……はい、ごめんなさい。
頭空っぽにして下さい、よろしくお願いいたします。
弦司は激怒した。かの才色兼備の
――私達の子どもができました
手紙の冒頭がこれである。
薄々感じていたが、お蝶夫人には男心が分からぬ。お蝶夫人は鬼殺隊の柱である。鬼の頚を斬り、妹と共に暮らしていた。邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。けれども、男に対しては、人一倍に鈍感であった。
女性が男性に遊び半分でかけてはならぬ言葉がある。
『私と仕事、どっちが大事なの』
『生理が来ないの』
『あなたの子よ』
全て男を一撃で打ちのめす言葉である。手紙の冒頭文はそれらに匹敵する。
お蝶夫人はもう捨て置けぬ。一週間、湯豆腐の刑に処す事を弦司は決意した。
――
弦司は手紙の内容を読み返す。
要約すると『女の子買いました』。
久方ぶりにカナエとしのぶ両名で行った任務で、何でそうなるのか。弦司には女心が分からなくなった。
分からない事は、棚に上げるのが一番である。
兎にも角にも、胡蝶家に新たな住人が増えるのは決まった。事情はどうあれ、これは喜ばしい事である。今日は豪勢な歓迎会の準備しなければ。弦司は歓迎会の準備の傍ら、豆腐を切り始めた。
こうして
弦司が胡蝶家に来て、三カ月目の事であった。
○
蝶屋敷には居住区の他に診療所、弦司の要望に応えた調理場などがある。
今、弦司がいるのは、そのいずれでもない。訓練のための、俗に武道場と言われる場所だった。
体を動かすには十分広く、天井も高い。床は畳敷きで怪我もしにくい。ここで、弦司はしのぶと対峙していた。弦司は隠の、しのぶは鬼殺隊の隊服をそれぞれ着ている。
しのぶは木刀の切っ先を弦司に向ける。彼我の距離はおよそ二間もない。しのぶの一足で、彼女の間合いだ。対して、弦司は無手。
攻防は音もなく始まった。
瞬く間に、木刀の切っ先が弦司の肩を捉えた。弦司は体を捻り躱す。反撃に手刀を振るうも、すでにしのぶは間合いの外へ逃れる。
仕切り直し、と思った時、しのぶの呼吸が変わる。
蟲の呼吸 蝶ノ舞・戯れ
しのぶの動きが変わる。人の動きから蟲の動きへ。緩急をついた不規則な前進。それはまるで蝶の羽ばたきのようだった。
目がついていかない。体の反応が遅れる。それでも、二撃目まで躱した弦司だったが、三度目の突きが腹部を捉えた。
弦司はそのまま吹っ飛ばされて、大の字に畳の上に倒れる。
しのぶの動きが人に戻る。切っ先は弦司に向けたまま、深く息を吐き出す。
「私の勝ち」
「参りました」
しのぶは優しく笑うと弦司に手を差し伸べる。弦司はありがとう、と答えてから彼女の手を取った。
──弦司が胡蝶家に来て四カ月。
二カ月前の悲劇……しのぶには何か思う所があったらしく、彼女は変わっていった。これまで以上に鬼殺に訓練、研究に熱を上げる一方、顰めていただけの表情に柔らかさが加わった。今までなかった一本のしなやかな
対して弦司は……彼女ほど変われていない。変わろうとはしている。戦い方も捨て身だけでなく、戦況に応じて臨機応変に変えるようにした。カナエに頼み込んで、彼女の任務に追随するようになった。より積極的に、しのぶの研究にも携わるようになった。だが、なぜか前に進んでいる気がしなかった。
毎日、胡蝶姉妹に貢献し、鬼の研究にも協力してもらっている。それでも、停滞感が纏わりつく。原因は今も分かっていない。
ちなみに、カナエもあまり変化が見られない。強いて挙げるとすれば、時々、異様に弦司との距離感が近い事があるぐらいだろうか。本当にそれ以外の変化が見られない。
色々自信を揺るがされ、カナエこそ弦司は変わると思っていたのだが。蝶屋敷での日常を保とうと気遣っているのか。それとも他に思惑があるのか。弦司には分からなかった。本当に女心は難しい。
