支配人はかりそめの顔   作:Kohya S.

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30. エピローグ ~ 私の恋は

「花丸ちゃん、今日はお仕事?」

「うん、最後の、ね」

 

 放課後、私はルビィちゃんにそう話して図書室へ向かう。図書委員としての最後の仕事だ。

 

 ゆっくりと扉を開く。

 窓から斜めに差し込む温かな春の光が、柔らかく室内を照らしていた。

 

 がらんとした図書室。ここにあった沢山の本たちは、それぞれ新しい場所へと旅に出た。ここに残っているのは、物語の思い出だけだ。

 

 もしかしたら、私たちと同じなのかも。

 

 図書室を見渡していて、私はふと思いつく。数歩、歩いてから腰をかがめる。

 

「ほいっ!」

 

 天井から下がっているテレビ台に向けてジャンプする。(はし)につかまってぶら下がった。

 こんなこと、以前なら考えられなかった。図書室でジャンプするなんてもってのほかだし、小柄な私は届きもしなかっただろう。

 

 でも、今は余裕だ。一年間の練習のおかげ。

 

 私たちはラブライブで優勝して、浦の星女学院の名前を(きざ)んだ。

 

 沢山の思い出たちにもうひとつ、最高に綺麗できらきらと輝く思い出を、私は――私たちは残すことができた。

 

 いつもより高い位置から見る図書室は新鮮だった。

 果南ちゃんや鞠莉ちゃんは、こんな感じなのだろうか。ちょっとずるい気がした。

 

 ガラガラと音を立てて扉が開く。

 

「花丸?」

 

 鞠莉ちゃんが室内を見渡し、私をみつけてびっくりした顔をした。

 私は手を放し両足を揃えて着地する。ばっちり決まったと思う。

 

「花丸もそんなことするのね」

「えへへ」

 

 面白そうな鞠莉ちゃんに私は舌を出してみせた。

 

「負けないわよ!」

 

 鞠莉ちゃんは私よりもずっと美しく跳躍し、テレビ台につかまる。そのまま懸垂(けんすい)の要領で上体を引っ張り上げた。

 彼女は一瞬静止してから、まるでフィルムを巻き戻すように床に降り立った。さすが。

 

 私たちはしばらく、くすくすと笑いあった。

 

「鞠莉ちゃん、今日はどんなご用かな?」

 

 私の問いに彼女は、はにかむように微笑む。

 

「花丸にね、お礼をいわないといけないと思って」

「お礼?」

「ええ」

 

 鞠莉ちゃんはうなずくと、目を()らして窓へと近づいた。私も隣に立つ。

 

 校庭に植えられた桜のつぼみはだいぶ大きくなって、樹全体がなんとなくピンク色を帯びているように見えた。その先に広がるのはみかん畑、そして内浦の海。淡島も見える。

 

 鞠莉ちゃんはなかなか先を続けず、私は静かに待った。

 ようやくこちらを向いた鞠莉ちゃんの頬は、まるで桜のようにうすく色づいていた。

 

「もう半年くらい前かしら。ここで話したこと、覚えてる?」

「もちろんだよ」

 

 あのときもらったお菓子がおいしかったことと一緒に。

 

「思ったのだけれど、あれがきっかけだったのかもしれないわ」

 

 なんの? とは聞かなくてもわかった。

 私は無言でうなずく。

 

「そのあと、学校説明会のときもね。……花丸は、いつから気づいてたの?」

 

 いつからだろう。最初、松月(しょうげつ)で会ったとき? 私にもわからない。鞠莉ちゃんはずっと否定していたのに、でもいつの間にか、私の中では当然の事実になっていて――『しのぶれど色に出でにけりわが恋は』だ。私の恋ではないけれど。

 私は少々のはったりをきかせて胸を張る。

 

「最初からお見通しずら」

「……かなわないわね、花丸には。でも、ありがとう」

「どういたしまして」

 

 私がいうと、彼女はすっきりした顔で微笑んだ。

 

「でもね、鞠莉ちゃん」

 

 鞠莉ちゃんが問いかけるように眉を上げる。

 

「マルはたいしたことはしてないよ。遅かれ早かれ、結果は同じだった。そう思うんだ」

「……そうかしら?」

「うん」

 

 彼女は「ならいいんだけど」といって、はにかむように笑った。

 

