IS‐護るべきモノ-   作:たつな

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カコとイマ

 

 

 

「―――君、こんなところでどうしたの?」

 

 

とある夏の日。路肩に座り込む少年に話しかける一人の少女がいた。顔立ちから判断すると、年齢は大体十代半ばだろうか。スーツを着こなすにはまだまだ若さが残る年齢のはずなのに、ものの見事に着こなしている。

 

すらりと伸びた長い足。タイトスカートにスーツ、さらにストッキングといった色気ある服装に、うっすらとしたナチュラルメイクを重ねているため、年齢以上に大人びて見える。

 

道歩く人間の何人かは振り向くであろう整った顔立ち。毎日しっかりとトリートメントで手入れをされているかのようなさらさらなショートヘア。

 

均等のとれた……否、一部分がより存在感を発する魅惑的なスタイル。胸元は締め切ってしまうと苦しいのだろう。着ているワイシャツのボタンを二つほど外し、服の間からは生々しい健康的な肌が覗いていた。存在感ある胸がしゃがみこんだことで潰れ、上着の胸元が不規則に歪んでいる。

 

周囲を歩く人間は、何でわざわざ声なんかを掛けるのかと、若干距離を取りながら過ぎ去っていった。

 

ドイツ某所の貧困街。

 

繁華街に比べると貧しい家庭も多く、大通りの片隅には布切れを羽織った子供や大人が、それぞれに無気力な表情のまま座り込んでいる。家庭を追い出された者、自己破産して全てを失った者、罪を犯して社会から隔離された者。

 

理由は様々だが、一般世間から追い出されてしまった者たちが行き着く末路みたいな場所だ。当然、そんな人間を救おうとする者など居ないし、声を掛けようとする人間も居ない。だからこそ、彼女の行動は道行く人々にとって異質なものに映った。

 

 

「……」

 

 

彼女の問い掛けに少年は口を結んだまま答えようとはしない。何日同じ服を着ているのだろうか、至るところが汚れてボロボロになった布切れ同然の上着に、何日もシャワーに入ってないような汚れた体。近くの水辺で体を洗うことはあるんだろうが、常に外にいることによる汚れは拭いきれない。

 

多少臭っているのも事実。それでも女性は嫌な顔一つせずに少年へと語りかける。

 

虚ろな目をしたまま焦点の定まっていない視線を向ける。年不相応に抑揚のない表情、まるで喜怒哀楽といった感情全てを失ってしまったかのように変化がない。

 

見た目五、六歳といったところか。本来は初めての集団行動で友達を作ったり、色々な思い出を作ったりして、日々を楽しむ年頃だというのに、彼に一体何が起こったというのか。

 

少年からは既に生気を感じとることが出来ず、生きることを諦めているようにも見えた。

 

 

「…… In Deutschland?(ドイツ語の方が良い?)」

 

「……」

 

 

日本語で話しているから伝わっていないのかもしれない。そう思った女性はドイツ語で再度アプローチを試みるも、少年からの返事はない。

 

返事をすることすら面倒、もしくは心を開こうとしていないか。女性の方も取り繕った表情で少年に話し掛けているわけではなく、誰かに頼まれて話し掛けているわけでもない。

 

彼女自身の本心からくる人の良さに過ぎない。本気で目の前の少年が心配だからこそ声を掛けた。

 

周囲には少年と同じ境遇の人物がいるが、全員成人している人間ばかり。現地を訪れる前にも何人か見てきたが、ここまで幼い人間はいなかった。

 

 

このまま続けていても埒が明かない。それに女性自身もやることがあるらしく、腕時計に何度も目を向ける。さすがに時間が来てしまったようで、名残惜しそうに場から立ち去ろうとする。

 

 

「また来るからね?」

 

「……」

 

 

返事が戻ってくるわけでもなく、女性は背を向けた。

 

 

 

霧夜千尋、十五歳。

 

霧夜大和、六歳。

 

これが二人の初めての出会いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「霧夜さんの状態は?」

 

