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【最終章】
光の柱は消失し、蝶の羽を持つ異形のみがその場で留まっていた。二つの聖杯の同調率は八十パーセントを超える。彼はその両手を天に掲げた。
「プラトンの愛が世界を包み、プラトンの理想が世界を変える。もうすぐだ。」
彼は陽の落ちる方角を見つめる。明日また陽が昇るその時には、このフランスは、この世界は解体され、人間は一つ先の次元へステージを進めるようになるだろう。そこに争いは無く、全ての人間が同一言語で語り合い、未来の選択権を平等に有する世界。誰もが、胸に抱いた理想を体現できる社会だ。
「グラコン、アサシンが来る。私が行こう。」
ランサーは槍を構える。これが自分にとっての最後の仕事と言わんばかりに。
「ランサー、迷いがあるだろう?君に彼女らを殺せるか?」
グラコンはサーヴァントの心の内を見透かしていた。ランサーは目を閉じ、数秒の間、フランスの風をその身で感じていた。
「ああ。」
彼は覚悟を決め、アサシンの元へ向かった。
アサシンは光の柱のあったエトワール凱旋門広場に入る手前で、空からの強襲を受ける。青色の閃光が彼女の頭上に降り注ぐが、即座に後退し対応した。地面を抉ったのは灰の長槍、立ち上る煙から、アサシンもよく知る男が姿を見せた。
「ランサー」
「戦争はもう終わった。貴様らが願いを叶えることは無い。」
アサシンは充幸を下ろすと、持ち前の杖を構えて応戦する。槍を抜いたランサーは彼女の間合いに入ると、音速のスピードで四方八方からアサシンを穿つ攻撃に転じた。アサシンは何とかそれに耐えきると、一度距離を取り、自らを落ち着かせる。逸る気持ちが隙を生む、特にランサーは戦闘のプロフェッショナルだ。間違っても油断できる相手ではない。
「どうしたアサシン、やはり王では無い貴様には何も為せないか?」
「いや、まだだ、まだ手はある。」
アサシンは杖を両手で握ると、詠唱を始めた。彼女が水晶に左手を翳すと、それは青白く光を放つ。
「何をする気だ。」
「我は確かに身代わり王であってエサルハドンでは無い。だからこそ、使用できる力がある。そう、これは彼女の逸話では無く、〈我〉の逸話。貴様が王であるならば、我は貴様の代わりになれる!」
それはランサーが皇帝であったからこそ使用できる、ある意味で逆転の一手。エサルハドンの為にエサルハドンになった人間だから為せる絶技である。彼女は皇帝アウラングセーブの身代わりとなることで、彼の力を模倣する。
「宝具の名は即ち我の名『身代わり王』だ!」
水晶から伸びた閃光がランサーを貫く。それは痛みを伴うものでは無かったが、自らの内から何かを奪われるような不快感に彼は襲われた。そしてアサシンはその光を一身に浴び、形状を変化させる。これはアサシンを形成するものが集合意識であったからこそ成立するのだ。
女性的な肉体はそのままに、淡い桃の髪は、ランサーの髪色になり、衣服もまた彼と同じものとなる。そして彼の持つ象を穿った灰色の槍を彼女は手にした。
「貴様、アウラングセーブに成ったというのか?」
呆気にとられるランサーに、アサシンは槍の一撃を決める。すんでのところで回避するが、一コンマ遅ければ、彼は重傷を負っていたところだ。
「ランサー、汝の持つ力が流れ込む。汝の記憶も、汝の願いも、そして、汝の惑いさえも。」
彼の眉間にしわが寄る。アウラングセーブならざる者が、アウラングセーブの全てを掌握している、その事実に怒りが収まらなかった。
「返せ、それは私だけの物だ。ムスリムで無い貴様にあの宝具は使用できまい。」
アサシンからエサルハドンとしての全てを奪った『人を人たらしめる摂理(プナジベート・ホ・ジズヤ)』は敬虔なイスラム教徒である彼にしか発動は出来ない。つまり、再びこの少女から王としての力を奪い返せば良いのだ。
