Fate/devotion    作:パープルハット

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7/25「王の器」にて当選した場合、頒布予定です。感想等お待ちしております。誤字がございましたらご連絡ください。


第四章 狼は哭く

【第四章】

 

エンゾとセイバーは赤い羽根の鳥の留まる場所、雑居ビルに辿り着くと、ナリエの元へ向かった。歯科の一室に彼女だけがいて、どうやら無事な様子であった。エンゾは胸を撫で下ろす。

「何があった、ナリエ。」

ナリエはエンゾにアサシンと交戦したことを伝えた。アサシンの発動した宝具や充幸の持つ鬼の能力、ナリエがエンゾに話せることは全て。充幸と知り合いであることやライダーの真名は未だ隠したままである。

そしてほぼ同時刻に、セイバーもまたアサシンのクラスのサーヴァントと交戦したのを知った。

「もし我々が戦ったのがどちらもアサシンのクラスだとして、一つの聖杯戦争に同じクラスが二騎も存在することは可能なのか?召喚されたサーヴァントはセイバー、ランサー、ライダー、アサシン、バーサーカーの五騎のみのはずだが。」

エンゾは頭を悩ませる。一体この戦争で何が起こっているのか、テイオスが管理する霊器盤に伝わった召喚情報は間違いないはずだ。

「新たなサーヴァントが召喚された可能性はありますわね。テイオスに急ぎ確認する必要がありましょう。」

「若しくは、俺が交戦したサーヴァントがバーサーカーであったか。間違いなく資料に載っていた百の貌を持つハサンだが、途中何らかの宝具を発動し、獣へと姿を変えたのだ。」

『悪魔は嗤い、獣は哭く(ラ・ベート)』と呟いていた、それが何を表すか、まだエンゾは知り得ない。そもそも百の姿を持つハサンの肉体から獣が誕生したことこそイレギュラーである。

「バーサーカー…」

ナリエは爪を噛む。彼女はエンゾの考えを心の内に否定する。そう、彼女は真のバーサーカーの正体を知っているのだ。何を隠そう、バーサーカーのマスターであるリューガンという名の魔術師を戦争へ誘ったのもまたナリエである。彼が自らのサーヴァントに殺されるのは想像に難くなかったし、ナリエの、成長を遅らせる魔術を応用すればバーサーカーの消滅を遅くするのも容易であった。誤算はバーサーカーが何者かによって連れ去られてしまったこと、充幸で無ければ恐らくはランサー陣営であるが、もしそうであれば問題は無い。かの怪物の真名をランサー陣営が知っているならなおさら、そのまま殺すようなことはしないだろう。概ねナリエの計画通りに事は進んでいる。だが、エンゾの遭遇した百の貌を持つアサシンの素性が全く掴めない。懸念材料は早期に取り除かなければ、後々厄介事になる。セイバーほどでは無いが、彼女もまた完璧主義者だ。充幸もナリエの用意した触媒を使用して召喚さえしていれば、先程の戦いにおける、ナリエの実質的な敗北には繋がらなかったであろう。

「ナリエ…?」

心配そうに顔を覗き込むエンゾに、ナリエは笑顔で誤魔化した。彼を守るためには、失敗した過去を振り返っている暇はない。テイオスに会いに行き、次なる一手を考えようと、彼女は立ち上がる。エンゾの手を引き、何でもないかのように振舞うナリエを、セイバーは怪訝な表情で見つめていた。

 

スリーホイラーでテイオスのいる教会に訪れたエンゾとナリエは、扉を開けるなりテイオスに詰め寄った。新たなサーヴァントの出現が成されていれば、当然彼はそれを知っているはずだ、と。だがテイオスは首を横に振る。聖杯戦争で召喚されたサーヴァントは正しく五騎である。

「では何故、ハサンと思しきサーヴァントが存在した?俺のまだ知り得ないバーサーカークラスのサーヴァントだと仮定しても、納得のいかない点は多々ある。気配遮断スキルを有する狂戦士など聞いたことが無い。」