弦司は難題を棚に上げ、しのぶに引かれて立ち上がる。彼女は体を解しながら反省を口にする。
「普通の動きを織り交ぜても、当たったのは、三撃目からかー。もうちょっと、動きの練度を上げないと使いづらいかも」
「いやいや、十分動きは鋭いって。俺じゃあ、もう止められない」
「二撃まで避けてて、それはないでしょ。そもそも、一撃も避けさせない自信、あったんだから」
「まあ、それは慣れってことで。しかし、突きの性質上、しょうがない部分はあるぞ。攻撃面積が狭いから、一度捉えられたら避けやすい」
「とりあえず、今は練度を上げる事に集中するわ。そっちの対策は、少しずつ考えてみる」
こういった実践を想定した訓練は、しのぶとは頻繁に行っていた。弦司は無手における体の使い方を学ぶために。しのぶは
――呼吸法。
鬼に劣る人が、鬼と戦うために幾星霜を重ね編み出した、戦闘技術である。
弦司は呼吸法が使えないので正確に理解はできていないが、呼吸を起点とした身体操法の一種らしい。
身体能力の向上に加え、先のしのぶのように人それぞれの肉体に合った動作を行う事ができる。効果は絶大で、これにより数百年に渡り、人は鬼と戦い続ける事ができていた。
しかし、人は人だ。呼吸法が使えたからといって、急に強くなる事はできない。絶え間ない過酷な鍛錬の末、ようやく鬼の頚に刃が届く。
しのぶはもちろん、カナエも毎日欠かさず訓練を続けていた。そして今、しのぶは自身の肉体に適した呼吸法の練度を、上げている最中にあった。弦司の協力を経て、実戦に耐えられる段階まできているが、しのぶに慢心はない。少しでも練度が上がるよう、現在も試行錯誤を続けていた。
「でも、やっぱりカナヲには私の呼吸法は合わないでしょうね」
「しのぶ専用だ、仕方ないだろう」
しのぶが大きく伸びをしながら、道場の隅を見る。そこには一人の和装の少女が正座していた。クリッとした大きく可愛らしい瞳で、しのぶを追っている。切り揃えられた前髪と、カナエとしのぶと同じ、蝶の髪留めで横に纏められた艶やかな黒髪が、さらに可愛らしさを演出する。
この可憐な容姿を持った少女が、栗花落カナヲ。人買いにまるで動物のように縄で連れられていた。その様子に心痛めた胡蝶姉妹が、連れ帰ったのが彼女である。今は見取り稽古の一環として、カナヲに弦司としのぶの模擬戦を見学させていた。
弦司はカナヲを見ながら、この一ヶ月を思い出す。
「しかし、しのぶが女を買ったって聞いた時にはどうなるかと……いてっ!!」
「その言い方やめてって、いつも言ってるでしょ」
弦司の軽口に、しのぶが蹴りで応酬する。こんなやり取りができる程度には、弦司としのぶの仲も良くなっていた。
弦司は蹴られた太ももを押さえながら、カナヲの隣に座る。今もカナヲの視線はしのぶに釘付けだ。弦司は溜め息が出そうになる。
「
「姉さんは大丈夫とは言うけど……カナヲ、もう訓練は終わったから自由にしていいのよ」
しのぶに言われ視線を外したカナヲだったが、それ以上は何もしない。この年頃の少女であれば足を崩したり、先の模擬戦の感想を言ったり、何かあるはず。だが、カナヲは何もしない。
カナヲは心に大きな傷を負っていた。
カナヲをここに連れて来た時、汚れの方が目立ったが、実際は服の下には数えきれない傷があった。しのぶの見立てでは、その傷は日常的にできていた……つまりは、常日頃からカナヲは虐待を受けていたのだ。おそらく、苦痛に対する防衛本能として『心の声に耳を塞いだ』。だから、自分一人では何も考えず、何もせず。じっとしているのであろう。
弦司もしのぶも何とかしたかったが、心因性のものに特効薬など存在しない。少しずつ、癒していくしかない。
それでも、生きるとは判断の連続だ。いつも弦司達の誰かが付いているとは限らない。そこで、カナエは一枚の銅貨を渡した。一人で判断する時はこの銅貨を投げて決めたらいい、との事だった。
