東京行きの朝。
お互い早めに出発した方が良いという結論になった私達は、午前6時になるかどうかという時間に沼津駅で集合することになった。
「じゃあ行ってくるね、お母さん」
「ええ、行ってらっしゃい。沙希ちゃんによろしくね」
沙希、というのは私の友人のことだ。そこまで友人の多くない私にしては付き合いの長い友達なので、当然お母さんもよく知っている。
トートバッグを肩に掛けて駅に向かおうとする私に、お母さんはそれから、と付け加えた。
「ルビィちゃんの面倒、ちゃんと見るのよ? 先輩なんだから、しっかりね」
「もう、分かってるってば……そんなに信用ないの、私?」
今朝起きてからここに来るまでの間、「先輩なんだからしっかりね」はこれで5度目だ。正直、少し傷付く。
「信用ないって訳じゃないけど……あなた、変なところ抜けてるからねぇ。帰りはちゃんと新幹線を使うのよ? それから、新幹線だと三島駅は結構すぐだから乗り過ごさないようにーー」
「分かってます!! もう、遠足に行く子供じゃないんだから……」
いつまで経っても妙に過保護な母に痺れを切らし、会話を打ち切った。ダイヤさんを過保護と言ったけれど、うちの母親も大概だ。
「まぁ、良いわ。ちゃんと羽伸ばしてきなさいね」
「うん。行ってきます!」
バタン、と車のドアを閉めて、私は駅へと向かった。
程なくして、沼津駅前にある車輪を模したオブジェの前にルビィちゃんの姿が目に入る。
「ーー梨子ちゃん! おはよう!」
「おはよう、ルビィちゃん。随分早いのね?」
「うん! 楽しみで早起きしちゃった!」
まだ集合時間まで10分ほどある。余程楽しみだったみたいだ。
「ふふっ、えらいね。今日はポニーテールにしてるんだ、珍しいね?」
「うん! 折角の東京、しかもアキバ、そしてスイフェスだから、気合入れてみたんだぁ!」
いつもツーサイドアップにしている赤い髪は、頭の後ろで一つに括られていた。
ざっと頭から足先まで目線を走らせる。
大きめサイズで生地の丈夫そうなTシャツにロング丈の夏物スカート。歩きやすそうなスニーカーに、大きめのリュック。
ちゃんと彼女らしい可愛さを残しつつも、人混みの揉まれることや買い込んで荷物が増えることを想定したコーディネートだった。
「うん、いつもの髪型も可愛いけど、ポニーテールも似合ってるよ。Tシャツとスカートも夏らしくて素敵」
「えへへ……梨子ちゃんに褒められると嬉しいなぁ」
頰を緩ませて照れ臭そうにするルビィちゃん。妙に嬉しくなることを言うルビィちゃんの頭を反射的に撫でそうになって踏み留まる。流石に、なんの断りもなく頭を撫でる程の距離感ではまだないような気がする。
「私に褒められると嬉しい……? そういうものなの?」
「だって、東京のお洒落な女の子だよ!? すっごく嬉しいよ!」
キラキラと光る瞳が眩しい。ルビィちゃんの賞賛もまた、ダイヤさんとは違った真っ直ぐさがある。
「わ、私はそんなーー地味だし、お洒落とはーー」
「地味なんかじゃないもん! 大人っぽくてお洒落で……ルビィには真似できないなぁって、いつも羨ましく思ってるよ」
「なんか、そんなに褒められると照れちゃうね……っと、ここで話し込んでる内に電車乗り過ごしちゃいけないから、とりあえず朝ご飯買って電車乗ろうか」
照れ臭いから話題を逸らしたい気持ち半分、本当にうっかり乗り過ごしてしまう怖さ半分で私は駅へと足を向ける。お母さんの言う通り、私はたまにうっかりをやってしまう事があるから。
「うん! あ、えっと、梨子ちゃん!」
「?」
後ろからついて来るルビィちゃんの声に振り向くと、真面目な表情でこちらを見るルビィちゃんと目線が合う。
「今日は一日、よろしくお願いします!」
「うん。こちらこそ、よろしくお願いします!」
腰を折って深くお辞儀をするルビィちゃんに、こちらも同じく頭を下げる。