「相変わらずだ。容体自体は安定しているが、意識の戻る兆しが無い。最悪ずっとこのままの可能性も……」

 

 

集中治療室に呼吸器を付けたまま眠る大和を見ながら、主治医の一人が看護師の質問へと答える。運び込まれた大和の容体を見て、思わず冷静な表情が崩れた。今までISの事故で負傷した生徒や選手の治療を施したことはあるが、ここまで重度の症状で運び込まれてくることはまずない。ましてや絶対防御を、ISスーツまでをも切り裂いて肉体に大ケガを負うなど、未だかつて同じような事例を受けたことが無かった。

 

肩から腹部に掛けて無残に切り裂かれ、左眼が完全に潰れた状態で生きている姿を直視したくなかった。見守る誰もが、生きているのが不思議だと思えるほどの状態であり、常人であればとっくに死んでいてもおかしくない程の重症であったと。

 

幸い迅速な処置により一命こそ取り留めたが、いつ容体が急変するかは分からない状態。鎮静剤も効いている為、今は安定している状態だ。本来であれば潰れた左眼も治したかった。

 

体に巻かれた包帯とは別に、左眼に痛々しく巻かれた包帯。引き裂かれた体の傷は縫い合わせることで塞ぐことが出来た。しばらくこのままにして抜糸をすれば元通り傷口は塞がるはず。最も傷跡は残るがこの怪我による後遺症が残ることはないだろうという見立てだった。

 

が、この左眼だけは違う。

 

人間で最も大切な五感と言われているのがこの『視覚』になる。

 

二つあるうちの一つを怪我で失ったショックは計り知れない。仮に大和が意識を取り戻したとしても、もう両目で世界を見ることは出来ない。片目だけで生活することがどれだけ不憫で大変なことか。

 

ましてや大和の仕事柄、片目を失うことはイコール仕事を継続することが難しくなる。千冬以外の関係者には一切知られていない情報ではあるが、遠近感もまともにつかめないまま、いつ敵が襲ってくるかも分からない現場を、

弾丸飛び交う戦場を、生き抜くことが出来るだろうか。

 

はっきり言って今の大和の護衛として生き抜くスキルは無いに等しい。視界が片方無いだけでもアドバンテージは大きく異なっている。遺伝子強化試験体という生まれつき高いスペックを持っている為、大和の身体能力及び視力は常人のそれを大きく凌駕している。

 

だからこそ無茶も出来たし、誰も出来ないような仕事もこなすことが出来た。特に大和が大きく頼りにしていたのは視覚から得る情報であり、些細な変化も見逃さなかった大和だけの武器を失ったことによる代償は大きい。大和が大丈夫だと言っても、おそらく大元が仕事継続の許可を……一夏の護衛継続の許可を下ろさない可能性もある。

 

 

一夏の護衛をしていること、大和が護衛の仕事をしていることは誰も知らない。だが日常生活に支障が出るかもしれない怪我を残してしまった事に対しては、思う部分があった。

 

運び込まれた段階で、左眼が修復することが不可能なレベルだったのは誰もが分かった。だからと言って自分たちは患者の生活を支える為に仕事をしているのだから、治せなかったのは完全に自分たちの力不足、現代医療の力不足という見解になる。

 

主治医の表情は険しいままだった。何とか出来ないか考えたものの、これと言った治療法もなく、傷口だけを塞ぐだけに。口を真一文字に塞ぎ悔しさをあらわにするも、振り向いた時の顔はいつも通りの表情へと戻っていた。

 

そういえば、大和の怪我の報告はしてあるのかと。近くにいる一人の看護師へと尋ねる。

 

 

「ところで親族の方と連絡は取れたのか?」

 

「いえ、連絡したいんですが彼の携帯には親族に関わる連絡先が一切載っていなかったんです。それどころ知り合いの一人の連絡先さえも無いだなんて……」

 

「何? それは本当か?」

 

 

そんな馬鹿なことがあるかと、事実確認をする。

 