「ふむ、不可思議なこともあるねぇ。いやはや、聖杯とは実にミステリアス。一介の教徒の僕には判断しかねるよ。」

「テイオス、貴方ならどう考えますか、この事態を。」

ナリエは監督役を睨みつけた。何かと女性に睨まれることの多い彼は、やれやれと頭を掻く。ナリエもアサシンも相当な美人であるが、どちらも鉄火肌なのが玉に瑕だ。

「考えられるパターンは二つ、既に召喚されたサーヴァントの能力によるもの、もう一つは、過去の戦争の遺物だ。」

「過去の戦争の遺物?」

偶然にもエンゾとナリエの声が被る。二人は顔を合わせると互いに口角を緩めた。

テイオスは咳払いをし、話を続ける。

「今や聖杯戦争は世界各地で行われている、例えば戦争の勝利者が受肉を願い、現世に留まっていたとしたら、そして他の戦争に乱入し、漁夫の利で新たに聖杯を獲得しようとしていたなら…あり得ない話でもあるまい。」

「どこかの戦争で勝利したハサン・サッバーハがこの戦争に参戦している?」

二人は納得のいく理由を見つけたようだ。だが霊体化を解いたセイバーが突如として現れ、神妙な顔でエンゾを見つめた。

「セイバー…?」

「監督役、お前の言うように受肉した敵が紛れ込んでいるというなら、不可解な点がある。私とエンゾを襲ったハサンと思しきサーヴァントは、何故今我々を狙ったのだ、ということだ。」

テイオスはセイバーの言わんとしていることを理解した。逆に察しの悪いエンゾの頭にはクエスチョンマークが浮かんでいる。

「暗殺教団、ハサンの名を冠するサーヴァントが万が一紛れ込んでいるならば、当然、自分の存在を知られる訳にはいきません。それこそが聖杯を掠め取る唯一無二の武器となるのだから。セイバーやランサーに殺し合いをさせた後に、イレギュラーな存在である自分自身の手で残ったマスターを殺せば、簡単に奪い取ることが出来ますからね、セイバー。」

エンゾはやっとセイバーの言いたいことが理解できた。まだサーヴァントが誰も消失していないこの状況下で、態々自らの絶技を明かしてまでセイバーとそのマスターである自分を狙う必要が無い、ということだ。

「監督役よ、私とエンゾは、ハサンと思しきサーヴァントが百体近くに分裂し、加えて黒き獣へと変化したのを目撃した。思えば、アサシンの気配遮断にしてはえらくお粗末だった。これは我々に、参戦しているのが五騎だけじゃないことを見せしめる行為に他ならない。」

「果たしてそれをすることに何の意味があるのやら、ですが、そうと分かれば後は敵の素性を調べれば済むことですな。獣へ変化した、とおっしゃいましたが、それは文字通り獣なのですか?」

「あぁ、『悪魔は嗤い、獣は哭く(ラ・ベート)』と呟いた。あれは宝具の詠唱だろう。漆黒の獣、肉食獣に忽ち形状変化する能力だ。」

「後は、セイバー、お前も聞いていただろう?ジャンヌ、と少女の名を口ずさんでいた。フランスでは別段珍しい名では無いが、これも気になる。どうだ、テイオス。何か浮かばないか?」

「獣(ベート)にジャンヌ、うむ、思い当たる節は色々とあるが、まぁ、僕が手伝うのはここまでにしておこう。」

テイオスは踵を返し、祭壇の方へ歩いていく。

「何故だテイオス!」

「お忘れだろうが僕はただの監督役、君達を救う者では無い。むしろ肩入れする方がおかしいのだから、後は自分たちで調べなさい。幸い、君は過去の聖杯戦争のデータを多く所持しているのだろう?さぁ、もう帰りたまえ。」

テイオスは口を堅く閉ざした。エンゾ達は渋々と教会を後にする。これ以上神父と話すことは出来ないと判断した為だ。

ナリエは彼らのやり取りを聞きながら、あることを思い付いていた。獣の正体、それに行き着くための鍵はキマリュース邸にある、と。エンゾはナリエと共に一度自宅へ帰ることに決めたのだった。

 

