神聖ローマより聖都イェルサレムまでに広がる、地中海を挟んだ大規模な平原。
長く長く轢かれた荷馬車の渡るあぜ道の周囲には、かつて鮮やかな色合いの草花が萌え、悠々と草を食む家畜の姿も所々に見られていた。
国と国とを繋ぐ公益路であり、友好と世界の豊かさの具現であったそこは、今はもう見る影もなく滅び去っている。
草花の全ては死に絶え、ひび割れた荒野と化している。すっかり炭化した地表の一部では、今も収まりきらない炎が、たき火のようにちらちらと揺れている。
まるで、炎が津波になって大地を飲み込んだかのよう。
あらゆるものが死に絶え、向こう千年までの命の可能性すら摘み取る、圧倒的な滅却。蹂躙。
それが、リチャード一世なる怪物の遠征の結果であった。
姿を見て生きた者はいない以上、それが果たしてどのような怪物なのか、一体何をすればこれほどに土地を殺せるのか、推し量る術はない。
しかし事実として、リチャード一世の進軍により、ヨーロッパの大半が死地と化していた。
生き残った民は、ほんの一握り。幸運にも災禍を免れた土地に身を寄せ、少ない食糧を分け合いながら細々と生き長らえていた。
聖都に居る巨悪に怯え、草も生えない土地を嘆き、けれどどこかに逃げる程の力を持たない、死にゆく民。
抗う術さえ失った彼等は、今日もかんかんと照る太陽の下に這い出し、骨ばった両手を重ねて、祈りを捧げていた。
「ああ、神よ……恵みの雨を降らせてください。この焼け朽ちた土地を潤してください」
雨はもう三週間も降っていない。リチャード一世は、空の雲さえ焼き尽くしてしまったのだろうか。乾いた風には、灰の味が混じっている。
先日、男の子が熱にやられて死んだ。その先日には彼の母親が干涸らびて死んだ。そうやって一人、一人、耐えきれずに死んでいく。
死体を埋葬する最後の理性さえ、そろそろ食欲に負けそうだ。
その想像が、途方もなく恐ろしい。
「神様……どうか我等をお救いください……どうか……」
ふるふると手を合わせ祈る。
その足下の礫が、カタカタと小さく震えだした。
振動に気づき顔を上げれば、視界に広がる荒野の一点に、徐々に近づいてくる影が一つ。
それは陽炎にぼやけながら徐々に姿を大きくしていくと、やがて沢山の馬の群れになって、小さな村に雪崩れ込んできた。
その行軍の先頭に立つのは、煌びやかな鎧に身を包んだ少女騎士であった。
彼女は小麦のような黄金色の髪を揺らして、それ以上に眩しく晴れやかに、両手を広げて笑う。
「お喜びください! 我等がアーサー王が、この地に救いの手を差し伸べてくださいましたよ!」
そうしてガレスは、村の住人全てに届くように、鈴のように美しい声を張った。
突然現れた天真爛漫な少女騎士は、死を眼前にした村人達にとって、比喩でなく救いの女神のように映った頃だろう。
彼等がほうと感嘆の吐息を漏らすうちに、ガレスの後ろに控えていた騎士達が、幌馬車から沢山の積み荷を担ぎ出す。
「十字軍の非業に遭われた貴方がたを、陛下は決して見捨てません! どうかその無辜なる命を、我々に救わせてください!」
ガレスの太陽のような笑顔と一緒に、村人の前に置かれたのは、山のような食糧と、なみなみと満ちた水瓶。
わっ――と、住民が殺到した。数週間ぶりに目の前に置かれた食事と水は、比喩ではなく命そのものだった。消えかけてい魂が、希望に強く繋ぎとめられる。
彼等は水で喉を潤しながら感謝に咽び泣いた。咽せるほど食糧をかっ込みながら、王への賛歌を高らかに歌い上げた。
死から生へと帰還した宴の中、ガレスは変わらぬ笑顔で、全員に告げる。