バツが悪そうに視線を背けるが嘘をついているようにも見えない。大和の持っている携帯電話には電話帳に登録されているデータが一つたりとも残っておらず、発信履歴も着信履歴までが消えている状態で誰一人連絡する手段が無い。

 

IS学園に問い合わせたところで、個人情報の為教えられませんと門前払いを食らう未来が目に見えている。これでは家族の誰にも連絡を取ることが出来ない。一体どうすれば良いというのか。そもそもの前提で携帯電話の中に連絡先が入っていないことがあり得るのか、仮にこの少年に友達が居なかったとしても、家族の連絡先くらいは最低でも入れるはず。

 

それすら入っていないのは何でだろうと、いささか疑問が残る。

 

大和自身に身内が全くいないか、単純に家庭内事情を知られてたくない。もしくは携帯の中身自体を知られたくないか。

 

どの理由であっても、『霧夜大和』という少年に謎が残るのは事実だ。こんなことがあり得るのかと、内心驚きを隠せない。ひとまず現状を伝えることが先決であり、何も伝えないのもおかしな話だ。

 

 

「仕方ない。IS学園の教師の方に一旦連絡を取ろう。そうすればそこから連絡を入れられるはずだ」

 

「は、はい。分かりました」

 

 

指示を出し、看護師は部屋から慌ただしく出ていく。

 

再度大和へと向き直る主治医、大和の表情を見つめる視線は一層厳しいものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………」

 

 

海上から二百メートルほど離れた上空に佇む銀の福音。

 

周囲には誰もおらず、静寂を包み込む夜明けの海。何かを守るかのように頭部から伸びた翼が機体を包み込んでいた。

 

 

「……?」

 

 

静寂を切り裂くかのように、甲高い花火を打ち上げるかのような音に顔をゆっくりと上げる。

 

刹那、超音速で飛来した砲弾が福音の頭部を直撃し、大爆発を起こした。

 

 

 

 

 

 

 

「初弾命中。続けて砲撃を行う!」

 

 

目標から離れること約五キロ上空に位置するのは、シュバルツェア・レーゲンとラウラ。福音が反撃する前に次弾を装填し、発射した。

 

タッグトーナメントや先ほどの戦いで戦っていた姿とは大きく異なった姿をしており、八〇口径レールカノン《ブリッツ》をそれぞれ両肩に装備し、遠距離からの射撃に対する備えとして、四枚の物理シールドが展開されている。これぞ砲戦パッケージ『パンツァー・カノニーア』を装備した、シュヴァルツェア・レーゲンであった。

 

お披露目するのも初めてだが、実戦で使いこなすのも慣れているわけではない。それに今更慣れていないから使えないという考え方はあり得ない。

 

ラウラを含めて作戦に参加する全員が成功させることに全てを掛けている。また失敗しましたなどと無様な姿で帰るわけにはいかない。負傷し、今も意識不明のままの兄の為にも、何が何でも勝って戻らなければならない。

 

箒を説得する前にどれほどの涙を流しただろうか。未だかつて流したことのないほどの量を流したに違いない。すぐにでも泣き出したい気分だ。

 

 

(この戦いが終わるまで……絶対に泣くものか!)

 

 

だがそれはこの戦いが終わってからでも遅くはない。今は目の前の相手と全力で戦うのみ。

 

幸い、昼間の機体は居ないようだ。下手な横やりを入れられる前に、さっさと目の前の相手を片づける他ない。

 

 

攻撃に反応した福音が大きく翼を広げると、砲撃元であるラウラの姿を視界に捉える。目標はラウラ、一気に加速すると飛び交う弾丸を物ともせずに高速で接近してくる。照準を合わせて引き金を引いているというのに、ラウラの砲撃は全く当たらない。

 

――否、ラウラが追える以上の速度で福音が飛行を続けているのだ。銀に包まれた弾丸が、みるみる内にラウラとの距離を縮めて来た。

 

 

(敵機接近まで、四千……三千……くそっ! 思ったよりも速い!)