 この前、沼津に新しくオープンしたケーキ屋さんに、ルビィちゃんと善子ちゃんと買いに行ったとき、私は、列の前のほうに並ぶふたりを見つけた。

 鞠莉ちゃんと秦野さんは絶妙な距離感で――付かず離れずとはああいうことをいうのだろう。手でも握ればいいのに、そう思わずにいられなかった。

 もちろん声は掛けなかったし、ルビィちゃんと善子ちゃんにも話さなかった。

 

 鞠莉ちゃんはもう一度、外を眺めてつぶやく。

 

「やっぱりいいところよね、内浦って」

「……鞠莉ちゃんは、戻ってきてくれるよね」

「もちろんよ」

 

 そういって私に微笑む。そう、必ず鞠莉ちゃんは約束を守ってくれる。

 

 私たちを優しく()でるような光のなか、彼女の髪が透明感を(ともな)ってきらきらと輝いた。

 

 ああ、本当に鞠莉ちゃんは綺麗だ。そう、あんな素敵な人に、こんな素敵な鞠莉ちゃんなのだから、運命は決まっていたに違いない。

 

「花丸と話せてよかった」

「マルも、ずら」

 

 いつかきっと、彼女をモチーフに小説を書こう。私には、やっぱり恋愛小説が似合うと思うから。

 

 鞠莉ちゃんは軽くうなずくと私に背を向けた。私は思い出して聞く。

 

「卒業旅行は、いつから?」

「金曜日には出るわ」

 

 彼女は一瞬だけど顔をしかめた。ダイヤちゃん、果南ちゃんから、すこしだけれど話は聞いている。まだまだ完全に、決着はついてないんだって。

 でも、鞠莉ちゃんなら必ずなんとかする。

 

「楽しんできてね」

「ええ、ありがとう」

 

 彼女は一年前とはずいぶん違う、優しい微笑みを残して図書室を出ていった。

 

 私は過去の貸出カードを箱に収める。統合先の高校は貸し出しが電子化されているらしい。未来ずら。でもこの貴重な貸し出し記録は、統合先でずっと保管されることになっている。

 私は箱を閉めて、サインペンで宛先を書き、うんしょうんしょと職員室へ持っていった。あとはほかの荷物と一緒に統合先へ届くはずだ。

 

 学院を出る。

 長い坂道を下りて、ゆっくりと春の日はオレンジ色を帯び始める。気持ちのいい日だ。今日はバスに乗らずに歩くことにする。

 

 弁天島をすぎて県道に出て、すこし歩くと、左手にホテルの建物が見えてきた。

 結局、ここに来たのは最初の一回だけだ。そしてもう、ここに来ることはないだろう。ホテルは三月末で休館するらしい。

 

 鞠莉ちゃんと一緒に来たかったな。あの人が支配人だったころに。そうすれば――どんな鞠莉ちゃんが見られたのだろう。きっと小説の着想のひとつになったに、違いなかった。

 

 

 

        §

 

 

 

 (わたくし)たちは無事にイタリアから帰国しました。いろいろありましたが、ようやく鞠莉さんのことにも決着がついて――最終的には、貴重な思い出になったのでした。三人だけでなく九人で、さらに向こうでライブまでできたのですから。

 そしてラブライブ、決勝延長戦。Saint Snow(セイントスノー)と共に、浦の星女学院のAqoursの名前はスクールアイドルの歴史にふたたび(きざ)まれたのでした。

 

 心残りは千歌さんたち一、二年生が統合先の学校でうまくやれるか、だけ。

 でも、今日の様子だとその心配もなさそうでした。嬉しいことです。ほんのすこしの寂しさもありますが。

 

 たくさん余ってしまったシャイ煮饅頭(まんじゅう)は、私たち三人ではとても食べきれず、ここホテル淡島のスタッフのみなさんに、おすそ分けしたのでした。

 そして私たちは後片づけを終えて、鞠莉さんの部屋にお邪魔しています。

 

「おなかいっぱいだよ、鞠莉」

 

 果南さんは私の隣でゆったりとソファに、もたれかかっています。

 

「私も。でも、全部片づいてよかったわ」

 

 鞠莉さんは向かいのソファに浅く腰掛けて、笑いました。

 そう、一口食べたら全員がおいしいといってくれたのです。

 

「ええ、見た目はともかく、味はオハラ淡島お墨付きですからね」

 

 私がいうと鞠莉さんはぷくっと頬をふくらませます。

 

「見た目はともかく、って引っかかるわね」

「なにしろ紫色のお饅頭だからね。秦野さんも、変な顔してたよ」と果南さん。

 

 もちろんそのなかには樫村さんも、秦野さんもいて――最初にずらっと並ぶお饅頭を目にしたときの彼の微妙な顔は見物(みもの)でした。

 