「確かに我の宝具は所詮おままごと、エサルハドンと違って、アウラングセーブの持つ絶技を使うことは叶わない。だけど、もう汝が我から奪うことは不可能だ。」
そう言ってアサシンが取り出したのは、一冊の書物である。それは魔術書の類では無く、ただの紙の書籍、だが、ランサーにとっては違っていた。
「聖典(クルアーン)だと…貴様まさか…」
「そう、充幸と我が編み出した奇策、イスラム教徒になるということ。」
彼に力を奪われてから、充幸とアサシンはランサーへの対抗札として、彼が最も庇護したムスリムになることを思い付き、それを実行した。
「たとえ動機は不純でも、貴方は、アウラングセーブは、神(アッラー)を信じる者を無下には出来ない。我はそれを知っていた。教徒である我々から人頭税の徴収は出来ない。」
ランサーは唇を噛んだ。事実、他の皇帝がそんな場当たり的な理論武装をしようと一蹴している事柄でも、彼だけはそれをすることは出来ない。神(アッラー)を前に人は平等であることを、何より彼自身が最も信じているから。
「それで勝ったつもりか?ただ模倣しただけの貴様が。」
「勿論、これから我らが全力で争えば、より多くカードを持つ汝の勝利は揺るがない。だから我は違うアプローチで切り込もう。」
そう言って、アサシンは槍を捨て、膝をつき、頭を垂れた。
「何をしている、アサシン。」
「王よ、貴方の力を貸して欲しい。共に、貴方のマスターを阻止して欲しい。」
「は?」
ランサーは開いた口が塞がらなかった。それもそのはず、敵サーヴァントにマスターを殺すよう希う愚者など、この世界のどこにいるであろうか。それはランサーに、願いを放棄しろと言っているようなものである。
「汝のマスターは過去の戦争の勝利者で、七騎の魂を集め、聖杯を顕現させた。まだ我が生きている内に、だ。この戦争は最初から仕組まれていたことだ。つまり、最初から充幸が救われる未来など無かった。」
「…それが戦争だ。誰かが笑えば誰かが泣く。貴様のマスターは敗北者になる、ただそれだけだ。」
「だから、大いなる者へ立ち向かうチャンスが欲しい。我がどうなろうとどうだっていい。我の首はいつでも差し出せる準備をしている。だが充幸だけは、助けたい。彼女の人生が間違っていたなんて認めさせない。王よ、充幸に希望を与えてください。」
「馬鹿が、話にならん。」
ランサーは呆れてものも言えない。彼を出し抜こうと策を練った結論が、質の悪い命乞いだ。こんな女に一瞬でも後れを取ったことは座に刻まれるほどの恥である。
「第一、私に何のメリットがある。私に願いを捨てさせて、貴様は何を差し出せる。まさか首ではあるまいな?そんなものは要らぬ。」
「それは…」
「時間の無駄だったな。そら、我がマスターが聖杯を完全に取り込んだぞ。」
彼女が凱旋門の先を見つめると、天に飛翔する異形自らが、聖杯の輝きを放っている。彼は六騎のサーヴァントと融合し、新たなる世界を創造する準備に入っていた。
「私もあそこへ行き、願いを叶える。私はやり直すのだ、歴史を。我が治世を。」
ランサーは跪くアサシンに背を向け、歩き出す。
「それは、民に愛されるために?」
「…そうだ。」
ランサーはアサシンに見向きもせず歩いて行く。もはやアサシンに彼らを止める術は無い。
イデアの身体は光を放つ。彼は指揮者のように両手を振ると、大地から白い粒子が沸き上がり、その実体が消滅してゆく。虚ろな世界は消失し、彼の指揮の元、人々はイデア界に辿り着く。そして彼とプラトンは理想世界を築き上げるのだ。
「グラコン、世界は生まれ変わるのか。」
「あぁ、ランサー。人が理想を叶える世界さ。」
「…そこには、人を喰らう悪鬼は存在しないのか?」
「当然だ。誰しもが幸福を体現しなければならない、人の可能性を奪う悪意は取り除かなければ進化の意味は無い。」
