星見が丘 作:茎わかめ
恐らくは、出会うより以前から。俺は彼女に惹かれていたのだろう。
あの歌を聞いた時から。あの唄を感じた時から。あの
だが自覚してからどうにかなるものでもない。探して、求めて、そうして漸く見つかった彼女へのその感情の落とし所は、最初から決まっていた。
星に手を伸ばしたとして、きっと届くことはないだろう。だから見上げる輝きにそれを委ねて、明滅して次第にひっそりと消える日を待っている。
でもあの日。
綺羅星に掲げた手を下ろして。そして──
「星、すっごく綺麗だねっ!」
──俺はもう一度、君に出逢った。
*
目の前の現実を見る。
それは
別に、現状に不平不満を溜め込んで爆発寸前だ、とまで叫ぶ気は秀星にはない。
友人はいる。家族も皆健在だ。勉学、運動ともに能力は人並み程度。
幸いなことに、秀星には悲劇的な背景が人生に張り付いている訳でもないし、逆に不幸なことに未知なるチカラだとか才能が右手やら何やらに宿っている訳でもなかった。
兎に角外的にも内的にも平凡に──その尺度がそれぞれで揺らぎがあることは承知の上でそう思っている──過ごし続けてきた秀星の中には、必要以上に現実という二文字が重々しく伸し掛かっている。しかしそれが榊秀星の生き方だったし、言わば指針でもあった。
朝、いつも通りに目を覚まし。顔を洗い、着慣れて少しくたびれ始めた制服に着替え。出張が多い父と部屋に篭りがちな兄を除いて母が作った朝食を食べつつ二言三言の遣り取りをして。SNSや動画投稿サイトをダラダラと眺めてから家を出る。
「行ってくる」
「秀星。この前の模試の結果、今日返ってくるのよね?」
「あーうん、そうだけど」
「アンタこの前もE判定だったでしょ? ホントしっかりしてよね、ウチは二人も浪人させられるお金なんてないんだから」
「分かってるよ。……晩飯、外で食ってくるから」
出る直前に引き止めて母に言われた小言が喉奥につっかえて、秀星は小さく息を吐いた。返事を待たず、玄関からのそのそと出る。
春らしい気候だった。素知らぬ風に青く霞む空と温かく注ぐ陽光が恨めしい、などと見当違いなやっかみが湧いて出て、振り払いながら駅へ向かう。
大都市東京と言えども、住宅街はどこも同じだ。灰色のアスファルトに、黄色がかった朝の日差しが差し込んで照らす。似たような形の家屋が立ち並んで光を一面に浴びる、特に何がある訳でもないような……坦々とした街並み。
将軍のお膝元なんて言葉があるけど、結局は膝下に群がる群衆が大多数な癖に群衆たる俺たちは名前も残らないんだろうな、と秀星は内心で頷いていた。
昔は将軍にだって、何にだってなれる気がしていたのに。
都電の早稲田停留場までの道で、一般住宅よりも幾分か背の高い雑居ビルや高層マンションが伸びかけの雑草のような中途半端さで灰色の地面から生えている大通りに差しかかる。
ICカードを乗車リーダーにタッチして乗り込むと、もうドッと疲れが出てきたが、席は既に埋まっている。仕方なく吊革を握って窓から見上げた空は、次第にひしめき合うビル群に切り取られて狭くなっていく。
もう少し広くはなかっただろうか。そんなことをぼんやりと秀星は考える。
もっと子供の頃、見える景色は広くなかったか。
世界一の舞台を駆けるスポーツ選手に、ロックでクールなミュージシャンに、なんでも買える大金持ちに。そんな未来が疑いなく見えていた古き良き時代は、いつの間にか通り過ぎてしまっていた。
最近毎日毎日飽きずにそんなことを考えながら、秀星は開いたドアから吐き出されるように降車するのだった。
「おかーさん、仮面ライダーのベルト買ってよー!」
「そうねえ、今日もいい子にお母さんのこと待ってたら買ってあげるね」
「やったあ! 今度ね、学校のみんなでライダーになるんだ! へんしーん!」
横断歩道を歩く時にそんな親子の会話が聞こえて、最後に仮面ライダーなんて観たのはいつだったかと思い返す。
最後に何になれるかなんて考えたのは、いつだったかと回想する。
「よっす、秀!」
「おー、田中か。おはよ」
無為な追憶も束の間、横断歩道を渡り終えるとこの近辺に住んでいるクラスメイトと出くわした。
特に示し合せることなく、横並びで歩き始める。秀星はこんな感じで考え事をしながら歩いている時に人と歩くのは好きではなかったが、仕方なく流れに従う。新しく始まったばかりの高校最後のクラスで孤立はしたくない。
「秀さ、もう書いたか? 進路希望調査の紙」
