。
その時だった。
「最っ低ッ!!!」
何かを叩く衝撃音と共に、怒気が含まれた甲高い声が聞こえてくる。その何かを叩く音とは、紛れもなく人間の肉体を叩く音、そして甲高い声とは凰の声。
誰に対して怒っているのか、それはすぐに検討がついた。一体一夏の部屋で何が起こっているのか、それを確認するために、部屋の外に出る。
そのまま部屋を一つ跨ぎ、一夏と篠ノ之の部屋の入り口の前に立った。ドアを見てみると想像した通り、少し開いている。次にドアに穴が開いていないか。以前、一夏が篠ノ之といざこざを起こした時には、木刀の一撃によって複数の穴が開けられ、無惨な姿に変えられていたからだ。
穴も特に見当たらないし、とりあえず何をやらかしたのだけ聞いて、すぐに部屋に戻ろう。
部屋に入るためにノックをしようと、ドアに手を伸ばしていくのだが、ドアに接触する前にドアが開いた。まだノックもしていないし、どうして勝手にドアが開くのか。……答えは簡単で、中からドアが開けられたから。
俺としてはノック後に、入室をしてもいいという返事が返ってくるとばかり思っていたため、完全な不意打ちになってしまった。
何とか避けようと後ろに下がるものの、気付いた時には、時すでに遅し。俺が後ろに下がるよりも早く、ドアの方が早く開かれた。
当然ドアの前に人がいるのに、勢いよく開けたらどうなるか、誰しもが分かること。
刹那、ゴツッ! という鈍い音が鳴り響くと共に、おでこに言葉に言い表せないほどの強烈なまでの痛みが走る。
「―――ッッ!!?」
来ることが分かっていれば避けたものの、今回は完全な想定外。すぐ目前に迫った物体を完全に避けろなんてのは、無茶な話だ。
相手の繰り出すパンチやキック、そして斬撃は、来ると分かっているから反応出来る。まさかいきなりドアが、それも勢いよく開けられるなんてのは普通なら想定しない。入口から出る時は目の前に人がいないことを確認し、ゆっくりと開けるのが常識、とんだ常識外れもいいところだ。
不意に物体が飛んでくると、痛くないのに痛いと言ってしまった経験はないだろうか。
それと同じように、今回は不意にドアの開け閉めによって殴打されたわけだから、普通よりもおでこに走る痛みは大きい。
「いってえぇ!!」
痛みのあまり、俺はおでこを押さえてその場にうずくまる。するとうずくまった俺の視線の先に、誰かの足が見える。ドアを開けた張本人が出てきたみたいだ。目の前に人がいることくらい確認しろと、文句の一つでも言ってやろうと、俺は痛みを我慢しながら顔を上げた。
「あっ!?」
「えっ?」
「―――ッ!!」
ドアを開けたのは凰だった。右手にはピンク色のボストンバッグが握られている。しかし、俺が言葉を続けようとする前に、顔を隠すようにそのまま走り去ってしまう。ツインテールが揺れるその後ろ姿を、追うこともなく、ただ見つめることしか出来ない。
顔が一瞬あった時、凰の目尻には微かに光る水滴のようなものが見えた。何があったのかはまだ分からないけど、あれは間違いなく。
「泣いて……いたよな?」
今一度、凰が走り去った廊下を眺める。もうそこにはすでに凰の姿は見えず、何もない殺風景な空間が広がるだけ。ひとまず何があったのかを一夏に聞いてみよう。涙を流すほどのことなんだから、それ相応に何かがあったはずだ。まだ少し痛むおでこを押さえながら、改めてドアをノックする。
「だ、誰だ?」
「俺だ、大和だ」
「あ、開いてるから入っていいぞ」
「ああ、お邪魔します」
応対した一夏の声に促されるべく、俺はドアをあけて部屋の中に入る。こうして一夏の部屋に入るのは初めてだったりする。部屋の中には着物に着替えた篠ノ之もいた。右手には竹刀を持っているが、その竹刀は真ん中から無残にぽっきりと折れている。
剣道をやる人間が自分の手で大事な竹刀を折るわけがない。そもそも折れること自体そうそうお目にかかれるものではないし、よほど強い衝撃が加わったのか。