しのぶは怒ってはいたが、弦司はカナエの案に賛成だった。無理に判断させるような事をすれば、カナヲが生き延びるために形成した防衛機能を壊す事になる。それによって何が引き起こされてしまうのか、弦司は恐ろしかった。カナヲの心を守りつつ、彼女が判断を下せるようにするには、銅貨に委ねる他なかった。
だが、それとは別に弦司には不満があった。
しのぶがカナヲの隣に座り前屈する。畳に顔がくっ付いて、後頭部の蝶の髪留めがこんにちわするしのぶに向けて、弦司は声を掛ける。
「それで、カナヲの訓練は続けるのか?」
「もちろん続けるわよ……不破さんの気持ちはよく分かってるから、あまり詰らないでよ」
「……すまん。分かっているつもりなんだが、どうしても思ってしまうんだ」
「いい。本当なら、不破さんの感情の方が一般的なんだから、しょうがないわ」
しのぶは体を起こすと、カナヲの頭を撫でる。カナヲは感情の見えない瞳で、しのぶを見返す。
弦司の不満は他でもない、カナヲを継子とした事だ。ただでさえ過酷な環境にいた少女を鬼殺に赴かせる……弦司はとてもではないが賛成できなかった。とはいえ、胡蝶姉妹の言い分も理解できたため、現在弦司は消極的に賛成している。
まず、純粋にカナヲの能力が秀でている点である。一つ教えれば、一つ吸収する。体力・筋力はともかく、戦闘の技量はすでにカナヲが弦司を上回っているのだ……悲しい事に。彼女が鬼殺隊に入隊すれば、それこそ柱となり何百人、何千人の命を救うだろう。
そしてもう一つ――これが弦司が反対できなくなった理由だが――カナヲは胡蝶姉妹を慕っているのだ。表情にこそ全く表れず、カナヲ自身にも自覚はない。しかし、カナヲは歩く時や食事をする時、日常生活の至る所で、自然とカナエとしのぶの近くに寄る。無意識下で彼女たちを想っている。
もし、カナヲを姉妹から離したりすれば……その時こそ、カナヲは壊れてしまうのではないか。そんな予想が頭を過ぎり、弦司は反対の言葉を飲み込んだ。
しかし、二人は鬼殺隊士。カナヲが姉妹の傍にいるには、カナヲ自身にも同じ力がなければならなかった。
それでも、何かいい方法が他にないのか。弦司はついついついカナヲの頭を撫でながら、考えてしまうのだった。
――ちなみに栗花落カナヲという名は、カナエとしのぶが付けた。可愛いので特に意見もなく弦司は受け入れた。
こうして弦司としのぶがカナヲを愛でていると、突如として道場出入り口の襖が開かれた。
「弦司さん! しのぶ! ここにいたの!」
弦司、しのぶ、カナヲの三人が揃って、闖入者へ視線を向ける。
艶やかな黒髪に一対の蝶の髪留め、蝶の羽を連想させる羽織。胡蝶カナエが満面の笑みを携えて、道場に乱入してきた。一目で気分が高揚しているのが見て取れた。
「いきなり何なんだよ、カナエ? というか、そちらの方は……?」
「……」
弦司としのぶが横に視線をずらすと、そこには鬼殺隊服に真ん中を境に左右で色合いの違う羽織を着た男性がいた。
端正と言っていい容貌だが、切れ長の目に、真一文字に引き結ばれた口から漂う雰囲気は不愛想の一言。今も、神経質そうに眉を顰めていた。
しのぶが小さく「あっ」と声を上げる。
「冨岡さん」
「……誰?」
「姉さんと同じ柱……水柱の
しのぶの紹介に弦司に緊張が走る。鬼殺隊の柱が二人も揃ったのだ。これはただ事ではない……と思いたいが、カナエの様子に不安しかない。
弦司の内心を知らないのか、カナエは楽し気にカナヲに近づくと彼女を立ち上がらせる。そして、カナヲを背後から抱き締めホワホワすると、弦司達三人に向き直る。
「今日集まってもらったのは、他でもありません」
「集まった覚え、一切ないんだが」
「ついに開催が決定しました!」
「おい、聞けよ」
弦司のツッコミをガン無視し、カナエはカナヲを操り人形にして拳を突き上げる。
そして、
――可愛いは正義★第一回カナヲ大会!
