それから数日、「ちょっと考えてみる」といった秦野からの連絡はなかった。そんなにすぐになにか思いつくわけでもない。わかっていても、心細く感じた。
ある日の夜。自室で食事を終えたころ。
私のスマートフォンが着信音を鳴らした。画面に表示された名前は、彼だった。私は一度深呼吸してから受話ボタンをタップする。
「小原です」
『どうも。夜に悪いな』
電話越しに聞く彼の声。
「いいえ、ちょうどいいわ」
『それならよかった。ちょっと確認したいことがあってさ』
そういえば電話でじっくり聞いたのは初めてかもしれない。
「なにかしら」
『Aqoursのことなんだけど、次のライブ、来月下旬だよな』
「そうね。ラブライブの東海地区予選だから」
今、みんなで準備を進めているところだ。まだ圧倒的なパフォーマンスのアイデアは出ていないけれど。
『それまでに一度、ライブできるか? たとえば来月上旬とか』
「ずいぶん急ね。でも、どうして?」
『仮にやるとしたら、の話だ。今のところ』
詳細を教えてくれる気はないらしい。
ライブといってもいろいろだ。それこそ一曲だけで良ければ昼休みに体育館で歌うこともある。だから――。
「どのくらい本格的なものかわからないけど、新曲を用意しなくていいなら、できると思うわ」
予選の準備で忙しいとはいえ、不可能ではないだろう。
『そうか、それはよかった』
「ただ、学校行事と重なると厳しいわね。ちょっと待ってね」
私はスマートフォンを持ち直して予定表を確認する。
『そうか、高校生だっけ。いろいろイベント多いよな』
秦野の声がスピーカーから小さく聞こえた。
「来月上旬だと、期末試験くらいかしら」
『あー、そりゃきついか』
「最初の週には終わるわ。そのあとなら大丈夫だと思う。もちろん最終的には、みんなのやる気次第よ」
『なるほど。わかった。すまないな、急に聞いて』
「いいえ。なにか考えてくれてるんでしょ?」
私はなるべく軽く聞こえるように、でも期待を込めて尋ねてみる。
『さあ、どうだか』
彼が肩をすくめるのが見える気がした。
『今度は先にメールする。メルアド送っておくから、あとで返信してくれ』
「わかったわ」
『うん、それじゃ』
「ええ、おやすみなさい」
彼はなにもいわず通話はそのまま切れた。
Aqoursのライブがホテルとなにか関係するのだろうか。あいにくオハラ淡島の一番大きい宴会場を使っても、
彼はなにを考えているのだろう。私はしばらくスマートフォンを見つめていた。
・
彼からの次の連絡は意外に早かった。翌日、バスで沼津へ行く途中、秦野からメールが届いたのだ。
私は会話していたダイヤと果南に断ってメールを開く。メールには簡潔な文章で、Aqoursにライブを頼みたいこと、できれば一度、会って話したいことが記されていた。
直接話したい、というのはわからなくもない。ただメールをやり取りして会う予定を詰めるのは面倒だし、それならいったん電話をしたほうがいい。
私は落ち着いたらすぐ、こちらから電話を掛けると返信した。
二十分ほどして沼津駅前に着く。みんなの一番あとについて歩きながら、私は電話を掛けた。
彼に電話を掛けるのが初めてなことに気づいたのは、コール音が鳴りだしてからだった。
『ロイヤルアルダー秦野です』
「こんにちは。小原です」
『おっと、小原さんか。すまん、画面を見てなかったから』
「いいえ」
彼はなにを謝ったのだろう。
「それで、メールをもらった件だけど。ライブを頼みたい、ですって」
『ああ、そうだ。電話だと説明とかいろいろ面倒だから、直接、話したほうがいいと思う』
落ち着いた声だけれど若干、興奮が混じっている気がした。
「ちょっと待って。概要だけでも聞かせてもらえるかしら。場合によってはぜんぜん、無理かもしれないわよ」
『そういえばそうか。……いや、やっぱり話したほうがいいな』
「なにか怪しいわね。断れないような条件、出してくるんじゃないでしょうね」
『そんなことはないさ』
秦野は否定した。直接話したいというのは気になるが、混み入った話なのだろう。
「わかったわ。今、沼津に来てるから……今日だと遅くなるけど、いいかしら? それとも明日?」
『ああ、遅くてもいいよ。なんなら沼津まで行こうか?』
「それは
『そうか?』
彼は不思議そうな声を出した。私はあわててフォローする。
「わざわざ来てもらうのは悪いわ。すこし早めに、練習から帰るから」
『わかった。
「さすがに閉まってる時間だと思うから……」
私は考える。どこで待ち合わせればいいだろう。内浦は遅い時間になると良い場所がないのだ。Aqoursのみんなとなら、海岸とか公園とか誰かの家とか、どこでもいいのだけれど。
悩んでいると彼がいう。
『うちのホテルまで来るか? ラウンジでもいいし』
「えっと……」
私はまた別の意味で考える。オハラ淡島まで来てもらってもいいが、今回は話を聞く立場だ。向こうへ行ったほうがいいだろう。
「そうさせてもらうわ。制服で行っても、大丈夫?」
『もちろん。フロントで呼び出してくれ』
「わかったわ」
彼は電話を切った。
