今回は長くなりましたので分割します。
それでは、お楽しみください。
己でなくなる瞬間は、何時だって嫌なものだ。
その時はいい。感情に任せ、自身を突き動かすだけで終わる。
問題は終わった後、代償を払う。
後悔、悔恨、嫌悪。自身の中には、そんな後味の悪い感情しか残らない。どうしてそんな事をしたのか、苦味を延々と噛み締める。
まさに後悔、先に立たずだ。
つい先日、カナエは己でなくなる感覚を味わった。
――弦司を斬ろうとしていた。
それを理解した瞬間、頭の中が真っ白になって、目の前の男に敵意を向けた。手を出さなかったのは、そいつがすぐに跪いたから。それがなければ、何をしていたか分からない。
そんな事しなくても良かった。間に入って一喝。それだけで良かった。でも、できなかった。
怖かった。最近、こんな事ばかりだ。
カナエがカナエでなくなっていく。
ダメだと思っている事を、それでもやってしまう。
――好きな男の子でもできたらカナヲだって変わるわよ。
他ならぬカナエが言った言葉だ。それがなぜか、頭の中に浮かんだ。それと同時に、弦司の顔が思い浮かんだ。
そんなはずはないと否定する。
『好き』とは。『愛』とは。もっと綺麗で美しいものだ。
――
――私以外、仲良くして欲しくない。
――傷つくぐらいなら、閉じ込めたい。
『好き』とは。『愛』とは。こんなにも醜くて、意地汚くて、薄汚れたものとは違う。こんなもの、違う。
だがもし、カナエが弦司が『好き』で。それでカナエが変わってしまったのだとしたら。
――こんな気持ち、知られたくない。
○
――弦司が蝶屋敷に来て、もうすぐ六カ月になる頃。
鬼になって、一年近く経った。一年間もの長い間、弦司は人間だった頃の生活を捨てていた事になる。
鎹鴉より届いたこの知らせは、ある意味、当然の帰結だったのだろう。
――友人が死んだ。
尋常小学校の時から友人だった。ずっと結核で苦しんでいた。
弦司は手紙を送れるようになってからは、彼には自身も病だと伝えていた。嘘ではないが、本当でもない。それを心苦しく思うも、彼との繋がりを断ちたくなかった。
返信には必ず、どちらが早く治すか競争だと書かれていた。結局、彼は完治する事なく、この世を去った。
生きていれば、別れは必ず来る。カナエとだって、しのぶとだって……何時か別れが来る。だからこれは、自然な事なんだ。
――ならば、鬼である己は。
ずっと日の光を浴びないで生き続けたら。
十年も経てば、人であった時の弦司の足跡など消えてしまう。あの頃へと戻れなくなってしまう。
そして、百年も経てば……鬼となった己を受け入れてくれた人も、消えて去ってしまう。何度も身を引き裂かれるような別れを、味わい続ける。
恐ろしい。鬼とは、未来を思う事とは、こんなにも恐ろしいのか。
それと同時に、もっと恐ろしい感情も生まれた。
――彼が鬼であれば。
吐き気がした。
己の苦しみに、友人までも巻き込もうとする、どこまでも自己中心的な思考に。それでも、病もなく一緒に一生健やかに過ごせるなら……そんな想いが頭を離れなかった。
「弦司さん」
やわらかい声音が緊張感を持って弦司を呼びかける。
座ったまま頭を上げると、目の前にカナエの顔があった。いつも間にか、弦司の自室に彼女がいた。
刻限はすでに昼。たしか泊りの任務で、カナエは出かけていた。任務を終えて帰ってきたばかりなのだろう、少し裾が汚れた羽織が目に入る。
どうやら、カナエの入室に気づかないほど、思考に没頭していたらしい。
弦司は自嘲気味に笑った。
「心配ばかりかけてすまない……本当に、俺は弱いな」
「手紙が来てからおかしいってすみから聞いたけど、何かあったの?」
「――友が亡くなった」
それだけで全てを察したのか。カナエは悲しそうに眉尻を下げると、弦司の手をそっと握ってくれた。