 

 

元々五キロほどあった間合いはいつの間にか一キロを切っていた。

 

間合いを詰めてくる間も砲撃を続けているが、翼から打ち出されるエネルギー弾によって半数を撃ち落とし、残った砲撃は驚異的なスピードによる回避で避けながらラウラへと接近している。

 

 

「ちいっ!」

 

 

従来のシュヴァルツェア・レーゲンと違い、遠距離攻撃に大きく特化する反動として、機動力が無くなる。反面福音は機動力に特化しているが故に隙の多い砲撃仕様では相性が悪い……が、それは従来の装備であっても同じことが言える。

 

砲撃仕様ではなかったとしても、福音の機動力には到底敵わない。ラウラのみが使えるAICを持って臨んだとしても、莫大な集中力が必要となる。断トツの機動性を誇る福音にAICを当てることは困難であり、それだけの為に至近距離に近づくのはただの自殺行為になる。

 

三百メートルほどの距離まで近づいた福音は更に急加速で速度を上げ、ラウラへと右手を伸ばす。

 

この距離では逃げられない。

 

しかしラウラは掛かったなと言わんばかりにニヤリと口元を歪めた。

 

 

「今だ、セシリア!!」

 

 

伸ばしていた腕は突如、視界外からの強襲により弾かれる。

 

ラウラしか認識していなかった福音はブルー・ティアーズへと視線を移す。ライフルから連続して放たれるレーザーを大きく舞うようにかわしていく福音を、セシリアは追いかけていく。強襲用高機動パッケージ『ストライク・ガンナー』を装備しているセシリアは、時速五百キロを超える速度を可能とし、またその速度の下での反応を補うために超高感度ハイパーセンサーの《ブリリアント・クリアランス》を頭部に装着し、そこからの情報をもとに高速飛行を続けて射撃を行っている。

 

 

『敵機Bを認識。排除行動へと移る』

 

「かかった!」

 

 

セシリアの背後から姿を現したシャルロットの手には二丁のショットガンが握られていた。まだ福音はシャルロットの姿を認識出来ていない。一瞬の行動に福音の動きが硬直した。これを逃すほどシャルロットは甘くない。

 

トリガーを引き背後から二発、三発と弾丸の嵐を浴びせる。攻撃によりバランスを崩すが、それも一時的なものであり、すぐさまバランスを立て直して続く攻撃をかわしていくと、追いかけるシャルロットに向かって弾丸をばらまく。

 

が、一連の動きを読んでいたかのようにシャルロットの前にはシールドが張られる。

 

 

「おっと、これくらいじゃこの『ガーデン・カーテン』は落とせないよ!」

 

 

 

 

福音の攻撃を防ぎつつ、弾幕が止むと同時に再度攻撃態勢へと移行。アサルトライフルを片手に追いかけていく。加えて高速機動射撃を行うセシリアに、遠距離から砲撃を再開するラウラ。三方向からのあらゆる攻撃の前に、さすがの福音もじわりじわりとエネルギーを削られていく。

 

ただこの三人では決定力に欠ける。残りの箒と鈴は何処に待機しているのだろうか。

 

弾幕を浴び続けてしまったことで消耗が激しくなると判断した福音は、現状三人を相手に勝つことが非常に困難だと判断したのだろう。全方向にエネルギー弾を放ち、スラスターを開いて強行突破しようと試みる。

 

 

「させるかぁ!!」

 

 

この機会を待っていた。福音が複数人の前に消耗し、離脱しようとする瞬間を。水面が急に膨張し、爆ぜたと思ったら、中から出てきたのは真紅に包まれた紅椿と、背中に乗った甲龍だった。

 

 

「離脱する前に叩き落す!」

 

 

一直線に福音の下へ急降下する箒に対し、箒の背中から飛び降りた鈴が、両肩の四つの砲口を展開。通常二つの砲口が機能増幅パッケージである『崩山』により拡張されているのだ。エネルギーの充電を完了した砲口から一斉に衝撃砲が火を噴く。

 