そんな事を
義勇は踵を返す。
「俺には関係ない」
「いや、仰る通りです。本当に申し訳ない」
「冨岡さん、気を付けて帰って下さいね」
帰ろうとする義勇と、謝罪と別れの挨拶を述べる弦司としのぶ。
「ちょっとちょっとちょっと!!」
カナエはカナヲを解放して、慌てて止めに入る。
全員律儀で真面目なので、止まってカナエの言葉を待つ。
「最後まで聞いて! 半分くらい真面目な話なんだから!」
「全部真面目にしてから出直して来いよ」
「今日の弦司さん、冷たい! カナヲ、慰めて~!」
カナエは泣き真似をしてから、再びカナヲを拘束する。弦司は銅貨投げないかな、とか思ってカナエの次の行動を待つ。
カナエはカナヲに頭を撫でてもらうと、
「カナヲが蝶屋敷に来て早一ヶ月……ここでの生活に慣れてきたけど、私達、誰一人として見てないわよね?」
「見てないって……何だよ?」
「カナヲの笑顔よ!」
カナエの言う通り、蝶屋敷に来てからの一ヶ月。弦司はカナヲの笑顔を見ていなかった。しのぶに視線を送ると、彼女も悔しそうに首を横に振る。これは由々しき事態だった。
カナエはカナヲの頬を両の掌でムニムニしながら続ける。
「だから私、考えたの。カナヲの真の笑顔を見るには、心の底から
「つまり、どういう事だよ?」
「『可愛いは正義★第一回カナヲ大会』とは、カナヲを笑わせるための大会よ! 開催は三日後! 参加者はここにいる全員! カナヲを笑わせた人には、真のカナヲの笑顔と最高の栄光が手に入れられるわ! 私、しのぶの笑顔が好きだけど、今回はカナヲを優先するからね!」
弦司は立ち上がる。正直、色々としょうもないとは思っている。真の一発とか言いながら、第一回とか何度もやる気じゃねえか、と思わなくもない。しかし、カナヲを笑わせる。それは最重要事項だ。心の傷を癒すには、笑顔は正しく薬なのだ。
そして何より――弦司がカナヲの笑顔を見たい。
弦司がやる気になっていると、隣から呆れたようなため息が聞こえる。
「不破さんまで、姉さんの馬鹿に付き合うの? 止めてよね」
「しのぶ、お前がそのつもりなら止めないさ。だが、笑わせた暁には、いつの日かカナヲにこう言われるんだぞ」
――一番最初に笑顔をくれたのはあなた
「!?」
「どうやら、事の重大さに気づいたようだな」
「っ、ふ、ふん。その手には乗りませんよ。どうせそうやって馬鹿に付き合わせて、私を笑い者にするんでしょ?」
「しのぶ、万が一この大会で俺がカナヲを笑わせると、お前は一生こう言われるんだぞ?」
――あの時のしのぶは何もしてくれなかった
「!?」
「出産に立ち会えなかった父親のようになっても、俺は知らないからな」
「こ、この……! いつも憎らしいほど回る口先男……!」
しのぶが悔しがりながらも立ち上がる。
彼女もとんでもない栄光と称号を、ようやく理解できたようだ。
そうやって二人がやる気になっていると、
「……やはり俺には関係ないようだ。これで失礼する」
義勇が道場を出ていこうとする。
好敵手が一人減る。弦司がそうほくそ笑んでいると、
「冨岡さん、逃げるんですか?」
「!?」
しのぶが呼び止めた。そして、彼女は嘲笑する。
「笑わせる自信がないんですものね、仕方ないです」
「……俺は逃げてない」
「いいんですよ、冨岡さん。人には何でも向き不向きがあります。そして、あなたには幼気な少女を笑わせる力はない……それだけの事です。さあ、尻尾を巻いて逃げて下さい」
必要以上に煽るしのぶ。その目には、冷徹の色が灯っている。
なぜ、と思い弦司は義勇の不愛想な面構えを見て理解した。彼は好敵手ではない。踏み台だ。何かさせれば一瞬で空気は凍り付く。そこを一発決めれば、大爆笑間違いない。さらに、彼を巻き込みさえすれば、事故っても最小限で済むのでは――そんな打算が、見え隠れした。