「それは、おいしいからいいのよ」

 

 鞠莉さんはかすかに頬を赤らめます。

 

「どうやらシャイ煮は、スクールアイドル部の伝統料理になりそうですわ」

 

 私の言葉に鞠莉さんは嬉しそうにうなずきました。

 きっと食材はもうすこし控えめな価格のものに、アレンジしてくれるでしょう。

 

「楽しみだね、ライブ」

 

 果南さんがいいました。そのまましばらく沈黙が流れます。

 時間は限られていますが、きっと彼女たちならやり()げるでしょう。

 

 でも――時間は限られている。それは私たちも同じなのでした。

 

「お母さまとのことは、秦野さんに報告したのですか?」

 

 お節介だと思いつつ、私は聞きました。経緯を知っている私たちですから多少は許されるでしょう。

 

「ええ、きちんとね」

 

 鞠莉さんは今度は明らかに、頬を染めました。本当にわかりやすいのです。

 

「そうでしたか」

 

 彼女はこくりとうなずきました。

 私は素直に、良かったと思います。

 秦野さんがいたからこそ、私たちはオハラ淡島のことは忘れて、イタリアで彼女の母と真剣に向き合えたのですから。

 

「ねえ、鞠莉。こんなこと聞いていいのか、わからないけどさ」

 

 果南さんがソファに座りなおして身を乗り出しました。

 鞠莉さんがうなずくと果南さんは続けます。

 

「あの人と、どこまで行ったのさ?」

「果南さん?」

 

 私は思わず声に出していました。

 ちらっと鞠莉さんのほうを見ると、彼女は可愛らしく顔を真っ赤にして明後日のほうを向いていました。

 

「あの、えっと、この前、一緒に東京へ行ったわよ」

 

 鞠莉さんの声は上ずっていました。

 

「そういう意味で聞いたんじゃ、ないんだけどなあ」

 

 果南さんが首を振りました。私だってわかるくらいですから、鞠莉さんもわかっているでしょう。でも、鞠莉さんが話さない以上、これ以上は聞かないのが礼儀です。果南さんもそれは、わきまえているようでした。

 

「ごめんね、鞠莉」

「さすがに()めてよね、果南」

「ほんと、ごめん」

 

 鞠莉さんの反応では、どこまで行ったのか、私にはわかりませんでした。ちょっと残念です。でも、そう遠くはない気がしました。

 ぱたぱたと手で顔をあおぐ鞠莉さんに、果南さんがふたたび聞きます。

 

「でもさ、鞠莉。それってデートなんじゃないの?」

 

 鞠莉さんの体が、ぐらっと揺れました。鞠莉さん、と声を掛ける前に、なんとか彼女は立ち直ります。

 

「違うのよ、仕事で行っただけ。ホテル業界の展示会にね」

「なあんだ」

 

 果南さんはあはは、と笑いました。私は鞠莉さんに同情します(内心では、果南さんと同じ疑問を抱いていたのですが)。

 

 ただ果南さんの顔も赤くなっているのを、私は見逃しませんでした。もし鞠莉さんが先に進んでいたら、撃沈していたのは果南さんなのかもしれません。

 

 ふうっと息を吐いて、鞠莉さんが立ち上がります。

 

「コーヒーをいれるわね」

 

 お手伝いを、と腰を上げた私を鞠莉さんは目で制しました。

 

「いいのよ、ダイヤ。ゆっくりしてて」

 

 私はお言葉に甘えることにしました。きっと彼女にも心を落ち着ける時間が必要でしょう。

 

 やがて馥郁(ふくいく)とした香りがただよってきます。鞠莉さんのところでいただくオハラ淡島謹製のコーヒーは本当においしくて、私でもブラックで飲めるほどです。

 

 鞠莉さんはあんなことを話していましたが、彼女がイタリア滞在中は毎朝、ホテルのロビーの片隅で、ひとりで電話をしていたことを私は知っています。

 そして、ホテルが変わるたびに設備やメニューをしっかりチェックしていたことも。

 

「はい、どうぞ」

 

 鞠莉さんがテーブルにコーヒーを置きました。

 

「ありがとうございます」

「ありがとう、鞠莉」

 

 私たちはコーヒーをいただきます。いつものようにおいしいそれは、今日はちょっとだけ、いつもより苦いように感じられました。

 

 カップをソーサーに戻し、私は鞠莉さんを見つめます。

 鞠莉さんは私に、どうかしたのというように優しく微笑みました。

 

