なお目の前にいるのがフィーネとは知らない模様。
1
教室には静かな緊張が漂っていた。
半すり鉢状の室内に並ぶ学机は様々な学生服を着た少女達で埋まっている。
机の上には裏返しにされた紙面が何枚も重なり筆記用具が並べられている。
参考書を開いて最後の追い込みをかけている者もいれば、不安を堪えきれず隣席に座る少女達がお互いに話し合う光景も見受けられる。
やがて下部にある教壇に立つ女性の声により一切の静寂が室内を満たす。
「それでは始めてください」
女性の声にしたがって周りの少女達は一斉に紙面をめくり、筆記用具を手に取る。
私はのそのそと彼女達に遅れながらも紙面に回答を書き始めた。
今日はリディアン音楽院高等科の入学試験日だ。
2
私がリディアン音楽院に入学してみないかと言われたのは暦上は秋とされる季節だった。
まだ日差し厚く暑く降り注ぎ、薄着で帽子を被り制汗剤をたっぷりと肌に馴染ませても滝のような汗が流れる中、週末のカウンセリングの為にリディアン隣の総合病院に来院した私はカウンセラーからリディアン音楽院高等科の受験を奨められた。
リディアン音楽院は小中高一貫の教育方針ではあるが、それぞれ学科が繰り上がるときに編入という形で外部から生徒を取っている。
彼女は未だ進学先の決まらぬ私に私学でありながら学費が安く抑えられ学生寮の完備されたこの学校を紹介した。
事件後、周囲から距離を置きたい私にはある程度は考慮に値する学校ではあったものの、リディアン音楽院という学校は特殊な学校で、各種の音楽科目を授業の中心に置きその上で一般科目を学ばせるカリキュラムとなっている。
その特殊な学業形態が私に受験を躊躇わせた。
普通の学校なら一般科目を学ばせた上で選択科目か何かで音楽を学ばせるのだろうが、リディアンでは逆なのだ。
これは入学試験にも反映され、ある程度の音楽知識がないと入学自体が極めて難しく、仮に一切の音楽知識の無いまま入学出来てしまったら今度はその点で躓いてしまう。
ハッキリと言い切るならば今の私では入学自体が不可能であると言ってしまっていい。
そんな私の疑問をものともせず彼女は自信ありげに答える。
「確かに貴女の視点からではリディアンに合格するのが不可能と言えるわ。
でも私の視点からでは貴女は確実に合格できると言い切れる。
あの学校ではね、特に歌を重視しているの。
一般科目や音楽知識、楽器演奏の優劣なんてほんのちょっとの差にしかならないわ」
私は彼女の物言いに愕然とした。
確かにこの病院はリディアンの隣にあるため、彼の学校で大きなケガ等が有ったら真っ先に運ばれてくるだろう。
楽器の弾きすぎで炎症を起こした。
歌の歌いすぎで喉をやられた。
なにかトラウマができて人前に出られなくなりカウンセリングの世話になる。
その様なことがあってもおかしくはない。
だからリディアンとの間に言葉にしづらい関係があったとしてもそんなものかと納得できるが、彼女の発言はまるで教師が生徒にカンニングを促すようなものだ。
私が不快感を隠さずにいると彼女もそれを感じ取ったのか苦笑しながら答える。
「貴女、もしかして私がリディアンから診療にくる子達の個人情報を利用していると考えている?
リディアンの内部情報を悪用して貴女に便宜を図っていると。
Non,non.これはスカウトに近いものよ。
リディアンからは見所のある子に試験について教えて上げてと言われているのよ。
まあ実際にスカウトと言い切れないのは必ずしも編入出来るわけでは無いから。
ほら、いかに歌を重視するからと言っても他の科目があんまりだったら、ねえ」
と彼女は自身が勧誘員の立場であることを明かす。
「響ちゃんは声の通りがいいから少し歌の練習をすれば大丈夫よ。
普段の勉強もしっかり出来ているようだし。
さらにちょっと音楽の勉強するだけで直ぐに合格よ。
人前で歌えるようになるだけでもバッチリ加点ましましよ。
入学してもきっとやっていけるわ」
こちらのことは分かってますよ、と言いたげに顔を近づける。
そして小声で内緒話でもするかのように言う。
「それとも以前と変わって何処かここに行きたいと言える学校でも見つかった?