まだ少し涼しい夏の朝の風が、私達の間をふわりと通り抜けていった。
「じゃあ、16時にモニター前で集合ね。もし遅れそうだったら、お互い携帯で連絡しよう」
「うん! また後でね、梨子ちゃん!」
行きの電車はあっという間だった。
出発前まではどんな話をするべきか色々と考えていたけれど、考えてみれば同じ部活、同じグループで活動している仲だ。
他のメンバーに比べると話す機会が少ないというだけで、下手なクラスメイトよりもルビィちゃんと過ごしている時間の方が私にとっては長かった訳で。
ユニットの新曲の準備はどう、とか。
最初に東京へ行った時は大変だったよね、とか。
こないだの善子ちゃん、不幸を通り越して奇跡だったね、とか。
とにかく、一度切り口さえ見つかればどうとでも会話は続いた。
実は同じキャラクターのスタンプを持っていたりとか、お互いお菓子づくりが好きだったりとか、探せば共通点も随分あって。
一度別れるのが少し口惜しいくらいの気持ちだ。
清々しい気持ちで、私は友人との待ち合わせ場所に向かった。
「りーこー! こっちこっち!」
約束していたカフェできょろきょろ周囲を見回していると、聞き覚えのある快活な声がした。
明るい髪色の長髪に、少し日焼けした肌。夏になるとオフショルダーばかり着るのも変わらない。
社交的で快活な、私とは対照的な性格の友人がそこにはいた。
「沙希ちゃん、久しぶり! ごめんね、待たせちゃった?」
「ああ、平気平気! 早めに起きれちゃったからさ、ちょっとアメ横ふらふらしてたんだけどーー大したものなかったから、早めにこっち来てゲームしてた」
「そ、そうなんだ……相変わらず元気だね……」
相変わらずバイタリティに満ちた様子に気圧されつつ、隣の席に座る。
佐原沙希。中学校の頃から妙な縁があって今も交際が続いている、私の数少ない東京にいる友人の1人。
活発でいつも人の輪の中にいるようなタイプで、私とは全然タイプが違うようにみえるんだけどーーこれが意外にも、妙な所で馬が合う。
何度か話している内に、気付けば付き合いの長い友人になっていた。音ノ木坂学院の入学式で姿を見かけたときは大層驚いたものだ。
「え、こんぐらい普通じゃない? てかさ、そういう梨子もめっちゃ元気そうじゃん! いやー良かったよー、こっち出てくときの梨子ってば死人みたいなカオしてたからさー」
普段は冗談好きでお気楽な沙希ちゃんだけど、流石にスランプに陥った頃からの私に関しては相当心配してくれていたらしい。
当時の私は沈んで行く自分にいっぱいいっぱいでそこまで気にしていなかったけど、考えてみればあの頃私を腫れ物扱いせず普段通りに接してくれたのは彼女くらいなものだった。あれは多分、彼女なりの気遣いだったのだろう。
「死人って……まあ、酷い表情だったんだろうなっていうのは想像できるけど……」
注文した紅茶に口を付ける。馴染みのある香り。東京に住んでいた頃はよくここでお喋りしていたものだ。
「ほんっとにヤバかったよ? 静岡行くって言うし、まさか海に身投げでもするんじゃないかって割とマジで心配ーー」
「ごほっ!!」
ほんのりと昔を思い出していたら、恐らく冗談で放ったであろう一言によって忘れたい方の記憶が蘇る。思い切りむせてしまった。
「……え、飛び込んだの? マジ?」
「…………うん」
少しの間目をぱちくりさせていた沙希は、急に堰を切ったように笑い始める。
ほんっと梨子って面白いよねー、などとのたまいながら笑い涙を拭く友人に慌てて弁明をしたものの、寧ろより深い笑いのツボを突いてしまったらしい。
「音探す為に海に飛び込むとかさぁ、攻めの姿勢極めすぎでしょ!? もー天才だよあんたは……」
「いいのっ! 結局、そのお陰で仲のいい友達も出来たんだから!」