「これより我等がアーサー王は、かの怪物リチャード一世を討つべく動きます! ここに食糧と水を溜め、遠征の中継地とさせて頂きます。ご安心ください、皆様は馬車に乗せ、より安全な場所へとご案内いたします」
ガレスの演説に、またも喝采が響き渡る。
伝説のアーサー王が、諸悪の根元たる怪物を打ち倒してくれる。国の民でさえない自分たちを見捨てず護ってくれる。まさに神が使わした救いの手だった。
涙を流しながら喜ぶ村人達に向け、ガレスは舞台に立つ演者のように、幌馬車を指し示す。
「お腹を満たし、準備ができた方から中へ! これより皆様を――王が御座します城へとご案内いたします!」
まるで牧羊場の羊のように、村人が続々と幌馬車に乗り込んでいく。あるものは狂喜乱舞し、あるものはもう一度両手を合わせて祈りをささげ、あるものは笑顔で泣きながら、命を繋いだ我が子を抱き締める。
疑う事など、どうしてできようものか。
誰も知らない。その馬車が王の聖罰の間へと直行する事も、ほとんどの人にとって、先ほどの食事が最後の晩餐になる事も。
知っているのは、ガレス達だけだ。
「行ってらっしゃい! 皆様に、王の祝福があらんことを!」
知っていながら、ガレスは笑う。天真爛漫に頬を染め、処刑場を目指し走り去る馬車に手を振る。
その笑顔こそが、獅子王が与えたギフトであり、彼女が命じられた役割であった。
遠征の拠点を築く事。各地に王の誉れを流布し、民を集める事。リチャード一世を排し建立した聖都に、民が自ら望んで赴くように、情報を拡散させる事。ガレスの愛嬌と、無垢で正直な魂は、それを実行するのに最適だった。
彼女は沢山の食糧と民を運ぶ幌馬車を連れ、荒野を走り回った。
死を待つばかりだった村人に食糧を分け与え、幌馬車に乗せて城へと向かわせる。
一部の村には人を残した。沢山の食糧と水を持たせ、近隣の村も救うよう助言した。「王が聖都を建立するまでの辛抱です」と、笑顔で言いながら。
それはさながら宣教師のような行いだった。民を救い、王を讃えさせ、希望を植え付ける。
しかしてその実体は、死の商人に他ならない。
ガレスの命じたままに、民は王を讃えるだろう。他の村の民にも食糧を分け与え、王のお陰だと語るだろう。
そうして彼等は、いずれ聖都へ自ら赴くのだ。
救いを信じて。自ら聖罰を受けに。
「アーサー王は、民を決して見捨てません。必ずや聖都を、民のための豊穣と平穏の楽園にしてみせるでしょう!」
ガレスに与えられたギフトは『不浄』。
穢れ無き魂、穢れ無き笑顔を実現させる、聖杯の奇跡。
ガレスは笑顔で民の前に立ち、舞台のように大仰に声を張る。
「もう少しの辛抱です。悪しき十字軍は、必ずや我々円卓の騎士が打倒します!」
多くの民の目を輝かせ、救いの女神の如く振る舞う。
死の運命を、植え付け続ける。
「邪悪が去れば聖都へ! 陛下は遍く全ての民を受け入れます! アーサー王の総べる聖都で、平穏を取り戻しましょう!」
ガレスは笑う。
笑いながら荒野を駆ける。
死の種を振りまき続ける。
笑いながら。
穢れない笑顔で。
けれど。
けれど誰も、気付かなかった。
あるいは獅子王だけは、全てを見据えていたのかも知れない。
――ああ。
『もうこれ以上、穢れたくない』
そう言ってガレスは、『不浄』のギフトを授かった。
その願いの通り、ギフトは、彼女に輝かしい笑みを取り戻させた。
民に希望を与える愛嬌をもたらした。
しかし。
ガレスの願いは、本当に、言葉の通りに叶えられた。
――ああ、あ。
『不浄』のギフトは、ガレスの心をこれ以上汚す事はしなかった。
しかし。
しかし――。
――あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ
汚れた心を修復する力を、ギフトは一切有していなかった。
