すれ違い
「……ここ、は?」
見慣れた天井が視界に入る。
部屋を出ようとしたら気を失ったのは覚えているが、その後どうなったのか。
「! お兄ちゃん!」
枕元から掛けられる声に、反射的に振り向く。浴衣を着たラウラが心配そうに俺の方を見つめていた。体を起こし、異常がないことを確認する。起きたばかりで頭は働いていないが、それ以外は特にこれといった問題はない。
記憶の一部が飛んでいる訳でもなければ、自分が誰か分からない訳でもない。至って平常な健康体だった。
「ラウラ……んぁ、もう夕方!?」
窓から差し込む日の光は既に茜色。ここに帰ってきたのが朝早くだとしても、数時間寝ていたことになる。それこそ完全に昼間の時間帯を潰して。
「良かった……また目を覚まさないんじゃないかと思って」
そんなわけ無いだろうと言い返そうとするが、ラウラの悲しそうな表情の前に何も言えなかった。
俺としてはただ単に気を失っていただけかもしれない。
でもラウラは違う。
もしかしたら今度こそ目を覚まさないかもしれない。現に可能性としてあり得る話だ、リミット・ブレイクの副作用は何が起こるか分からない。
あのまま目を覚まさずに植物人間状態になる可能性だって十分考えられる。目の前で俺を失ってしまうかもしれない恐怖と戦っている時、ラウラは何を思っていただろう。
きっと怖かったに違いない。
「……お兄ちゃん」
控え目に俺の方へと近寄ると、俺の体に抱きつき顔を胸元に埋める。離れないようにと抱き寄せると、ラウラの体は微かに震えていた。
俺が起きるまでの間、ずっと付きっきりだったんだろう。きっと目を覚ますことを信じて俺のことを待ってくれていた。少しでもラウラを安心させるように、両腕に力を込めて抱き締める。
まるで子猫を抱き締めているような気分だ。ラウラは同世代の女の子に比べれば小柄であり、俺と向かい合うように抱き合っても顔が胸元に来る。妙に恥ずかしい気分になるが、いずれは慣れてくれると信じている。
恋人でもない限りこんなことはしないが、ラウラなら良いかと思ってしまう。抱き寄せている手前口に出して言うことは出来ないが、側に居てくれるだけで安心するというか……。
どことなくナギに向ける感情と似た感情に思えた。
そんな俺をよそに胸元に耳を当て、満足そうにラウラは微笑む。
「お兄ちゃんの心臓、ちゃんと動いている……」
「当たり前だろ、生きてるんだから。本当に、ラウラには心配掛けた。何から何まですまない」
ラウラには心配を掛けてばかりだ。今後俺と一緒に居ることになれば、幾度と無く心配を掛けることになる。
人生はまだまだ長い。兄妹として生きていくのであれば、いずれ俺の全てを教える時が来るはず。ラウラがこれだけ俺に尽くしてくれるのなら、俺も同じようにラウラに尽くすだけ。
「そんなことはない。兄妹として当たり前の事をしたまでだ。でも……」
「ん?」
「私の前から居なくならないで欲しい。私にとって、お兄ちゃんは最も大切な人だから……」
誰かを失う悲しみは当事者本人にしか分からないもの。大切な存在が居なくなったらと思うだけで、居ても立ってもいられなくなる。
二度と同じ過ちを繰り返してはならない。俺にとっては最も難しい決心ではあるが、誰かの涙を何度も何度も見たくはない。誰かが倒れることで誰かが悲しむ。
悲しみの連鎖は止めなければならない。だが俺にはやらなければならない使命がある。それが終わるまでは死ぬ訳にはいかない。
「あぁ」
……それにラウラの本心を聞いて、尚更死ぬわけには行かなくなった。ぎゅーっと全力で抱きしめて愛情表現を示すラウラに、同じように強く抱き締め返す。
二人で居る時だけは、ラウラだけの兄になろう。そう心に言い聞かせた。
「お兄ちゃん、もう大丈夫」
「そうかい」
少し照れくさそうな表情を浮かべながら、俺から離れていくラウラ。時間としてはそこまで経っていないが、何時間にも思える濃い時間だった。
ここ最近、ラウラの行動が大胆になっているような気がする。元々一般常識に疎いのは知っているが、それを差し引いたとしても大胆であることに変わりない。