あえて多くを語ろうとしないが、この場には一夏もいる。特に何か変わった服装をしているわけでもないし、素っ裸で行為の最中というわけでもない。問題なのはその左頬に綺麗に付けられた、紅葉型の赤い痕。先ほど鳴り響いた何かを叩く音っていうのは、凰が一夏にビンタした音のことだった。
いくらドアが少し開いていたとはいえ、音が部屋をはさんだこっちまで聞こえてくる時点でどれだけ強く叩かれたのかよく分かる。手加減なしで叩かれたのだろう、綺麗な位に真っ赤に腫れ上がっている。
「とりあえず何個か聞きたいんだけど……その痕は?」
「鈴に殴られた」
「ビンタされた心当たりはあるのか?」
「いや、分からない。約束したことを言っただけだったんだけど……」
どうやら凰がどうして泣いてしまったのか、いや怒ってしまったのか一夏は分かっていないようだ。各言う俺もどうしてあんなことになったのか、分かった訳ではない。その場に居合わせた篠ノ之なら、何があったのか分かるかもしれない。若干の期待を込めつつ、俺は篠ノ之に問いただした。
「篠ノ之は一部始終を見ていたみたいだけど、どんな感じだった?」
「……」
「おい、篠ノ之?」
「あ、いや。何でもない。一部始終といってもどこまで話せばいい?」
「んー……確かに漠然とし過ぎていたな。篠ノ之にとって目のついたところを教えてくれるとありがたい」
「あぁ、分かった。詳しくは私も分からないんだが……昔凰がした約束を一夏が間違えていたみたいでな」
「約束ねぇ……」
一夏と篠ノ之の口から出てきた『約束』という単語。小さい頃の約束なんてそれこそ些細なものばかりだし、下手をすれば三日も経たずに忘れることだってある。
明日のテストで点数がよかった方がジュース一本奢りだとか、天気が当たっていたら帰る時の鞄持ちだとか。これらの約束はあくまで些細な口約束であり、その人の人生そのものを左右するようなものではない。いわばその集団でのノリ、友達付き合いのようなものばかりだったりする。
確かに凰は強気でストレートな物言いをするが、些細な約束を忘れていたことに怒る人間だとは思わない。彼女が怒るってことは、その約束がいかに自身にとって重要だったのか分かる。
絶対に忘れられたくない約束、学生時代で大きな約束といったらあまり言い方は良くないが、多額の金を貸してもらったとかもそれに入るのか。ただ凰が金を貸すような人間には見えないし、一夏がカネを借りるような人間にも見えない。特に一夏は家族が千冬さんだけだ。女手一つで働いている千冬さんの負担になるようなことを、一夏が平気にするようには思えない。
男女で交わすような約束で凰が怒り、直勝涙を流すほどの悲しさを覚える約束って言ったら……。
「なぁ一夏。もしかして約束が間違っていたってことはないか?」
「いや、多分あっているはずだと思うんだけどな……タダ飯を食わせてくれるって約束で」
「タダ飯?」
一夏が何気なく発した単語に疑問を持ち、俺は聞き返した。
「あぁ、鈴が転校する前にした約束だと思うんだけど。料理の腕が上がったら毎日酢豚を食べてくれるかって」
「……」
開いた口が塞がらないって言うのはこの事か。約束を一字一句間違えずに覚えているにも関わらず、その解釈があまりにもお粗末過ぎた。
よく日本の古くから伝わる言い回しで、もし料理が上達したら、私の味噌汁を毎日食べてほしいという言い回しがある。ようは遠回しなプロポーズのことで、多少古い言い回しだが、何となく理解できる。
しかし一夏は何を思ったのか、それを奢ってくれる……毎日タダ飯を食わせてくれるという間違えた解釈をしてしまっている。女性の好意に鈍感な一夏にわざわざ遠回しの言い方、それも味噌汁を酢豚に置き換えて言えば勘違いされても仕方ないと思うのだが、そこは凰も中国人ならではのアレンジを入れたかったんだと思う。
約束を勘違いした一夏も一夏だが、直接的に言えなかったのもあれな気がした。
「まぁ色々と分かった。とりあえず今はそっとしておけ」
「うっ……やっぱりそうだよな」
「当たり前だ。何がダメだったのか自分で考えてみればいい。謝るのはそれからだ」