現金なもので、彼女の気持ちに気づき、自身の気持ちが変化したあの日から。これだけで、苦しみは心から洗い流されていく。
カナエが手を握ったまま、隣に腰を下ろす。
「葬儀には出るの?」
「時間帯が日中だ。俺は動けない。それに……」
「うん」
「…………もし、腹減ったら。それは最悪な別れだろ」
「――っ!」
血の匂いを僅かでも感じたら。それを思うと、鬼の弦司は会わない方がいい。わざわざ、最後を汚す必要なんてない。でも、別れを告げられない事は、酷く寂しい事だった。
弦司はふと、腑に落ちる感覚を得た。
――彼が鬼であれば。
別れもできない。だからこそ、こんなにも恐ろしい思考が離れてくれないのか。本当に悍ましい考えであった。
そんな事を考えていたせいか、カナエが弦司を抱きしめた。本当に負の感情に、彼女は敏感であった。
「弦司さんは弱くない。彼を想っている気持ちは、当然で尊いものなんだから。素直に悼みましょう」
「……」
だが、やはり男心には人一倍鈍感である。
確かに、悪い考えは全て吹き飛ばしてくれた。代わりに、どうしようもない気持ちが湧き上がってくる。友人が亡くなったばかりだというのに、直情的な欲求が生まれてくる。
だが、それはダメだ。ただただお互いを傷つけるだけだ。でも、ここで抱き締め返しでもすれば、どうなるか分からない。
結果、弦司は何もせず、されるがままになった。
カナエが弦司の耳元に囁きかける。
「少ししたら、気分転換に出かけましょう」
「ああ」
「そういえば、みんなと一緒に遊びに行った事はなかったわよね。せっかくだし、すみもなほもきよも、しのぶもカナヲもアオイも、みんなで」
「楽しそうだな」
「ね? だからもう少ししたら、いつもの弦司さんに戻ってね」
弦司は頷いた。
もう友の事は考えていなかった。彼なら苦笑いして、蹴り飛ばすであろう。
いつかそっちに行った時に謝る。だから今は――さようなら、倫善。
――たっぷり待つから、遅れて来い。
そんな声が聞こえた気がした。
○
それからの日々は多忙を極めた。
蝶屋敷の面々は、はっきり言って忙しい。鬼殺は元より、鬼の研究に各種報告と鍛錬。簡単に挙げただけで、それだけの仕事がある。だというのに、全員が鬼殺に穴が出ないように同日に休暇を取る。忙しくなって当然だった。
そして裏で行われた地味で激しい攻防の末、日取りが決まり当日――。
「うおおおおおんっ!!」
カナエは這い蹲って吠えていた。あれだけ忙しかったのに。あれだけ頑張ったのに――今日に限って、緊急任務が来てしまった。
「カナエ様……」
「あんなに頑張っていたのに」
「可哀想です」
きよ、すみ、なほの三人がカナエを慰める。すでに出かける準備をしてたため、三人ともいつもの白衣ではなく着物だった。それぞれ、赤・青・黄色を彩った着物で、蝶の刺繍が可愛らしい。
「姉さん。また機会はあるから。行こ?」
カナエが頑張っていたのを知っていたからか。さすがのしのぶも姉の醜態を叱る事もできず、背中を撫でながら、優しい言葉を掛ける。彼女にもカナエと同じ任務が下されたため、着物ではなくすでに隊服を着ていた。
「それで本日はいかがいたしましょうか? 後日に改めますか?」
アオイも少し気落ちしているのか。眉尻が下がった表情で、カナエ達に尋ねる。ちなみに、彼女も着物姿だ。紫を基調とした、蝶の模様が美しい着物だった。髪型もいつもの二つ結いではなく、後頭部で一纏めに結い、簪を挿している。彼女の凛々しさが引き立って、良く似合っていた。
すでに鬼殺隊服に着替えているカナエは、のろのろと立ち上がると、薄紅色の着物を着たカナヲを抱きしめる。
「いいえ、みんなは行って。私の分まで、存分に楽しんで。それだけで、私は浮かばれるから……」