衝撃砲は箒の背後から福音を捉える。このままでは箒にまで直撃してしまうが、これも作戦のうち。衝撃砲が着弾するまでの時間を計り、ギリギリのタイミングで肉薄していた福音から離脱する。目の前に障害物があれば、仮にハイパーセンサーを利用しようとも、背後の様子を把握することは出来ない。

 

紅椿が福音の死角となって視界を遮り、衝撃砲が直撃する寸前のところで離れれば、いかに福音が機動力に優れていたとしてもかわすことは困難だ。

 

更に四つの弾丸はいつものような不可視のものではなく、視界ではっきりと捉えられる赤い炎を纏ったもの。回避される可能性は上がるが、一発一発の威力は通常の衝撃砲よりも高い。箒はハイパーセンサーで背後の様子を確認出来る、だが福音は確認出来ない。

 

威力そのままに、福音めがけて一斉に弾丸の嵐が降り注ぐ。

 

直撃したことを証明するかのように、周囲には煙が広がった。

 

 

「やりましたの?」

 

「いや、まだだ!」

 

 

あれだけの攻撃を受けても機能停止には追い込めなかった。

 

既に翼を広げて攻撃態勢へと移行した福音は、エネルギー弾を拡散させて一斉広域射撃を始める。

 

近距離にいた箒は、攻撃から逃れるようにシャルロットの後ろへと避難し、体勢を立て直す。展開装甲の多用により起きたエネルギー切れを起こしてしまった失敗を踏まえ、今の紅椿は機能限定状態にある。

 

射撃を何とか防ぎ切ったシャルロットだが、その表情は苦いものだった。

 

 

「これはちょっときついね。後何回持つかな」

 

 

いくら防御特化のパッケージであっても、こうも連続して福音の攻撃を食らい続ければ、シールドにも限界が来る。既にシールドの一枚は完全に破壊されてしまい、残るシールドは一枚のみとなっていた。短時間で一枚のシールドが駄目になったと考えると、あまり悠長なことは言っていられない。

 

もう一枚まで破壊されたらそれこそ前回同様、作戦失敗の可能性が出てくる。

 

何としてもそれだけは防がなければならない。

 

 

「ラウラ、セシリア! お願い!」

 

「言われずとも!」

 

「おまかせください!」

 

 

一時後退するシャルロットの代わりに、ラウラとセシリアが交互に射撃を繰り返して福音の足止めを行っていく。

 

作戦はまだ、始まったばかりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ただいま! ごめん、おそくなっ……て?」

 

「何でテメェみたいな汚ねぇガキがこんなところに居やがるんだ! さっさと死んじまえ!」

 

「このウジ虫が! 見てるだけで吐き気がする!」

 

 

仕事を終え、足早に朝の現場まで走ってきた千尋。だが少年の元へとたどり着く前に、彼女の表情は驚愕のものへと変わった。

 

群がるのは二人組の大人。服装からしてもこの貧困街の人間ではなく、多少裕福な身分にはなるらしい。その二人組はまだ幼少期の子供を、何度も何度も殴り蹴り、踏みつける行動を繰り返す。

 

何故二人がこんな行動をしているのかは分からないが、少なくとも大の大人がやるような行動でないのは明らかだった。

 

 

二人の行動にも表情一つ変えず、されるがままの少年。周囲には千尋以外の人通りはなく、事が起きている手前で引き返すか、回り道をしようとする人間ばかりで、助けようとする人間は一人としていなかった。

 

抵抗する気のない少年に対し、尚も攻撃する手を緩めない。どうみても虐待の度を過ぎた一方的な暴力であり、決して許される行為ではない。

 

 

「聞いたぜ! お前強化試験体の失敗作なんだってなぁ! 出来損ないの人間が、こんなところで生きていけると思うなよ!」

 

「俺らはお前みたいな子供を処分してるのさぁ! どうせ殺しても罪にはならねぇ! 全て軍が隠してくれる! それどころか危険因子の排除ということで報奨金までくれる始末だ! こんな割りの良い仕事、止められる訳ねぇよなぁ!」

 

 

二人の言葉から察するに、少年は作り出された存在らしい。

 