ランサーは知っている。グラコンこそが正しいと。神(アッラー)を信じる無辜の民が真に幸福であるためには、仇となる異教徒は排除すべきであると彼は生前考えていた。だがグラコンは同じヒトであるならば平等に救おうとする。彼はヒトの可能性を信じる者。彼はヒトと対話することが人類の成長だと何度もランサーに説いてきた。
人間の味方をするならば、彼は絶対的に正しいのだ。ランサーはちゃんと理解している。
だが、そうなれば充幸はどうなる。
ただの亡霊であるアサシンを守る為に、自らを犠牲にして鬼の力を解放した少女は、グラコンの世界では救われない。
彼女が人間を殺す存在であったとしても、彼女の心は何ら変わらない、同じヒトであるはずだ。人間よりも人間らしい鬼は、この世に存在してはならないということか。
彼女を排斥することは、アウラングセーブがやってきたことと同じだ。
「何を考えているのだ、私は。」
ランサーは願いを叶えなければならない。神(アッラー)を愛し、そして愛され、民を愛し、そして愛される良き王にならなければ、この戦争の意味がない。言葉を尽くし、共に戦ったグラコンを裏切る選択は、彼の信条に反する。人理の英雄は、人の未来だけを考え、尽くせばいいのだから。不必要な感情は消去すべきである。
「ランサー、君ともじきにお別れだ。最初に私が令呪を使用したとき、君に命令を下した。君の理想の為に、最期まで戦い抜いてくれと。その約束を君はちゃんと守ってくれた。感謝するよ。」
「あぁ。」
「…その顔は、まだ君には戦わなければならない相手がいるようだね。」
ランサーは沈黙する。
刹那、イデアの胸部、露出した心臓目がけて、何者かが突進してきた。イデアは腕から光弾を放ち、それを返り討ちにする。その正体はランサーの力を模倣したアサシンであり、彼女はイデアの攻撃をまともに受けると、地面に転がり落ちた。
「まだ生きていたか、仕方が無い。私が君の相手をしよう。」
グラコンはアサシンの目の前で分裂を繰り返し、ものの数秒で数十体まで増加する。彼らは倒れたアサシンを取り囲むと、一斉に光弾を掃射した。彼女の皮膚は、肉は削ぎ落ち、一瞬のうちに絶体絶命の危機に晒される。彼女はランサーと同じ灰色の槍で一体のイデアを貫くが、それは虚像であり、砂となって零れ落ちた。全く同じ姿をした数十体のイデアから、たった一人の本物を探し当てねばならない。
そうしている間にも、街は光の粒子となり消失していく、そしてそれはアサシンでさえも、彼女の流す血液もまた白い蛍の光のように、空へ空へ舞い上がって行った。
世界再編まであと数分、彼女は足や胸が穴だらけになろうとも、立ち上がり、本物を探す。アウラングセーブの力も失い、そして未来を映し出す杖も光弾でへし折られた。残るは、エサルハドンを殺害せんと用いた短刀のみ。イデアを殺すには何もかもが不足している。
「く…そ…」
再び光弾の一斉掃射に遭い、彼女の霊核は砕けた。アサシンは血反吐を吐きながら、立ったまま静止した。
イデアには彼女が死亡したかに思われたが、彼がアサシンの胴体を蹴散らさんと近付いた瞬間、彼女は短刀で一人を貫いた。これも所詮は偽物であったが、彼はアサシンがまだ動けることに只々感心した。
「ほう、そこまでして叶えたい夢が在るか、身代わり王。」
「充幸を救う…それだけ…」
アサシンは弱弱しく短刀を振り回すが、イデアの一体はそれを軽く往なし、屈服させる。
彼女の傷から光が漏れ出、空に消えて行った。
「み…さ…」
アサシンはまだ充幸に何も返せていない。彼女がいたから、エサルハドンとしての全てを失った後も戦う選択が出来た。王の器を持たぬ少女に寄り添ってくれた。自分の身体が滅びる覚悟で、鬼の力をアサシンが為に使用してくれた。
結局身代わり王は強い者では無かった。精一杯やっても、何も変えることは出来なかった。
「ごめ…みさ…ち…」
彼女のいる場所より少し先の通りの一角で、充幸は意識を失っている。彼女はアサシンに対し令呪の行使も出来ない。