何も理解していないうちに一夏が凰に謝ったところで、また言い争いになって終わるだけだ。なら多少なりとも自分の行いは行いで悔い改めた方が良い、自分で考えて答えを見つけ出すこと、それが次への一歩につながる。
「とりあえず俺は部屋に戻る。夜遅くに悪かったな」
「いや、こっちこそ関係ないことに巻き込んじまってワリィな」
「全くだ。お陰さまで盛大にドアの開閉攻撃を食らうわ、散々だったぜ」
「うぐぐっ……」
痛いところをつかれてぐうの音も出なくなる一夏だが、俺としては別に特に怒っているわけではない、ただ単にからかいたいだけだ。楯無さんの性格が移ったのか、それとも千尋姉の性格が移ったのか分からないけど、どうも一夏は弄りたくなる。逆にちょっとしたことでも手を差し伸ばしたくなるんだけどな。
それとおでこをぶつけたのは、一概に凰のせいだと言えないのが事実。外にいる人間も、いつドアが開くのかを気を付けて通りすぎなければならない。
なのに俺は不覚にもドア近くの真っ正面に立っていた。これではどうぞ好きにぶち当てて下さいと言っているようなもの。
言い争っている時点で、怒りながら部屋を出てくるケースも十分に考えられたことだ。
「あ、そうだ。篠ノ之」
「ん? 何だ?」
「カッとなっても暴力に出るのはやめろよ。その折れた竹刀、凰に折られたんだろ?」
「そ、そうだ……。その事については、私も反省している……」
「そっか、なら良い」
カマを掛けたつもりだったが、図星だったために篠ノ之はバツの悪そうな顔を浮かべながら、やや視線を俺から背ける。竹刀とはいえ、熟練者が生身の人間を本気で殴ったりしたら、相当痛いだろうし、大怪我をするかもしれない。
カッとなると暴力的になるのは本人も気にしているのか、篠ノ之が浮かべる表情は複雑なものだった。
凰も幸いなことに怪我をすることも無かったし、俺が篠ノ之に対して何かを言うこともない。
一応事態は一端区切りになったわけだし、俺はさっさとお暇するとしよう。
「んじゃ、そういう訳だ。おやすみ二人とも」
「ああ、また明日な」
寝る前の挨拶を二人と交わし、俺は部屋から出た。
話している間にも、消灯時間は刻々と近付いている。部屋から出ると俺は凰が向かった方へと駆け出した。言い方が悪いが、凰の性格からして泣いたまま部屋に帰る可能性は低い。それも今日が転校初日だ、同居人がいきなり泣きながら部屋に戻ってきたら何事かと言うことになる。
さすがに目の前で泣かれてしまうと、一応様子を見ないと心配にはなる。部屋から出てきた時には涙を流していたわけだし。
決して可能性が高いわけではないが、少し気持ちが落ち着くまでどこかで待機するはず。先ほど凰が向かった方向にはロビーがある。時間によっては人で溢れ返っているロビーだが、消灯時間の手前になればそこに立ち寄る人間は居なくなる。そもそもこの時間にそこに立ち寄る意味もない、だからそこに行く必要も無くなる。
「居たら儲けってやつだなこりゃ」
居なくて当然、むしろ居たらラッキーだと思うくらいでいい。走っていると大きく開けた場所が見えてきた。ど真ん中にある大黒柱を中心にソファーが並べられている。
その一ヶ所に膝を抱えて、俯き加減で座る影を確認することが出来た。
座っている人間が凰だということが分かると、スピードを緩めて座っている凰の側に近寄る。向こうも音で気付いたのか、俯いていた顔をゆっくりと上げた。
長いこと泣いていたのか目元は赤くなっており、勝ち気な性格の凰からは想像できないほど、弱々しい眼差しをしている。近寄ってきた人物が俺だと分かると、再びその視線を下に戻す。
泣き顔を見られたくないのか、俯いた状態のまま話し始めた。
「何でわざわざ追ってきたのよ? 別に誰かに心配されるほどあたしは弱くないわよ」
「あ、そうなの。ただもう消灯時間だから、そろそろ部屋に戻った方が良いんじゃないかって思ってな」
「知っているわよそれくらい。もうちょっとしたら戻るつもりだったから……」
「そうかい」
凰の座っているソファーの隣にあるソファーに座って返事をする。相変わらず声にいつもの覇気がないものの、平静を取り戻すことは出来ているようだ。