作り出された存在であるが故に、仮に彼を殺めてしまったところで大きな罪にはならない上に、そもそも罪にならず、挙げ句の果てには軍が殺した事実を揉み消して報奨金を出すとまで言っている。

 

彼らがどのような経緯で、何を目的に少年に手を掛けているのかは理解した。しかし、自分の目の前で行われている小さな命を弄ぶ行為が、千尋の目にどう映ったのかは彼女の行動を見れば一目瞭然だろう。

 

どんな理由であれ、命を奪って良い訳がない。

 

 

「オラァッ! これでも食らえっ!」

 

 

どこから取り出したのか、頑丈な鉄パイプを少年の脳天目掛けて振り下ろす。これでトドメだと言わんばかりの一撃を、少年は一切回避しようとしない。

 

先ほどと同じように生きる気力を一切失った虚ろな瞳、もう殺してくれと言わんばかりの眼差しを二人に向ける。これで自分は楽になれる。こんな地獄からようやく抜け出すことが出来る。

 

どこか期待染みた少年へ、鉄パイプは吸い込まれるように……。

 

 

「なっ!?」

 

 

当たらなかった。

 

少年に当たる前に、鉄パイプは宙で止まったまま微動だにしない。わざと止めたわけではないのに、振り下ろそうとする手が先に進まない。鉄パイプを握った手を掴まれ、そこから手を動かすことすらままならない。

 

その手を掴んでいるのが自分よりも遥かに華奢で、身長も小さな女性だというのに、何一つ動きを取ることが出来なかった。

 

 

「そこまでよ。貴方たちがしている行為は、許されるものではないわ」

 

「ぐっ……邪魔をするな!」

 

 

空いている方の左手で殴りかかってくる男をかわし、カウンター気味に、相手の顎へ掌底を食い込ませる。無駄のない動きに一切反応できなかった男は、そのまま吸い込まれるように顎で掌底を受けた。

 

自身の力と相手の力の相乗効果も極まって、威力は通常の倍近くに。力の弱い女性でも、大の男一人を沈めることくらいなら、難しくない力にはなっていた。

 

力無く地面に倒れ込む男だが、脳震盪を起こしているせいで全身に思うように力が入らない。腰付近を足で踏まれているため、力を込めることすらままならない。

 

 

「言ったばかりよね? 許されない行為だと。これ以上やると言うのなら、私も手加減はしない」

 

「ちいっ、このくそ(アマ)がぁ! 覚えとけよ!」

 

 

流石に己との力の差を把握したようで、負け惜しみを残して、倒れ込んだ男を引き摺りながら退散していく。

 

 

「はぁ、こっちもあんなのばかりなのね……っと! それどころじゃなかった! 大丈夫?」

 

 

退散していく男たちに背を向け、倒れている少年へと歩みよる千尋。顔には何度も殴られたような打撲痕に、半袖から覗く四肢には至る場所に内出血がある。

 

好きなように弄ばれて、殴られて、蹴られて、痛くないはずがない。痛いはずなのに全く感情を表そうとしない少年を見ていると、自然と千尋の胸はチクリと痛んだ。痛覚さえ失うほどの虐待を受け、幾度と無く人に裏切られ、貶され続けた少年を思えば思うほどに放っておくことが出来なかった。

 

少しでもこの子の力になってあげたい。せめてこの泥臭い場所から解放してあげることが出来れば……。

 

無意識の内に、千尋は少年の頬を撫でていた。こんな小さな体で、一体どれ程の苦悩を背負ってきたのかと。

 

 

「なんてなぁ! 後ろががら空きだぞくそ(アマ)っ!」

 

 

ノーマークだった背後から奇声にも似た声でナイフを振り上げる男の姿が。てっきり諦めて退いたとばかり思っていたが、思った以上に根深いらしい。

 

しつこいくらいが丁度良いなんて言われることもあるが、千尋にとってこれほど鬱陶しい相手はいないだろう。微動だにしないまま、背を向けて迫りくる一撃を待つ。

 

