空飛ぶ にわとり -The Flying Chicken- 作:甘味RX
「すみません! いま戻りました!」
「リックおーそーいー! ほらほら早く衣装着ないとぉ!」
本番直前に戻ってきたリックは、待ち構えていたアニス監修の下、大急ぎで死神博士っぽい服を着た魔界大使的な幹部の衣装に着替え始める。
しかしまがりなりにも軍人だからか、時間にはわりと正確で、迷子にならない限りはいつも早めに戻ってくるのに。
こんなにぎりぎりなのはめずらしいなと思いつつも、出ていった時よりすっきりした表情をしていることに内心ほっと息をつく。何か演技のとっかかりを掴んだのだろうか。
「リック」
衣装と同時進行で小道具だなんだを装着させられているリックに近寄って声を掛けると、あいつはぱっと表情を明るくしてこっちを向いた。
今まではこの反応が少し照れくさくも嬉しくあったのだが、こうなると無表情やらふくれっ面のほうがまだマシな気がした。
声掛けただけでそんなに喜ぶなっつーの、と半眼で小さく独りごちる。
「ルーク?」
「……や、何でもない。遅かったな」
「う、うん、ごめん。ルークも今から着替え?」
「あー、みんなギリギリに着替えようって事になったんだよ。どうせ着るっていうか被るだけだし」
あとアレを装着している時間を極力短くしたいしと遠い目で正直なところを付け加えると、リックは「カッコイイのになぁ」とちょっと残念そうに呟いて眉尻を下げた。本気でそう思っているらしいのが恐ろしいが、ま、とひとつ笑って俺は胸を張った。
「それでもこうなりゃ乗りかかった船っていうか、本番は全力でアビスレッドやるから心配すんなって」
せっかくお前も演技の事なんか吹っ切れたみたいだし、と軽く肩を叩いてみせる。
すると一瞬の間をおいて、リックの動きが不自然に止まった。
血の気の引いた顔から、だらだらと冷や汗が滴り始める。
それに釣られるように頬がひきつるのを感じながら、そろりと口を開いた。
「……演技、なんか、掴んだんじゃ」
だあっとリックの両目から涙が溢れる。
「ど、どどどどどどうしよう、ルーク」
わすれてた。
消え入るような声でそう零したリックの背後から、ハイあとこの杖持ってもらえれば死神博士っぽい服を着た地獄大使的な幹部さん完成でーす、という無情な最後通告がなされる。
悪役の格好をして禍々しい感じの杖を持たされたリックは、その杖に半ばすがりつくようにしながら救いを求める眼差しをこちらに向けてきた。
だが本番五分前の声が響く中、数多の苦難を二人三脚で乗り越えてきた劇団の役者仲間でも無し、付け焼刃の素人二名に起こせる奇跡があるわけない。
「ごめんリック、俺ちょっと着替えてくるから……」
「待って! 待って下さいお願い見捨てないでルーク!!」
じゃ、と手を上げてそのまま振り返らずに立ち去ろうとしたが、今度こそ本当にすがりついてきたリックががっちりと胴に巻きつく。どうでもいいけどお前すがりつきかたが本気すぎる。
だけどこればっかりは俺にはどうしてやる事も出来ないだろう。
なんて言ってこいつを引っぺがそうかと悩んでいると、ふいにその重さが消える。
気付けば俺の足元に、死神博士っぽい服を着た魔界大使的な幹部が転がっていた。
そしてすぐ傍にはいつのまに来ていたのかジェイドの姿。どうやら蹴り倒されたらしい。
忙しそうに駆け回りながらそれを見ていたアニスが、ぷくりと頬を膨らませる。
「大佐~! 小道具は壊さないでくださいよね! ほとんど教会の備品なんですからぁ」
「ハハハ、まさかそんなヘマはしませんよ」
小道具に配慮しつつ男ひとりを蹴り飛ばす方法を自分は知らなかったが、まあジェイドだからと思えば特に不思議はない気がした。
「まったく、いい加減腹をくくったらどうですか?」
「でも、ジェイドさぁん……」
打ち付けたらしい鼻を押さえながらリックが情けない声をあげると、ジェイドはひとつため息をついて、眼鏡を押し上げた。
「どうせアレを着込んでしまえばこちらの姿は見えないんですから、中に大嫌いな相手が入っているようなつもりでやればいいんですよ」
とはいえ命のかかった実際の戦闘ですら魔物相手に怯え倒している奴が、そんなちょっとした自己暗示くらいでどうにかなるわけもない。
少々投げやりに零されたジェイドの言葉に苦笑する間もなく、もう着替えなくちゃとアニスに名を呼ばれ、急いで身をひるがえす。
その傍らで、リックが何やら思案げに目を細めていたのには気付かずに。
――そして、そのジェイドの助言は、なんとも的確なものであったらしい。
「現れたなアビスマン。毎度毎度、忌々しいことだ」
目の前で無表情を少し歪め、今にも舌打ちしそうに目を眇めた死神博士っぽい服着た魔界大使的な幹部の姿に、俺は存外 着心地が良いアビスマンスーツの中、暑くもないのに汗が額を伝う感覚を覚えた。
ええと…………、誰あれ。
少し呆然としていると、ルーク台詞、と隣のティア扮するアビスブラックに小声で促され、はっと自分の役割を思い出す。
「……それは、こっちのセリフだ! 俺達が来たからには、お前の好きにはさせないぞ!」
大振りな動きで指を突きつけてポーズを決めれば、わっと子供たちからあがった歓声を、嬉しく受け止める。しかし目前の事態だけは今だ受け止めきれずにいる俺は、改めてリックを見やった。
演技として特別上手いわけではないのだが、練習中の様子を目の当たりにしていた人間からすれば、もはや奇跡と呼んでいい出来だ。
だが、何かもうその辺はどうでもよかった。あいつあんな顔すんの。
あれが、嫌いな相手が入ってるつもりでやれ、というジェイドの助言を受け止めた結果らしいのは明らかだが、先の大喧嘩の時にだってあんな、台詞通り心底忌々しげな顔は見せなかったというのに、いったい誰を想定してあの状態なのか。知りたいような知りたくないような。
ああ、無表情とかのほうがマシだってさっき思ったけど、半分だけ撤回することにした。
いくら声掛けただけで大喜びされるのが腹立たしいとはいっても、あの反応が返ってきたらさすがにちょっと泣ける。
「面白い。やれるものならやってみろ。今日こそ、私自らお前達の息の根を止めてくれるわ!」
そう思うとジェイドにウザいだ何だと突き放されてもとにかくめげずに(いや泣いてたりはするが)後を追い続けるリックの事を、今初めて真の意味ですごいと思った。
それを踏まえれば、今 目の前で悪役らしく顔を歪めている死神博士っぽい服着た地獄大使的な幹部が、苦労の中間管理職に見えなくもない。
しかし劇が終わってもあのままだったらどうしようかと取り留めのない不安を胸の内で転がしつつも、子供たちの前で人々を救うため、アビスレッドは力強く足を踏み出した。