紛物語 作:空海鼠
001
春上明莉は僕にとって、親戚のお姉さんのような存在だ。
酒を飲むことを至上のこととし、常に貧乏。
宵越しの金は持っていないのかもしれない。
前の家に住んでいた頃も、気が付いたら家に上がり込んでいて「あ、お邪魔してます。霞田くん」と言いつつ酒を飲んでいる。そんな印象しかなかった。それで、いざ酔っぱらったら「霞田……いいか。街角でのキャッチセールスだけは、絶対に信用したらいけないぞ。あいつらは私の今月の家賃の分まで取っていきやがった!」なんて愚痴を零す。ポジションとしては、親戚のお姉さんじゃなくて、親戚のおっさんと同等だ。
本州の方に住んでいるというのに、いつの間にか現れて、酒をひとしきり飲んだら帰って行く。何故万年金欠の彼女にそんなことができたのかは知らないが、こっちに来る金があったら家賃を払えというツッコミはしなかった。
彼女は、僕にも来る度に借金をしているからだ。ちなみに、その金は半分ほど返ってきていない。いい加減返せと言いたいところだが、やはり彼女は万年金欠。催促をしたところで返ってくる確立は10%にも満たないだろう。
そもそも、春上姉さんは母さん───妹の母親の後輩らしいのだが、外見がとんでもなく若い。以前、一緒に並んで買い物に行ったときなど、姉弟に間違われたほどだ。
外見年齢───十代後半。
自称年齢───二十代前半。
実年齢───二十代後半。
母さんの後輩にしては実年齢の方も十分若いので、母さんが留年マスターだったのか、春上姉さんがスッキプのお得意な人だったのか、はたまた未来から来た青狸の力を借りたのかという疑問が湧いてくる。だが、母さんはこの話になると決まってお茶を濁すので、母さんが留年していたという可能性が高いのではないかと、息子として心配になってくる。
閑話休題。
そんな春上明莉だが、僕が約半年前から通い始めた直江津高校の保健教諭であることが判明した。僕としては、彼女が定職に就いていたということ自体が驚きのことであったにも関わらず、教師などという安定した職に就いていたことなど、まさに青天の霹靂であった。
社会適応力の無い駄目人間だと思っていた。
未成年から金借りる時点で駄目人間だけれど。
彼女は保険医として、それこそ、彼女を知っている人間から見れば異常なほど───よく働いている。怪我や病気の生徒への対応もさながら、精神的に不安定な生徒へのカウンセリングも、案外評判がいい。財政的に不安定がしていることとは思えないほどだ。
春上姉さんは、基本的に傍若無人でもある。
僕がふと携帯を見ると、いつの間にか彼女の番号とメールアドレスが登録してあったり、僕の財布を覗くと、いつの間にか諭吉さんの代わりに「借ります」と顔文字付きのメモが入っていたりするのだ。そして、その金は酒へと消えて、返ってこない。ここまでがテンプレートと言ってもいいだろう。
生活能力も皆無で、以前僕が彼女の家を訪ねたときなど、ビニール袋やプラスチックの容器などが散乱していて、足の踏み場もなかったほどだ。さらに、そのゴミのほとんどがコンビニ弁当やカップラーメンの容器だったところを見ると、まともに自炊もできないらしい。
とても───こんな大人になりたいとは、お世辞でも言えなかった。
おそらく彼女の性格から考えると、こんな状況でも楽観的に。三十までには結婚できるだろうと、何の根拠もなく───考えているのだろう。なまじ、外見がいいだけ悲惨だった。
いい加減、白馬の王子様を信じる歳でもないだろうに。
現実とは違う夢物語など、信じるべきではないだろうに。
夢見がちで楽観的。
こんなプロフィールを持っているからこそ、彼女はいつも、へらへらと笑っていられるのかもしれないと思うと、少し羨ましかった。
こうなりたいとは───思わないけど。
誰だって、そうだろう。
