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感想等お待ちしております。誤字がございましたらご連絡ください。
男は孤独であった。
聡明な青年は、自らの価値を認めていた、故に価値のない全てのものに目を向けないようにしていた。
どれだけ周囲が彼に近付こうとも、彼はそれを突き放した。人間の一生はとても短い、一秒でも彼らと対話することは無駄であるのだから。
即ち、言葉とは世界の真理を紐解く道具である。間違っても、誰かと対話する為のものでは無い。
だから、同じ歳の人間が何をしていても興味が無かった。
男がそこまでして原初の理に辿り着こうと足掻いていたのは、今にして思えば、何ということも無い。ただ、そうすることが正しいことだと思い込んでいたからだ。
彼はその執念の末、ただ一人でそれを為し得た。齢にして七十、思えば随分と長生きしたものである。
悲願を達成した彼は、この世界のシステムを理解した。過去も、未来も、その全てのデータを閲覧できる。さながら神になったよう、彼は嬉々としてその全てを吸収する。
「何だ、これは…」
―何だ、何だ、何だ、何だ、何だ、何だ、何だ、何だ?
彼が見た者は、一言で表すのであれば〈空虚〉。ヒトが生きる意味など、この世界には用意されていないのだ。
手に取る書物を全て破り捨てる。男が生きて来た七十年、男が生きて行く永遠、その全てに一切の価値など無かったのだ。
「嘘だ…こんな、空白である筈が無い。」
ヒトの営みが、ヒトの叡智が、空っぽである筈が無い。それを認めてしまったら、人間が生きる意味を失ってしまう。
正しさも、美しさも、善さも、尊さも、彼の手から零れ落ちる。掴もうとしても、それはもはや風と共に流れる砂である。青き希望は、白き絶望へ変わり果てた。
男の目からは雫が流れ落ちる。彼がいたはずの光輝く空間も、気付けば白の砂漠である。
そして男は全てを諦めた。
人間の形は要らない、人間の言葉は要らない、人間の希望は要らない。
全てを捨て去り、白き空を見上げた。
「c4[a94[a94iulqe」
生前、彼が学問以外に、唯一心を動かしたもの。ひらひらと優雅に舞う蝶の美しい羽根を彼は今こそ欲する。
それは再生の象徴たる虹色への渇望。
―きっともう飛べはしないけれど。
彼は翼で身を包み、眠った。
やがて来る、出会いの時まで。
【第七章】
蝶の羽を背中に宿した男は、今日もまた白の砂漠を見つめていた。人間であった頃の感情は数百年前に捨て去った。そして同じく、この世界を俯瞰する権利も放棄する。男は自分が神のごとき存在であることに必要性を見出せなかった。神であるならば生物の行く末を見届け、数々の知恵を授けなければならない。だが彼にとってそれはこの上なく面倒なことだ。人間の為す偉業など、この宇宙という広大な空間において塵芥同然のモノ、それはこの庭園の書物が証明した事柄である。
「3333333」
男は数十年ぶりに空を見上げた。虚空に浮かぶモノなどここには存在しないはずである。そう、存在しないはずであった。
音が聞こえたのだ、空を豪快に割って、何かが飛来する音が。この庭園に訪れるであろう二人目の来訪者、その性質が善性であれ悪性であれ、確かにこの世界に舞い降りようとしている。
「2ql/」
そして来訪者は男の目前に現れた。天使が舞い降りる様ではなく、隕石が落下するように。白き砂を全身に浴びて、探検家はオアシスを見つける。来訪者は蝶の男と向き合い、その場で腰を下ろした。
「貴方様は神であられるか?」
蝶の羽を持つ男は何も答えない。来訪者の口から発せられる記号は、解読するに値しない、そう判断している。
「ふむ、では僕が身勝手に貴方様を神と仮定して話させて頂きます。この場所は神の庭であるならば、えらく空虚ですが、建造物など創造はされない様子で。ふむ、ありとあらゆる物事に対し、無関心。それが神の本質でありましょうか。」
男は何やら記号を発し続ける来訪者に指を刺した。その瞬間、来訪者の身体は数キロ先まで吹き飛ぶ。来訪者は再び白い砂まみれになりながら、蝶の男に近付いた。
「暴力はいけませんな。言葉を用いて語り合いましょう。貴女様が神で在るならば、我が言葉を理解し得る筈です。それとも、その権能を持たぬほどに、神は堕落してしまったので?」