それだけ言い残すと、また話すのを止めてしまう。一夏に約束を覚えて貰ってなかったことを思い出したのか、俺には黙って凰が喋りだすのを待つしかない。目の前にいる凰の姿が儚く、そして今にも消えてしまいそうにも見えた。
「とりあえず自己紹介ってことで、俺は霧夜大和。一夏と同じ、男性操縦者だ」
「じゃあアンタがイギリスの候補生を倒したっていう……」
「そうなるな。一夏にでも聞いたのか?」
「……うん。アイツ、アンタのことばかり誉めてたから。すごい奴だって」
「あー、そうなのか」
「……」
俺がセシリアに勝ったということに多少の食い付きは見せたものの、すぐに会話は終わってしまい、俯いて暗い表情を浮かべてしまう。同じことの繰り返しで、どうにも上手く話の展開を切り出すことが出来ない。少しの間沈黙は続き、どうしようかと悩んでいると、今度は凰の方から小さな声で、しかしはっきりと話し掛けてきた。
「……一夏はあたしのことなんて、どうでも良かったのかなぁ?」
「何でそう思う?」
「ちょっとね。あたしの行動は何だったんだろうって思っちゃって」
ほとんど自虐気味に話してくる凰。先ほど受けたショックを拭えないままに、ネガティブな方面に物事を考えてしまっているみたいだ。自分なりに想いを伝えたのに、相手は何かを思うどころか気付いてすらいない。その出来事が凰を落ち込ませるには十分なものだった。
今まで好きな人に対して想いを寄せ、自分なりのアプローチをしてきたつもりだった。それがたった一言、それも解釈の違いで、脆くも崩れ去ってしまう。
「……約束の話か?」
「うん。一夏から聞いたの?」
「ざらっとな。詳しい話は聞いてない」
「そうなんだ……」
捲し立てられるとばかり思っていたが、返ってきた反応はその反対。昼におしとやかな女性が一夏は好みだなんてことを言ったが、いくら何でもおしとやかになりすぎじゃないだろうか。今の凰と昼休みの凰を比べたら、本気で別人と間違えるレベルだ。
「アレンジして、酢豚に置き換えて言ったのがまずかったかなぁ?」
「あながち違うと言えないな。日本の言い回しは、あくまで味噌汁だし。一夏が敏感な男ならどうか分からないけど、あの一夏だからな……」
「や、やっぱり直接言えば……」
「何かそれもそれで、地味に結末が見えそうな気がするな」
「うっ……確かに」
あまり認めたくはないけど、付き合ってくれって言っても、それだけだと買い物に付き合ってくれと解釈しそうだしな。昼に食堂で何気なくした質問の答えを聞く限りだと、完全に買い物に付き合うということと勘違いしていたみたいだし。
誰かがいる教室で、ちょっと付き合ってくれと言われたら買い物なり、遊びなりの意味はあるけど、一対一の状況で言われたら普通は気付きそうなものだ。
あの一夏でも、自分はお前に好意を抱いていますと認識させる方法が無いわけではない。女の子からするとどうなのかは分からないけど、男の間でよく言われるのが、女に告白するのなら変化球ではなくて直球で攻めろという言い回し。
メールや電話で好きだと言うのではなく、堂々と面と向かって好きだと言うことだ。
メールや電話を使うなとは言わないが、あくまでその二つは対象の人物を呼び出すための手段にしか過ぎない。そもそもメールや電話で告白だなんて、そんなちっぽけなことをするくらいなら告白なんてするななんて人間もいるらしい。
俺はそれを肯定する気は無いが、紛いなりにも間違いではないと思う。話を戻すが、一夏を振り向かせるのなら『付き合ってください』のような別の意味にも捉えられる言葉を使うのではなく『大好き』と言うしかない。
それを伝えるべく、俺は凰に向かって話しかける。
「マジで好きなら、面と向かって『好きです』だとか『大好き』くらいに言ったら問題無かったと思うぞ」
「そ、そうだけど……そんなの恥ずかしくて言えるわけないじゃない!」