「もう出てきてもいいよ。」

テイオスがそう声をかけると、椅子の下に隠れていた充幸が姿を現した。彼らが訪れた時、咄嗟に隠れるように指示したのはテイオスだ。

「あまりに長居されると君がいることが知られてしまうからね。危ない危ない。」

「肩入れするのはおかしいって言いながらも、私を助けてくれるんだね。」

「それがアサシンとの契約だ。君を数日間ここで預かるというね。今、君の元にアサシンはいない。彼らに見つかれば、そのまま殺されていたかもしれないんだぜ。」

当然テイオスは充幸が鬼であり、そう簡単には殺されないことを知りつつ、敢えてそう言った。充幸としても不用意な戦闘は避けたいところである。

「それにしても、アサシンは何処に行ったのだろうね。君、心当たりは無いのかい?」

充幸は否定する。自由気ままな王が今どこで何をしているか等、見当の付きようもない。

それよりも、偶然とはいえセイバーのマスターの存在を視認できたのは充幸にとって大きかった。ナリエは想定通り、他のマスターと繋がっている。

「あの男も女狐に唆されたか…」

「充幸君、口が悪いよ。そしてそれは間違い、彼らは夫婦だからね。真なる共同体さ。」

テイオスは口を滑らせてか、そんな情報を充幸に与えた。とりあえずナリエを信用する方向は今後一切あり得ない。この戦争においてナリエがどれだけ糸を張り巡らせているのか、気を付ける必要があると再認識した。

「ではテイオス、お世話になりました。私には行くべき場所があるから。」

「一体どこへ?」

「図書館だよ。調べ物があるの。」

充幸は自らのサーヴァント、エサルハドンについて余りにも情報を持たない。ちゃんと彼女のことを知らなければ、万が一弱点を突かれたときに対応できないからだ。テイオスが昨晩言っていた、アサシンの宝具が希薄であった点も彼女としては気になっている。彼にそのことを聞いても、それを教えてくれることは無いだろう。

「では折角だ。僕も付いていこう。偶々、本当に偶然にも、同じく図書館に用事があってね。」

どうにも怪しさ満点な彼に訝しさを感じつつも、充幸は彼の同行を許可する。テイオスは普段神父らしい礼装だが、外出時には黒いスーツに着替える。こうすることで教徒らしさはゼロになる。急ぎ着替える彼を眺めつつ、充幸も念のためフードで顔を隠した。

「おや、君の美しい髪と眼を隠してしまうのかい、勿体ない。」

「…五月蠅い、行くよ。」

二人は扉の外に出た。その日は思わず顔を手で覆いたくなるような晴天だった。

 

※ ※ ※

 

アサシンは凱旋門の上から、全ての通りを見渡していた。どの道を進んでも、ヒトが溢れ、店は活気で充ちている。笑みを浮かべる人々はお国柄か、はたまた多幸感からか、どちらにせよ情に溢れているのは言うまでもない。彼女の統治したアッシリアに比べ、当然ヒトが個々に持つ力は衰えている、が、日常を謳歌しているのは別段変わらない。

「この大地もまた、我のものとなる。」

聖杯を手に入れた暁には、この世界まるごと彼女の支配下になる、そう信じて疑わない。

人々の喜怒哀楽と言った感情さえも彼女が管理する。それこそが久遠の理。彼女にとっての居場所を奪う行為に他ならない。

欲しい、欲しい、奪いたい、奪いたい。

自らの支配を離れた人間を見て、少女は心を震わせる。自らの内に存在しない、彼らが紡いできた人間賛歌、それを奪うことがどれだけの快感を生むか。想像しただけで吐息が荒くなる。彼女はまるで、ただ平和に草を貪るだけの草食動物を前にした、涎を垂らす肉食獣そのものだ。

「必ず、私が、必ず勝つ。」

第二の生を以て、かつて出来なかった全てを成し遂げる、これは憎らしき神の与えるラストチャンスだ。彼女は自らと、充幸の存在さえベットして勝負に挑もうとしている。

だが、何故だろうか。ライダーとの戦いの際に宝具を起動したとき、違和感を抱いたのだ。

彼女の中に別の誰かが住んでいるような感覚。あの世界で、充幸を必死で救おうとする声があった。築き上げた風景もまた、形は同じものでも色が違っている。その全てがどこか〈薄い〉のだ。テイオスがそう思う以前に、彼女自身がその異変に気付いていた。

充幸はただの道具、彼女をこの世界に君臨させる為の橋に過ぎない。鬼の血が騒ごうとエサルハドンにとっては至極どうでもいいことだ。しかしながら、アサシンとしての彼女がその感情を許さない。奪うのではなく、護ろうとする。自らの内に芽生えた感情を、エサルハドンは否定する。それは王の願いである筈が無い。彼女はどこかくすぐったい心の震え、その小さな芽を摘み取ろうとしている。