「4.xe」
「おお、やはり声帯はあるのですね。なるほど、ヘリオポリスで学んだことは正しかったのだ。ふむ、この砂漠から帰るなり、書物に纏めよう。我が亡き師にも伝えなくては。ところで、一体何とおっしゃったのでしょうね。」
「2ql/[eoue[t5;t5:」
「成程、これは僕の能力を試す神の試練という訳でありますか。お任せください、幸い時間は無限にあります故、解き明かしてみせましょう。」
来訪者はそこから蝶の男の口から洩れる記号、その解読に勤しんだ。男は数年に一度のペースで音を鳴らすため、その解読には百年とかかってしまう。だが来訪者は飲まず食わずとも、この庭園では生きてゆくことが出来た。
来訪者は蝶の羽持つ異形の発声をパターン化し、それを自らの言語に当てはめる。途方もない作業であるが、彼は嬉々としてそれを行った。
「この場所はやはり神の庭であるのですね。何故ならば、僕がここに来た百年前から毛の一本すら抜けずにそのままだ。僕という存在が固定、保存されているのですね。これは色々と知見を深めるに値する、素晴らしい空間だ。」
「私は、決して神ではない。」
「そうですか。では貴方様は何者なんです?」
男は驚愕した。来訪者が男の発する記号を理解していたことに。彼はこの永遠の空間で退屈することも無く、最短距離で、男のことを把握しようと努めたのだ。
「お前、名は何だ。私と話そうとする、お前の名は。」
「僕ですか。そういえば百年間の付き合いなのに、まだ名乗ってはいませんでしたね。名はアリストクレス、皆からは〈プラトン〉と呼ばれています。」
「プラ…トン、お前は何故、私と語ろうとする、言葉を捨てたはずの私と。お前が元いた世界に帰ろうと願うならば、今すぐにでも叶ったはずだ。お前は、お前自身の意思で、この箱庭に留まったというのか、何故、何故?」
男は立ち上がり、プラトンの肩を掴んだ。捨てたはずの言葉が、感情が、白き砂漠に溢れ出す。プラトンは神がごとき存在にようやく気付かれた気がして、思わず頬を緩ませた。
「話をしましょう、貴方様を知りたいのです。こうして話すことが出来れば、互いに独りでは無い。我々はもはや一つの共同体であるのだから。」
「そこに、何の意味があるというのだ。」
「たった今、貴方様は多くの言葉を紡ぎ、怒りの感情を僕にぶつけた。それは貴方が神で無いことを証明している。僕の知る神は、ここまで人間臭くは無いからね。」
プラトンは蝶の羽根を宿す異形を、ただ一人の人間と認めた。彼が神で無いと告げる限りにおいては。
プラトンは言葉を続ける。
「何の意味があるのか、その答えはただ一つ、言葉を介して語ることが全ての動物の中で唯一ヒトに許された特権であるからして、我々には世界が生まれた訳を、世界が滅びゆく訳を、解き明かすことが出来るのです。共有することが出来るのです。」
男はプラトンの言う意味が分からない。この世界の全てを知り、人類の営みに何の意味も見出せなかった彼には。
「あぁ、あぁ、お前は知らないのだな、人類の辿る終末を、世界の理を、真実を、ならばその全てを知り絶望するがよいさ。私と同じようにな。」
男は無限の書物を創造する。それはかつて彼が心を躍らせながら読み耽った世界の謎を解き明かす物語。プラトンは突如生まれた本の山を見つめ、その一つ一つをゆっくりと読み進めていく。それは人が歩んだ歴史、これから先、未来の記憶だ。
「そうか、戦争は終わらぬか…」
「そうだプラトン、地球を殺したのは陽の光でも月の導きでも無い、他ならぬ人間のエゴイズム。ヒトが生み出した希望が、人間を滅亡させたのだ。」
プラトンは時間をかけて一冊一冊を丁寧に読み解く。その姿を男は真摯に見つめていた。
そして一年もかからぬうちに無限と思しき書籍の山を読破したのだ。プラトンは息をつくと、砂漠に大の字で寝転がった。男はプラトンの言葉を座って待ち続ける。
「なるほどなぁ。人間の存在意義はこの世界には無いと、そうかそうか、はははは。」
男はプラトンが虚無の表情を浮かべていると信じて疑わなかった。だからこそ彼が、腹がよじれる程笑った姿を見て、精神がついぞ壊れてしまったと解釈した。
「すみません、そうか、世界に意味など無いか。実に面白い。」
「面白い?」
「あぁ、世界が人間の生存意義を認めぬのであれば、我々が自分自身で認めるしかないということだ。成程、神は何とも放任主義なことよ。」