弦司はしのぶの深謀遠慮に、身を震わせた。彼女は本気で永遠の称号を掴み取る気だ。これは本腰を入れて、戦わねばならないだろう。
「……三日後、また来る」
眉間にしわを寄せて頷く義勇。これで永遠の栄光へ向けた道が、さらに舗装された。
とはいえ、踏み台を踏んでも自身が飛べなければ意味はない。結局は、己の実力が試されるのだ。
「それじゃあ、私も行くわ」
しのぶも続いて出て行く。彼女とは激しい戦いになるだろう。そのためには、さらに策を練らなければならない。
弦司が策を練っていると、カナヲを解放したカナエが顔を引きつらせながら近づいてくる。
「その……参加、ありがとう。でも、何か雲行きが怪しくないかしら?」
「これは戦だ、カナエ。戦いが終わるまで致し方ないし、容赦はしない。冨岡さんには体のいい踏み台になってもらう。しのぶは最大の障害になるだろうが……」
「えぇ……そんな大袈裟な」
カナエが何か辛そうな声を出すと、控えめがちに続ける。
「えっとね……実は冨岡さんを気遣って欲しいって、お館様からご相談があって……」
「それで?」
「カナヲをどうやったら笑わせられるか悩んでもらって、まずは笑顔の大切さを思い出してもらって。そうしたら、誰かと笑う事に興味を持って、もっと人の輪に入るんじゃないか……なんて思ってたんだけど、どう?」
「どうって……なあ、カナエ。カナヲと冨岡、どっちが大切だと思ってるんだ? カナヲだよな」
「どうしたの、弦司さん!? そこはどちらにも気を遣う所でしょ!? 正気になって!?」
「俺は正気さ……それと、そういうの本気でやりたいときは事前に相談しろよ。ご覧の有様だから」
「え、あ、うん」
弦司は言いたい事全て伝えると、道場から出て行く。悲しいがこれは戦だ。カナエとも今回ばかりは、手を携える事はできない。弦司は涙を飲んで、前に進んでいった。
「あれぇ……? 想像してたのと違う……」
後には目を点にして呆然とするカナエ。
そしてカナヲは――銅貨を振って裏が出た――道場を出て、しのぶを追いかけて行った。
○
――三日後。
ついに決戦の日がやってきた。やってきてしまった。
再びカナヲと挑戦者たちが道場に集う。全員が隊服(弦司だけ隠の衣装)という力の入りようである。
審査員であり主賓のカナヲには、道場の中央で座布団の上に座ってもらっている。感情の籠っていない瞳で四者を眺めるカナヲ……それが笑いに染まると考えるだけで、弦司は歓喜に震えた。
「可愛いは正義★第一回カナヲ大会! 開催!」
この三日間で吹っ切れたのか、カナエが高らかに宣言する。
「果たして、この中から栄冠を手にする人は現れるのでしょうか!?」
さらに興が乗ったのか、そんな実況まで付けるカナエ。素晴らしい。何とかカナヲに笑ってもらおうと場を温める。カナエなりの気遣いなのだろう。
――だが、これは戦だ。
喰うか喰われるか。やるかやられるか。笑うか笑わないか。そんな戦場でそんな悠長な気遣い、やっている暇などない。
さっそく弦司は攻撃を開始した。
「それじゃあ、カナエ。一番手は頼む」
「えっ?」
事態が呑み込めず固まるカナエに、しのぶが笑顔で畳みかける。
「参加者は道場にいた全員なんでしょう? 言い出したのも姉さんなんだし、一番手はよろしくね」
「えっ!? ちょっと待って二人とも!?」
ここでようやく弦司達の目的に気付いたのか、カナエは焦り始める。彼女が何の準備もしていないのは、この三日で調査済みだ。ここで矢面に立たされたら、惨劇しかないだろう。
だが、これが戦だ。容赦はしない。弦司の勝利のため、彼女にも踏み台になってもらう。
「私は開催者だから、そんなのやるつもり――!」
「そっか。カナエはカナヲの笑顔が見たくないのか」
「姉さんって笑顔が好きって言ってるけど、それも怪しいものね」
「二人して~~っ!!」