「終わったな。」
イデアはアサシンの他所に、最終段階へ移行した。空間に大きなブラックホールが生まれ、そこにフランスのありとあらゆるものが吸い寄せられていく。破壊と創造、彼は再構築するために不要な全ての物を排除しようとした。
当然遠く離れた充幸の肉体も、徐々に引き寄せられていく。人間を殺す鬼の存在は新世界に不要であるが故に。
ランサーは槍を置き、彼方を見つめる。彼が何故ランサーのクラスで呼ばれたのか、それを考えていた。象を昏倒させた逸話など、彼にとっても、人類史にとっても些細な出来事である、ならば彼は何故槍を取ったのだ。その答えは自ずと見えてくる。
アウラングセーブが生前穿ったものは、もう一つある。心臓を抉るように、彼はある人物を殺した。それは武器による肉体的な殺害ではなく、心の殺害であった。
確かに、距離の意味で考えれば、剣というより槍が好ましい。斬ったのではなく、貫いた。余りにも有名な、アウラングセーブの逸話である。
彼という皇帝を作り上げたのは、父や兄弟ではなく、共に戦場を生きたミール・ジュムラ―や神(アッラー)への祈りだ。彼は自らの過去を悔いた、だが、生前の彼の選択は正しくなかったとしても、彼の歴史を聖杯の願いで捻じ曲げても、彼の後悔はきっと変わらない。何度やり直してもアウラングセーブは同じ道を選ぶだろう。
ー最初から、決まっていたんだな。
ランサーは何度でも間違える。何故ならば、彼の行いを肯定した者が確実に存在したから。聖者ぶるのはここまで、彼の悪逆から一番目を背けてはならないのは、彼自身である。
「グラコン、私は私の理想の為に戦う、良いな。」
イデアはランサーの目を見た。アウラングセーブを取り巻いていた惑いが綺麗に無くなった、そんな澄んだ眼である。これからランサーがやろうとしていることを、イデアは動物的な直感で察した。
ランサーが右腕を天に向けると、地響きと共に何かが構築されていく。
数十体のイデアは次々と生まれ出る何かに触れては消滅していく。彼の本体はその形成されるものの正体を把握した。
これは城、赤き城である。アウラングセーブがクリエイトする赤の城はたった一つ、間違いなくアグラ城塞だ。イデアがその城を目にしたとき、ランサーの攻撃対象がマスターである彼だということが明確になった。
『愛は届かぬ、希望は叶わぬ、永劫を生き、その罪に溺れろ。これが貴様の世界である。』
それは父シャー・ジャハーンへの言葉。彼への憎しみごと、〈囚われの塔(ムサンマン・ブルジュ)〉に幽閉する。父の愛は決して妻の眠るタージマハルには届かない。アウラングセーブが用意したのは永劫の別れである。
『杳々たる白亜の霊廟(ラクタランジット・ラール・キラー)』
アグラ城塞の牢が空間に構築され、真のイデアのみがそこに幽閉される。この宝具は父を捕らえ、死に至るまで閉じ込めたアウラングセーブの逸話、彼がその悪性を語り継がれる要因の一つとなった出来事である。そして彼はそこで決して手の届かぬ母の霊廟を毎日眺めさせ、そして兄の首を落とし、それを父の前で見せつけた。それこそが父の愛を受けることの無かったアウラングセーブの復讐劇。そしてこの宝具は囚われた対象に最適な絶望を目に焼き付けさせる。イデアは牢の中で、プラトンと再会したときの記憶が何度も再生される。彼がイデアの存在を忘却していた事実を、何度も何度も見せつけるのだ。
「私がやれることはここまでだ。後はアサシン、貴様が行け。」
最後の力を振り絞って立ち上がったアサシンは、短刀を手に、囚われの塔を駆け上がる。
そして牢でもがき苦しむイデアに、その刃を突き立てた。
「舐めるな、身代わり王!」
イデアはその刃をへし折ると、牢から手を伸ばしアサシンの首を掴んだ。人間の怪力を超えた圧迫に彼女は苦しみ、喘ぐ。
「まだだ、私は直ぐにでもここから出て、必ず成し遂げる、それがプラトンへの〈献身〉だ!」