「待て、プラトン。貴様は、この世界から否定されて何も感じないというのか?何故笑っていられる?」
「あぁそうか、僕と君には決定的な差異がある。人間を〈肯定〉しているか否かだ。」
男は言葉を詰まらせる。彼は生前から人間の存在は、人間の言葉は、世界の理を解き明かすための鍵であると捉えていた。それは、世界という大いなる枠組みにとって個人の質は関係せず、人間という一つの集合体の持つ可能性で物事を測っていたということだ。それは決して間違いでは無いが、世界がちっぽけであればあるほど、人間の価値は相対的に下がってゆく。
「プラトン、お前はどう考える。世界の終末を知ったお前は、どうこれから生きて行くのだ。」
「単純なことです、蝶よ。世界の終末が必ず訪れるのであれば、それはもはや我々に止められることではない。だが、それはそうと、書物を再び読んでみてください。あることに気付くはずだ。」
プラトンは山の中から一冊を手渡す。蝶の羽持つ異形はそれを受け取ると、余りにも久々に文字と邂逅した。パラパラとページを捲りながら、プラトンの言わんとすることを探す。
「何に、気付くというのだ。終わりは必ず訪れる。お前もそれを学んだはずだ。変わらない、変わらない、何も変わらない…!」
「読むペースが速いですよ。」
「これは世界が辿る記憶の一部だ。こんな過程を読んだところで…」
男はページを捲る手を止めた。プラトンの言わんとすることを理解する。それは男にとって絶対に辿り着かなかったであろう一つの答え。
「事実は変わらない、世界の破滅は変えられない、だがプラトン、お前は…」
「あぁ、人間の幸福は変えられる。」
「馬鹿な…」
―そこに、意味がある筈など、無いというのに。
蝶はプラトンを見つめ、そして悟る。プラトンの言わんとする人間を肯定することとはすなわち、不確定要素たる人間の感情もまた歴史の一部として認めるということだ。
「プラトン、それは決して正しいことでは無い。正しいことでは無いのだ。世界最期の日に笑う者などいるはずもないことはお前にも分かるだろう。必ずそこには恐怖が生まれる、必ずだ。」
「そうかも、しれませんな。」
プラトンは空を仰いだ。ギリシアで過ごした時より多くをこの砂漠で生きたが、不思議とその実感が湧かなかった。愛する者の死が昨日のことのように思われるからだ。
「我が師、ソクラテスは人間の手で殺されました。僕はその瞬間、何もかもが真っ白になって、何も考えられなくなった。でも僕には彼の死を悲しんでいる時間は無いのです。それは他ならぬ彼が望むだろうこと。ソクラテスは真の哲学者だった、だからこそ僕は語らなければならない。彼の死をただ悲しい事件で終わらせてはならなかったのだ。どれだけ辛い現実が待ち受けていようと、人の身には神霊が宿る。ソクラテスは死してなお我が心にて生き続けている。ヒトは、あらゆることを乗り越えて前に進むことが出来るのだ。」
「お前は、そうか…」
男は足元の砂を両手で掬った。それは彼が絶望と共に捨て去った全てだ。もしこの場所へ最初に来たのがプラトンであれば、何もかもが違っていただろうか。世界の提出した人類史にはその未来は存在し得ないけれども、その〈もしも〉を考えてしまう。
「蝶よ、貴方様の名前は何と?」
男は暫く考えた後に、名乗ることを諦めた。
「呼ぶ名が無いのは実にやり辛い。僕があだ名を付けてもよろしいかな。神で無いならば、そう、〈イデア〉と呼ばせて頂こう。」
「イデア?」
「全てを超越し、全てを俯瞰する神がごとき神非ざる者。貴方様は知の創造者でありながらも知を手放した。そう、人類の父アダムが如き存在だ。だからこそ、この名がふさわしいと思われます。人間の原型(プロトタイプ)、それが君だ。」
「私が人間の型だと?」
「貴方様が人間と同じ所まで降りて来てくれないと、会話が出来ませんからな。」
プラトンは満面の笑みを浮かべた。イデアはようやく理解する、何故、彼が二人目の来訪者であったのか。彼はたとえ神が如き力を有しても、それを行使しないだろう。この点はイデアも同じ。だがその思想の面で甚だ乖離がある。プラトンは何処までも愚直に、人間の言葉を信じているのだ。余りにもちっぽけな個人の幸せを祈ることの出来る、ただの人間であったのだ、と。