用があるのはこの少年だけであり、男に関しては邪魔物でしかない。散々人が話をしているところに水を指さし続ければ、千尋のフラストレーションは限界点を突破する。

 

幸いなことに周囲は誰も見ていない。

 

本来なら()()()()()を見られたくはないが、致し方無い。付け上がる輩にはそれ相応の処罰を科さねばならない。

 

すうっと目が細めると次の瞬間、甲高い金属音と共に千尋の体が反転する。

 

 

「へ……?」

 

 

近くにいた少年はもちろんのこと、男にも風圧が伝わり前髪が揺れた。何かが物凄い勢いで通りすぎることを把握すると同時に、自身が持っていたナイフの刃の部分は、根本からポッキリとへし折れている。

 

へし折られた切っ先はくるくると回転をしながら、近くの地面に突き刺さった。何かを取り出した素振りは無い、男に確認できたのは何かが通り過ぎたことと、黒いストッキングの先にある逆三角形の薄紫色の何か。何の衝撃も無しにナイフが折れるわけがない。

 

ナイフをへし折るぐらいの衝撃を当てつつも、男が握っている柄の部分は残し、刃の部分だけを綺麗にへし折る芸当など常人が出来るはずがない。常識を逸した現実に得体の知れない恐怖を感じ、腰から力がストンと抜ける。

 

どしんと地べたに腰をつきながら、アオリ気味に千尋の表情を見つめる。目の前にはタイトスカートがあり、視点を変えれば中身まではっきり見えることだろう。男性なら誰もが一度は夢見るであろうスカートの中、それに美人のスカートの中ときたものだ。

 

だがそんな羨ましい視点よりも、感じる恐怖の方が数倍上回っていた。ガクガクと体を震わせながら、後ろへ下がろうとするも思うように体が動いてくれない。否、立ち上がれない。

 

 

「あ……あ……!」

 

「いい加減にしろ。情けを掛けているのが分からないのか。私も気が長い方ではない。これ以上手を出そうとするのなら、そのふざけた右腕をへし折るっ!!」

 

 

普段は可愛らしい千尋の表情が一瞬にして、誰もが逃げ出すほどの憤怒の表情へと変わる。ビリビリと体全身を襲う殺気に思わず涙を流しそうになった。

 

 

「ひぃっ!? か、勘弁してくれっ! じょ、冗談じゃねえや!」

 

 

一睨みを利かせると瞬く間に逃げ去っていく。

 

タチが悪いからこそ本気で骨の一つでもへし折ってやろうかと思ったが、その前に逃げ去ったためにそれ以上追いかけるのをやめた。今は男を追いかけることが目的ではない。

 

 

「……あ、ごめんなさい。はしたないところを見せちゃったわね」

 

 

 

 

 

表情を戻し、少年の方へと向き直る。

 

手持ちのバッグから包帯と消毒液を取り出し、治療を始めた。傷が出来ている部分に脱脂綿を当てて、消毒液を垂らしていく。

 

治療する千尋に嫌がって抵抗するわけでもなく、痛みから顔を歪めるわけでもない。ただひたすら、自分の体を治療する姿を見つめていた。自分の体に何をしようとも関係ない。何度も人間に裏切られ、貶され、蔑まれ、ゴミのように扱われ、ホトホト人間には愛想が尽きたし、心を開いたところで良いことなんて一つもなかった。

 

どれだけ歩み寄ろうとも、最後は絶対に裏切られる。今も昔も、何一つ変わっちゃいない。

 

自分たちはこの世にいてはいけない存在なのだ。どうせならさっきのやつらにやられて死んでおけば、一番楽だったかもしれない。

 

周囲の誰もが足を止めようとせず、手を差し出そうともせず、一人孤独に生活していた少年にとって、進んで歩み寄ってくれた初めての人間。

 

分からない。一体この人間が何を考え、自分のことをどう利用しようとしているのか。

 

何一つ思考が読めない。

 

 

「実はね、さっきある手続きをしてきたの。私たちの耳にも、貴方があの実験の被害者だっていうのは聞かされているわ」

 

