彼は満たされる事はなかった。
自身の家がどれだけ裕福か理解はしていた。こんな珍しい食事を取れる事は、ここまで快適な生活を送れる人は、大日本帝国にもいくらかもいない。しかし、どれだけ自身が恵まれていても、『この程度』という感情が離れてくれなかった。
両親は困惑していただろう。頭も良く手の掛からない孝行息子が何を与えても満足せず、不満を心に募らせていたのだから。
彼にとってさらに幸福だったのは、両親が叱るでもなく、興味を失うのでもなく、会話をしてくれた事だった。
一体何が不満なのか、これの何が悪いのか。事細かに彼に尋ね、聞き出した。そして、その不満を解消できるように、改修改良を加えたものを持ってきた。
牛鍋の肉が生臭いと言えば、どこから聞いたのか香草類を練り込んだ牛肉が出てきた事もあった。どうしてそうなるのかと、思わず彼は笑った。
彼の呟く不満に、全く異なった物を持ってきたこともあった。時には粗悪になった事もあった。
決して心から満足するものは得られなかった。だが、いつしか一つ一つの『変化』に、一喜一憂するようになっていた。
気づいた時には、心の内に澱んでいた不満は無くなり、『変化』が好きになっていた。
――だが、こんな『変化』なんて望んでいなかった。
走れば汽車より速く景色が流れ、太々とした樹木を掴めば、半ばまで指が穿つ。
深い暗闇も日中のように見渡せ、鋭い葉で切れた傷は瞬く間に塞がれる。
何だ。何だこの変化は。
そして何より耐え難かったのが、内より湧き出る渇き。川に頭を突っ込み、何度も何度も水を飲んでも渇きは引いていかない。腹も膨らまない。そして、この渇きを満たすために、本能が訴える。
――人を喰らえ、と。
水を飲む、そのあまりの苦しさに彼は頭を川から出す。息を荒げ、自身の降りかかった事態に頭がついてこず、呆然とする。
そうしてどれぐらいの時間が経っただろうか。顔を伝っていた雫は何時しかなくなり、波紋を広げていた水面が静かにたゆたう。そして、水面に一人の男が浮かび上がり──絶望した。
白いを通り越して青白い肌。
赤く煌めく瞳に、鋭い牙。
水面に映し出された己の顔は――まさに鬼。
どうしてこうなったのか。
どうしてこうなってしまったのか。
ぐるぐると巡る不安に、しかし彼はどうすることもできず。ただただ、腹を空かしながら涙を流すしか出来なかった。
○
時は大正、場は帝都。
ハイカラーシャツに黒いスーツを着た青年が夜道を歩いていた。帝都では、ようやく馴染み始めた洋服。しかし、道行く人々は彼の姿を見て顔をしかめる。首元にネクタイはなく、さらに幾つかのボタンは外されただらしない姿だったからだ。しかし、不思議とその格好に違和感はなく、いつの間にか不快感は露と消えていくが、その隣を見て再び顔をしかめる。
水玉模様の和装の女性。少々つり上がった目尻と、腰まで伸びた艶やかな黒髪が特徴の可愛いというより美しい女性だが、目を引くのは容姿ではなく、その体躯だ。五尺六寸は優に超えており、その視線は大人の男性を見下ろすほどであった。そんな淑女らしくない女性が隣の青年と肩を触れ合うほど近くで歩いている。そのはしたない姿に、人々は顔をしかめているのだった。
だが、隣を歩く青年──
「今日は楽しかったか?」
「はい、すごく!! ──っ」
彼女は思わずといった形で声を張り上げ、自身のはしたない行動に頬を赤らめる。
今日は彼女にとって初めて尽くしの事だった。
最初は緊張していた彼女も、活動写真を見て人が動いていると興奮を露わにしていた。初めて食べる洋食の馴染みのない味に、困惑していた。初めての飲酒、それもワインを飲んで盛大に咽せていた。
コロコロと変わる環の表情に、かなり強引であったものの誘って良かったと心の底から弦司は思った。
しばらくして、顔の赤みが引いた環が真剣な表情で弦司を見る。
「本日は本当にありがとうございました」
「いいよ。元々は俺が強引に連れ回したんだ。こちらこそ、最後まで付いてきてくれてありがとうな」
「そ、そんな、弦司様に感謝されるような事なんて、私は何も……」
言い、環は視線を地面に落とす。
「弦司様は初めて会ったときから何もない私に、たくさんのものを下さいました。でも、私はあなた様に何も返せておりません」