そういえば、プラトンがここへ到着してすぐに、こんなことを言っていた気がする。
「言葉を紡ぐには引き金がいる。
それは歩くことでもあるし、話すことでもある。
ただそこに佇むことから新たな知性は生まれない。
歩き、話し、五感から美なるものを吸収せよ。
正しき知恵は正しき行動より生まれ出づるのだ。」
それは全てを捨てた一匹の蝶への喝であり、プラトンの哲人としての在り方でもあった。
「プラトンよ、私は君ともう少し話がしたくなった。思えば、私には人間の可能性に絶望する権利は無かったのだ。何故ならば、私は余りにも人間を知らない。教えてくれ、君の親を、君の兄弟を、君の師を、君の友を、何より、君を。」
「ははは、さぁ、これは長くなるぞ。多くを語ろう。我々にはその権利がある。」
たとえ世界が閉ざされても、きっとプラトンならばー
※ ※ ※
イデアとプラトンが出会った日から、一万年近く経過した。
イデアは茫然と人間の在り様を観察していた。話す相手がいないのは、こうも退屈なものである。
ある日、プラトンは元の世界に帰ると言った。このイデア界(白き砂漠をプラトンはそう表現した)に存在する限りにおいて彼は永遠に等しい命を手に入れたはずである、にも関わらず、それを放棄する選択をしたのだ。
彼は理想の世界を築きたいと言った。それは世界が終末に進もうとも、ヒトが幸福を追求できる未来。プラトンはただの人間として、これから先戦うことを決断した。それは余りにも過酷な道のりではあるけれども、イデアは笑って手を振った。友であるプラトンならば、必ずや成し遂げると信じて。
そして世界に戻り、彼は天寿を全うした。その生涯は後の人間たちの思想体系に多大な貢献をもたらすものだったと言える。イデアにはそれが、自分のことのように嬉しかった。
「あぁプラトン、我が友よ、君とまた話したい。」
イデアはこの世界で生きる内に、以下の事柄に気付いた。まず一点目に、彼が俯瞰する世界とイデア界とでは時の流れが全く異なるということ、二点目に、彼が世界へ降り立つ決断をした際には、その権能の殆どが消失するということである。元はただの数学者であった彼がイデア界に辿り着いたことにより、神が如き力を与えられた、それはプラトンも同じ、歳を重ねることが無いのはイデア界の効能であるようだ。
―ならばこそ、この場所から見守ろう。
プラトンの理想社会が実現するまで、ここで待ち続けよう。彼はそう心に決めた。もう絶望は無い、ヒトには言葉を用いて議論する能力があるからこそ、最期の日まで、より多くの個が自らの為に、人の為に、幸福を追求することが出来る。
そう、イデアは信じていた、はずだったのだ。
彼は偶然にも、世界のある一点で、その存在を目撃してしまった。
フランスの地で起こった聖杯戦争、そこに召喚されたのは彼の唯一無二の友である。
「プラ…トン…?」
聖杯戦争、そのシステムは既に知っている。己が願いの為に、他者を殺害する悪辣な儀式、それは言葉を交わす余地すらない、醜き執念のぶつけ合い。過去に死に絶えた英傑の魂が現世の民を殺戮、凌辱する、イデアが知る絶望そのものである。
「プラトンが英雄なのは理解できる。何故、何故、君は召喚されたのだ?君の願いは、祈りは、戦争をしてまで手に入れたいものだったのか?」
否、否、そんなことはあり得ない。彼ほどの聡明な人間が、自らの信念を捨てるはずがない。イデアが捨てた言葉を、想いを、希望を拾い上げた者こそがプラトンなのだから。
イデアは困惑する。彼の俯瞰は広く、そして浅い。プラトンがルーラークラスで呼ばれたこと等、イデアには知りようも無い。彼は目を見開き、立ち上がる。およそ彼は冷静では無かった。イデア界を離れ、世界に降り立つ決意をする。プラトンが騙されているならば、友として救わなければならない。他ならぬ彼が自分にそうしてくれたように。
「私が救わなければ、私が…」
そして彼は再び全てを捨て、友のいる世界へ舞い降りた。
そう、また、捨ててしまったのだ。
生前の姿に形状変化したイデアは、彼のいる教会へと走った。
もはやイデア界の恩恵は無いに等しい、彼はもはやただの人間である。
彼はプラトンがいると思しき教会に辿り着くと、膨大な悪意が友の傍に在ることを確認する。他のサーヴァントが、彼を殺そうとしているのかも知れない。