カナエがちょっと泣きそうな顔で弦司達を見る。地団駄までしている。弦司はちょっと楽しくなってきた。
それからしばらく、あうあう言っていたカナエだが、最後の望みとばかりに義勇を見る。彼は顎だけでカナヲを指した。
「分かりました! どうなっても知らないから!」
カナエはカナヲの前に座ると、チラチラと弦司達を見る。止めないからさっさとやっておくれ、と一同全員、顎でカナヲを指した。
カナエは頬を思い切り膨らますと、ヤケクソ気味に自身の顔に手を掛けた。
カナエの顔が、筆舌に尽くしがたいモノに変わる。
──俗に言う変顔だった。
「ぶっ!」
「「……」」
しのぶは吹き出したが、弦司は悲痛に視線を逸らし、義勇は引いた。
そして、肝心のカナヲは小首を傾げた。当然、笑顔ではない。
――カナエの女を棄てた捨て身の特攻は爆砕した。
カナエはぷるぷる震え出した。
弦司はカナエを凝視する義勇に忠告する。
「早く目を逸らすんだ」
「何の問題がある」
「あの顔を脳裏に焼き付けて、次の柱合会議は大丈夫か?」
義勇は俯いた。
「……助かった」
「ふっ……いいって事よ」
「ちょっとちょっとちょっと!!」
弦司と義勇が奇妙な友情を感じていると、カナエが弦司と義勇に迫る。
「しのぶのように笑うか弄るかしてよ!? 同情とか憐憫とか一番悲しいから止めて!!」
カナエの顔は……いつもの端整な顔立ちに戻っていた。ただし、顔どころか耳や指先まで真っ赤にして、目元には涙を溜めている。これは可愛い。
弦司は最後の一押しをする。
「一生懸命な人を嘲うなんてできる訳ないだろ」
「嘲わないでよ!? 普通に笑ってよ! 弦司さんの意地悪!!」
カナエはカナヲに泣きつき、ヨシヨシされる。これでカナエの出番は終了だ。
結果はあまりにも不甲斐ないが、弦司にとって満足いくものだった。ついでに、義勇を使うまでもなく場は整った。
弦司が立候補しようと手を挙げようとすると、カナエがヨシヨシされながら弦司を睨み付ける。
「次はしのぶ」
「えっ。いや、俺が――」
「次はしのぶ! 開催者権限で決定!」
不機嫌で開催者権限とまで言われたら、弦司には何もできない。このまま栄光を掻っ攫われる可能性もあるが、不承不承引っ込むしかない。
しかし、栄光の可能性を得た当のしのぶはと言うと、苦々しい顔つきになる。
「……それじゃあ、ちょっと待ってて」
しのぶはそう言い残すと、道場を出て行く。すぐに戻ってきたが、手には透明な鉢があった。金魚鉢だった。可愛いものを愛でて、自然な笑みを促そうとしているのだと弦司は推察した。
ただ、こういうのは相手が興味を引くような、話術も必要なのだが――。
しのぶは金魚鉢をカナヲの前に置くと、
「ほらカナヲ、見て。金魚よ、可愛いでしょ?」
「……」
カナヲは金魚を見るが、特に反応はない。弦司達も反応しない。
少ししのぶの声が上擦り始める。
「この尾びれの形なんて、とっても可愛いでしょ?」
「……」
(いや、知らんがな)
カナヲに特に反応はない。弦司達も反応しない。
しのぶの顔が段々紅潮し始める。
「このゆったりとした動き……可愛いでしょ?」
「……」
(可愛いばっかりだな)
カナヲの大きな目が金魚を追う。弦司達も反応しない。
それだけ。
――特に何の成果も盛り上がりもなく、しのぶの出番は終了した。
弦司は手を叩く。
「切り替えていこう」
「切り替えないで! その前にちょっとは反応してよ!?」
しのぶが顔を真っ赤にして、涙目で抗議する。
「こっちは姉さんや不破さんみたいに半分ふざけてないで、ずっと真面目に生きてきたんだから! 笑いなんて分かんないのよ!」
「ハハハ、息を吐くように罵りよる」
「しのぶ、反抗期? 反抗期なのね?」
しのぶは金魚鉢を持って、部屋の隅っこに座った。姉妹揃って何をやっているんだか、と弦司は思う。やはり、ここは己が出なければ締まらないだろう。そう思っていると、