聖杯の能力は、逆にガレスの心を封じ込めた。壊れきった彼女の善性を、不要なものとして排除した。
穢れ無き笑顔を塗り固め、内側の絶望を覆い隠した。
それはさながら、血みどろの肉を詰めた、陶磁器の壷のよう。
美しく艶やかでありながら、中身は醜悪で壊れきったまま。
ガレスの心は、魂は、何も変わっていなかった。
殺したくない。壊したくない。民を手にかけたくない。
そんな善性が、一切取り除かれないまま『不浄』のギフトに閉じ込められた。
「王を讃えましょう! 我等がアーサー王の救いの手を喜びましょう!」
『不浄』のギフトは、王の使命を忠実に遂行する。
ガレスがどれだけ叫んでも、笑顔は皺の一つすら歪まない。
舌をかみ切りたいと願っても、口は詳らかに王を讃える言葉を紡ぐ。
民を死に向かわせ続ける。
――ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!
ガレスは笑顔の中で壊れ続けた。
あれだけ嫌だと言ったのに。
それだけはやめてと懇願したのに。
その心を残したまま。閉じ込められたまま。
抗う術さえ失って、ガレスは地を走る。笑顔で語る。
――ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!
一体何千人が、ガレスの声を聞くだろう。
ガレスがいなければ、何万人が殺されずに済むのだろう。
私を止めてくれと願う。
今すぐ逃げてくれと願う。
何なら今ここで殺してくれと願う。
その穢れを、『不浄』のギフトは許さない。
ガレスは笑う。笑い続ける。
心を壊しながら。
不浄の牢獄の中で、腐り果てていく。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
たすけて
それはまさしく、罰だった。
自分の愚かさがもたらした災禍だった。
あの時、自分の正義を貫けていれば。ガヘリスと共に槍を手にしていれば。
獅子王を止める事はできずとも、せめて正しき騎士のままで在れたのに。
まっすぐな心で、王に、ガウェインお兄様に、正義を問いただす事ができたのに。
今ではもう、涙すら流せない。
獅子王にとって、ガレスの心は穢らわしいから。
絶望し腐りきった魂は、見るだけ邪魔なものだから。
きれいな自分が、きたない本当の自分を閉じ込める。
どこにも逃げられない。
何もできない。
謝りながら、発狂しながら、笑顔で死を振りまき続ける。
アグラヴェインからは、あの日の拷問の事を詫びられた。笑って許した。自らの罪で壊れた心には、何の癒しにもならなかった。
トリスタンはガレスを見て、どこか満足げに琴を鳴らした。同じ穴の狢となったことを、歓迎するようだった。
ある日モードレッドに殴られた。「気持ち悪い奴だ」と言われて。欠けた歯を見せて笑ったら、顔をしかめて背を向けられた。以来殴られもしないし、目も向けられない。
最も多く声をかけてくれたのはランスロットだった。何か世間話を振られる度に、ガレスは殊更元気に応じた。ランスロットはそれに微笑みを返す。全てを分かった笑みだった。どうにもならない事を思い知らされるような、寂しい笑みだった。
ガウェインには、一度も会っていない。幾ら聖杯のギフトがあれど、もし兄の微笑みをもう一度見れば、喉を掻き切らない自信がなかった。合わせる顔が無いと、向こうも思っているのだろう。彼とはすれ違う事さえ無い。
それぞれが獅子王の命を受け、馬を駆け、剣を振るう。
日に何百人と死に、「やがて聖都に」という謳い文句で、何百という死の種を蒔く。
人類を護るべく、己の非業な役割を果たす。
絶望に暮れた時が、流れていく。