「おい、プラトン!」
彼は扉を勢いよく開く。そこには懐かしき友の姿と、英霊の管理者、マスターと思しき男が一人、他に、姿かたちは見えないが、何かとてつもない悪霊が男の近くにいることを察した。この感覚はイデア界で培われた者では無い。生前の彼は魔術に対しても造詣が深かったのだろう。悪意に満ちた見えない何かは、聖杯戦争で呼ばれたサーヴァントなのだろうか。
イデアはプラトンの危機を察し、彼に駆け寄ろうとする。しかしそれはマスターと思しき男の魔術によって防がれた。突如現れた水のバリケードがイデアの進行を妨げたのだ。
「おい、ルーラー。一般人はここに入れたら駄目なんじゃなかったか?」
男は呆れた顔でプラトンを見つめる。プラトンの傍にいたのは聖杯戦争に参加したアーチャーのマスターである。彼は監督役であるルーラーに用があってこの場所に来ていた。
プラトンはアーチャーのマスターに水のバリケードを解除するよう促す。そしてイデアの元へ一人歩いてきた。
「プラトン…」
「…君は…」
「プラトン、私は君に会いに来たんだ。あぁ、久しぶりだ。こんな高揚感は何千年ぶりだろうか…」
「君は、誰だ?何故、僕の真名を知っている?」
イデアの中の時が止まった。
彼は唖然としたまま、何とか言葉を絞り出す。
「イデア、貴方がくれた名前だ。僕は君の友だ。」
「確かに僕は生前、イデアについては色々と書き記したが、それはあらゆるものの真なる形を指して表現したものだ。君のような人間のことでは無い。はてさて、どこで出会ったのだろうか、多くの人間と語り合う生涯だったからなぁ。」
―嘘だ。
「すまないが、教会は本日閉館だ。祈るならば近くの山道を少し歩いて行くと良い。」
―嘘だ。
「うん?どうした、聞こえているかね、おーい。」
―嘘だ。
「おいルーラー。彼奴はお前の知り合いか何かか?キャスターかアサシンのマスターならウチのサーヴァントが一発お見舞いするところだろうがよ。」
―嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ。
「プラトン、君はイデア界に居た、確かに居たはずだ、そうだろ?」
「何のことだ全く。」
イデアは数歩後ずさりする。
目の前に在るのは正しくプラトンである。だがイデア界で出会った彼はそこにはいない。
世界は、彼という英雄からその記録を奪い去った。終末を知りつつも、戦っていくと決心した彼の雄姿を、消滅させたのだ。
分かっているとも、理解しているとも、彼がたとえあの砂漠に辿り着くことが無かったにせよ、同じ理想を掲げ戦い抜いたことは。だがイデアを人間として認めた彼が、この地球上から抹消されたことは、どうにも寂しく感じられた。
「プラトン…私は…」
次の言葉が出てこない。人間の脳ではこの状況を処理するには余りにも時間がかかってしまう。醜き戦争に参加した彼は、もはや遠い存在なのかもしれない。嗚呼、こんなことになるならば、ずっと外からこの世界の行く末を、彼の理想が体現する様を見届けていればよかったのだ。
イデアはプラトンに背を向け、この場を去ろうとした。これ以上彼と話せば正気を保っていられる自信が無い。彼はフラフラと、教会の扉へ向かって歩いて行った。
刹那、銃声が轟き、彼の胸元が赤に染まる。後ろから得体の知れぬ何者かに射抜かれた。イデアはその衝撃で床に崩れ落ちた。
「おいおい、スパイかもしれねぇのに帰すわけ無いだろうがよ。」
イデアの心臓を貫いたのは、アーチャーであるジャン・シャストルの鉛玉。只の人間であるイデアは殺意に気付く間もなく殺害される。プラトンもまた驚き、アーチャーのマスターへの怒りを露わにする。
イデアの意識が途切れる寸前、彼はプラトンの教えを思い出した。
「ヒトはその生まれた場所で運命が決定付けられる。畑を耕す親元であれば子もまた農家となり、戦う親に鍛えられれば子は兵士となる。それは理想では無い、と僕は考えるのだ。何故ならば子が親と同一個体である訳では無く、農家に生まれた子が動物を狩るプロフェッショナルである可能性も大いにあるからね。」
「そうだな、世界の記憶では、先の未来、選択の自由を手に入れる国も現れる。私もそれが正しいと考えるよ、プラトン。」