「……」
弦司が初めて会ったのは、たまたま入った喫茶店だ。そこで環は働いていた。
初めて会った時、環は常に俯いていた。体の大きかった彼女は、男性から見ても背が高い。後に聞いた話だが、環は何回も背の高さを揶揄され、その度に縁談は破談になった。やがて、人の目を見て話せなくなり、人を見下ろさないために俯くようになったらしい。今も自分に自信を持てていないのか、時折不安そうに視線を落とし俯いてしまう。
(そこまでカッコいい話じゃないんだけどなぁ)
弦司は初対面で環の内心全てを察していた訳ではない。多少は彼女の不安な表情に気づいたが、だからといって同情した訳でもない。
線が細いにも関わらず、出るとこは出ている体。彫りが深く、鼻筋が通った美しい顔立ち。彼女の魅力にいち早く気づいて己のものにしようとした、下心満点の行動だった。
たまたま環が弦司の好みに合って。幸いな事に弦司が環よりも背が高く、見下げる必要がなくて。お互いが欲しかったものを、お互いが持っていた。それだけの事なのである。
そう、切っ掛けはそれだけの事。だけど、今はそれ以上の想いが胸の内にあった。
弦司はしばらく思案すると、
「いっぱいもらっているよ」
今抱いている想いを、そのまま伝える事にした。
「色々連れ回して珍しいもの見せたと思うんだけどな、俺が本当に好きなのは『変化』なんだ」
「変化、ですか?」
「今日見た活動写真だって、前はただの写真だったんだ。それが変化して、今じゃ写真が動くようになった」
「確かに、父と母の時代からは考えられない、すごい変化ですね」
「ああ。だけどな、きっとまだまだ変わっていく」
「今でも十分すごいのに、まだ変わるのですか?」
「まずは音がつく。写真に映っている人の声が、一緒に聞けるようになるんだ」
「ええっ!? それじゃあ、活弁の人はどうなるのですか?」
「なくなる。それに『変化』するのは、音だけじゃない。写真も白黒も終わって、今見ている景色と同じ色彩が着くようにもなるはずだ」
「本当ですか? ふふっ、そうなったら今よりドキドキして見れますね」
道を曲がり、暗い路地裏に入る。月明かりが僅か差し込む。薄暗闇の中でも、環の大きな瞳がキラキラ輝いているのが弦司には見えた。
「そうやって、隣で一喜一憂『変化』してくれる君が、嬉しいんだ」
「え?」
環が驚きからか足を止める。
「隣で自分と同じように過ごしてくれてる。考えてみれば当たり前の事だけど、俺は自分の満足ばかり考えていたんだ。俺は目の前にあるものは何でも、未来の『変化』を夢想できる。だけど、他の人から見たら目の前にあるのは拙い、珍品としか言えない代物なんだ。そんなものを見ても、物珍しいだけで楽しくなんてない。口さがない奴は、俺の事『悪食家』なんて呼んだりもしてる。それでも、俺は『変化』が感じ取れればいい……そんな風に思っていたんだ」
「弦司様……」
「けど、君は俺の隣で俺と同じように一喜一憂『変化』してくれる。誰かと同じ気持ちで同じ時間を過ごす……そんな当たり前に君は気づかしてくれたんだ。だから、いっぱいもらっている。今、この瞬間も」
「……」
「できればこれから先も。有るだけの限り、俺の隣で『変化』して欲しい」
「げ、弦司様……それって、あの……!」
「あっ……」
気づけば、言うはずのなかった言葉まで声にしていた。それは裏路地の静寂な暗闇がもたらしたものか。まるで、この世界に弦司と環、二人きりしかいない錯覚に陥りそうになる。だけど、環となら本当に二人きりになってもいい。
弦司は環の手を取った。
「熊谷環さん。俺は自分の時間を全て、あなたに捧げます。あなたの時間を、俺にいただけないでしょうか?」
──もし、ここで環が頷けていたら。
二人は結ばれて、愛を育み温かい家庭を築いて。時々不幸に巡り合っても、小さな幸せを積み重ねて最後には笑い合えていただろう。
だがこの時、環は頷けなかった。
「不愉快な会話だ」
「っ!?」
一人の男の声が割って入り、弦司と環は手を離し声の元へと視線を向ける。