まあ、冷静に振り返ってみればそんな理由で4月の海に飛び込んだのはある種の奇行だと自分でも思う。
だから、私は開き直ることにした。結局、いま振り返ってみればあれが千歌ちゃんと、そしてAqoursとの出会いのきっかけだったのだから。
それを察してか、沙希ちゃんの目が一際輝く。ああ、そういえばこっちにくる前から何度もスクールアイドル活動に関する話を聞きたがっていたっけ。
「そうだAqours! Aqoursの話聞かせてよ! そもそも梨子がアイドルやるってどういう流れだったワケ? あとしょっちゅう船乗ってるらしいけどどういうこと? それから」
「はいはい、順番に話すから。えっと、海に飛び込んだ話は今したでしょ? その時に助けてくれた子がーー」
矢継ぎ早に質問を繰り出してくる彼女を一度止める。内浦に引っ越してから今日に至るまでの色々を、私は改めて思い出し、噛み砕きながら話し始めた。
「ーーなるほどねぇ。ドラマの1つや2つ作れちゃいそうなことがあったワケだ」
一通り私の話を聞いた沙希ちゃんは、しみじみとそう呟いた。
確かに、改めて振り返ってみると随分劇的な日々を送っていたように思う。以前のーーそれこそ、東京にいた頃の私には想像もつかないような出来事ばかり。
「うん。本当に、まるで別の世界に行ってしまったみたいな感じ」
「ーー行ったんだよ。別の世界に」
「え?」
窓の向こうの景色をぼんやりと眺めながら沙希ちゃんは言った。
癖だ。彼女が、何か真面目な話を始める時の癖。
つい、と鳶色の瞳が私を捉える。
「梨子はさ、梨子のことを曇らせるようなヤツのいない、新しい世界に飛び移れたんだよ。その証拠に、今の梨子はめっちゃいい顔してる! 死んでないし、楽しそう! やったじゃん、引越し大成功だよ!」
朗らかに笑いかけながらそう語る友人に、目頭が熱くなる。
自分の事情で塞ぎ込んで、暗い空気を放ったまま逃げるように東京を出た。そんな私を、彼女はずっと気にしてくれていたのだ。私が思っていたよりも、ずっと。
そんな友達がいて、こうしてわざわざ会おうと言ってくれた事実が嬉しかった。
「……うん。ありがとう」
「いやー安心した安心した! じゃあどっか遊びいこっかーーってごめん待って電話」
照れ臭いのか少々わざとらしく陽気に振る舞う沙希ちゃんの携帯が鳴る。
電話を取った彼女は途中から不服そうな表情になり、電話が終わると物凄く申し訳なさそうな表情でこちらに向き直った。
「ごっめん梨子……店長からでさ、どうしても人足りないからヘルプ入ってって頼まれちゃって……」
敢えて細かく聞かないようにしているが、家庭の事情もあって沙希ちゃんは沢山バイトをやっている。今の時期は色々と忙しいのかもしれない。
「良いのよ、気にしないで。無理言って日にちずらしてもらったのはこっちだし……なんか、私ばっかり喋っててごめんね」
そもそも、私が勢いで日程をずらしたせいで沙希ちゃんのシフトに色々と問題が起きている可能性も十分あるわけで。当然ながら、私は彼女を責める気になど到底なれなかった。
「まあ、取り敢えず梨子の武勇伝聞けたワケだし、あたしは満足だったけど。それはそれとして、埋め合わせは今度絶対するから!」
「うん、楽しみにしてる」
「じゃ、これあたしの分のお代ね。あと……はいコレ」
話を楽しんでくれたなら良かった、と安心していると、不意に目の前に小綺麗な箱が置かれた。席を立って外に向かう友人を思わず引き留める。
「ね、ねえ沙希ちゃん、これは……?」
立ち止まり、こちらにウィンクをしながら決まってんじゃん、と前置きして。
「快気祝い、ってヤツ! それじゃ、今度ね!」
颯爽と、彼女は立ち去って行った。
箱を開けてみれば、綺麗なデザインのバレッタが佇んでいる。
(ーー本当に、もう)
滲む涙を指で拭う。
今度何かお返しをしてあげよう、などと考えながら。