「だが残念なことに我が時代にはその理想は縁遠きものであるのだ。親が子を育てる以上、そこには金銭的、時間的な問題が絡んでくる。子が勇者になりたいと訴える前に、学びを吸収する前に、親の指示を受け、道を決められてしまうからね。親とは子を教育するものであるが、それは謂わば独善的支配による意思決定であると言える。哲人が国を善きものにする為に学問は必須であるが、それを享受する機会すら用意されないのは余りにも毒だ。」
「即ち君は、子を抱く親に学びの場を先に与えるべきだと?」
「否、それは時間が許さない。その職に準じている者の働きを止めることは、国を滅ぼす原因となりかねない。残念なことに、私たちには既に親である者に時間を振り分ける余裕が残されていないのだ。ならばこそ、その連鎖を断ち切るべく、僕はこう提案する。子を国が教育せよ、と。」
「国が一律に管理することで、能力に応じた職業選択を行うという訳か。それは余りにも規模の大きな話だ。」
「あぁ、難しい話だ。だが子は大人と違い可能性が十二分にある。その芽を断ち切ることは古びた体制を存続させていくことになりかねない。貴族の子も、農民の子も、等しく同じ子であるからして、教育を施されることは義務であるのだ。」
「義務、か。」
「イデア、君は僕の友である。つまり教えを共有する親であり、子でもあるのだ。もし君がまだ道を選択できていないというならば、君の理想に辿り着くまで僕も傍で考えよう。それが友の特権だからね。」
イデアは自らの理想に辿り着いた。それはプラトンの理想社会の実現を見届けることである。それを彼に話した際に、プラトンは頬を掻いて照れくさそうに笑っていた。
―あぁ、もし叶うのであれば…
彼の理想が見たかった。
彼の笑顔が見たかった。
薄れゆく意識の中で、イデアはただそう願ったのだ。
そして死した彼の願望は、歪な奇跡を体現した。
突如教会に光り輝く金の杯が顕現する。それはこの戦いの勝者が手にするはずの願望器、アーチャーも、そのマスターも、そしてプラトンもまた、驚愕の色を隠せない。その聖杯は本来のシステムから生まれたものでは無く、ダーニックの世迷言に騙された者の手によって作られしモノである。だからこそ、であろうか。模造の聖杯は本来の機能から逸脱し、参加者ですらない一人の男に共鳴してしまった。聖杯そのものが今や亡骸となったイデアの身体を飲み込み、新たな人の形を創造する。そう、ここにイデアは生まれ変わる。大きな蝶の翼と共に。
「何が、起こっている?」
アーチャーはすぐさま銃を構えるが、願望器を壊す判断には至れない。彼のマスターはただその光に見惚れていた。
イデアの意識は覚醒する。だが彼はもはやプラトンの友として生きた彼ではない。それはプラトンの理想を叶える為だけのオートマタ。彼の願いの為ならば手段すら厭わない冷酷なマシーンである。
全てを超越するその姿に、プラトンはハッとする。かつて、何処かで彼と出会ったことがあるような、そんな妄想に駆られる。彼は激しい頭痛を覚え、その場で蹲った。
イデアは鼓動する胸に手を当てる。違いない、彼は一度死んで蘇った。彼は静かに身体の内に流れる血液の流動を感じ取った。
「蝶とは、即ち再生。私に与えられた最後の機能はこれだったのだな。」
イデアは手始めに、内なる聖杯に呼ばれし三つの魂を吸収した。アーチャーのクラス、ジャン・シャストル、キャスターのクラス、ダイダロス、アサシンのクラス、ハサン・サッバーハ、三騎は跡形もなくその場から消滅する。そして彼はサーヴァントの持つ宝具を発動できる権能を得た。イデアはプラトンを他所に、全てのマスターをアサシンの宝具『妄想幻像(ザバーニーヤ)』で殺害し、聖杯戦争を終わらせた。だがまだ足りない、プラトンの理想を叶える為には、まだ四騎、英霊の魂が必要となる。
イデアはプラトンの傍に寄ると、彼の姿を模倣した。
「君は一体…何者なんだ?」
「…友だよ、プラトン。君の為に、私は血を流そう。歯向かう敵は殲滅し、君の夢を叶えよう。君の笑顔を再び見る為に、私は殺してでも全てを救済する。」
恐らくイデアは、この時すでに、壊れていたのかもしれない。
だが彼は愚直にも信じている。言葉が人と人とを繋ぐ、言葉を用いて語れば、戦争は無くなる。だが裏を返せば、言葉を用いぬ者はただ殺すのみである。戦争を起こさぬ為に、彼は全てを殺すのだ。
「君は…矛盾しているよ…」
―あぁ、そうかも知れない。