仮に本当に血の繋がった兄妹であったとしても、良い年頃にもなれば兄に抱きつくことはほぼなくなる。十六歳で兄に抱きつく妹が居るなんて話は聞いたことがない。その年なら返って嫌がる年頃だろう。
逆に今年で二十……いや、具体的な年齢を出すのはやめよう。二十代の姉が暇があるたびに弟に抱きつくなんて話はよく聞く。
誰が、とは言わない。風の噂でよく聞く。
ラウラに恥ずかしくないのかと聞きたい気持ちもあるが、返ってくる答えが何となく予想出来てしまうため、聞かないでおく。聞いたら聞いたで『むしろ毎日スキンシップをするものではないのか?』とか言われそうだ。
ラウラに抱き着かれて悪い気はしない。解釈の仕方によっては危ない関係にも思われそうだが、抱き着かれると落ち着くというか……。
それだけ俺とラウラの距離が近くなっている証拠なのかもしれない。
「実はお兄ちゃんが寝ている間に、箒が来てて……」
「篠ノ之が?」
俺の返事にこくりと頷く。
寝ている時のことは把握出来ないし、言伝が無いかをラウラに確認する必要がある。ラウラの方から話題を振ってきたのだから、意味があるんだとは思う。
返事に頷いた後、話を切り出す。
「お兄ちゃんが起きたら、これを渡して欲しいって」
「手紙?」
ラウラから手渡されたのは、中身が見えないように三つ折りにされた紙。
三つ折りにされているのだから、恐らくは何か言伝が書いてあるのだろう。
メールや電話ではなく態々手書きにする辺り、律儀な性格だと改めて認識する。中身は何が書かれているのかを確認するために、三つ折りを開く。
文面はラウラに見られないように隠して素早く読んでいく。内容は思いの外簡潔なものであり、読み切るのにさほど時間は掛からなかった。
内容を把握すると、再度手紙を折り直して懐へと仕舞う。
……こればかりは俺以外に見せる内容では無いし、俺も誰にも見せるつもりはない。ラウラも手紙を渡された意味をよく理解し、封を解くことはしなかった。
手紙を開けたか開けてないかは、ラウラの反応を見てみればよく分かる。そもそも人宛てに届いた手紙を勝手に開くような性格じゃないし、最低限のプライバシーは把握している。
それに手渡したのが篠ノ之ともなれば、ラウラも何が書かれてるのかなんて大体は想像がつくはず。
「なーるほど、そういうことね。……アイツも、俺と同じでホント不器用だなぁ」
自分と照らし合わせると、篠ノ之と良く似ていることに気付く。
全て抱え込んでしまい、誰かを頼ることの出来ない自分と、気持ちを上手く伝えきれず、いつも遠回りしてしまう篠ノ之。
タイプは違うが、不器用な面を持ち合わせているという意味では同じだ。
篠ノ之は未だに、怪我したことを俺が根に持っていると思っている。あの状況下であれば、自分の不手際のせいで怪我をさせてしまったと思ってしまうのも無理はない。
手紙の内容を簡潔に説明すると今日の夜、個別で話をしたいとのことだった。
公衆の面前では話せない内容だし、俺だけに伝える方法しては確かに手紙も方法の一つだが、携帯電話が普及している時代にこの伝え方は中々に古典的だ。まぁ、メールなんかよりも遥かに想いは伝わるし、手紙が悪いわけじゃない。
さてはてどうなることやら。
「不器用なところなら、お兄ちゃんも人のこと言えないと思うぞ」
「人の揚げ足を取るんじゃない。そんなことは自分自身がよく分かっているんだから」
ラウラに揚げ足をとられて思わず突っ込む。
それに今の切り返しは中々面白い。ラウラも冗談を言えるようになるほど柔軟になったのかと思うと、成長した娘を見守る父親みたいな感じになる。
揚げ足を取られたというのに、今度は二人とも笑いあっていた。
全てを器用にこなせる人間は居ない。小手先の作業が苦手だったり、勉強が苦手だったりと、何かしら不器用な面を持ち合わせている。だからこそ人間らしい、何か欠点があるからこそ改善しようと頑張れる。
寝ぼけた頭も随分覚醒してきた。
体の軽さだけで言ったら朝と段違いであり、無茶をした反動も既に無くなっていた。腕の一本や二本は覚悟していたが、幸い大きな後遺症は残っていないみたいだ。
ただあの技の使い方は今後注意しなければならない。先の戦いでは一番最初のギア開放だけで解決したものの、これからはそう簡単には行かないだろう。あの力に依存し続ければいずれ、力を制御できずに自分自身が力に取り込まれる。
