さすがに彼の顔には
「秦野さん」
「残っててくれたんだな、小原さん」
「当たり前でしょ。帰る理由がないわ」
「この
彼は肩をすくめて室内に目をやる。客は半分、いや三分の一ほどにまで減っていた。
「私には関係ないわよ。だって、私はホテルに招待されたんじゃなくて、あなたに招待されたんだから」
「……ありがとう」
私が微笑むと彼は頭を下げた。かたわらにあった扉を開いて私をうながす。
扉の外は館内の通路だった。ロビーに通じる通路ではないためだろう、誰もいない。
扉が閉まると通路は急に静かになった。
「話は聞いてるんだな」
「ええ、ついさっき、ね」
「そうか。……謝らないといけないな、小原さんに」
「どうして?」
会社が倒産したからといって、もし秦野が支配人でなくなるからといって、私が謝ってもらう理由はないはずだ。
「小原さんの助けになるのは、ちょっと難しいかもな」
そんなことはない。あなたがいてくれて、相談に乗ってくれれば十分。
そういいたいけれど、彼がもし支配人でなくなるとしたら――今の彼には届かないかもしれない。
代わりに私は尋ねる。
「ねえ、秦野さん。ホテル事業は悪くないんでしょ。これからこのホテルはどうなるの?」
秦野さんはどうなるの、とは聞けなかった。
「さあ。本社ごとどこかに買われるか、債権整理の一環で別のところが経営権を引き継ぐか、それとも閉鎖するか。どれもありだろうな」
「もしホテルが営業を続けたら、秦野さんはそのまま……」
彼は首を振った。
「いや、それはないな。俺は秦野の人間だから……親会社が変われば、居場所はないだろ」
秦野の人間――つまり秦野不動産の関係者、おそらく親族ということだ。
「そう」
私は短く答えた。いずれにしても秦野はいなくなる。
「でもまだ、決まったわけじゃないんでしょ。ホテル事業はそのまま残るかもしれないじゃない」
私は
「ああ、今のところは。一応、本社に近い連中は頑張って交渉してる。ただ、まあ、厳しいだろうな」
彼は肩をすくめた。私は明るい声を出す。
「きっとなんとかなるわよ。だって……」
私は浦の星女学院のことを思い出す。
あれだけ頑張ったのに、ライブも成功したのに、廃校になって秦野はいなくなるのだ。なんだかとても、とても理不尽すぎる気がした。
きっと私は変な顔をしていたのだろう。彼が突然、私の右手を握った。
「おい、大丈夫か」
はっとして顔を上げる。秦野が私の顔を
ぎゅっと胸の奥が痛んだ。
「ええ、大丈夫」
私は微笑む。彼はさっと体を起こしすこし距離を置くと、わざとらしいさばさばした声で続けた。
「まあ、俺はこのホテルにたいして思い入れはないから、わりとどうでもいいんだ」
私もあえて明るい声で応じる。
「あら、あんなに頑張ってたのに?」
「頑張ってた、というか、まあ義務だからやってたって感じだな」
あれだけ内浦についても勉強して、スイーツに
彼はふうっと息を吐いた。
「いろいろ社内にもしがらみがあってさ。まあ、それももう、どうでもいいってことか」
私に向き直る彼。
「むしろ俺は……今、俺が残念なのは……」
彼にまっすぐに見つめられて、動悸が速くなる。
「小原さんをこうやって応援できなくなる。いや……」
首を振って続ける。
「小原さんに会えなくなる、ってこと……かもな」
ふわっと温かいものが私の胸に広がった。
顔を
「かも、ってなによ」
「いや、まあ」
「……私も、残念だわ」
彼は視線を合わせないままうなずいた。
やっぱり、秦野が、いなくなる。
胸のなかでぐるぐるするこの想いを、伝えたかった。でも、なんていったらいいのか、わからなかった。
せめて来年三月、卒業のときまで。それまでの時間があれば、私はスクールアイドルとしての活動も終えて――きっと彼への想いを言葉にして、伝えることができるのに。
今は彼の言葉が、もっともっと聞きたかった。
彼だってきっと、私のことを憎からず想ってくれてるんじゃないかしら。もし、今はまだでも。可能性はあるんじゃないかって思う。
私はじれったく感じながら話す。
「ねえ、秦野さん。まだどうなるか、わからないけど……これからも、その、会えるわよね」
「そうだな……いや、
ちらっと顔を上げる。
「内浦にも、
「秦野さん……」
私は、なにも気にしないわよ。そういいたかった。でも、私が気にしなくても、彼は気にするに違いない。
彼はぐーっと伸びをする。
「そろそろ戻るか。俺はともかく、小原さんのご友人が気にするだろ」
私は後ろ髪を引かれる思いで、うなずいた。
「それじゃ、元気でな」
それは最後通告のように聞こえてならなかった。
秦野が扉を開いた。
・
私たちはダイヤと果南、樫村さんのところに戻った。あんなことをいったパパもまだ残っていた。
パパへの秦野の紹介は樫村さんに任せて(たぶん私が紹介するよりもパパは気が楽だろう)、私はダイヤ、果南と話す。
「ごめんね、席を外しちゃって」
「鞠莉さん、倒産の話はいかがでしたか?」