彼女は懐に忍ばせていた、折れた杖の先端、未来予知の水晶を牢の壁に叩きつけて、その破片を握り締める。
「…ただの独りよがりだ。」
アサシンはその破片をイデアの聖杯が埋まった心臓へ突き刺した。
「あ…ああぁ…」
アサシンの首を掴んでいた手はするりと落ち、彼は牢の地面に崩れ落ちる。それと同時に、ブラックホールは閉じ、フランスの地に静寂が訪れた。
囚われの人の死と共に、役目を終えたアグラ城塞は陥落する。力を失ったイデアの肉体は、広場に落ちて行った。
アサシンはイデアの心臓を貫いた時、その手で聖杯を取り出した。この力があれば、充幸を救うことが出来ると確信していた。
だが、イデアの肉体を離れた金の杯は忽ち塵と化す。冬木の大聖杯に比べ、遥かに劣化しているそれは、人を超えたイデアの肉体に在ったからこそ願望器足り得たのだ。彼が死んだことでシステムエラーを起こし、その魔力は大気中に霧散した。
「そんな…そんな馬鹿な…」
アサシンがどれだけ空気を掴もうにも、もはやそこには何も存在しない。この戦争はイデアがいたから存在した。彼が死亡した時点で、儀式は失敗したのである。
※ ※ ※
横たわるイデアの隣に、ランサーは腰を下ろした。
「私を召喚したことを後悔しているか?」
「あぁ、しているともさ。まさかこんなしっぺ返しをされることになるとはね。」
「謝ったところでどうにもならんが、すまない。貴様の思いに応えられるサーヴァントでは無かった。」
「…良いさ、令呪が無い私にはどうすることも出来ないし。自害しろなど口が裂けても言えんよ。」
「そうか、消滅する前に、自害するつもりで貴様に会いに来たんだがな。」
「誠実なのか不誠実なのか…まぁ友を赦すことが友の役目だ。私は君を…」
アウラングセーブは次の言葉を待ったが、それがイデアの口から発せられることは無い。
イデアは笑顔のまま、静かに息を引き取った。
アウラングセーブは、自らが消滅するその時まで、彼の傍に寄り添い続けた。
「グラコン、お前の友になるには、些か私は不相応だったな。見返りに愛を求めるのは私らしくない。私は私として、信仰を続けるしか無いようだ。私は犯した罪への罰はこの世界の誰しもが私の非道を知ること、それを語り継ぐこと、それでいい。そうすればこの先の未来で、私のように間違える者が現れないはずだ。」
フランスの地に突風が吹き荒れ、落ち葉が舞い踊り、空へ飛び立つ。異形の肉体は無数の蝶となり、落ち葉を追いかけるように宙へ消えて行った。
もはやこの場所に、ランサーの姿は存在しない。
※ ※ ※
シャンゼリゼ通りを中心とした大事件から二週間が経過した。
大量の犠牲者を出した此度の聖杯戦争は、バーサーカーの姿を見た者たちから通り魔犯罪と位置付けられ、未解決のまま語られることも無くなった。後にトゥファリスの地で巻き起こる聖杯大戦に比べれば余りにもちっぽけな魔術師同士の小競り合い、それが魔術協会側の結論である。信念をぶつけ合った者達の物語を知る者は、もはやこの世に二人しかいない。
ある晴れた日に、少女は共同墓地へ訪れた。派手さの無い十字の前で足を止めると、彼女は駅前で購入した花束を添える。墓石にはナリエ・ダルマーロの文字があり、彼女が本名を名乗っていたことにちょっとした驚きを覚える。てっきり彼女は、ナリエが日本の達磨から着想を得て偽名にしたものだと思っていた。
彼女は祈ることはせず、ただ彼女の墓石を数分間眺めていた。きっともうここに来ることは無いから、しっかりと眼に焼き付けておこうと。決して仲が良い訳では無かったが、それでも、ナリエの存在を忘却してはいけないと彼女は感じたのだ。
死者への手向けは花のみにして、彼女は日本へ帰国する時間が近付いていた為、墓地を離れた。もう一か所だけ、行かなければならない場所がある。彼女は飛行機に間に合うよう小走りで教会へ向かった。