 鞠莉さんの表情は一年前よりもずっと穏やかになったと、私は改めて思います。

 その可愛いらしい顔の、眉間に(しわ)でもできてしまうのではないか。そんな厳しい雰囲気はいつの間にかすっかり消えていました。

 その理由のいくつかが私たちで――さらにいくつかは秦野さんなのかもしれません。そうなら良いのにと思いました。

 

 私はにこっと彼女に微笑みます。鞠莉さんは、まるで私の思いがしっかり伝わったかのように、うなずきました。

 

 やがて、ぽつりと果南さんが漏らします。

 

「もう、あとすこしだね」

「そうですわね」

「そうね」

 

 三月末までのこの時間は、ひょんなことから得られた、高校生活の延長時間のようなものでした。四月に入れば私たちはそれぞれ、別の道を歩むのです。

 

 どこまで行ったのかはわかりませんが、鞠莉さんが幸せに次の一歩を踏み出してほしい。そう願わずにはいられませんでした。

 

 

 

        §

 

 

 

 沼津市街地でのAqoursのライブは大成功だった。私たち三人のいない、六人のライブ。私たちはなにも思い残すことなく、先に進める。

 残ったのは思い出だけだ。それも限りなく美しく、今しか作れない、貴重な思い出。

 

 夕方、沼津から内浦に戻るバスの車内は、さすがにしんみりしたけれど、これからについてはもう何度となく三人で話し合った。別に二度と会えないわけでもない。

 だから私たちは意外にあっさりと別れを告げた。

 

「鞠莉さん、がんばってくださいませ」

 

 果南と私が降りるとき、ダイヤはそう私を(はげ)ましてくれた。

 

 淡島の桟橋(さんばし)のたもとでは果南が話す。

 

「鞠莉、覚悟決めなよ」

 

 にやっと笑って彼女は背を向けた。

 

 もう、ふたりとも。でも、心遣(こころづか)いが嬉しかった。

 

 オハラ淡島の通用口へ回る。

 カードロックを解除して中に入り自室へ向かおうすると。

 

「小原さん」

 

 背中から声がして私は振り向く。

 

「秦野さん。お仕事中?」

「いや、もう一通(ひととお)り佐々木さんに引き継いだ」

「最後までお疲れさま」

「どういたしまして」

 

 秦野は肩をすくめた。

 

 彼が淡島で働きだして、さすがに目にするたびにドキリとすることはなくなったけれど、それでも胸のどこかがきゅんとするのを感じる。私はもう、その理由をあれこれ悩むのは()めている。

 でも、まるで私を待っていたみたいだけれど――。そう思っていると彼が続ける。

 

「そろそろ小原さんが帰ってくると思ってさ」

「よくわかったわね」

 

 彼はにやっと微笑む。

 

「実は、午後は休ませてもらってさ。沼津まで見に行ったんだ、Aqoursのライブを。邪魔しちゃ悪いと思って、先に戻ってきた」

 

 私はうなずいた。

 

「よかったな、ライブ」

「ええ、とっても」

 

 私たちはあの時間と空間を共有したもの同士、しばらく余韻にひたった。

 

 彼がここオハラ淡島で勤務するのは三月末、つまり今日までの予定になっている。

 だから彼と話すのは、これが最後だ。

 

「小原さん」

「秦野さん」

 

 同時に話し出して、私はくすっと笑う。彼も苦笑いして、先にどうぞ、というように目で合図した。

 

「秦野さん、すこし話せるかしら?」

「俺も、そう思ってたんだ」

 

 私たちはカフェテラスへ移動した。

 水平線近くまで傾いた光が、ブラインドの隙間から(だいだい)色の筋をいくつも店内に投げかける。今日も店内はまずまずの混雑で、私たちは隅のほうに座った。

 

 コーヒーがふたつ届いて、彼と私はお礼を述べる。従業員はごゆっくり、といって去った。

 そういえば彼はあまり不機嫌そうな顔をしなくなったと思う。私の前でだけ、だろうか。

 

「秦野さん、やっぱり今日までなのね」

「ああ、もともとその約束だからな」

 

 彼はあっさりといった。

 

「そう。残念だけれど、仕方ないわね」

 

 私も(つと)めて事務的に話した。内心は、彼を引き留めたくて仕方なかったのだけれど。

 

「改めてお礼をいうわ。ありがとう、秦野さん」

 

 私が微笑むと、彼は肩をすくめ冗談めかして話す。

 