「……」

 

「今まで凄くひどい仕打ちを受けて来たと思う。人間なんか信じられないほどに。死んだ方がマシだって思ったことが何度もあると考えると、酷く心が痛む」

 

 

治療する千尋は顔を上げようとはしなかった。

 

淡々と手を動かし、擦りむいたところや切れているところ、打撲しているところに適切な治療を施していく。手馴れた手つきは医者になれるのではないかと思うほどだった。

 

 

「貴方に人間の全てを許せとは言わない。でも人間の中には貴方をきっと、大切に思ってくれる人間だっている」

 

「……」

 

 

治療を終えて千尋は顔を上げる。

 

その表情は今にも泣き出しそうだった。どうして赤の他人である千尋が、自身のことにこれだけ感情移入をしてくるのか。彼女の行為が少年にとって煩わしいわけではないし、気に障るわけでもない。

 

自分の怪我を治療され、挙句の果てには自身が受けて来た虐待紛いの行為にも同情されている。ここまで献身的に尽そうとしてくれた人間など一人もいなかった。

 

 

 

 

 

自分の味方になってくれる人間など一人もいないと思っていたのに、またこうして希望を与えられる。

 

彼女を本当に信じていいのか分からない、彼女だっていつ裏切るかも分からない。

 

 

 

 

 

ただこんな自分でも大切に思ってくれる人間がいるのなら……もしかしたらしがみ付いても良いのかもしれない。

 

生きることに絶望していた自分に伸ばしてくれた手を握ってもいいかもしれない。

 

僅かながら自分に希望を抱いてもいいかもしれない。

 

 

「少なくとも私は貴方を認める。だって貴方はこれから私たちの家族になるんだから」

 

 

しゃがみこんだままニコリとほほ笑み、少年の瞳をじっと見つめる千尋。

 

彼女が何を考え、どんな感情だったのかは当時子供だった『大和』には分かる術もない。

 

いきなりどうして彼女の家族に招き入れられたのかは知らないが、彼にとって彼女との出会いが運命のターニングポイントだったのは間違いないだろう。後に『大和』と名付けられる少年が本当に千尋に、全ての人間に心を開くのはまだまだずっと遠い未来の話になる。

 

こんな時どう反応すればいいのか。当時感情を失っていた少年には分からなかった。

 

 

「私と一緒に来てくれる?」

 

 

目の前に差し出される手。これを握ったら彼女に自分は同意し、共に行動していくことになる。

 

彼女に心を開いたわけではない、だがこのままいても自分はのたれ死ぬだけだ。つい最近胃に食べ物を入れたのは何日前になるだろうか。まともに水分も取れていないし、決して長い命じゃなかったのは間違いない。

 

これからまた地獄のような日々が自分を襲うかもしれない。

 

でも今まで散々辛い思いをしてきたのだ、もう少し辛い思いをして結論を出すのも遅くはないだろう。

 

何日もまともに栄養を取っていないか弱い腕だった。それでもこうして生きている。たった一人、遺伝子強化試験体として生まれたたった一人の人間だ。

 

 

 

最後に、もう一度、もう一度だけ。

 

彼女の話に乗ってみよう。

 

後悔するのはそれからでも遅くはない。

 

行きつく先が天国か地獄かなんて自分が決めるものではない。

 

自分が選んだ道が偶々天国か地獄かだったかの話だ。今まで選択肢も何も無く地獄に叩き落されていたことを考えれば、今回はキチンとした選択権が与えられている。

 

なんて優しい話だろうか。

 

 

「……」

 

 

差し出された手を虚ろな瞳のままじっと見つめる。見つめる少年の瞳に変化はない。相も変わらず無機質な表情だった。

 

おぼつかないながらもゆっくりと千尋の方へと手を差し出す。恐る恐る、疑心暗鬼のまま差し出される手を笑顔のまま、表情一つ変えずに待つ千尋。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――そして手が握られる瞬間。

 

千尋は周囲の目を気にせず、少年の体を力いっぱい抱き寄せるのだった。


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