もしくはなりたい職業とか。
その顔を見る限りではそれも無さそうだけれども」
彼女はニヤニヤしながら此方を見ている。
学校も、なりたい職業も特にない。
そもそもおとがめなしとはいえ事件を起こして普通に進学出来るものなのか。
就職も中卒では厳しいだろう。
選り好みではあるのだろうか、少なくとも安い給料でこき使われるというのは勘弁願いたい。
生きる。
言葉にすると簡単だが難しい。
そしてそれも含めて人生だ。
あのライブ以降私は自身を取りまく不幸、運命に逆らうと決めた。
運命が私を殺しにかかるのならば、私自身が運命を殺す為に拳を振るのだと。
私の命はそういう風に使ってやると決めている。
生きることを諦めないとはそういうことだと私は考えている。
しかし私自身やってみたいことが無いわけではない。
もし叶うのならば。
私は、月に行ってみたい。
「それは宇宙飛行士になりたいというのではなく?」
宇宙飛行士になりたいわけではないと思う。
ただ月に行って問い掛けたいのだ。
月に誰か親しい人でもいるのと彼女は言う。
親しい訳ではない。
ただ一方的に知っているだけ。
声によると月には神様がいるらしい。
その神様に会ってみたい。
正直に言ってしまうと頭のおかしい奴と思われかねないので図書館の古い本に載っていたということにする。
彼女は神様ねぇ、と反芻する。
表面上はこちらに関心を持っているように振る舞ってはいるが、内心ではどうだろう。
胡散臭げにでも思っているかもしれない。
「その月に住んでいるという神様はどんな神様なの」
カウンセリングの用紙になにかを書き込みながら彼女は私の話を促す。
私は声に教わった通り、かつて人類から一つの言葉を奪った神様だと答える。
まだ古い時代、人類は一つの言語のみを使用しており、その言葉が無くなったからこそ人の間で争いが起きるようになったと。
私はその神様に問い掛けたい。
言葉を奪うことで人に争いが起きるのならば、私が苦しい理由も神様のせいなのか。
そこまで話して異変が起こる。
バキリと破砕音がなる。
音の発生源、彼女の手元に目線を動かすと彼女が持っていたペンが握り潰されている。
「どうした、続けろ」
今までの彼女とはかなり違っていた。
言葉使いは荒く、今までのような軽い感じの表情ではない。
特に眼力が凄まじい。
表情こそ変わらないものの眼鏡の奥から射抜くような視線を向けてくる。
私が思わず言葉に詰まると再度語気を強め促す。
私がなにも言えずにいると彼女から質問を投げ掛けられる。
「月に住んでいるとは何処に住んでいる」
具体的に何処とはわからない。
ただマルドゥークと呼ばれているらしい。
「どうやって言葉を奪った」
バラルと呼ばれる装置を使用した。
仕組みはわからない。
「言葉を奪った目的は」
言葉に潜む善くないものを封印するため。
「そいつはなんだ」
わからない。
「具体的な事は分からず仕舞いではないか」
その通り。
だから知りたいのだ。
どうして私達はこんなにも苦しいのか。
「もしもそのバラルとやらがなくなったらどうなる」
推測ではあるが、その善くないものとやらが復活するのではないだろうか。
そしてその善くないものが封印されたままの状態と人類の言葉が奪われている状態。
はたしてどちらが望ましいか。
「取り敢えず最後の質問だ。
月にいる神様の名前は」
期待をしていないのだろう。
どうせ分からないと答えられるのだろうと投げやりに問いかけられる。
私はハッキリと答えた。
神様の名前は『エンキ』。
彼女は持っていた問診票を手と共に机に投げ出し天井を見上げた。
しばらくしてただ一言、退室してよいとだけ私に告げる。
私は彼女を一瞥したのち無言で退室した。
おかしい。
この話で小包が届くはずだったのに。
(飽くなき闘争へのフラグ)