「お礼をいわなきゃいけないのは、俺のほうだぜ。なにしろ、無職の危機を救ってくれたわけだから」

 

 あのパーティのあと秦野は正式にロイヤルアルダーを()めて(さすがに手続きには昨年一杯掛かった)、オハラ淡島の副支配人代理に()いた。

 彼の手腕は樫村さんも認めるところで、幸いにも売り上げは昨年を上回る状態が続いていた。

 だからこそ私はイタリアへと旅出つことができたし、ママとも直接、話すことができたのだ。そして、ママに納得してもらうことも。

 ママからはなにも連絡はないけれど、今日のライブも見てくれたに違いなかった。

 

「きっと秦野さんなら、どこにでも就職できたわ」

「いや、それでも、内浦に残りたかったしな。……ありがとう、小原さん」

 

 彼は私の目を見つめて、いった。

 私はうなずき、視線を落とす。彼の言葉が嬉しかった。

 

 コーヒーを一口(ひとくち)飲んでから、私はなるべくさりげなく聞く。

 

「秦野さんは、これからどうするの?」

 

 私の進学については以前、彼に話してあった。そのときは彼から退職後の話は出なかったので、今日も期待はしていなかったのだけれど。

 

「うん、そうだな……」

 

 彼はコーヒーに砂糖とミルクを入れて、かき混ぜる。

 

「ちょっと勉強しなおそうかと思ってる」

 

 彼がそういったので私はびっくりして聞き返す。

 

「勉強?」

「ああ、おかげさまで金はあるから、院にでも行こうかと。さすがに明日からは無理だから、秋からか、来年からか」

 

 院。大学院のことだろう。

 

「もうこうやって働いてるのに?」

「いろいろ不勉強なのを痛感してさ。知ってるか? 樫村さん、ホテル経営学で向こうの大学、出てるんだぜ」

 

 初耳だった。彼は首を振ってから続ける。

 

「ただまあ、小原さんには悪いけど、ホテル関連にするかどうかは、決めかねてる。俺に向いてるなにかが、あるかもしれないからさ」

 

 それはそうだろうと思う。私だってオハラグループを継ぐかどうかなんて(そもそもそんな能力があるか疑問だけれど)わからないし、むしろ継ぎたくない気もする。

 だから私は簡潔に感想を口にする。

 

「とても素敵ね」

「ん、マジでそう思うのか?」

 

 眉を上げた彼に私は繰り返す。

 

「ええ、マジよ」

「そりゃどうも」

 

 彼はいつもより幼い感じで笑った。とても素敵だった。

 

 ふと気づくとカフェテラスの席は、ずいぶん埋まってきていた。私たちがいつまでも居座るのは申し訳ない。

 でも。

 彼ともうすこし、話したかった。だってまだ、なにも話していない。

 

 私は思い切って口に出す。

 

「よかったら、私の部屋に来ない?」

「あー、俺が行っていいのか?」

「どうせオハラ淡島の館内よ」

 

 彼がそりゃそうだけれどさ、とつぶやくので、私はくすりと笑う。

 私がさっさと席を立つと、彼はあわてた様子でついてきた。

 

 エレベータの中ではふたりとも無言だった。

 

 私の部屋は電子錠ではないので、私は鍵を取り出してドアを開けた。部屋はもう暗くて、私は壁のスイッチで明かりを(とも)した。彼を通す。

 

「どうぞ」

「どうも」

 

 彼はきょろきょろとあたりを見渡した。私はなにかいわれる前に話す。

 

「部屋の趣味については、ノーコメントでお願いするわ」

 

 彼はうなずいて、なにもいわないことにしたらしい。

 ゆっくりと窓のひとつへ近づく。

 

「さすがに眺めはいいな」

「ええ、ありがたいことにね」

 

 私は彼の隣に立った。肩が触れない、でもすこし手を動かせば届く、微妙な位置に。

 

 地平線の上にわずかに残る輝き。それとコントラストを見せる暗い海。

 私は先月のことを思い出す。

 東京、お台場の展示場でおこなわれたホテル業界の展示会に、オハラ淡島からふたりで参加したのだ。ブースを回って見学したり挨拶したりして、その帰り、「夜景の見えるレストラン」で食事をして――私はいい雰囲気だと思っていたのに、彼はあっさりと「帰るか」といったのだ。

 

「小原さんに謝らないとだな」

 

 彼は唐突にいった。ドキリとするけれど、まさか東京でのことではないだろう。

 