「鬼頭 充幸、貴様の元にいると如何にも調子が狂う。」

アサシンは溜息を零すと、所持している杖で、先の未来を予見した。水晶に映し出されるのは充幸の姿、彼女がテイオスに襲われる未来だ。

「彼奴め、いつの間に…」

アサシンは感心するとともに、自らのマスターの元へ戻ることに決めた。まだ、充幸を失う訳にはいかない。それは願いの為、覇道の為、そして…

 

※ ※ ※

 

エンゾ、ナリエはキマリュース邸に戻ると、直ぐに過去の戦争に纏わる書籍を読み漁った。

ナリエは推測していた通り、一つの書類に行き着く。それはエンゾの学友、デンケトの参戦した聖杯戦争の資料だ。

デンケトの召喚したサーヴァントは百の貌のハサン、だがこれだけでは大して珍しい事柄でも無い。問題はこの戦いで召喚されたアーチャーだ。

「エンゾ、これを見て下さい。」

「彼の者は英霊に非ず、血肉を前に嗤う狼なり、デンケトが戦ったアーチャーだな。確かに俺が目撃した獣は、狼と言われれば狼だったかもしれないが…」

もし仮にこのアーチャーが聖杯戦争の勝利者であったとしたら、百の貌のハサンが現れたことが説明できない。デンケトは戦争で命を落としている為、勝利者成り得ないのだ。

だがハサンなら兎も角、獣の形をしたサーヴァントが戦争に呼ばれることはそう多くはないだろう。現にどの資料を閲覧しても、獣が召喚された記述はこれ以外存在しない。

「狼、そして、ジャンヌと言う名前。誰だ、一体誰なんだ。」

頭を悩ませるエンゾに対し、ナリエは顎に手を当て考察する。彼女が一つの答えに辿り着くまでに、そう時間は掛からなかった。

「…ジェヴォーダンの獣…」

「…っ!」

十八世紀フランスに存在したとされる狼に似た生物、現在に至るまで様々な議論が重ねられてきたが、未だにその全貌が明らかにされていない虐殺事件である。

「ジャンヌという名は、過去の英雄と照らし合わせて考えると、どうしても救国の聖女ジャンヌ・ダルクを想起させる、けれど、フランス女性ではごく一般的な名前であるのも事実ですわ。」

「獣に虐殺された者の多くは、女性や子ども。特に多くジャンヌという名の少女が殺害された…最初に殺された少女の名は確か…」

「ジャンヌ・ブル。間違いないですわね。」

だがそれでも不可解な点はある。まず獣は未確認生物であるとしても、人間と同じように意思を持つ訳では無い。当然、ヒトと同じように話すことなど不可能であるはずだ。そしてバーサーカーのクラスならまだしも、アーチャーのクラスであることが謎だ。獣は矢を番えることも、銃の引き金を引くことも出来ない。ただその牙で、か弱き人間を食い散らかすのみである。

「…どう判断する?セイバー。」

エンゾは後ろに佇んでいる見えない影に声をかける。セイバーはこの事件より後に生誕した身である為、聖杯から与えられる知識以上にこの事件については熟知していた。

「マスター、真実かどうかは定かではありませんが、ジェヴォーダンの獣は神への祈りを聞き届ける程の博識である可能性はあります。だから獣が人と同じ意思を持っていたとしても可笑しくはない。」

「だが、それは後の時代に脚色されたものだと…」

「そうとは限りません。この残虐な事件は謎に満ちている。脚色であると否定するには材料が足りない。そう、例えば、実際に獣を屠った猟師が使役していた可能性だってあり得るのですよ。」

エンゾはセイバーの言葉に驚愕した。ナリエは反対に、彼の考えに納得しているようだ。

獣を殺した英雄が、実は獣を使役し、少女を殺していた。俄かには信じ難いことでも、この戦争にアーチャーとして呼ばれた者が、そういう過去を辿っていた蓋然性は決して低くはない。例えそれが真実で無くとも、後の世の人間たちが虚構の物語を語り継げば、それは転じて本物となる。それが世界の、人間の残す呪いそのものだ。