第一段階の開放であの負荷だ。使用した後は体に激痛が走り、挙句の果てには体力を使い切って気を失う。本音を言えば危険すぎて使うのさえ躊躇うレベルだ。
残るギアは三つ。
ギアを上げていけばいくほど力は膨大なものとなるが、その負荷は想像を絶するものになるはず。タダで強大な力を得ることは出来ない。必ず代償が必要になる。
身を滅ぼすために力を振るうのではなく、皆を守るために力を使う。
そこをはき違えてはならない。
まずは俺ももっと強くなろう、機体の性能だけにならない本当の強さを。
IS学園に戻ったらまず楯無に頼み込まないとな。今俺は何が出来ていて、何が出来ていないのか。細かく分析して、いずれは自分の力だけで誰よりも強くなってみせる。
また一から鍛え直しだ。
「うげ……もう五時なのか。ちぇっ、三日目は何もせずに終わっちまうなぁ」
落ち着いたところで、現状を把握する。
枕元にある目覚まし時計の針が指し示す時間は五時。本来は三日目もISの実戦演習の予定だったんだろうけど、福音の暴走事件に伴い、それどころでは無くなってしまった。俺の勝手な想像だが、三日目も生徒たちは各自自室待機。そして教師陣は全員、原因特定に勤しむといった流れになっているだろう。
つまり今この時間も全員各自の部屋で待機している。もし従来通りに演習が行われているとすればラウラはこの場に居ない。いくら看病したいとは言っても、自分勝手な行動を千冬さんが許すはずはない。
ラウラがここに居るということは、必然的に全員部屋で待機の命令が下っているからだ。
……自室待機だとしたらラウラのしていることは完全な命令違反になるが、それくらいは目を瞑ろう。俺が寝ている間も看病してくれたのだから、こっちからすれば感謝しかない。
「さて、これからどうしよう。ラウラ、今はどうなっているんだ?」
「完全な自室待機は解除されたが、実習は中止。各自夕飯まで時間を適当に潰せと教官が言っていた。正直お兄ちゃんが寝ている間にも、この部屋を訪れる人間が多くてな。一体どこから話を聞きつけたのか……」
予想通り、実習は完全に中止。
国家レベルの問題ともなれば安全確保の為にもその選択肢は適切。
後、俺が目を覚ますまでの間、来訪客を追い返してくれていたのか。
流石に全員を部屋の中に入れていたらごった返しになっていただろうし、そもそもの前提で病人の部屋に何人も部屋に招き入れたら不謹慎にもほどがある。どうやって話を知ったのかは知らないけど、身を案じてくれるのは凄く嬉しい。
しかしあまりにも大人数であるが故に、ラウラが追い返していたってところだとは思う。鬱陶しそうに頭をかくラウラに、思わず苦笑いが漏れる。
と、ラウラが鬱陶しそうな表情を浮かべたのも一瞬。次の瞬間には再び引き締まった表情を見せる。
「その中で部屋に入れたのは箒と……実はおねーちゃんも……」
「はい?」
聞き間違えか、俺の耳には『おねーちゃん』と聞こえた気がするんだが。間違っていて欲しいと思いつつも、こんな至近距離で聞き間違えるような安っぽい耳はしていない。
間違いなくラウラは『おねーちゃん』と言った。
その単語を聞いた途端に体が無意識に反応し、額から冷や汗が溢れ出てくる。
ラウラがそう呼ぶ人物は一人しか居ない。
「ナギが来たのか……?」
「う、うむ。その……どうしてもお兄ちゃんに会いたいと」
ラウラの性格からして断り切れない。
ナギが部屋に来たら、どんな事情であれ通すだろう。それは俺との関係を知っているからであり、仮に通さないことがあれば隠し事をしていると悟られてしまうから。
通したら通したで全てを見られてしまうが、隠すことに比べたらまだいい。
事実を隠してナギを悲しませるくらいなら、知られた方がマシだ。どのみちこの姿で外を出歩けば、クラスメートや他クラスの生徒にも何があったのかと思われる。
今まで眼帯なんかをつけたことのない人間が急につけ始めるのだから誰だって怪しむ。
それでも怪我をして左眼が潰れた事実は変わらない。
「五分くらい居たんだが、あまり居ると皆から言われそうだからってすぐ帰ってしまった」