「辞めることについてなら、もう十分よ」

「いや、そうじゃなくて……いつだったか、小原さんを誘う、っていっただろ」

「そういえば、そうね」

 

 私はくすりと笑う。

 

「でも、東京の展示会にも行ったし、この前は沼津のケーキ屋にも行ったわ」

「どっちも、俺から誘った感じじゃないからな」

 

 彼は苦笑いする。たしかに前者は連絡会で出た話で、後者はふたりでチラシを見ていて思いついたのだ。

 

 でも、彼とこれっきりなんてことが、あっていいはずがない。

 

 私は自然に、次の言葉を口にしていた。

 

「別に、これからだって、私を誘う機会はあるんじゃない?」

 

 彼は私に向き直り、視線が交錯する。

 

「小原さんは、戻ってくるのか? 内浦に」

「ええ、もちろん、そのつもりよ。秦野さんは?」

「俺だって、戻ってくるさ。君がいるなら」

 

 彼は即答してから、さっと厳しい顔になる。

 

「すまん、今のは忘れてくれ」

 

 後悔するように首を振る彼。私の胸がずきりと痛む。

 

「どうして……どうしてそんなこと、いうの?」

 

 忘れるなんて、できないし、したくない。

 

「小原さんになにかいう資格なんか、俺にはないさ。なにしろ、ただの無職か、せいぜい学生だぜ」

「……秦野さんがそんなこと気にするの、意外だわ」

「そうはいっても、現実は厳しいってことさ」

 

 彼はぐるっと部屋を見渡し、もう一度、窓のほうを向いた。

 

 私は静かに話す。

 

「ねえ、秦野さん。秦野さんは、私がオハラ淡島の人間で、副支配人だから……親しくしてくれたの?」

 

 彼はぴくりと肩を震わせた。

 

「……それとも、スクールアイドルだから? 理事長だから?」

 

 私のいいたいことは伝わるに違いない。私は静かに待った。

 

 やがて彼はゆっくりと私へと顔を向けた。私が微笑むと、彼も表情を(やわ)らげる。

 

 ふうっと息を吐いてから、彼はやれやれといように首を振る。

 

「まったく、小原さんには(かな)わないな」

「私だって、秦野さんには勝てる気がしないわ」

「そうか? 俺はもうずいぶん前から、君のことを尊敬してるんだぜ」

 

 私たちはどちらからともなく、くすくすと笑った。

 彼はこほん、と咳払いして真剣な表情になる。私の胸がドキリと跳ねる。

 

「小原さん、俺は――」

「待って。もうオハラ淡島からいなくなるんでしょ、だから……」

 

 彼は微笑む。

 

「なんて呼べばいいんだ?」

「鞠莉でも、マリーでもいいわよ」

 

 私は動悸が伝わらないように、軽く、軽く話す。

 

「それじゃ、俺はケージとでも呼んでもらうかな」

「あら、素敵ね」

「いや、冗談だよ」

 

 彼が私を見つめる。彼の瞳の中に、私が映っている。

 

「鞠莉」

 

 私は想いをこめてうなずく。

 

「俺は、鞠莉のことが好きだ」

「ええ、知ってたわ」

 

 私の答えに、彼が微妙な顔をする。――あなたのことはよくわかってるんだから、仕方ないじゃない。私は続ける。

 

「私も、あなたが好き。啓司さん」

「うん、俺も知ってた」

 

 もう、と私は思う。でも、私が悪いんだ。

 

「好きよ、啓司さん。大好き」

「ああ、うん」

 

 彼は今度こそ微笑んだ。

 

「鞠莉、君が内浦に戻ってくるころ、きっと俺も戻ってくる。待っててくれ、なんていわない。ただそのとき、俺の誘いを受けてくれるかい?」

「ええ、もちろんよ」

「ありがとう」

 

 ようやくすべてが片づいた、とでもいうように屈託のない表情の彼に、私はいたずらっぽく笑いかける。

 

「もう一度、踊りましょうか?」

「うん。いや、()めておくよ。次までに練習しとく」

「わかったわ」

 

 今になって恥ずかしくなった私は、彼から視線を外して窓に近づく。

 

 彼が静かに隣に来て、私の肩を抱いた。私は彼の肩に頭をあずける。すこしずつ温かさが伝わり、それは私の心へと広がった。

 

 内浦の海をゆっくりと光が横切っていく。

 私たちはいつまでも、それを眺め続けた。

 








 最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。ご感想、ご評価などをいただけるとたいへん嬉しく思います。
 書き上げての所感については活動報告にて書かせていただきます。
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