あの時、一体私に何ができたのか。何を言えばよかったのか。どうすればよかったのか。どうして、
今になってもそんな思いが浮かんできてしまう私は、きっと嫌な奴なのだろう。凄く、器の小さい奴なのだろう。あの子と過ごした日々が、何もかもが虚像で嘘ばかりだったとは思わない。辛かった時間も、楽しかった時間も、確かにあった。
だからこそ、なのだろうか。歴史にifは無いなんていう使い古された言葉は、いつの時代にも有効な一種の格言だ。それでも、ふとした時に、ifを考えてしまう私がいる。私がどうにかしていれば、違った明日に出会えたのかもしれない。あの子が私達を――私を頼ってくれたなら、いや、そもそもあの子に出会わなければ。
「――逸見さん、眠いの?」
「え? ち、違うわよ。ちょっと考え事していただけ」
「逸見さん顔赤いよ」
「そんなこと……って当たり前でしょ、温泉に入ってるんだから」
頬を上気させて睨み付ける逸見エリカに、ナカジマは意地を張った妹をなだめるような笑顔で返してみせる。
「何だか、少しぼーっとしてたから。のぼせちゃった?」
「そういうわけじゃないけど……黒森峰の生徒が、この程度の温泉でのぼせたりなんかしないわ」
「何だそりゃ」
「何それ」
「よく分からないなあ」
立て続けに放たれたホシノ、ツチヤ、スズキによる疑問に対して、貴女達とは違うのよ、大洗の生徒なんかとは。などという答えになっていない返答でエリカは応じた。
「さっすが、名門黒森峰」
「……何か馬鹿にされてるような気がするわ」
「そんなことないよ?」
「うんうん」
――所用で西住まほと共に大洗に来ていた逸見エリカは、大学選抜戦以降、個人的な交流が生まれた大洗女子学園の自動車部もといレオポンさんチームと合流し、彼女達に誘われるままに学園艦にある温泉に来ていた。途中まで同席していたプラウダ高校戦車道隊長カチューシャは、隣にいるノンナの視線がどうにも怖いということで、既に自身の学園艦へと帰艦したようだった。
「黒森峰にも、こういう温泉ってあるの? やっぱり名門だからすっごいんだろうなあ」
鼻歌混じりのツチヤが、まだ納得できていないような顔つきのエリカに問いかけた。名門、という言葉をやんわり強調しつつ。
「ええ、こんなこじんまりしたものでなく、名門黒森峰に相応しい温泉があるわ」
先程とは打って変わって、満更でもないような、誇らしげな表情になったエリカを見て、自動車部の面々は気付かれないように笑った。馬鹿にしているのではなく、正真正銘エリカの態度が微笑ましく思えたからだ。
「そういえば、西住隊長もこの温泉よりは大きいって言ってたような」
ナカジマが何気なく口にした言葉には、エリカの揺れやすい心を惑わせるのに十分な効果を発揮したらしい。誇り高き黒森峰女学園の戦車道副隊長という立場も忘れたかのように、エリカは目に見えて表情を一変させてしまう。
「ちょ、ちょっとナカジマ。貴女、今なんて」
「だから、西住隊長が。私も一応車長だから、たまにこの温泉に入って色々話したりするんだよね」
「み、いえ副隊……いえ、その」
透き通るように白い肌をますます上気させて、エリカは意味もなく濡れた髪をかき上げる。水滴が散らばって、小さな波紋が広がった。それはまるで、今も定まらない彼女の想いのように。
「逸見さん、動揺し過ぎ」
「落ち着きなよ、逸見さん」
「そうそう、西住隊長のことが気になるのは分かるけどさ」
「気になってなんかない!」
声を荒げるエリカであったが、自動車部の面々は全員が何かを理解したような顔で、エリカの激情を受け流している。既に、こういったやり取りは少女たちの中で定番となりつつあることを、そしてエリカの言葉や態度自体にも、以前のような毒気や悪態が和らいでいることに、本人だけが気付いていないのだ。
「逸見さんは可愛いなあ」
長身をぐっと伸ばし、スズキがしみじみとそんな事を口にする。健康的な褐色の肌が、色白のエリカと並ぶことで、美しいコントラストを生み出した。
「何それ、ムカつくわね」
「だって逸見さんって凄い美少女じゃん。性格のキツさがまたいいよね」
「ホシノ、それは褒めてるわけ?」
「褒めてる」
ホシノが持つ迷いのないドライビング・テクニックのように、強い意志でもって断言されてしまい、エリカは沈黙を余儀なくされた。同時に、面と向かって容姿を褒められる気恥ずかしさを、温泉という環境が上手い具合に中和してくれたことに、エリカは密かに感謝していた。
「めっちゃ引き締まっているのに、出るところはそれなりに出ている……趣味がボクササイズってだけのことはあるよ」
「うんうん、私が男だったら、一緒にドライブに連れて行ってドリフトするね!」
「うわー、ツチヤさ、それはさすがに嫌われそう」
「あははは、確かに」
「……何なのよ、もう……」
呆れたようにため息をついて、エリカは立ち上がり、夕日と海がよく見える場所に腰を下ろした。しばらく、無言で見つめている。今は航海中というわけではないが、十分に美しい景色である。
「貴女達は」
短い沈黙の後、エリカは自動車部の4人には視線を移さずに、そう言った。
「大洗が廃校になると知って……どう思ったの?」
「どうって」