「成程、もし黒い獣がジェヴォーダンの獣であったならば、デンケトの戦いにおけるアーチャーの真名は…」

エンゾとナリエは互いに頷いた。もしこの戦争に別の勢力が関わっているならば、その正体を掴まなければならない。彼と彼女の共通認識、一刻も早く、デンケトの聖杯戦争について知見を得なければならない。

エンゾはとある人物に会いに行くことを決心した。

 

※ ※ ※

 

充幸とテイオスは国立図書館を目指して歩いていた。テイオスの他愛も無い話に耳を傾けつつも、念のため警戒を怠らない充幸。なるべく大通りには出ず、路地裏など遠回りしながら目的地を目指していた。アサシンが隣にいればそれなりに安心感はあるが、何を考えているか分からない神父では警戒心を剥き出しにするのは当然の話である。アサシンは良くも悪くも単純であるが故に、だ。

「充幸君、君は万物の根源は何と捉えるかね?」

「原子。」

「デモクリトスか、美しさが足りないね。」

「そういう貴方は?」

「そうだね。万物の根源は〈蝶〉だ。…なんてね、そんなに睨まないでくれるかい?冗談だよ、冗談。」

テイオスは終始下らない話に花を咲かせるわりに、自らのことは一切語らなかった。充幸にとってテイオスの存在は至極どうでもいいが、彼が頑なになればなる程、充幸の興味はそそられる。

「テイオスは教会の神父のくせして、自分の欲望には素直なんだね。」

「神には忠実なつもりだ。ただただ僕は物語を書きたいのさ。主人公は君たち、戦争の当事者だ。一番近くの観客席から活躍を応援しているよ、君も、ナリエも、他のマスター達もね。」

「…精々素敵な物語が作れるよう祈っているわ。」

充幸は呆れたが、テイオスのような大人が情熱を持って何かに取り組むことは難しいことなのかも知れないと悟る。大人になることは、子どもであった部分を捨てていくことだと誰かが言った。充幸は大人になる前に自らの命が経たれてしまう、そう思い込むことで、内なる熱を何処かに、誰かに、放出しないように努めている。もし聖杯が充幸に命を与えてくれたなら、彼女は何がしたいのか、タイムリミットまでに一つ決めておく必要があった。奇跡を起こせるかもしれない、そんなチャンスに巡り合えたのだから。

「充幸君、すまないが、先に図書館へ向かってくれるかい。」

テイオスは急に立ち止まり、反対方向へ歩いて行った。その先が公衆トイレだと判断した充幸は、先を目指すことにする。どうやら諸外国のトイレは日本と異なり有料であるらしい。充幸の手持ち金は少ないため、こういった際にも節約は意識しなければならない。

薄暗い路地裏に入る。道はこちらで正しいはずだが、何処か正しくない場所に迷い込んだ様な、奇怪さを感じた。先の日の光が差す方へ歩みを進めるが、その足取りは重い。何者かの意思がそうさせているようで、充幸は悪寒がした。

「残っている、人間の血の匂いだ。」

ここで数十の人間が確実に殺害されている。綺麗に掃除されてはいるが、踏みしめるアスファルトや潰れた室外機にも、その残り香は漂っている。ナイフで刺し殺した程度ではここまでの悪臭にはならない。体を八つ裂きにされ、内臓が辺り一面に散乱した光景が浮かぶ。充幸の鬼がクツクツと嗤った。

充幸は立ち止まり、壊れた室外機に手を当てた。充幸はネクロマンサーでは無いが、人の死に対して鋭敏であるからして、この場所で行われた殺戮の全容を測ることが出来る。

「お願い、教えて。」

これがもし、怪異、サーヴァントの仕業であれば、鬼の気を通じてその殺害方法を、その姿かたちでさえ掴むことが出来る。充幸の手が黒く染まり、この場にいる悪霊を惹き付ける。アサシンと出会った教会において悪霊に襲われた時のように、充幸には土着した悪意の塊を呼び覚ますことが可能であった。勿論悪霊に襲われる危険性もある。