イデアはプラトンの胸をその腕で貫いた。彼の血を一身に浴びながらイデアは涙を流す。
「君の理想の為に、私は君を殺そう。」
―あぁ、笑ってくれプラトン。君の理想は必ず叶う。人類に幸福を。この世界に祝福を。
そして時は流れ、彼は一人の男(エンゾ)を立役者に、聖杯戦争を生み出した。エンゾが召喚したセイバー、ナリエが召喚したライダー、リューガンが召喚したバーサーカー、そしてイデアが召喚したランサー、この四騎で、彼の願いはついぞ叶う。アサシンまでもが召喚されたことはイレギュラーだが、それは大した問題でもない。彼はプラトンの兄であるグラコンの名を借りて最後の戦いに挑むのだ。総ては理想(プラトン)の為に。
※ ※ ※
充幸とアサシンはジェヴォーダンの獣に襲われた裏路地にいた。充幸は時計を気にしながら、ある人物の到着を待つ。
「充幸…我はどうすればよいでしょうか。」
「そうですね、アサシンは皇帝エサルハドンを演じていてください。」
陰鬱な空間を指定したのは充幸である。この場所であれば、いざ戦闘が開始されても外の人間には気付かれにくい。この付近はバーサーカーが根城にしていたのか、殺戮が行われ、人の数も疎らである。
不意に足音が聞こえた。どうやら目的の人物が到着したようだ。充幸は振り返り、対象の人間を捉える。
「ナリエ・ダルマーロ。」
「こんな場所に呼び出すなんて、貴女正気?外の男が言い寄ってきて本当に面倒だったわ。」
「来て頂いて有難うございます。」
充幸は心の籠らない謝辞を述べた。
アサシンは手に持っていた小鳥を解放する。するとそれはナリエの元へ帰って行った。これはナリエが充幸の監視に付けていた一匹、前の雑居ビルでの戦闘時から居場所の把握のために付けていたが、充幸には易々と気付かれていたようだ。
「ホテルにラブレターを届けるなら、別に室内に入ってきても良かったじゃない。敢えてこんな場所を指定するなんて充幸ってば本当根暗ね。」
「何とでも。ホテルに迎撃魔術を敷いていることは知っていますからね。貴女の手口は数年前からお見通しです。」
充幸は真っ直ぐな視線でナリエを捉えている。その瞳はいつでも殺し合いが出来るという決意の表れでもある。ナリエはどこか億劫そうな表情を浮かべた。
「充幸、どうせ貴女の方で調べがついているでしょう?私は今セイバーのマスターと共闘関係にある。私が前のような醜態を晒すと思って?」
「つまり傍にセイバーとそのマスターも来ていると…?まぁ、嘘ですよね。」
充幸はそれがハッタリだと確信している。この場所を敢えて選んだのも理由があってのことだ。
「何故嘘だと?」
「貴女は今バーサーカーという切り札を隠しているはずだからですよ。私は鬼の力で土着した人の血液、肉片、そして悪意を読み解くことが出来る。この路地裏でバーサーカーが戦闘を行った形跡からそのマスターのいるはずのアジトを突き止めたら、既に何者かに殺害されていたんです。」
「…」
「彼のいた場所でロケットペンダントを見つけました。貴女の写真が入った、ね。きっと彼も私と同じ、貴女の口車に乗って聖杯戦争に参加した哀れな傀儡だったのでしょう。バーサーカーがマスターを失い、その場で消滅しなかったのは、ナリエ・ダルマーロの持つ魔術の応用、消滅の時間を遅らせる呪いなのではないですか?」
ナリエは口元を抑え笑った。ここまで彼女に見透かされているとは。やはり彼女の自滅を狙って戦争の数合わせにしたのは過ちだった。
「バーサーカーの真名は既に知りました。恐らく彼はこの聖杯戦争では一番強いでしょう。そんな武器を貴女が有しているということをセイバー陣営に伝えている筈が無い。それは間違いなく貴女の切り札なのだから。」
「で?充幸は結局私を呼び出して何がしたい訳?今更共闘でもしようっていうの?」
ナリエは冗談めかしく言うが、充幸は口角をあげた。
「そうです。一時共闘といきませんか?」
「は?」
「私は理由があってランサーと戦わなければならない、だからあなたにその間は邪魔されたくないんです。代わりに、アサシンの宝具『連綿たりし我の国(ダ―リウム・マートゥム)』の発動を封じます。」
「…っ」
「ナリエ、貴女の浦島太郎は固有結界宝具を有しています。そして私のアサシンも同じ、二つの心象風景をぶつけ合い、そちらにリソースを割くことを貴女はしたくないはずだ。だから私は貴女のいる場所で固有結界の宝具を一切使用しない。」