「だから、貴女達みたいな弱小校がよく諦めなかったなって」
「いやー、いちいち言葉がキツいね」
茶化さないで、とエリカは不満を口にする。返す刀で、ケチをつけないと喋れない逸見さんが悪い、とナカジマが笑う。
「それは悪かったわ。……とにかく、廃校になるって聞いてどう思ったの」
「んー、私らは戦車の整備は頼まれていたけど、後から戦車道に参加したからなあ」
「大学選抜戦の時は、流石に焦ったけどね」
「諦めなかったの? 絶望しなかったの?」
「いきなりどうしたの、逸見さん」
「……」
エリカの様子が少し違っている事に思い当たり、ナカジマは一呼吸置いて湯船から出て、エリカの隣に座った。
「殲滅戦だって聞いて……さすがにまずいなあとは思ったよ。レースもアクシデントなんて付き物だからね。いちいち動揺していたらキリがない。それでも、今回ばかりはって皆思っていたかもしれないね」
「戦車道大会で優勝したのだって、今になって思えば奇跡みたいなものだし」
「それは違う」
「え?」
言下に否定され、自動車部の4人全員がエリカに視線を向けた。
「戦車道にまぐれ無し。あるのは実力のみ――西住流はそう教えているわ」
「そっか。じゃあ奇跡っていうのは訂正する」
「と言っても……やっぱり大学生相手にあの数の差だからね。さすがに奇跡でも起きない事にはって気持ちもあるにはあったよ。だけど」
「だけど?」
「皆が、全員の絆を信じていたから。で、西住隊長を信じていたからね。この人といれば、きっと勝てる。そう思ってたよ」
ナカジマの言葉に、他の3人も力強く頷いた。それは、大洗女子戦車道メンバー全員の思いを代弁していると言っても過言ではないだろう。
「結果論かもしれないけど、逸見さん達が助けに来てくれたことも含めて、大洗女子の、西住隊長の歩んできた道が間違いじゃなかったことの証なんだと思う。西住流に言えば、それも私達の実力だってことなのかな」
「西住隊長は、ある程度の指示は出してくれるけど、大した経験があるわけでもない私達の裁量に任せてくれるから……不思議な人だよ。あの人の為にも勝とうって思える」
「……」
1年前まで自分と同じ戦車道チームの一員、いや副隊長という立場だった少女の客観的な評判を、エリカはどのような気持ちで聞いていたのか。際立った美貌が揺らめく横顔からは、窺い知ることはできなかった。
「いやー、うちらの西住隊長はほんとに凄いんだから!」
再び下りかけた沈黙に待ったをかけたのは、既に二、三回ほど温泉の端から端まで泳ぎ切った後のツチヤであった。
「はあ?
「
「あ、いえ、その……私達の……西住隊長の方が……」
「大胆なこと言うなあ」
そう言って無邪気に笑うツチヤに、エリカはうるさいうるさい、と子供のように反発する。
「まほ隊長、確かにカッコいいよね。同い年とは思えないくらい落ち着いてるし、クールだし、綺麗だし」
2人のやり取りを楽しそうに眺めていたホシノが、エリカに対して止めの一言を放った。
「ま、ま、まほ隊長って……ホシノ、ちょっといい加減に」
「うちの西住隊長と区別しないと分からないかなって。本人に言ってみていい?」
「絶対に駄目!!!」
――自動車部の4人と別れ、エリカは一人、自らが操縦する黒森峰女学園所有のヘリコプターのある場所へと向かっていた。
どうして、私は彼女達にあんなことを聞いたのだろう。自分の姿が見えなくなるまで手を振って見送ってくれた4人の少女達を思い返しながら、エリカはそんな事を考える。
自分たちの日常がもう戻ってこないなどということが、ほぼ確定しそうな悲しい明日が訪れようとしている現実に直面した時、どんな態度だったのか。どんな気持ちでいたのか。それを知りたかったから、なのかもしれない。
大洗の少女達は、自らの力で大切な日常を守った。未確定な明日へと繋いだ。それがとても羨ましい、とエリカは思う。自分には何もできなかった。敬愛する人に、優勝という栄光を捧げることもできなかったのだから。
それでも。絶対に戦車道を止めることはないだろう。それだけは、大いなる確信と共に、エリカを突き動かす原動力となっていた。次は負けない、そう決めた。彼女に、そう宣言したのだ。
エリカの心の中で、2人の少女が浮かんでは消えた。敬愛の対象と、複雑な想いの対象と。自分の中心に添えるべきものは、一体何なのか。エリカは、まだその答えを見つけることはできない。誰かに教えてもらうものではなく、自らが気付かなくてはいけないという事実を知った時に、少女は何を思うのだろうか。
「――あ、エリカさん」
「エリカ」
逸見エリカという少女の道に立つ、2つの影。いつか、自分で切り開いた素敵な明日を手に入れることができるのだろうか。その瞬間に、あの人は喜んでくれるだろうか。あの子を、心から受け入れることができるだろうか。
「少し遅かったな」
「はい、すみません隊長」
「レオポンさんチームの皆と一緒にいたんだよね?」
「……」
何故かとても嬉しそうな顔の西住みほに対して、何を言えばいいのか、どんな態度を取ればいいのか、エリカは今も迷ってしまう。
だから。この子が悪い、エリカはそう思う事にした。
「つ、次は負けないんだから」
「えー??」