「じゃあ、次は冨岡さんで」
「ああ」
カナエが義勇を指名する。これでは弦司が最後になってしまうが、彼に笑いの
弦司が余裕綽々で待っていると、
「雨ヶ崎、例の物を」
「はいはい冨岡様。了解しましたよ」
義勇が襖の向こうに声を掛けると、細目の優男が現れた。今や弦司の友人である雨ヶ崎だ。
弦司は彼の手元を見て、驚愕に目を見開く。雨ヶ崎の手元には、黄色い色合いと焼き色が美しい菓子『カステラ』があった。
部屋の片隅にいたしのぶが、驚きの声を上げる。
「冨岡さんが普通の差し入れ!? どういう事!?」
「……どうもこうもない」
「ま、俺が選んだんだけどね。女の子の笑顔と甘い物は定番の組み合わせでしょ? でも、前日に相談なんてもう止めて下さいよ、冨岡様」
「……」
一瞬で雨ヶ崎にバラされて、目を細める義勇。怒っているのだろうか。だが、弦司は今それどころではない。
脳内で演算を繰り返す。この事態を乗り越えられる方法は――。
弦司を声音を抑えて、カナエに尋ねる。
「実は俺も食べ物を用意したんだ」
「ふーん、そうなんだ~。それで?」
「一緒に出さないか? その方が、食べ比べもできてカナヲも楽しいだろう?」
「ダ・メ」
美しい笑顔で断られ、弦司は道場から飛び出そうとする。無駄に柱の力を全開にしたカナエに、弦司はあっさり押し倒された。
「な、何をする!?」
「どこへ行こうとしたの~?」
カナエがいい笑顔で、倒れた弦司を背後から羽交い絞めする。胸やら髪やらが弦司を触れまくって、一瞬このままでいいかと思ってしまった。でも、ダメだ。弦司にはカナヲを笑顔にする使命がある(※ありません)。
弦司は目一杯抵抗する。
「料理を取りに行こうとしただけだ! 準備に時間が掛かるんだよ!」
「え~、後藤さんに何時でも持って来られるように準備してたでしょ?」
「な、なぜそれを……!」
「後藤さ~ん。持って来て下さい」
持ってくるな、と弦司は願う。だが、願いは虚しく隠の後藤はやってきた。
「はいはい。何で俺がこんな事……って不破、何やってんだ?」
畳に押し倒された弦司を見て、白い目を向ける後藤。彼の手元にある物とは、先ほど義勇が持ってきた物と同じ『カステラ』だった。まさかの義勇ともろ被りである。今度は弦司が羞恥で顔を赤くする番であった。
カナエが弦司の頭を撫でながら笑う。
「なるほど~。
「に、二度も言わなくていい。それと、撫でるんじゃない」
「ふふふ、照れてて可愛い……でも、それならそれで、どうして逃げようとしたの? 準備に時間が掛かるって何?」
「そうだったっけ?」
弦司は適当に口を回して誤魔化そうとする。まさか、調理場に行って胡蝶姉妹に内緒で食べる予定の、卵三個を使った半熟オムライス(ソースもあるよ)と入れ替えようとしていた、とは言えない。
しかし、カナエも弦司の言動に怪しさを感じたのか。さらに体を弦司に密着させて拘束してくる。
しのぶも義勇も雨ヶ崎も後藤も見ている前で、弦司の背中にカナエの胸が押しつけられる。
「言ってた! ほら、早く白状しなさい!」
「俺は無実だ! それよりも早く離してくれ! 状況分かっているのか!?」
「犯人はみんなそう言うの! そうやって逃げようとしたって、そうはいかないわ! 私が恥をかいた分、弦司さんも同じだけ恥をかかないといけないの!」
「私怨の塊じゃないか!? いや、今はそれはどうでも良くて……! 逃げないから、俺をこれ以上、衆人環視の中で辱めるんじゃない! やめて、穢さないで!」
しのぶ、義勇、雨ヶ崎、後藤の呆れ切った視線が、弦司達に突き刺さる。特にしのぶの視線には、殺気まで込められていた。
本来なら今頃、カナヲを笑わせて永遠の栄光を手に入れていたのだというのに。何が楽しくて、畳の上でカナエに押し倒されているのか……字面だけは楽しそうだけど、楽しくない。
