空飛ぶ にわとり -The Flying Chicken- 作:甘味RX
頬に添えられていた手が離れ、柔らかな音素の光が消える。
「終わりましたわ」
寝台に座る自分と向かい合うように簡素な椅子に腰を下ろしているナタリアが、そう言って引き戻した手を膝の上で上品にそろえた。
殴られたときに自分の歯で切れた口内は、先ほどまで息を吸う度つねられるような痛みを主張していたが、さっと舌でそこをなぞるとすっかり元通りになっているのが分かった。
鏡がないので分からないが、もう熱を感じない頬も、きっと何も無かったかのように滑らかな表面を取り戻しているのだろうと思うと、じくりと胸が痛む。
怪我が治るのを憂鬱に思うなんて、初めてだった。
もちろん治してくれた彼女を否定するわけじゃない。自分のために力を割いてくれたことを心の底からありがたいと……申し訳ないと思う。
嫌なのは、自分に与えられる痛みが無くなったことだ。
(大佐も、こんな感じなのかな)
並べるには規模が違いすぎると分かりながらも、そんなことを思う。
あのひとは罪を許されることを望んでいない。
むしろ責められて然るべきなのだと認識している静かな赤は、俺がずっと見てきたもの。
許されたくない。自らがおかした罪を忘れたくない。
だから目に見える、あるいは感じる形での枷を残したいのだ。
たとえば殴られた頬の熱さような、分かりやすい“痛み”を。
そこまで考えて目を眇めたところで、ふと先ほどからこの空間が静寂を維持していることに気付いた。
どちらかといえばルークと似て、気になったことには直球勝負、な彼女が静寂を保つ意味に。
ルークと向かい合っていた時の激情が嘘のように、焦る内心からじわじわと汗が浮いてくる。
上目使いに窺いみたナタリアは、「納得いかない」という言葉がぴったり張り付くしかめっ面のまま、しかし無言だった。ああ余計怖い。
「……なにも、聞かないの?」
そんな時間に真っ先に耐えかねた俺が訊ねると、なんとか平行を保っていた眉が勢いよくつり上がったのを見て、ひ、と小さく悲鳴を零す。
「色々聞きたいに決まっています!!」
「ごめんなさい!」
「敬語っ!」
「ごめん!」
詰め寄るような怒声に思わず寝台の上へ後ずさりながら、頭の中で平謝りするための言葉と行動の準備をしたが、その声はすぐに止まった。
当然続くものと思っていた叱責が突如止んで呆気に取られる俺に、不服そうな顔でじとりとした視線を返すナタリアには、王族らしい雰囲気はない。
「殿方同士の喧嘩に女性は口をはさむべきではないと昔ばあやに教えられました。まあそれも時と場合ですけれど、今回は何も言わない事にしましたの」
丁寧な口調は彼女がまごうかたなく“王女様”だということを伝えてくるけど、そう言って小さく微笑んだナタリアは“女の子”だった。
「だってリックがルークと喧嘩だなんて、よほど譲れないことがあったのでしょう?」
どうしたのかと心配して、まったく仕方がないと呆れて、だけどいつか元に戻ることを疑わない。
仲違いの行方を見守るひとりの、普通の女の子がそこにいる。
だけど俺はその笑顔に言葉を返せず俯いた。
違うんだ、ナタリア。そんな大層なものじゃない。
俺の一方的な、それもセフィロトがあったら入りたいほどバカで勝手な理由なんだ。
「……あ、ナタリア、その」
「ルークは上ですわよ。治療はティアが行きました。ただ部屋ではアニスが眠っていますから、庭園のほうにいるみたいですけれど」
濁した先を瞬時に読み取ったらしいナタリアが淡々と音を紡ぐのに「そ、そっか」と曖昧な相槌を返す。なんだかこの旅で皆だんだんと大佐に似てきたんじゃないだろうか。
ナタリアまで本格的に心が読めるようになったらどうしよう、と結構真剣に危惧していると、この位置からは見えない部屋の扉がノックされた音が聞こえた。
はい、と透る声で返事をしたナタリアが椅子から立ち上がる。
棚の向こうに消えた背中をぼんやりと眺めた。
誰が来たんだろう。まさかさっきの今でルークでは無いはずだ。