自分以外の者になりたいだなんて、正常な人間ならまず思わない。
他人の何かに嫉妬したとしても、それは外見であったり、運動神経であったり、才能だったりするだろう。他人そのものに───精神まで、成り代わりたいだなんて、普通は思わないだろう。
閑話休題。
とにかく、僕と春上明莉との関係は、銀行と利用者の関係くらいでしかないだろうというのは、彼女も僕も、お互いに思っていたことだろう。
そうだと思っていた。
けれど。
佐伯哉美に関する、虚亀の事件が解決して約一週間。しばらくの平穏を満喫していたときのことだった。もっと具体的に言うと、僕がいつも通り、放課後に学習塾跡の廃墟の近くにある私有地に勝手に立ち入って、僕の数少ない友人である或羽と通話をしているときのことだった。
春上姉さんがこっちへと歩いてくるのが遠目に見えた。
最初は、家に鍵がかかっていたから、僕に直接金を借りに来たのかと思った。
或羽に少し待ってもらい、鞄の中から財布を取り出したところで、異変に気が付いた。
その人物───春上明莉と思われる人物は。
ゆらゆらと蠢いて。
僕の姿へと、形を変えたのだった。
002
『…………どうかしたかい?さっきから無言だけど』
或羽の心配そうな声で、正気に戻った。改めて正面を見ても、そこに僕の姿をした春上姉さんの姿はなく、ただ「私有地」や「立ち入り禁止」の張り紙があるだけだった。
目を擦り、微細な目の痒みや痛みを感じて、これが夢でないことを確認しつつ、もう一度正面を見る。
やはり、そこには誰の姿もなかった。
「いや、少しドッペルゲンガーと遭遇しちゃったみたいでね。気にしなくてもいいと思うよ」
『気にしない要素がどこにも見あたらないよ!?』
「いや、大丈夫だよ。見ちゃったとしても、最悪死ぬだけだろ?」
『今の会話のどの辺に大丈夫だと言えるのがあったんだ!?』
「強いて言うなら、『いや、』の部分かな」
『心の底からどうでもいいよ!』
一呼吸置いて、少し落ち着いたらしい或羽が心配そうな声で、尋ねてくる。
『なあ、本当に大丈夫なのかい?怪異がらみだったら、いつまでもそんな脳天気なこと言ってる場合じゃないからな?』
全く、その通りだ。脳天気なことを言っている場合ではないのだ。これだから或羽は駄目人間扱いされるんだ。
『何で僕が悪いみたいな流れになってるんだ!?』
或羽が全力で渾身のツッコミをしたところで。
ふと───僕に近寄ってくる影があった。
念のためというか、念には念を入れて、或羽との会話を打ち切って携帯をしまう。
太陽はまだ夕日へとクラスチェンジを果たす前だが、ピントがぼけたように、はっきりとは見えない───言うなれば、本当はここにはないような影だ。
別の世界から無理矢理、この次元へと連れてきたなら、こうなってしまうのではないかと思うような、気味の悪い影。
周りの景色ははっきり見える。だが───そこだけが見えない。
ほぼ直感だが、間違いなく怪異と見ていいだろう。
左右後ろは行き止まり。唯一の逃げ道である前方方向も影に塞がれている。どうやって逃げるべきだろうか。というか、逃げるべきなのだろうか。
野生の熊に出会ったときは、慌てず騒がず対処すれば問題ないと聞いたことがある。怪異は確かに熊とは違うだろうが、少なくとも───騒いでいいことなど一つもないように思える。無闇に刺激するのはよくないだろう。
その影は、ゆらゆらと不定形なまま揺れて、やがて固定された形へと変化する。
直江津高校の保健教諭───春上明莉へ。
「霞田くん、ここに立ち入り禁止って書いているような気がするんですけど」
「見間違いじゃないですか?ほら春上保険教諭、ここ、教師が勤務時間中にビールを持って来るくらいなんですから」
「……………………………………………………気のせいですね!だから私が勤務時間中にビールを持ってやって来ても不思議なんてありませんよ!」