そこにいたのは、白い中折れ帽を被り、黒いジャケットを羽織ったモダンな紳士。しかし、何より目を惹くのは服装ではなく、まるで作り物めいた美しさを持った容貌。欠点の見当たらない美麗な容姿に、青白いほど白い肌。むしろ人形といった方が納得できる、そんな容貌であった。
「……これは申し訳ない」
弦司は咄嗟に環の前に出ると、優雅に頭を下げる。不躾な言葉であったが、往来での逢瀬。確かに、不愉快に思う人は多い。しかし、下手に出て何かされては堪らない。そう思い、卑屈にならないように考えた結果の行動だった。
「すぐに立ち去りましょう。お耳汚し、申し訳ない」
「『変化』はその全てにおいて劣化だ。私の望む『不変』から最も遠い」
「……あなたの考えは分かりました。私にあなたの考えを否定するつもりはありません」
弦司は言いながら、全身から嫌な汗が流れる。男の自身以外全てを見下すような侮蔑しかない視線が、恐ろしかった。言葉が届いている気がしなかった。
「私の言は聞き流していただけるとありがたい」
「たかが人間の言葉など留める訳がない。だが、貴様は私を不快にさせた」
最早、ここまで言われて会話が成り立つとは思えない。弦司は環を連れて大通りに逃げだそうとしたが──できなかった。
「報いが必要だ」
「がっ!?」
気づけば、男の指先が首に突き刺さっていた。瞬間、何かが体内に流れ込む。同時に内臓を掻き回されるような激痛。弦司は地面に倒れ、のたうち回る。
環の悲鳴が聞こえる。逃げろと叫びたかった。だが、口からは血と苦悶しか出てこない。
「貴様には『永遠』を与えよう。『変化』しない自分に『不変』の中でのたうち回れ」
男が嘲笑を残して立ち去る。
永遠? 不変? 男の言っている意味がまるで分からない。己に何をしたのか。何がどうなっているのか。湧き上がる疑問はしかし、まるで自分が塗り替わっていくような、不快と苦痛により露へと消えていく。
激痛が走り吐血する度に、皮が、肉が、骨が、自分の知らない何かに変わっていく。そして、それはさらに身体の内側へ――心へと侵食していく。
『今、お前は優れた生物へと成ろうとしている』
『人間の部分を全て捨てろ』
『そして下らない人間どもを喰らえ』
まるで心に直接囁かれているような。聞くたびに、酩酊のような感覚に陥る甘美な声がした。
もういいじゃないか。もう頑張ったじゃないか。だから、心を渡したっていい――。
何度も、そんな諦めが頭を過ぎった。
――だが、どんな激痛に苛まれても、弦司はこの『変化』だけは受け入れられなかった。
皮膚が、肉が、骨が、自身の存在が何に変わろうとも。今この瞬間も抱いていた環への想い。
自分でなくなってもいい。ただ、この心だけは、己が生み出した唯一無二のモノ。誰にも犯されたくはなかった。
そう思った時、まるで走馬灯のように様々な映像が頭に思い浮かんだ。
――映画、エアコン、洗濯機――。
しかし、そのいずれも弦司の見たことないもので、だが確かに経験したことでもあって。
心を蝕もうとする何かと、次々と浮かび上がるモノ。
二つはぶつかり合い、せめぎ合い、弦司の中で暴れまわる。永遠に続くと思われた二つの争いは、一際大きな音を立ててぶつかり合い、その衝撃に弦司は意識を手放した。
○
最初に弦司が感じたのは、酷い渇きと飢えであった。まるで生まれて一度も飲食をしていないような、心の底から湧き上がる渇望だった。
のろのろと身を起こすと、体から布団がずり落ちる。視界に入るのは、古い木造の一間。どうやら、誰かに部屋に寝かしつけられていたらしい。
あれから何が起こり、自分はどうなったのか。本来なら尋ねる疑問も、今の弦司にはどうでも良かった。飢えを満たす……それしか頭になかった。
「弦司様っ……!」
隣で小さく声が上がった。環だった。しかし、目の下には隈があり隠しきれない焦燥が顔に浮かんでいた。きっと、弦司を介抱したのは環なのだろう。
それがとても嬉しくて愛おしくて――
あまりに自然に湧き上がった欲求に、弦司は一瞬それが正しいものと思ってしまった。だから、そのまま環を手にかけようとして──。
「弦司様……! 弦司様が目を覚ましたぁっ……!」
歓喜で縋りつく環に、弦司は我に返る。
今、自分は愛する人に何を抱いた? 何をしようとした?