ここはテオドーロさんの私室らしいので、もしかしたら本当の家主が戻ってきたのかもしれない。
預言会議その他もろもろについて話しに行くはずだったのに、自分のせいで予定がくるってしまっただろうから。
つらつらと考え込んでいると、扉が閉まった音がして顔を上げた。
「ナタリア? 今の誰だっ……」
続けるはずだった音が自分でも予期せぬところで途切れる。
席を立った時と同じように、金色の髪と深緑の瞳が戻ってくるものと信じ込んでいた俺の視界には今、
金茶の長髪と真っ赤な目と、対比で目が痛くなるような真っ青な軍服が映っていた。
ついでに言えば俺の顔色もたぶん真っ青だ。
「――――――っ!!?」
がたがたん、と盛大な音を立てて寝台の上まで後ずさる。
乱れたシーツを気にすることも出来ないまま、背中が壁に当たったことで必然的に下がる動きは止まったが、鼓動と動揺は右肩上がりで高まりっぱなしだった。
零れ落ちんばかりに目を見開いて、魚のように口をはくはくとさせる俺を見下ろした大佐は、ゆっくりと、さっきまでナタリアが座っていた椅子に腰を下ろす。
一言も発することなく静かに俺を見据えた赤に、上がったばかりの色んなものが急降下していくのを感じたが、ただ心臓だけは相変わらず跳ねあがっていた。
体温さえ冷えていくような感覚を覚えながら、壁に押し付けた背をはがし、ぎこちない動作で体勢を整える。
結局寝台のど真ん中で正座をする形になったものの、ここから何をどうすればいいのかは全く分からない。
顔を俯けたまま、膝の上でグッと握った拳はすでに冷や汗でびっしょりだった。
「ナ、ナタリア、は」
「アニスの様子を見に行きました」
いつもは聞いていて清々しいと感じる淀みのない明瞭な受け答えが、今はやけに心臓に痛い。
相槌すら返すことが出来ず黙り込んだ俺の視界は、皺の寄ったシーツを一面に映しているのに、俯いた自分の頭頂部には今あの赤色が向けられているのだろうということが何故かよく分かった。
経った時間は数秒か、数十秒か。
聞こえてきた息をつく音に俺はぴくりと肩を揺らす。
溜息と呼ぶには険の無い、それ。
「言葉にしなければ、何も伝わりませんよ」
静かな、むしろ優しげと言っていいほど柔らかな響きを耳にして、俺は目の前のシーツのようにくしゃりと顔を歪めた。
それに、はい、と喉の奥から無理やり しぼりだした掠れた声で頷いてみせると、僅かな沈黙の中に、体勢を立て直したのか軍服の布が擦れる音がする。
「……とはいえ、それを言う私が手を出しては本末転倒ですね」
何のことかと一瞬 真剣に悩んで、すぐにそれが指しているものに気付いた。
もう痕も、痛みさえ残っていない。ルークに殴られたのとは逆側の頬。
細く吐かれた息は、今度こそ溜息と呼んでいいものだろう。
どこか自嘲するような色に目を丸くしたのも束の間。
「すみませんでした」
言い訳を潔しとしない彼らしい淡々とした謝罪だ、なんて悠長なことを考えている暇もなかった。
もし木造りのおもちゃだったら首が後ろに取れそうなほど勢いよく顔を上げ、ころりんと落ちそうなほど目を見開いて、ぱっかりと口を開けたまま凝視する。
思ったより近くにあった赤の瞳が、やっと顔を上げたなと言わんばかりに緩く細められたのにも気付かずに、寝台の端に両手をおいて身を乗り出した。
「な、なんですかソレ! なんっ、そんなの、違います!! だって悪いのはオレで……オレは」
大慌てで言い募りながら見返した赤は真っ直ぐに俺を捉えていた。
尻すぼみに消えていった音の端が、自分に戻ってくる。
悪いのは、俺。
そんなときにはどんな言葉を言えばいいのか。
俺はそれをあの水の都で、あの青の瞳と、目の前の赤に、教えてもらったはずだ。
少し上目遣いに様子をうかがってから、また視線を下げる。
「――すみません、ジェイドさん」
ぽつりと空気を揺らした声は、自分でも嫌になるくらい沈んだ音をしていた。
そんなに落ち込むならあんなことしなければ良かったのに、と責める理性も完全なる後の祭りだ。
「言う相手が違うでしょう」
「……ごめんなさい」