「そうなのか……何か俺のことを言ってたか?」
「いや、特には何も。お兄ちゃんの事をよろしくとしか言われてないぞ」
「……」
どうしたんだろう。
彼女の性格からして目を覚ますまで残っていると思ったんだが、俺の予想とは真逆の行動をとったことに驚きを隠せない。
あれだけ俺が傷付くのを見たくないと訴えていたというのに……。
今度会った時にちょっと聞いてみるか。
体を起こしきり、布団から立ち上がる。
「お兄ちゃん、どこへ?」
「飲み物買いにいってくる。すぐ戻ってくるわ」
そう言ってラウラを部屋に残し、俺は一人で部屋を出る。部屋を出て周囲に自分の姿を見られたところで、同じところに通っている以上は絶対に知られること。俺の意思関係なく、遅かれ早かれ皆も認識する。
別に怖がる必要はない。
廊下自体は閑散としていて、生徒の誰かが廊下を歩いている様子もない。時間的にはもうすぐ夕飯の時間だが、それぞれ自室で待機しているのだろうか。
二日間トータルで、かなりの時間寝続けていた俺の口の中は渇き切っていて、作戦終了後に貰ったスポーツドリンクもものの足しにはならなかった。
飲み物が飲みたいと、その一心でロビーの自動販売機へと向かう。旅館のロビーということで、そこそこ品揃えは多い。初日に買った時にも言ったが、どれを買おうか悩むくらいにはある。
ロビーについたところで一瞬どうしようか悩むが、今は飲めれば何でも良い。吸収効率が良いスポーツドリンクがベターではあるが、この際渇いた喉を潤せればというのがあるため、取り敢えず目に入った緑茶のボタンを押す。
ボタンを押すとガコンと言う音と共に、受け口に緑のラベルが貼られたペットボトルが落ちる。受け口に手を伸ばすべく少しだけ身をかがめて、ペットボトルを取ろうとした。
……何だろう。このシチュエーション、どこかで見たことがあると思ったら、初日の風呂上がりにロビーでお茶を買った時と、やっていることが寸分の狂いもなく同じなのだ。
確かこの後ソファーに座っているナギを見付けて、少しだけ話した後にキスをしようとしたら、左眼が急に痛み始めたんだっけか。
あまり良い思い出じゃないから、後半部分は思い出したくはない。それにあれが原因でナギを変に心配させることになった。次の日にも散々心配されたし、どうしてこう彼女にばかり気苦労を掛けてしまうのか。
挙句の果てにはその左眼を潰され、俺の視界は眼帯をしているせいで右眼だけしか無い。あれだけ心配されたのに無茶をしたのだから、ビンタの一つや二つは覚悟している。
むしろ裏切りまくっているのだから、別れ話を切り出されたって文句は言えない。
取り出したペットボトルを握ったまま、罪悪感に苛まれて下を俯きながら手に力を込める。
「……くそっ!」
ぶつけようのない怒りが、腹の奥底から湧き上がってくる。
何で、どうして。
いつも彼女に心配ばかりを掛けてしまう。そして今回は後遺症として残る形での怪我をしてしまった。眼帯をする理由なんてただ一つ。見られたくないからに決まっている、この醜い左眼を。
立場上、仕方のないことかもしれない。護衛として生きる道を選んだ時点で、一般人と全く同じ生活を送ることは出来ないと知っていたはず。誰かと付き合えば相手を巻き込むことくらい分かっていた。
なのに何故このタイミングで後悔の念ばかりが湧き上がってくるのだろう。
もう限界なのかもしれない。彼女に、ナギに、俺という存在を隠し通すことが。彼女の前では嘘は付けない、付きたくない。だが全てを話すということはつまり……。
やめよう。
どうやら若干ネガティブになっているようだ。ラウラを待たせている、早く部屋に戻ろう。ペットボトルの口を開け、少しだけ口に含み、再度フタを閉める。
自動販売機に背を向け、部屋へと戻ろうとした時だった。
「大和くん?」
背後から掛けられる声に背筋が凍り付く。
俺のことを名前で、しかも君付けで呼ぶのは一人しか居ない。後ろに居る人物が誰か分かるからこそ、振り向くことを躊躇う。でも振り向かないわけにはいかない、これ以上彼女を裏切り続けることは出来ない。
気付けば手が震えている。
思った以上に今の俺の素顔を見られることに抵抗を持っていることが分かった。自分の感情を抑え、平静を装ったまま後ろを振り向く。