さっき好きだって言ったのに、いざ言うとなると恥ずかしいってどんな小心者なんだろうか。一夏の場合は遠回しに言っても気付かないのだから、直球で言うしかないと言っているのに、目の前の凰は手をあたふたさせながら、顔を真っ赤にして抗議してくる。
こういうのって確か。
「それって、ただのヘタレじゃないか?」
「ヘタレ言うな! 励ますのかからかうのかどっちかハッキリしなさいよアンタはぁ!!?」
猫が牙を立てて威嚇するように、目を見開いて口を大きく開きながら俺に詰め寄ろうとしてくる。ちょっと意地悪なことを言ってしまったが、話しているうちに、凰の中でつっかえていた何かが取れたのか。先ほどまでの弱々しい口調はすでに消えて無くなっていた。
「ははっ♪ 少しは溜まっていたもんが出てきたか?」
「へっ……あ!」
食堂で凰に抱いた俺の印象、あの時はおしとやかなイメージではないと俺は思った。あくまでおしとやかなイメージではないだけで、天真爛漫な元気っ子というイメージがある。もちろん子供っぽいとバカにしているわけではなく、きちんと誉め言葉としてだ。
喜怒哀楽がハッキリしていることが凰にとっての長所なんだから、今のような生気が抜けたような暗い雰囲気は似合わない。
話していくうちに少しずつだが、元の表情に戻りつつあり、最後の一押しでようやく元に戻すことに成功した。
「あ、アンタ……」
「ま、それはいいとしてだ。今回一夏は解釈を間違えたけど、約束自体はきっちり覚えていただろ?」
「え?」
「一夏が本当に凰のことをどうでも良いって思っていたら、約束を覚えているどころか、お前の転校してきたをあそこまで喜んだりはしないさ」
「……」
「少なくともアイツはアイツで、お前のことを大切に思ってくれてるんだよ。一人の親友としてな」
「うん……」
「そこから先はもうお前の努力次第だ。本気で一夏を振り向かせたいなら、より一層自分を磨いていけば良い。唐変木なんて関係ないくらいにな」
ソファーから立ち上がって、凰の顔を見つめながら真摯に伝える。
色々考えたところで、結局はそこに行き着く。どれだけスタイルが良くても、どれだけ性格が良くても、どんなに美人だとしても、一夏が本気でその人間にときめかなければただの宝の持ち腐れだ。
スタイルの良し悪しも好みであり、多少のアドバンテージにはなるものの、持ち合わせているからといって必ず惚れるわけではない。
一夏を振り向かせるためにどれだけ自分を磨けるか。磨いたからといって一夏が振り向くとは限らないが、それでも少しでも振り向かせたいと思うのなら努力しなければならない。ましてや一夏の近くにはすでに篠ノ之やセシリアもいる。ライバルは多い。
俺の言うことが余程意外だったのか、まるで物珍しい生き物でも見たかのように、目をパチパチとさせながら俺のことを見上げてくる。
「どうした、そんなに化け物にでも出会ったような顔をして?」
「いや、この場合化け物よりも質が悪いかも……」
「よし、じゃあ凰が一夏のことが大好きだって言ってたと伝えておこう」
「はぁっ!? ちょ、ちょっとやめなさいよ!!」
化け物よりも質が悪いかもとか言ったお前が悪い、ちょっとくらいは意趣返しさせてくれ。
俺が来た道を戻ろうとすると、慌てて立ち上がって俺の動きを止めようとしてきた。バタバタと駆け寄ってくる凰を、ひょいと横にステップしてかわす。
「おいおい、そこまでムキになるなって!」
「あ、アンタが変なこと言ったからでしょ!?」
「いや、化け物呼ばわりした奴がそれを言ってもなぁ……」
「うぅ、それはそうだけど……」
何か凰を見ていると反応が面白いから、無性にからかいたくなってくるんだよな。これ以上からかいすぎて引っかかれるのも嫌だから、このくらいにしておく。でも流石に化け物よりも質が悪いは言い過ぎじゃないかと思うのは俺だけではないはずだ。
ひとまずは凰も元に戻ったことだし、もう俺がとやかく言う必要も無い。後は凰が一夏のことをどうするかだけど……。
「んで、一夏のことはどうするんだ?」
「そこは一夏が謝ってくるまで待つだけよ! あたしからは絶対に謝らない!」
「なるほどな」