だけど俺が繰り返したのは、あくまで大佐への謝罪だった。
分かっている。自分は誰に謝らなくてはいけないのか。
頭では確かに分かっているし、当然あのときの自分が正しかったとは思っていない。
けれど。
ルークにぶつけたあのくすんだ感情も、決して嘘ではなかったから。
それきり黙りこんでしまっていると、椅子が僅かに軋むのが聞こえた。
身をひるがえす空気の揺れと、離れていく軍靴の足音。すぐにでも顔を上げたい気持ちを押し込めて、ただ、また拳を握り締める。
部屋の扉が痛いほど静かに閉じたのを聞いたところで、震える息をゆっくりと吐き出した。
少しだけ上げた視界に入った椅子には、もう誰の姿も無い。
脱力した体を壁に預ける。
呆れられてしまったんだろうか。
あたり前だと思った。
こんな大変な時に、こんな子供じみた嫉妬でみんなの時間を潰している自分には、俺も呆れかえるしかない。
急いで立ち上がって大佐を追いかけて、早くテオドーロさんのところへ行かなくてはと思う気持ちはあるが、どうにも動く気になれず、ぼんやりと虚空を眺める。
そうして数十分が経ったときの事だった。
再び扉が開く音に、緩々と視線を動かす。
本棚に囲まれた場所にあるこの寝台から、入ってきた人間を一番最初に視認出来る位置へ。
ナタリアが心配して来てくれたのかと考えかけた頭に飛び込んできたのは、金茶と、赤と、青。
まるで数十分前の光景をやり直したかのような状況の中に、ただひとつ、異なる点があった。
颯爽と歩いてきた大佐が先ほどと同じ椅子に腰を下ろす。
すると同時に少しだけこちらに差し出されたそれに、俺は大きく何回も目を瞬かせた。
真っ白なクリームの上に、ちょこんと乗った真っ赤な果物。
適当な器が無かったのかスープ皿のようなものに、それでも綺麗に盛り付けられたそれは、まさしく。
「これ、まさか……大佐が?」
「他に誰がいるんです」
当たり前だとばかりの真顔で差し出されたままのクリームパフェ。
呆気にとられて固まる俺を、大佐はその赤い目でゆっくりと覗きこんだ。
「“食べないなら”」
ゆるりと持ちあがった口の端に目を奪われる。
それは微笑と苦笑の中間のような、彼にはひどくめずらしい、柔らかな顔。
「――――“捨てますよ”?」
『……食べないなら捨てますよ』
偶然の一致なんかじゃない。
明確な意図を持って発せられたその言葉に、小さく息をのんだ。
ずっと昔。
幼馴染に囃された彼が不服そうな顔をしながらも作ってくれたのは、今目の前にあるのと同じもの。
だけど今、それを自分にくれた時と同じ言葉を告げた彼の表情は あの時とまるで違って、でも、同じだった。
(覚えて、いてくれた)
彼にとってはもう何年も前の、取るに足らない記憶であったはずなのに。
何も言えずに ぼけっと眺めていた皿が眼前でふらりと揺れたのを見て、俺は慌てて皿を手に取った。
このまま何もせずにいたら本当に捨てかねないと考えてのとっさの行動だったが、大佐は小さく笑って、もう片方の手に持っていたスプーンを俺に手渡した。
反射的に受け取った銀色の食器を手に、寝台の上で皿と向かい合う。
そっと差し込んでみせれば、白いクリームと柔らかなスポンジはほとんど手ごたえもなく円の上に乗った。
ひとつ、口に運ぶ。
舌に甘い味がひろがった。
「――――…………」
赤い赤いイチゴの上に、ぱたりと雫が落ちる。
一粒落ちれば連鎖するように次々とそれは滴り落ちて行った。
口に半分スプーンをくわえたまま、深く俯いた。
するとひときわ零れ出した水をどうすることも出来ないまま、短く息を吸う。
「ジェイド、さん。ジェイドさん。オレ……ルーク、ルークに」
肺に流れ込んできた空気は甘く、
「……ルークに、あやまりたい、です……っ」
――幸せな、味がした。
気付けば、俯いたまましゃくり上げて泣く俺の頭を、何も言わずにただ髪の流れに沿って丁寧に撫でおろす掌の温かさに、涙は留まることなく落ち続ける。
生涯二度目となるジェイドさんのクリームパフェは、自分のせいで惜しくも少し、しょっぱかった。