「よう」
そう声を絞り出すのが精一杯だった。
俺と同じように飲み物を買いに来たのだろうか、手には可愛らしい女性物の財布が握られている。
「……」
俺の声に対する返答は無かった。気付けばナギの視線は目の辺りにある。付けている眼帯は医療用のものではなく、ラウラが使っている眼帯を譲り受けたもの。加えて左眼側の前髪が切り取られている事を考えれば、何か処置を施したことは容易に想像出来た。
周囲には誰もいない、二人だけの空間だというのに話題など何一つ見付からない。どう切り出そうか分からず、呆然と立ち尽くす俺に近付いてくるナギ。
そして。
「えっ……」
パチンという乾いた音と共に俺の顔は右側を向いていた。事態を把握すると同時に押し寄せてきた感覚は。
痛かった。
じんわりと左の頬を襲う痛み以上に、心がズキリと痛んだ。人に殴られても痛がることなんて無かったのに、どのビンタよりも痛く感じた。
「ッ!!」
ナギの方を向くと、必死で涙を堪えて顔を赤らめる姿がある。ふるふると体を震わせ、腕を振り切った姿が何よりも痛々しい。
こうなることは分かっていた。裏切ったのは俺なのだから、それ相応の仕打ちが待っていることは十分承知していたはずなのに、何故俺まで泣きそうになっているのか。
「……私、言ったよね。大和くんが傷付く姿は見たくないって」
彼女を傷付けまいと、心配させたくないと思っていたのにこの現状が全てを物語る。
「これは、その……」
「言い訳なんか聞きたくないよ! 無理しないでって言ったじゃない! どうしてこんなことになってるの!?」
普段声を荒らげることのないナギが怒っている。
当然だ、今回の事故は防ごうと思えば防ぐことは出来た。それを俺の自己判断で勝手に先行し、結果左眼を潰すことになった。
もし最初に痛みが出た段階で作戦参加を断っていれば、ナギの言った通りに病院へ行っていれば、安静にしていれば。結果は自ずと変わっていたはずなのに。
作戦以降、左眼が痛くなる兆候は一度もない。従来の眼が潰されて回復したのかどうかは分からないが、どうしてあの時踏み止まれなかったのか。
俺の認識が甘かった。立ち止まれなかったことに対して後悔している俺がいる。
ナギのは正論しか言っていない。作戦前にも無理はしないでと言っている。約束を破り、何もかも裏切ったのは俺だ。彼女の言うことに何一つ言い返すことは出来ない。何か言い返したところで全て言い訳になる。
「少なからず大和くんが無茶したことくらい分かるよ! 私との約束を破って!」
「……」
ボロボロと、彼女の頬を涙が伝う。
あれだけ静止したにも関わらず裏切られた。その深い悲しみと怒りが沸々と込み上げて来ているのだろう。流す涙がより一層罪悪感を掻き立てる。
「いつも、いつも大和くんは口ばかり!」
約束を言っては破り、裏切りの繰り返し。
それは護衛として生きているから、は通用しない。何故ならナギはその事実を知らないのだから。本当の自分を知られるのが怖くて話していない臆病な俺のせいで、彼女は悲しんでいる。
――もう、限界か。
ナギに全てを隠し通す自信がない。本来絶対に話してはならないことだが、全てを話して彼女を楽にさせたい。全てを知って俺に失望したとしても、それは今まで隠していた俺が悪い。
仮に別れ話を切り出されたとしても、俺は頷くだけでそれ以外の行動は何一つ出来ない。
元々付き合う時点で覚悟をしなければならなかった。俺自身の全てを話すという覚悟を。千尋姉にも言われたがこの仕事は常に危険を伴う仕事だ。
もし交際相手が出来た場合、何もかも話すか隠し切るかのどちらかを選べと常々言われていた。それで相手が外部に流出をさせるのであれば……。ここから先は言いたくない。
ナギを楽にするなら話すか、別れるか。いずれかの選択肢を取ることになる。
後はナギがどう思うかだが。
「私の言っていることそんなに間違っている!? どうせ大和くん、さっき織斑先生に呼ばれて任された仕事で怪我をしたんでしょ!」
「それ、は……」
歯切れの悪い返しは全て肯定。
彼女の言うことは寸分の違いもなく合っている。何一つ間違っていない。