混乱の内にある弦司に、密着した環の感触が伝わってくる。しっかりと熟れた彼女の体は、どれだけの旨みを秘めているのか。想像するだけで、弦司の口から涎が溢れた。
「う……うわぁっ!!」
「きゃっ!!」
本能から訴えかける衝動に、弦司は堪らず環を突き飛ばし立ち上がった。
床に倒れ、呆然と見上げる環の目は大きく丸い。口の中で転がすと、どんな味がするのか。朱の差した頬肉も、柔らかくて美味しいだろう。そんな想像が次々と浮かび上がって止まらなかった。気づけば、布団は弦司の涎で濡れていた。
「弦司様……その、どこか悪いのですか……」
呆然としながらも、環は立ち上がり弦司を慮る。だが、それは弦司にとって苦痛でしかなかった。彼女の甘い香りも、柔らかい声音も、温もりでさえも……食欲をそそる調味料にしかならないのだから。
「――めろ」
「うう、でもどうしましょう……こんな時間に病院は診察させていただけるか分かりませんし……心苦しいですが、診療所のおじさまの下を訪ね」
「やめてくれぇぇぇぇっ!!!」
もう耐えられなかった。自身の欲求と矛盾だらけの想いに。
弦司は堪らず環に背を向け、部屋を飛び出す。
「嫌……待って!! 弦司様!!」
弦司の背中から、悲痛な叫びが上がる。振り返りたかった。抱きしめたかった。だが、次に環を見て食欲を抑えられる自信がなかった。
サヨナラ
そんな冷たい言葉しか返せず、弦司は夜の帝都へと逃げ出した。
○
「やめてくれ」
逃げ出した先も地獄だった。
人、人、人。
当たり前だが、帝都はどこへ行っても人だらけだった。その度に本能は疼き、飢えと渇きがぶり返した。もはや、涎は留まることなく流れ落ち、弦司は涎を拭うことすら諦めた。
とにかく人がいない場所へ、いない場所へと駆け続けた。それがより飢餓を増長させ自身を苦しめると分かっていても、人を想う心だけは譲れなかった。
そうして無我夢中で走り続け、気づけば景色が変わっていた。
鬱蒼とした木々とせせらぎ。いつの間にか、山奥のかなり森が深いところまで来ていた。
人がいない。それが弦司に僅かな心の余裕を与えたのか、走りながら周囲を見渡す。
木々がとてつもなく早く後ろに流れていた。
足を止め木の幹に手を置き、何の気なしに握り締めれば、指が半ばまで樹木に食い込んだ。
深い暗闇の中でも、日中のように木々を見渡せ、駆けていた際に葉で切った皮膚はすでに塞がれていた。
己が変わってしまった事は分かっていた。だからといって、こんな『変化』受け入れられるはずもなかった。
「もう、やめてくれ」
弱音を呟くが、その声に応えてくれる人はいない。自ら人から離れたのだ。助けてくれる人など、周囲にいるはずもなかった。
「くっそ……! やめてくれよ! もう……収まってくれよ!!」
そして、嘆くだけでは、苦しむだけでは、飢えと渇きが収まるはずもない。
弦司はせせらぎへと向かった。すぐに小川が見つかり、水を手で掬って飲んだ。だが、渇きは引かない。腹も膨らまない。小川に頭を突っ込んで何度も何度も飲んだ。それでも、渇きは満たされず、本能が訴える。
――人を喰らえ、と。
弦司は苦しくなり、頭を小川から出す。
「はぁっ……はぁっ……」
荒い息を吐き、呆然とする。もう何も考えたくなかった。
そうしてどれぐらいの時間が経っただろうか。顔を伝っていた雫は何時しかなくなり、波紋を広げていた水面が静かにたゆたう。そして、水面に弦司が浮かび上がり――絶望した。
白いを通り越して青白い肌。
赤く煌めく瞳に、鋭い牙。
水面に映し出された己の顔は――まさに鬼。
「ああ……ああ……!」
どうしてこうなったのか。
どうしてこうなってしまったのか。
「うわあああああああああああああああっ!!」
しかし彼はどうすることもできず。ただただ、腹を空かしながら涙を流すしか出来なかった。