「いや、まだ。田中はどうよ?」
「俺もまだ。大体おかしいよな、ウチの高校。進路指導つったって模試の結果だけで何処がいいかなんて勝手に決めて、押し付けてるだけじゃねえか」
「まあね。結局数字が欲しいだけだろ、『我が校は都内でも有数の進学校ですから』ってね」
田中は「めっちゃ似てんな、教頭の真似!」とウケてくれたようだ。実際笑えない話だとも思うが、秀星は是正する気にもなれない。
目下憂慮する問題は、今もクリアファイルに挟まっているその紙だった。
進路希望調査、と題されたA4のプリントは、こんな薄っぺらに似合わないくらいに文字だけがやけに重々しい。田中の言うような愚痴も、自分が考えるような逡巡も、ガキの甘えに過ぎないのだろうか……。
笑う田中の横で吐いた溜息が、歩道の横すれすれを通っていったバスの排気ガスに混じって消えていった。
「……そう言えば、田中は仮面ライダーっていつまで観てた?」
「あ? 何だよ急に……。えーと……あー、アレだな。カードから出てきた敵を封印するヤツ」
聞き覚えのある設定だな、なんて思いつつ、適当な会話に言葉を滑り込ませて、いつも通りの通学路を歩く。
ふと見上げた空は、やはり秀星には狭く写った。
*
「進路希望の紙、提出期限は来週の月曜までだからな。この前の模試の結果も返ってきたし、それを踏まえてしっかり考えろよ」
そう言った担任が出ていくと、放課後の教室はにわかにざわめきだす。
半数以上は今から向かう予備校の課題について、何処其処が難しいだのと参考書を突き合わせていた。
「なーんか皆受験モードって感じだよな」
「他人事みたいに言うのな」
クラスメイトを眺めながら溢す田中に、秀星は教科書をリュックに詰めながら言う。言ったセリフの割に、秀星にも勉強する気はなかったが。
「俺にはコレがあるからな」
ポン、と肩から提げたエナメルバッグを叩いて田中は笑う。彼はバスケ部に所属している。もう引退も近づいてきている身としては、そっちを優先したいらしい。
「総体まで二ヶ月切ってるし。少なくとも、今は勉強してる場合じゃねーよ」
「あー、バスケか。そっちも大変そうだけど」
スポーツ推薦は狙わないのか、と一度聞いたことがある。「そこまでガチでじゃないんだよ」と笑い飛ばしていたが、結局のところはどうなのだろうか。
「てか、お前も大変そうだなんて人のこと言えないだろ、元優等生の榊クン?」
「ヤな言い方するなぁ、お前」
秀星は思わず渋面を作る。まあ頑張れよと笑いながら去っていった田中を恨めしげに睨んで、手元の紙に視線を落とす。
河内塾全国一斉模擬試験、個人成績表。
E──受験生にとって最も忌まわしいアルファベットが、判定の欄にしっかりと刻まれていた。
昇降口を出て、暗鬱な気色を引っさげながら塾へと向かう。塾は学校から江戸川駅方面へと数駅の場所にあるので、いつも通りの時間に乗れば余裕で間に合う時間だった。
電車が来るのを待つ。手持ち無沙汰になった秀星は、いつもと同じように単語帳を取り出す。ただ目の前の文字列を飲み込むことなく、ぼんやりと周囲の物音を聞いていた。
さくらトラムの線路に揺れる電車の走行音、行き交う人の話し声、足音、音響式信号から鳴る『通りゃんせ』のメロディ……。
数々の音がひしめいては消えていく。
でも次の瞬間。その合間を縫うように、ふと聞こえてきた歌は──
〜♪
──それだけがこの世に存在するかのように、秀星の耳にしっかりと響くのだ。
来た。“あの子”だ。
単語帳から完全に意識を手放し、聞こえる歌声に耳を傾ける。
楽しそうに弾むメロディがスッと入り込んできて、自然と秀星の方まで楽しい気分になる。鼻歌ではあるけれど、不思議と情景が浮かんでくるような、心が浮き足立つような。
この唐突でささやかなライブの主催者を、秀星はいつもチラリと横目で盗み見ていた。
秀星とは反対側の乗降場に立っている少女。あの制服は、花咲川女子学園のものだろう。
肩口まで伸びた鳶色の綺麗な髪の毛が風に靡く。耳みたいな特徴的な髪型も印象的だが、とびっきりの美少女だということも、秀星の目を引く要因だった。
紫水晶のような綺麗に澄んだ瞳、すっと通る鼻梁、整った顔立ち。快活さを与える表情で、彼女はいつも歌っている。
秀星が彼女を初めて見たのは、高校一年の春だった。
駅で今と同じように電車を待っていると聞こえてきた歌。毎日聞いている訳ではない。別に行動がぴったり合うなんてこともないから、聞けて週に二、三日だ。