予想通り、今回は一夏からの謝罪を待つということで、凰も結論を出したみたいだ。そこにはもう先ほどの暗くどんよりとした表情はなく、いつもの勝ち気な天真爛漫な笑顔が広がっていた。
後は一夏がこれからどうするかだけど、これに関しては本人に任せるとしよう。真意を知らなかったとはいえ、凰が一夏の言葉で凹んでしまったのは事実だから。
そもそも一夏が俺に言った言葉を、そのまま凰に言っていればこんなことにならなかったんじゃと思える。意図が分からなくても、そこでどういう意味だったんだ的な会話になっていればもう少し違う展開にはなっていたはず。
もしかしたら一夏も、凰が自分に対して好意を向けてくれていることに気付いていたかもしれない。
「っと、やべ。もうそろそろ消灯時間だな、早く戻らないとな」
会話に夢中になって気付かなかったが、冷静になって時計を見つめるとすでに時計の数字は九時五七分だった。このまま話していたら後三分で、カップラーメンが出来るだけではなく、十時の消灯時間になってしまう。
見つからなければ何もないが、寮長が千冬さんだということを考えると時間を破ろうとは思わない。何故だろう、凄く不思議だ。これがネームバリューの圧力ってやつか、おぉ、怖い怖い。
何にせよ、このまま千冬さんに見付かってどやされるのは勘弁だ。さっさと部屋に戻るとしよう。
「凰、早く戻るぞ。このまま織斑先生に吊し上げにされるのは勘弁だろ?」
「そ、そうね。後私のことは鈴で良いわよ? 苗字で呼ばれると何か慣れなくてさ」
「ん、そうか。なら俺のことは大和でいい」
「あ、後ね!」
走り出そうとした俺の動きを、再び鈴の言葉が制止させる。今度は一体何だろうかとその場を振り向くと、手をモジモジさせながら何かを言いにくそうにしている鈴がいた。何を言おうとしているのか、中々切り出してこない。十数秒同じような動作を繰り返し、ようやく決心がついたのか口を開いた。
「そ、その……相談に乗ってくれたこと……感謝、してるわ」
鈴の口から出てきたのは、相談に乗ったことに対する感謝の言葉だった。人に感謝することに慣れていないのだろう、その言葉はどこかぎこちない。でもぎこちないとはいえ、こうして感謝の言葉を述べてくれたわけだ。だったら俺が今すべき行動は一つしかない。
「どういたしまして。あぁ、そうだ!」
「?」
ふと思い出したように、俺はロビーに設置されている自動販売機の前に立つ。その行動の意味が分からず、鈴はその場で立ち尽くすだけだ。財布から小銭を取りだし、コイン投入口に入れてスポーツドリンクのボタンを押す。ガコンッという音と共に、商品が取り出し口に落ちてくる。取り出し口に手を入れてスポーツドリンクを取り出すと、俺はそれを持って鈴の手に握らせた。
俺のお金で買ったのに、自分に渡された意味が分からず、はぁ? とでも言いたげな視線を俺に向けてくる。鈴からすれば意味が分からないんだろうけど、俺からすればちゃんとした意味があるんだなこれが。
「何よこれ?」
「スポーツドリンク、いらなかったか?」
「くれるなら貰うけど……何かあるんじゃないの?」
「今そこの自販機で買ったやつだぞ。別に何にも入っていないから安心してくれ」
「ならいいけど……」
疑心暗鬼な顔を浮かべながらも、何だかんだできっちりとスポーツドリンクを貰ってくれた。
「じゃああたしはこっちだから……」
「おう。それと、寝る前の水分補給はしっかりしとけよ?」
「分かってるわよ!」
ウガーッと両手を上に突き上げながら俺に噛みついてくる。その後はプイッと顔を反らして、ズカズカと反対方向に歩いていってしまう。女性らしからぬ歩き方をする後ろ姿を見つめながら、鈴に聞こえるようにポツリと呟いた。
「ちなみにそのスポーツドリンクは、涙の量分だけだから気を付けろよー!」
「やっぱりアンタはからかいたいだけじゃないの!!」
鈴が叫ぶ時にはすでに走り出していた。後方から聞こえてくる声から、どんな表情をしているのか想像して楽しみつつ、自室へと戻っていった。
―――俺の夜は、まだ明けない。