「サーヴァントが…食べている、身体が真っ二つ…装甲の…バーサーカー…駄目、誰かまでは分からない…っ…ランサーと戦って…?」

充幸の額に汗が流れる。記憶を辿ることにより、死んだ者たちの痛みや苦しみもまた充幸の身体に流れ込んでくる。張り裂けそうな痛みに充幸は苦悶の表情を浮かべた。

だが悪霊たちの意思はそこで途絶えた。まるで何かに怯えるように、突如消失したのである。充幸は思わずへたり込んだ。

「充幸君、ごめん、お待たせ。」

路地裏の入り口に、トイレから戻ったテイオスが立っていた。顔面蒼白の少女を心配するように、一歩一歩近付いてくる。

「大丈夫かい、まるで、悪魔にでも会ったような顔をしているよ?」

充幸は呼吸と整えると、右手を突き出し、テイオスを静止させた。路地裏の出口はすぐそこ、後数歩先に陽の当たる世界が広がっている。充幸はゆっくりと立ち上がり、震える足で後退る。テイオスは逃げようとする充幸の様子に疑問を抱いた。

「こらこら、どうして逃げるんだい、一緒に図書館へ行くんだろう?なぁ、ジャンヌ。」

「お前は…誰だ…」

充幸は走って逃げようとするが、猟銃を構えたテイオスがその足を鉛玉で貫いた。バランスを崩した少女はその場に倒れ込む。ただ足に穴が開いただけだ、鬼の力で簡単に修復できる。だが彼女の顔は恐怖で染まりきっていた。

『悪魔は嗤い、獣は哭く(ラ・ベート)』

そう呟いたテイオスの顔は左右に引き裂かれた。肉体を破って現れたのは黒い狼に似た獣、充幸の体内を流れる鬼の血が沸騰しそうな程熱く滾る。

「鬼の血を宿す可憐なジャンヌ、肉片残さず全て食べてあげる。」

獣は充幸に喰らいついた。彼女の腕は黒く染まり、獣を引き剥がそうと爪を立てる。だが今充幸を殺そうとしているのはただの狼ではなく、サーヴァントだ。力量の差は歴然、大亀に圧し掛かられた時以上に、彼女は獣に押し負けていた。獣はまず黒い腕に噛みついた、牙が肉に食い込み、充幸は悲鳴を上げる。腕を硬化させ、牙を跳ね返すように振り解いた。

噛み付かれた部位からはとめどなく血が溢れ出る。充幸は怯まずに、もう片方の腕で、獣の顎を抑えた。兎に角、今は押し留めることに注力せねばならない。

―喰らえ

充幸の中にいる何者かがそう呟いた。彼女はその声の主を正しく理解している。燃え滾る血潮は目の前の悪意を根絶やしにするだけに留まらず、路地を抜けた先の幸福な日常を凌辱する。今、充幸が鬼の力をより欲すれば、運命の日を迎える前に、鬼に魂を受け渡すことになるだろう。

鬼は獣と共鳴している。同じヒトの血肉を求める習性が、同族嫌悪と言うべきか、通常より遥かに執念深く彼女を煽り立てる。禁断の果実を食すよう唆した蛇のように、絡みついた闇は充幸を蝕み離さない。

充幸は嗚咽した。一刻もこの苦しみから逃れたい。外敵も、内敵も、彼女を殺そうと暴れ回る。黒く染まった腕は力を失い、元の肌に戻った。

殺される、そう思った時、彼女は母親の優しい姿を思い出した。夕食を用意する優しい背中にしがみつき、こらこらと怒られる。そんな優しい光景だ。そして温かい思い出は、鬼になった母に壊される。一心不乱に愛すべき人を殺す悪魔、充幸の大切なものを壊し、ただ嗤う、嗤い続ける。それは母の変わり果てた姿であり、かつ、充幸の将来でもあった。

「やだ…嫌だ…なりたくない!なりたくない!」

走馬灯のように流れたイメージは消えた。今にも殺される瞬間に、彼女は現れた。持っていた杖で獣を殴り飛ばすと、充幸の顔を見下した。

「アサ…シン…?」

「獣の涎か、汝の血か、よく分からんが、とにかく臭いぞ。」

アサシンはやれやれと言った表情で充幸の手を取り、起き上がらせた。彼女の登場に安心したのか、充幸の目からは大粒の涙が零れ落ちた。充幸自身何が何だか分からないまま、アサシンの腰に抱き着いて彼女の服を涙で濡らした。