「また一週間、湯豆腐の刑にするぞ!」
「お、脅す気!? また、みんなが牛鍋食べる横で、私だけ湯豆腐を出すつもり!? この卑怯者!」
「卑怯で結構だから離してくれ!」
そうやって、弦司とカナエが揉めていると、一人の少女が近づいてきた。カナヲだった。
なぜ、と皆が疑問に思っていると、彼女は銅貨を投げた。『裏』だった。それを確認すると、雨ヶ崎と後藤からカステラを取り、何も言わず弦司達の目の前に置いた。
これをあげるから、争わないで。何も語らないカナヲの、精一杯の声を弦司とカナエは聞いた気がした。
「ごめんな、カナヲ!」
「私達が間違ってたわ、カナヲ!」
争いを止めて、弦司とカナエはカナヲに抱き着く。
もう栄光や称号などどうでも良かった。
カナヲは可愛い。
可愛いは正義。
正義はカナヲ。
カナヲの前では、如何なる闘争も無力。
それが分かっただけでも、良かったではないか。良かった事にしようではないか。
「カナヲは可愛いなぁ」
「可愛いは正義!」
「正義のカナヲには、カステラを食べさせてあげよう」
「ダメ、それは私の役割よ」
「……持ってきたのは俺だ」
「……それが?」
「……」
「……」
カナヲにカステラを食べさせる栄誉。
訂正しよう。可愛いは正義の名の下に、闘争はいくらでも繰り返されるのであった。
○
「……大会はどうするんだ」
義勇の渋々行った質問に、誰も答えようとしない。結局、しのぶも混じって誰がカナヲにカステラを食べさせるか揉め始めた。
最早、大会の事なんか誰も気にしていない。カナヲは可愛い。可愛いは正義。正義はカナヲ……それだけである。
(一体、俺は何をしていたんだ……)
義勇が部屋の隅でカナエ達を見ながら思うのは、ここ三日間の事だ。いきなりカナエに呼び止められて連れて来られたと思ったら、しのぶの口車に乗り訳の分からない事態に巻き込まれた。前日まで一人で悩んだ挙句、何も準備しなかったので雨ヶ崎に相談したところ、あっさりと準備できた。そして、意気揚々と乗り込んでみれば、目の前の和気藹々とした光景である。
――鬼殺隊に己の居場所はない。
鬼殺隊の入隊を決める最終選別で一体の鬼も倒さず、親友を失ってしまった義勇は、心に根深く悔恨が突き刺さっていた。本来ならこの場に立ち、微笑ましい光景を見ていたのも全て親友だったのでは。そう思わずにはいられない。
彼ならあの輪に入っていただろう。入って一緒に笑っていただろう。だが、今いるのは義勇だ。義勇にはその資格が己にあるとは。彼の得ていたものを奪っていいとは、到底思えなった。
そんな義勇の心中も知らず、彼らはわちゃわちゃと入り乱れる。ともすれば、主賓であるカナヲを忘れてしまうほどに。
義勇は嘆息する。カナヲを笑わせられなかったのは口惜しいが、さすがにこれ以上は付き合いきれない。帰ろうかと考えて、もう一度彼らを見て――気づく。
栗花落カナヲ。心を閉ざしたはずの少女は、カナエ達を見ながら確かに微笑んでいた。
何のことはない。すでにカナヲは、カナエ達に心を開いていたのだ。きっと、彼らがカナヲの笑顔を見るのはすぐであろう。
「後はお前たちで勝手にやっていろ。俺はこれで失礼する」
「あ、どうもお疲れ様です」
「分かりました。伝えておきます」
義勇は後藤と雨ヶ崎に挨拶すると、武道場を後にする。
鬼殺隊に己の居場所はない。だが、ここには笑っている人がいる。助けを必要としている人もいる。
――ならばせめて、彼らの笑顔を守るために。
心新たにする義勇。
口元に浮かべられた笑みに気づいたものは、誰もいなかった。
カナヲの評価表
・カナエ:母親兼師匠兼姉。綺麗で柔らかい。大好き。
・しのぶ:師範兼姉。厳しくて優しい。大好き。
・弦司 :美味いものくれる奴。弱者。好きな日もたまにはある。