さて、みんなに怪しまれないように、なんとか理由を付けて先に帰ると伝えなくては。
・
結局私はホテルの用事ができたと真実を告げて、すこしだけ早く帰らせてもらった。
バスが内浦に着くのが待ち遠しくてならなかった。
ロイヤルアルダーに近いバス停で降りる。
ここに来るのはいつかの夜のレストラン以来だ。
フロントで秦野の名前を出すと(それまでホテルマンの目に、かすかな疑問が浮かんでいたのを私は見逃さなかった)、私は
秦野はすぐにやってきた。書類
彼はフロアのスタッフとなにか話し、スタッフは一礼して去った。
ホテルの従業員は私のこと、どう思っているんでしょうね。
そう考えると、すこしおかしくなった。
「わざわざ来てもらって悪かったな」
向かいの席に座った秦野が話した。
「いいえ、私が聞かせてもらう立場だから、今回は当然よ」
「へえ、ずいぶん
「なによ、悪い?」
彼はぜんぜん、というように首を振った。
「ちょっと珍しいなって思っただけさ」
私をなんだと思っているのだろう。
「そんなことないわよ。それで、話ってなにかしら?」
秦野はそう聞いた私を制する。
スタッフがコーヒーをふたつ、持ってきた。私は
「どうぞ」
「ありがとう」
悔しいけれどロイヤルアルダーのコーヒーはおいしかった。
コーヒーを置いて、問いかけるように秦野を見る。
彼はにやっと笑って話し出した。
「あらかじめ断っておくけど、もし実現できないようなら、すまん。そのときは忘れてくれ」
「もちろんよ。なにかマイナスになるわけじゃないわ」
「そういってもらえると助かる」
彼はうなずいた。
「まず確認だけど、Aqoursにはファンがいる。それなりに」
「それなりに、は余計よ。でも、そうね。ありがたいことに」
東京のイベントで彼も感じているはずだ。
彼はごほんと喉を鳴らしてから続ける。
「だからライブには集客効果が見込めるよな」
「それはまあ、内容とか宣伝とかにもよるけれど、そう期待しているわ」
「よし。そして幸い、小原さんはAqoursの当事者だ。顔が
「当事者っていうのかしら。メンバーのひとりよ」
「いちいち突っ込むなあ、小原さん」
苦笑する秦野。
「あら、あなたに
「まあ突っ込んでもらうくらいのほうが、検討するときにはいいか。で、廃校を避けるための条件はふたつ、と」
「そうね」
「ひとつ目は置いておいて、小原さんに課せられた条件は、オハラ淡島の売り上げが前年を上回ること。これで合ってるよな?」
「ええ、そうよ。前回も話したじゃない」
秦野はにやっと笑った。
「これがポイントなんだよ。利益じゃなくて、売り上げだ」
「たいした違いはないんじゃないの?」
「そうでもないさ。たとえば滅茶苦茶広告費を掛けて広告をバンバン打って、ホテルが一杯になれば、それで条件達成だ」
非現実的な話に私は
「大赤字じゃない。そんなこと、できるわけないわよ」
「もちろん、わかってるさ。でも条件だけ見たら、極端な話、赤字でもいいってことだ」
本当だろうか。
たしかに父はあの日、売り上げと話していた。ほかになにか、いわれなかったか思い出そうとするが――利益の話は
だから秦野の話は、文字通り
私は確信を持てないまま彼に聞く。
「それがあなたのアイデアってわけ? ホテルに不利益になるようなことは、やりたくないし、やらせてもらえないわ」
もしかしたら樫村さんに頼み込めばOKが出るかもしれない。でも同情につけこむようなことはしたくなかった。
「もちろん、違うさ」
あっさりと秦野はいった。
「それじゃ――」
「だから、利益になるのは難しいようなことでも、売り上げさえ伸びればやる価値はあるってことだよ。そう考えれば、いろいろ出てくるんじゃないか?」
「そう……かしら」
「きっと小原さんでも、なにか思いつくだろ」
彼はまた笑う。そこには私を――
私はすこしだけ嬉しくなって、目を落としてコーヒーを一口、飲んだ。
「で、とりあえず俺の案を説明させてもらっていいかな」
「もちろん、どうぞ」
私は顔を上げて彼に微笑んだ。
彼は持ってきた書類挟みから、数枚の紙の束をふたつ取り出し、ひとつを私に向けた。
「お手元の資料をご覧ください」
彼は気取った調子で話した。
表紙には大きく「ホテルオハラ淡島・初冬の地元応援特別企画」とあった。
「どういうこと?」
「まあ、慌てるなって。紙は実は、おまけだ。あとで読んでくれ」
「なによそれ……」
「きっと、あとで必要になるさ」
私が顔をしかめるのも気にせず、彼は続ける。
「要は採算
「悪いけど、うちのスタッフはそんなに余裕、ないわよ」
「そこはロイヤルアルダーが協賛ってことにする。多少は儲けが出るなら、うちから人を出してもいいだろ」
「それは、助かるけど」
「で、なにをやるかを考えたときに、幸い、ここに我らが小原鞠莉ちゃんがいる」
「あの、ちゃんづけは止めてくれるかしら……」
「おっと、すまん」
まったく悪びれもせずに謝る彼。
私は顔が熱くなってパタパタと手で扇いだ。空調が効きすぎているに違いなかった。
「オハラ淡島主催、Aqoursのライブ。悪くないだろ」
彼はきらりと目を輝かせた。