「それでいいのかよ、教師さん……」
全く悪びれることなく言い切られると、まるでそれが悪いことではないかのように思えてくるから、不思議だ。
目の前にいるのは、春上明莉だ。性格、容姿、少なくとも、表面上をざっと見ただけでは僕の知る春上明莉と変わりない。
さっきの影が見間違いだったのかと思い、再び目を擦る。
「くぅ~、うまい!」
再び目を開いたときには、既に春上姉さんが隣に座って、ビールを堪能していた。
……いや、僕が目を擦ってたのって、長くても二秒くらいなんだけど。僕の隣に座ってビールをコンビニ袋から取り出してプルタブを開けてビールを飲む一連の動作を、僅か二秒で成し遂げたというのか。
なんというか───春上姉さんそのものが、怪異じみていた。
「なあ、霞田。お前、つまみとか持ってるか?」
春上姉さんが、オフの口調───猫を被らない口調で聞いてくる。
「持ってる訳ないですよ。僕は未来狸じゃないんですから、好きなときに好きなものを取り出せるなんてことはないんです」
「仕方ない、買ってくるか……」
そう言って、無造作にポケットに手を突っ込んで財布を取り出した。そして、そのまま停止した。
のぞき込んでみると、十円玉が二枚に、五円玉が一枚、一円玉が三枚と、合計二十八円が安物の財布の中に収まっている。
「…………」
「…………うまい棒くらいなら、買えるんじゃないですか?」
「お前、金貸す。私、つまみ買う。みんな、幸せ」
「異議ありその『みんな』には僕とその他の人間が含まれていない可能性があります」
というか、春上姉さんとコンビニの店員くらいだろ、それで幸せになるのは。
春上姉さんは、さらに焦った様子で頼み込んでくる。
「ほ、ほら。私とお前の中じゃないか!お世話になった恩人につまみを奢ってやろうという気持ちはないのか!」
「借りた金を返してから言ってください……っと、失礼」
携帯が鳴って、或羽からの電話が来たことをお知らせしてくる。そういえば、さっき何も言わずに通話を終了してしまった。或羽が何かあったのかと危惧して電話してくるのも仕方がないだろう。
「はい、もしもしこちら葛飾区」
『……ぶっ、無事だったかい……』
僕のボケをスルーして、僕の安全を喜んでくれる或羽。これは喜んでいいのか、残念に思ったらいいのか、微妙なラインだ。
とりあえず自分は無事である、何も問題はない───という旨の内容を何度か説明し、或羽の心配を解く。
『───なあ、一応、花崗ちゃんに言っておいた方がいいんじゃないか?見間違いだったとしても、保険くらいにはなるだろう』
「あー、うん。一応言っておくつもりだ。僕は何よりも自分の身がかわいいからね」
そう言うと、或羽は、
『…………昴、きみが何でも背負う必要なんてないからな。僕だって、きみの重荷の半分にも満たない量だろうけど、背負ってるものはあるんだ。だから───誰かにきみの重荷を背負わせても、きっとそれは悪いことじゃない』
と邪推だらけの言葉を言った。まったく、或羽は僕を誤解しきっている。偽善者にもなりきれないような奴が、どうしていい奴のように語られるのだろう。
僕は褒められたような人間じゃないのだ。
謙遜でも何でもなく、ただ、純粋に。
ちらりと横目でビールを楽しそうに飲む春上姉さんを一瞥し、ビールの空き缶が五個も増えていることに驚く。
「……やっぱこの人怪異なんだろうか」
『え?何か言ったかい?』
「いいや、こっちの話だ。もう切るぞ」
『うん、わかった』
ピッとボタンを押して通話を終了して、携帯を鞄にしまう。そろそろ帰ろうかと、鞄を持ち上げて春上姉さんの方向を向くと。
「………………うめー」
空き缶が十個に増えていた。
やっぱ怪異なのかな、この人。
バレンタインデー、結果報告。
家族・二個。
義理・一個。
チロル・一個。