ナリエは腕を組み、長考した。充幸とランサーの間に因縁があったことも驚きだが、彼女がナリエに対し交渉のテーブルを用意してきたことはこれが初めてだ。経験も場数も違う詐欺師ナリエに、真っ当に挑もうとする、その姿勢に驚愕を隠せない様子だ。
「充幸がランサーに拘る理由は何?私と戦った時そういう素振りは無かったから、その後に何かがあったのだろうけど。」
「あの槍の男を殺すのは我だ。この王を前に無礼を働く奴をこれ以上野放しにするつもりは無い。我が殺す、それだけだ。」
アサシンはランサーへの憎しみを露わにする。ナリエはプライドの高いアサシンの怒りを目の当たりにして、ランサーへの執着の理由については納得できた。ただ一つ問題点があるならば、いまバーサーカーはランサー陣営に奪われた状態であるということ。そしてこのバーサーカーがセイバー攻略への切り札であるということだ。
―でもまぁ、どちらにせよ殺すことには変わりない。
ナリエにとって一番の障害は、ライダーの切り札を封じることの出来るアサシンの固有結界である。それは充幸も理解しているからこそ、そこを交渉の材料に持ってきた。ならばこそそれに応えよう。ランサーを狙うのは充幸の意思では無くアサシンの怒りであるから。
「いいわ。乗ってあげる。」
「有難うございます。」
「…ただ、口約束だなんて思わないでね。当然それなりのものは用意させてもらうわ。」
ナリエは充幸にあるものを手渡した。
「これは…」
「自己強制証明(セルフギアス・スクロール)。まぁ魔術師というか鬼の末裔な貴女に効力があるかは分からないけど、ちゃんと契約してもらうわよ、命を捧げてね。」
これは魔術師世界における違約不可の呪いである。互いの契約内容はこうだ。まずナリエはランサーのクラスのサーヴァントの消滅が確認されるまで、充幸、及びアサシンへの攻撃は不可である。そして充幸は、同じくランサーの消滅まではナリエ、及びライダーへの攻撃は出来ず、ライダーが宝具を発動する効果範囲内においてアサシンの固有結界宝具の使用を禁止する。ここに一時的な共闘が実現される。
ただナリエにはセイバー陣営との共闘関係がある。いざとなればセイバーがアサシンを殺すことも可能だが、そんなことは充幸も承知済みだろう。そういう状況になれば、バーサーカーが生存している理由がナリエにあることを、彼女は迷いなく公開する。ナリエはこれから、充幸の行動に対しても細心の注意を払わねばならないということだ。
充幸とナリエは契約を交わすと、互いの城へと帰っていく。充幸は今の住居である廃屋に付くと、アサシンとハイタッチした。
「凄い演技力だったよアサシン。上手くナリエを騙せたね。」
「もうエサルハドンとしての権能は失いましたが、案外神妙な顔つきだけでも騙せるものなのですね。今も緊張で鼓動が早まっていますよ。」
ランサーとの交戦から数日たち、二人の関係はまるで友人のように進歩していた。それはエサルハドンの身代わり王のほとんどが名も無き貧民街の子ども達であったことも起因している。もはや今のアサシンは一介の魔術師でも簡単に屠れるほどにまで弱体化してしまっているが、彼女たちは全く諦めてなどいなかった。
「とりあえず、ランサーを倒して力を取り戻す。その間にナリエに邪魔されちゃ話にならないからね。でもどうやってアウラングセーブを攻略するか…」
「充幸、可能かどうかは分かりませんが、貴女が前に言っていた方法、試してみる価値はあるのでは?」
「あぁ、あれね。かなり馬鹿げた方法だけど、もし奪われたものが取り返せたなら…」
「我々はこの戦争で勝利を掴み取れます。」
それは身代わり王にとって酷な選択ではあるけれど、彼女は屈託ない笑みを浮かべた。
充幸は彼女の温かい手を握る。アサシンは少し照れ笑いを浮かべつつも、充幸の少し冷たい手を両手で包み込んだ。充幸は少し恥ずかしくなって手を引っ込めようとするが、アサシンがそれを許さない。アサシンは膝をつくと、充幸の手の甲にそっと口づけした。
「我は充幸のサーヴァントです。貴女の為に戦います。きっとそれは、我の中にいる全てのエサルハドンの願いです。」
充幸は気恥ずかしさに頬を掻いた、が、悪い気はしなかった。
充幸と身代わり王、二人の最初で最後の戦いが、始まろうとしていた。