辿り着いたのは、監督役たる男がいた教会である。まだここに留まっている訳も無いだろうが、念のため扉を開けて確認する。
彼女の予想に反して、監督役であるテイオスは未だこの教会に滞在していた。とっくに去っているものだと思っていたが、案外この場所に愛着があるようだ。
「やぁ、よく来たね充幸君。」
テイオスはまるで旧友に会うかの如く、彼女を歓迎した。そのどこか胡散臭い雰囲気も健在で、彼女は少しだけ心が和らいだ。
「日本に帰る前にここへ来ました。貴方に用事があったのです。」
「僕に?何かな。」
「結局貴方は戦争の全てを観測し、物語を書いたのですか。」
「あぁ、書いたとも、書いたとも。我ながら素晴らしい出来だと自負している、いるが…」
「…?」
「どうにも僕にはシェイクスピアのような表現力が無いことに気付いた。残念ながら没にしたよ。僕が一人で楽しむ分には良いけれど、他人に見せられるような代物じゃない。」
「そうか、残念ですね。」
「…それだけを聞きに来たのかい?」
彼女が最初に聞いたのは只の世間話だ。そのことにテイオスは気付いている。だから本題を切り出すように催促するのだ。
「戦争のあと、セイバーのマスターであるエンゾ・デ・キマリュースの屋敷や、ランサーのマスター、グラコンが根城にしていた場所に訪れ、色々と調べ物をしました。グラコンは過去の戦争に召喚されたサーヴァントであったことや、戦争の黒幕であったことは理解できましたが、どうしても納得できない部分があったのです。」
「それは何だい?」
「彼が貴方を、ジェヴォーダンの獣を使役して殺そうとした理由です。貴方は獣が過去に召喚されたサーヴァントだと知っていた。貴方は一体何者なんです?」
彼女の質問にテイオスはクツクツを笑った。
「まぁ、ちょっとした関係者さ。グラコン、改めプラトンの恨みを買うぐらいにはね。」
だが彼は最後までその正体を明かすことは無かった。
「じゃあもう良いです。私は日本へ帰ります。会うことはきっともう無いだろうけど、お元気で。」
充幸は教会の重い扉を開け、外へ出る。太陽の光がステンドグラスに反射し、彩りを豊かにする。どこか落ち着くような自然の香りが風と共に教会にも運ばれてきた。
「あ、そうそう、テイオス。」
「何だい?」
「次、偽名を名乗るときは、もう少し捻った方が良いと思いますよ!」
彼女はいたずらっ子な笑みを浮かべて、教会を去って行った。
「何だ、知っているんじゃないか。」
彼は此度の戦争が始まった時から付けていた変装用のシリコンマスクを取り去った。現れたのはグラコンと全く同じ顔の、初老の男である。彼はイデアに貫かれたはずの胸を擦りながら、充幸の門出を見送った。それは彼がやりたかった最後の仕事、彼の書いた物語の主人公になってくれた少女を見届けることだった。
テイオスは出来損ないの書物を机に置き去りにすると、光の粒子となって飛び去った。彼の役目は、これで終わったのである。
彼女は予約していた飛行機に乗り込み、フランスの地を後にする。素晴らしい場所であったが、また来るのは当分先になるだろう。それが自分と彼女の約束だから。
飛行機からどこまでも続く空を眺めた。そこに写り込んでいたのは、聖杯戦争が終結した直後、聖杯を獲得できなかったアサシンと、玉手箱の呪いに侵され、鬼が孵化する寸前の充幸の姿である。
アサシンは意識を失った充幸の手をただ握り締めていた。その行動に大きな意味は無いが、それでも彼女はそうすべきと思った。既に充幸の手は黒く染まり、爪はヒトの胴を貫く刃物のように鋭利である。彼女の皮膚も、ほとんどが人間のものでは無くなっていた。
充幸は手を一所懸命に握る存在に気付き、覚醒する。とても温かみのある優しい手だ。
「充幸、大丈夫ですか、充幸。」
「アサシン…傍にいてくれたんだ。」