ダイヤが小さな声で聞いた。私は唇をかむ。
「残念だけど、本当みたい」
「それじゃ、このホテルは?」と果南。
「まだわからないって。どこかに売られるか、閉鎖するか」
ふたりは顔を見合わせた。ダイヤが目に懸念を浮かべて聞く。
「それでは、秦野さんは……?」
「おそらくだけど、支配人は
「……鞠莉」
果南が私の手を取った。私は彼女たちに無理に笑顔を作ってみせる。
「大丈夫よ。ロイヤルアルダーが閉鎖すれば、すくなくともオハラ淡島は、安泰だから。……私はスクールアイドルに集中できるってこと」
「そういうことじゃないでしょ、鞠莉」
私は首を振り、彼女の手をぎゅっと握ってから離す。熱くなった目元をハンカチで押さえる。
「なにかないのですか。その、鞠莉さんがもっと、シャイニーになれる方法が」
ダイヤが真剣な表情で話した。私はこんなときでもなければ吹き出していただろう。
その代わりに私は黙って首を振った。
パパとの会話を終えた秦野がゆっくりと私たちへ近づいてきた。
「黒澤さん、松浦さん、小原さん。すみません、最後はバタバタしてしまって」
頭を下げる秦野。
「いいえ、とても楽しかったです」
果南が笑顔で応じた。
「それなら幸いです」
秦野は果南にうなずいて続ける。
「残念ですが、こうしてみなさんとお会いできるのも、これが最後になりそうです。内浦でみなさんに会えて、本当に幸せでした」
秦野はにこりと微笑んだ。最初、この宴会場で会ったときと同じ――いや、それよりもずっと、素敵な笑顔だった。
私と目が合って、彼はかすかにうなずいた。ずきり、とまた胸が痛む。今日これっきり、もう彼とは会えないのだ。
そのとき、隣でしばらく考え込んでいたダイヤが顔を上げた。
「秦野さん。支配人はお辞めになるのですか」
「はい。不本意ながらその予定ですね」
秦野は肩をすくめた。
ダイヤは私を手招きする。不思議に思いながら近づいた私に彼女は耳打ちした。
彼女の話は、あまりに意外な内容だった。でも。
「……たしかに、そうかもしれないわね」
聞き終えて、私はうなずいた。彼女はきらっと目を輝かせる。
もしかしたら、行けるかもしれない。いや、これしかない。
「ねえ、パパ」
「なんだい、鞠莉」
パパは早く帰りたいのか気もそぞろといった様子だ。
「私は、今も副支配人よね。来年三月までだけれど」
「ああ、そういう約束だな。鞠莉さえよければ、もっと伸ばしてくれてもいいが」
「考えておくわ」
私は軽く微笑んで続ける。
「副支配人なら、もちろん私は新しい従業員を雇ってもいいわけよね」
「それは、もちろんだよ。鞠莉がいいと思えば」
「ありがとう、パパ」
にこっと笑うとパパは
私は秦野に顔を向ける。彼も気づいたのだろう、にやっという感じで笑った。
「オハラ淡島は今、大変な人手不足なのよね。業界経験者がいたら、ぜひ雇いたいのだけれど。副支配人代理として」
「それは奇遇だな。ちょうど俺も、明日からどうしようかと考えていたところだ」
ダイヤが大きくうなずいて、果南がにんまりと笑う。
「鞠莉、それはちょっと乱暴だろう」
遅ればせながらパパが声を上げた。
「あら、さっき問題ないっていったじゃない」
「いや、しかし、ママがなんというか……」
「約束は守ってる。ママになにかいわれる理由は、ないわ」
「それはそうだが……まったく、鞠莉は鞠莉だな」
パパは諦めたように天を仰ぐ。
「樫村さん、問題ないかしら?」
「ええ、私からはなにも申し上げることはありませんね」
樫村さんも楽しそうに微笑んだ。
私は一礼してから秦野に向き直る。
「秦野さん。お給料は安いわりに仕事は大変よ。なにしろ副支配人の仕事は、全部やってもらうことになるから。それでも構わない?」
「覚悟の上です、副支配人」
彼は真剣な眼差しで私を見つめる。でも唇は今にも笑い出しそうに、変な形に歪められていた。
私もすました顔で
「それでは、お願いできるかしら」
「
秦野は深く頭を下げた。
私の胸を
「ありがとう、秦野さん」
彼は肩をすくめて話す。
「採用試験は、なしでいいのか?」
あなたのことなら、よくわかっているわ。
そういいかけて思う。彼にそう伝えるなら、もっと
代わりに私は、ダイヤを呼び寄せて小声で伝える。彼女は最初びっくりして、次に笑いをこらえて、うなずいた。
彼女が早足で立ち去る。
秦野は眉を上げて問いかけるように私を見ていた。私はすぐにわかるわよ、というように微笑む。
ずっと静かに流れていた曲がぴたりと
すぐに再開する。ただし、別の曲だ。誰もが知っているウィンナ・
秦野がわざとらしく目をぐるりと回した。私は彼に耳打ちする。
「これが、実技試験よ」
彼が苦笑しながら私へささやく。
「すまん、俺はダンスは苦手なんだ」
「私に任せてくれれば、大丈夫」
彼はやれやれという感じでうなずいた。
「……踊っていただけますか?」
「ええ、喜んで」
差し出された彼の手に、私は自分の手を重ねた。
次話、エピローグにて完結予定です。