それでも秀星にとって彼女の歌は、今まで聞いたこともないような刺激が詰まったモノばかりだった。
晴れの日には輝る日の眩さを楽しく、雨の日には水の滴るリズムを淑やかに。実際のところ秀星には彼女の本心は覗けなくとも、勝手にそんなものを感じ取っては聞き入っていたのだ。
その度に彼女を見ては見惚れている。
その容姿には勿論、でも何よりも伸び伸びと歌うその姿が、どうしようもなく眩しいのだと思っている。焦がれる程の憧憬を抱いているのだと思う。
それに、そんな彼女の姿を、俺はもっと前にも見たような──
でも声をかけることなんて秀星はしなかった。気味悪がられるのがオチだろうし、それに話しかけてどうこうしようなんて、俺は別に……などと誰にする訳でもない言い訳を並び立てて、再び耳を澄ます。
そこから数十秒して歌が終わった。
またチラリと彼女を見る。いつも歌い終えるとどこか満足げな表情を浮かべていて、見ていると楽しいのだ。
ただそんなにじっくりと見る訳にもいかず、少しすると彼女側の乗降場に電車が来ると彼女はそれに乗って去っていった。
後ろ髪を引かれるような気色を感じて、走っていく電車を見送り、秀星は視線を正面に戻す。
入れ替わるように行き先への電車がやって来る。乗り込んだオンボロな車体は、なりかけの夜に溶けるように、のっそりと移動するのだった。
*
授業が終わる頃になると、もう辺りはすっかり暗くなっていた。
頭に霧がかかるような倦怠感を感じて、秀星はふらふらとしながら、まるで夢遊病者のように覚束ない足取りだと大袈裟に認知しながら帰路に就いた。
駅に向かう道すがら今日やった授業の内容を整理しようと数時間前まで遡ると、そこはあまり覚えていないのに、どうしてもあの子の顔が脳裏に浮かぶ。
あの眩い笑顔が、歌が、今日はやけに頭から離れてくれない。
……こんなことを考えている場合か? 俺は。
今日の授業だって碌に頭に入っていない。ただ焦って、板書を写しただけの不恰好なページがノートに増えただけだった。
何の為に何をしているのかも分からないで、解るわけがない。茫漠とした秀星の思考でもそれだけはハッキリと分かる。現実逃避をしていても変わらないだろう、そう自身を一喝して秀星は頭の中の女の子を振り払う。
歩きながら空を見上げた。都心の薄汚れた空気に遮られると、星は見えなくなるらしい。真っ黒な夜空には、高層ビルの赤色灯だけが光っていた。
──昔は、もっと綺麗に見えていなかったか。
朝に感じた窮屈さがここにきてぶり返したらしい。こりゃ重症だと空を仰ぎ見ていると、霞んだ夜空に一粒の砂金のような小さな輝きが見えて。
ふと、ずっと行っていなかった“ある場所”を思い出した。
星を見に行くために登っていた丘があった。
自分だけの秘密基地のような、そこに登って世界を──星空を見渡せば、いつでも自由に、何にだってなれる。そんな小高い丘があった。
どうせ家にいても息苦しいだけだと、秀星は久々にその丘へと足を運んでみることにした。
電車を乗り継ぎ、揺られること数十分。
着の身着のままで来るには遠すぎたかと、思いつきで行動したことを少し悔やんだ。
麓から登り終えると、まだ肌寒い春の夜風が秀星の頬を撫でる。
「……」
この一帯はなだらかな丘陵地だ。観光スポットとして整備されている区画もあるが、秀星の知っているここは人の訪れるような場所ではない。
もう一度、宙を見上げる。何物にも遮られない、満天の星空が広がっている。
秀星だけが知っている、秘密の場所。
「綺麗だなぁ……」
思わず、といった様子で呟く。
見上げた光景に今だけは全て忘れてしまおうと割り切ると、秀星は星ごと吸い込むような勢いで深呼吸をした。
こうしていると昔に戻ったような気持ちになれる。
星空を眺めて、その光にとてつもないパワーを感じていた。何か、こう……力強いビートのような。
アレを俺は、いや、誰かに聞いたんだったか……。
そう。確か、それは。
星の鼓動──
「星、すっごく綺麗だねっ!」
「……えっ」
横からの声に、唐突に意識が引き戻される。
そして心臓を鷲掴みにされたような衝撃が秀星を襲った。
いきなり話しかけられたというのもあるし、それに何より。
いつも聞いていた、あの声だったから。
振り返った秀星の視界に映ったのは。
駅で歌っていた、あの女の子だった。
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