充幸は上半身だけ起き上がると、しゃがみ込んだアサシンにその身を委ねた。充幸の頭を撫で、アサシンは真実を口にした。この戦争が、失敗に終わってしまったこと、聖杯がもはや存在しないこと、そして、充幸はきっともう…
アサシンは話の途中で、頬に流れる水をゴシゴシと拭った。これは充幸を不安にさせてしまうものだ。必要ないと思っても、とめどなく溢れ出てくる。
「すみません、すみません充幸、私では、貴女を救えない。」
充幸はアサシンの手を強く握り返した。その温もりを忘れぬ為に。充幸はある決意をする。
「アサシン、お願いがあります。これは私の余りにも身勝手な願いです。それを聞き入れてくれるかどうか、全て貴方に委ねます。」
充幸はアサシンに最後の願い事をした。それはきっとアサシンにとっても酷な選択である。だがアサシンは彼女の願いを聞き入れた。
充幸は右手の甲を見つめる。残された令呪はあと二画。燃え上がる炎のように、赤い紋章は夜のシャンゼリゼに眩しい光をもたらした。
充幸は再度、アサシンの手をぎゅっと握り締める。アサシンもまた、充幸の小刻みな震えを抑えるように、もう片方の手で彼女の手を覆った。
「大丈夫、その選択は間違っていない。」
アサシンは充幸を優しく諭す。彼女の言葉に勇気を貰ったのか、充幸は躊躇わなかった。
「令呪を以て命ずる、アサシン、マスターである鬼頭 充幸を王として認め、これに仕えよ。」
「御意に。」
「そして最後の一画を用いて命ずる。アサシン、貴方の宝具『身代わり王』を発動せよ。」
彼女の赤い祈りがアサシンの魔力を増大させる。これは令呪だけの力では無い。充幸に残された無尽蔵の魔力、その殆どをアサシンに譲渡する。それは、サーヴァントが現世に留まる、即ち、受肉することが可能なほどに。
そしてアサシンの肉体は変化する。アウラングセーブを模倣したときよりも精巧に、彼女は鬼頭 充幸そのものとなった。
ただし、一点だけ、アサシンには鬼の血は決して宿らない。そこだけは違っている。
「凄いね、アサシンの宝具は。」
充幸の前に、充幸が存在する。これがエサルハドンでは無い、身代わり王だけが持つ力だ。
「アサシン、私は私を失い鬼に成る。もう日本に帰ることも無い。私として生きた全ては無意味に消失する。でも、もしお父さんが、お母さんがくれたこの名前だけでも残れば、とても良いな、と思っていたの。」
「うん…うん…」
「アサシン、お願い。鬼頭 充幸という少女が生きた痕跡を残して欲しい。この命が無駄じゃなかったと証明して欲しい。私の代わりに、鬼頭 充幸を幸せにして欲しい。きっと沢山辛い思いをすると思うけど、生きることは素晴らしいことだって、貴方なら…」
「いいよ、充幸、もう良いんだ。」
アサシンは彼女の願いを確かに受け取る。充幸の頬を優しく撫でると、彼女はどこかくすぐったそうに、満面の笑みを浮かべてみせた。
「充幸、充幸。」
「アサシン、生きて。」
アサシンは最後に、彼女を抱き締めようとするも、その身体はするりと抜け落ちた。アサシンは目を見開き、辺りを必死で見まわす。すると数十メートル先に、黒い翼を生やした二本角の鬼が喉を鳴らしながら遠くへ歩いて行った。
もうその手は届くことは無い。
鬼頭 充幸という一人の人間は、確かにこのフランスの地で、命を落としたのだ。
「充幸…充幸っ…うああぁああぁあぁぁあああああああああああああ。」
アサシンの嘆きは、満天の星空にこだました。
飛行機の窓から見えていた情景はぷつりと消え、果ての無い青い空が充幸の視界に入って来る。一日後には、彼女が初めて訪れる、生まれ故郷に到着する。
彼女はフランスの地で買った、一冊の手帳を広げた。これからは、テイオスのように彼女も物書きになろうと思う、と言っても、彼女に文才がある訳では無いから、まず手始めに日記を付けることにした。
それは日々の記録であり、そして、充幸へのメッセージ。
彼女はボールペンを取り出し、その一ページ目を綴り始めたのだった。
【終わり】