「立場上仕方ないのは分かるよ! でも毎回毎回危険な目に合って、無理をして怪我して! 傷つく大和くんを私は見たくない! 見たくないよ……」
「ナ、ギ……」
「左眼……完全に見えないんでしょ?」
「……」
完全に見えない訳ではない。
むしろ今まで以上に驚異的な力を手に入れてしまったと言い表すのが正しい。相手が次どう行動してくるのか、何をどうすれば危険な状況を回避できるのか、瞬時に判断出来る。
それこそ戦場を飛び交う無数の弾丸が全てスローモーションに見える。それほどの動体視力を兼ね備える眼を、手に入れることに成功した。
左眼の力は右眼にも多少なりとも影響しており、遠近感が全く掴めない状況でも、相手の動きを先読みさせてくれた。リミットブレイクによる身体能力の向上と、この左眼の能力が、プライドを圧倒出来た要因と言っても過言ではないはず。
新しい眼を手に入れたとしても、前の眼を怪我で失ったことも事実。ナギの言っていることは合っている。俺の左眼に、昔の面影は何一つ無い。
眼帯を取れば異質な目に、誰もが驚くだろう。
「何で黙ってるの……少しは話してよ! どうしていつも大和くんは話してくれないの!?」
話せない……しかしさっきも言ったように、ナギにはそんなことは関係ない。俺に想いを寄せる一人として、彼女として、当然のことを投げ掛けているだけに過ぎない。
ナギだけではなく、同じ状況になれば誰もが同じことを言うはず。彼女に限ったことではない。ナギの想いを知って無理をするのは一度や、二度だけじゃない。
無人機襲撃事件、ラウラとの生身による決闘、VTシステムの暴走、第三者による襲撃、そして今回の福音事件。
数え切れないほど、俺はナギを裏切っていた。
「俺は……」
「分からない、分からないよ! 貴方が好きだからこそ、愛しているからこそ! 私は怖いの! 大和くんがいつか居なくなるんじゃないかって!」
「……」
「こんな思いをするくらいなら……ッ!!」
「ま、待ってくれ!」
ナギの手を掴むが、それを拒絶して走り去ろうとする。俺の顔なんか見たくないと言わんばかりに。
「放してよっ! 大和くんなんて見たくないっ! 大っ嫌い!」
「ッ!!?」
言われたくなかった。
想いを寄せている女性に、一番言われたくない一言を伝えられ、俺の手から力が抜ける。明確な拒絶に、俺は彼女を……ナギを、引き止める訳にはいかなかった。
フラれ……たんだ。
「あっ……」
思いのまま口に出してしまった一言に、ハッとした表情で、こちらを見て立ち止まる。だがこの状況で気まずさを覚えないほど、二人共鈍感ではない。
一瞬俺の顔を見ると、すぐに背を向けて走り去ってしまう。
その時、ナギから金属ものの輪っかのようなものが落ちる。彼女にフラれ、虚ろな目をしたまま落ちたリングを拾った。
「……これって」
指輪のようなリング。それが何なのかはすぐに分かった。
分かったのは何故か?
それは俺が初めてナギと出掛けた時、彼女にプレゼントしたもの。
その時はネックレスを渡したはず、しかし今俺の手元にあるのはネックレスではなく、ネックレスに付いていた指輪だけ。
つまりネックレス自体は捨てたか、引き千切ったか。
どちらにしてもロクなことじゃない。
「ははっ……はははっ……」
痛い。
胸が締め付けられる。
ポッカリと大きな穴が空き、何も考えられないし考えたくない。
大好きな人間に拒絶されるって、こんなにもつらいことだったんだ。
落ちた指輪をギュッと握り締める。
既にロビーには静寂が戻っていた。
冷たい状態で買ったはずのペットボトルのお茶は、いつの間にか人肌で常温となり、水滴がポタリポタリと、まるでそれは涙のように不規則的にこぼれ落ちる。
どうすれば良かったかなんて分からない。何をどう願ったところで、失った時間は二度と戻ってこないのだから。
キャップを開けて、先ほどよりも少し温くなったお茶に口をつける。
「あぁ、くそっ……しょっぱいな」
買ったお茶がしょっぱいなんてあり得ない。
何故かこの時買ったお茶だけは、すごくしょっぱかった。
「……ちくしょう」
嘆いたところで彼女が戻ってくるはずもなく。
俺はただ一人、ロビーで立ち尽くすことしか出来なかった。