「おい、こら、何をしている!」

「何で何処かに行っちゃうんですか!サーヴァントなのに、来るのが遅すぎます、死ぬ所だったんですから!」

「鬱陶しい!令呪でも何でも使って呼び戻せばよかろうに!くっつくな!臭いし汚い!」

充幸は言葉にならない声で泣き叫ぶ。余程怖い思いをしたのだろう、アサシンは敢えて振り解かず、倒れ込んだ獣を見据えていた。この獣が立ち上がり、再び襲ってくるまではこのままでも良いと思ったのだ。

「…悪かったな。」

充幸に聞こえない程の小さな声でアサシンは呟いた。王である自らが下等市民に謝るなどもっての外だが、彼女はそれを言うべきだと考えたのだ。

数秒後に獣は再起した。アサシンを睨みつけると、標的を変更したのか、彼女ににじり寄る。充幸を脇に追いやったアサシンは獣に杖を突き立てた。途端に暴れ始める獣はその爪でアサシンの喉元を掻き切ろうとするが、アサシンは隠し持っていたナイフで、逆に獣の顔を斬りつけることに成功する。獣は痛みに転げ回った。

「これがバーサーカーか?」

「いえ、バーサーカーやランサーは別にいます。この獣の正体については判別不能です。」

充幸が見たバーサーカーやランサーは全く異なる人型であった。もしかすると生前狼に纏わる伝説を持った英霊が使役しているのかもしれない。

「まぁ何にせよ、ここで仕留めるか。」

アサシンは再び杖を構えるが、ここでトイレから戻った本物のテイオスが暗い路地裏に姿を現した。充幸は本物のテイオスの登場に驚いたが、彼には何のことやらさっぱりである。

「何だい、何が起きた。」

「下がっていろ、神父。死にたくなければな。」

テイオスは獣の姿を視認すると、表情を曇らせる。その怪異の存在をまるで理解しているかのように。

獣は血を吐きつつも立ち上がると、今度はテイオス目がけて突進する。充幸が危ないと叫ぶより先に、彼は屈み、祈る体制に入った。

殺伐とした状況で、場所も選ばぬ神への祈祷が始まる。獣は足を止めると、まるでそれを神聖なものだと理解している風に、その声に聞き入っていた。充幸も、アサシンも、その光景に唖然とする。

祈りが終わり、すっかり大人しくなった獣に近付くと、テイオスは胸ポケットにしまっていた拳銃を狼の額に押し当てた。

「ジェヴォーダンの獣、姿を見せた理由は、僕のため、だったんだね。」

「おま…ゆるさ…ト…」

「ジャン・シャストル、ここは君がいるべき場所ではない。もう君たちの戦いはとっくの昔に終わっているのだから。」

テイオスは引き金を引いた。黒き獣は何も言わず、光の粒子となる。その最期は余りにも呆気のないものであった。

テイオスは拳銃を再びしまうと、充幸の方を見つめる。彼女達は、彼を不審に思っているはずである。

「貴様、何者だ?何を知っている?」

最初に口を開いたのはアサシンであった。テイオスは煙草に火を付けると、その場で一服し始める。その姿は億劫そうだ。

「因果、因縁、そういった類のものです。僕には呪いとさえ思えますよ。彼はサーヴァント、アーチャー、真名はジャン・シャストル。ジェヴォーダンの獣を殺した男です。」

「アーチャー、新たに召喚されたのか?」

「いえ、あれは過去の遺物。本来であれば存在しないサーヴァント。何故なら彼は既に聖杯戦争に召喚され、敗れた者ですから。英霊ではなく、悪霊とでも思って頂ければ、それで。我ながら本当、お喋りが過ぎますね。」

テイオスは吸殻を持っていた袋に入れた。辺りに捨てない姿は聖職者であるからか、充幸はそんな下らないことを考えていた。

「貴様には貴様の事情がある訳だな。最後に一つ聞いておきたい、貴様は敵か?」

「…どちらでもないですな。」

アサシンはその答えに満足したのか、充幸を連れて陽の当たる大通りまで出ようとする。充幸はテイオスに聞きたいことがまだあったが、アサシンがそれを許さなかった。

「一つだけ忠告させてください。敵も貴方様も、まだサナギだ。先に蝶になった者が戦争の勝利者になるでしょう。真実に辿り着くことだけを目指してください。必ずそこに聖杯はある。」

テイオスの言葉を理解できた者はこの場にはいない。いずれ充幸は蝶に辿り着く、そのことをテイオスだけが知っていたのだ。

 


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