「よろしいので?」
「お土産買ってきたら、よろしいです……」
「分かりました。それでは、ご武運をお祈りしております」
「……」
アオイはごくごく生真面目に対応しているだけなのだが、真面目過ぎて早く行けと言っているように聞こえる。ちょっと可哀想なので、弦司が声を掛ける事にする。ちなみに、弦司も皆に合わせて今日だけは藍色の着物である。
「何か欲しいものはあるか?」
「美味しい物と可愛い物」
「大雑把だな。まあ、俺の美的感覚に任せろ」
「それは不安……」
「ひょっとこのお面買ってくるぞ」
「不安的中」
お互い軽口をたたき合って笑い合う。これで気も紛れたであろう。もう大丈夫そうだった。
「それじゃあ、行ってくるわね」
「ああ。気を付けて」
「弦司さんも気を付けてね。人が多いから大丈夫だとは思うけど、念のため準備だけはするのよ?」
「分かってる」
頷き、場には似合わない巨大な白い袋を掲げる。中には隊服から日輪刀まで、鬼殺に関わる物が全て入っていた。
――初の単独任務。
あの時、鬼から得られた情報から、鬼舞辻無惨は弦司個人を狙っている可能性が高いと判断した。警戒をするに越したことはない。幸い、弦司が一体何者なのか、情報は漏れてはいない。今日のように、素顔で出ても問題はないだろう。
それと、風能誠一。結局、彼が何を根拠に弦司を憎んでいるのか分からなかった。確かに、弦司が鬼殺隊で活動を始めてから数件、藤の花の家紋の家が襲われた事件はあった。下手人は分かっていないが、どれも弦司とは結び付けられなかった。風能は弦司の血鬼術の使用を主張したそうだが……もう相手をするだけ無駄だろう。
カナエは処罰を求めたが、ああ見えて彼は同期の出世頭。単純な身体能力や剣技だけであれば、しのぶをも凌ぐ。結局、弦司との接触禁止だけで終わってしまった。
この荷物は、そういった障害が現れた時の、もしものための保険だ。あれば安心だが、使われないに越したことはない。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
お互いの無事を祈り、弦司とカナエは言葉を掛け合った。
○
カナエ達が立てた計画とは、夜店回りだった。
縁日である本日、東京府の寺で多くの夜店が開かれる。元々、物珍しい物や美味しい物には困らない東京府がさらに賑わうのだ。それに夜ならば、弦司も自由に動ける。
全員が楽しめる計画だった。惜しむらくは、カナエとしのぶがいない事だろう。
「それで俺とは会うんだから、世の中分からないものだね」
そう言ったのは、雨ヶ崎だ。青と白のまだら模様の着物を着こなしている。
カナエ達の代わりに誘った訳ではない。移動中に同様に休暇を取っていた彼と、出くわしたのだ。そして、彼は同行を願い出た。
女性五人に男は弦司一人。余計な問題を抱え込まないためにも、一緒に居ようという提案だった。
元の計画からダメ出しをされているような気がしたが、雨ヶ崎の言にも一理あったので、弦司達は提案を受け入れた。何より、今日は人が多すぎた。まさに人がゴミのように混雑しており、少しでも気を緩めれば迷子になる。
「これが縁というもの。私は彼女達と出会えて、とても嬉しいですよ」
そう言い、コロコロと笑うのは
アオイはきよと、雨ヶ崎はすみと、こはるはなほと、それぞれ手を繋いで人混みを歩く。ちなみに、弦司はカナヲを肩車して面白い夜店がないか探すよう指令を出していた。面白いとは何なのか、カナヲはまだ分かっていないのか、キョロキョロするだけだ。これもまた経験なので、カナヲはしばらくそのままにしておく。
アオイは逸れない様に弦司に近づきながら尋ねる。
「それで、まずはどこを回りますか?」
「腹ごしらえだ」
「賛成です!」
「あれ、何ですか!」
「おいしそうー!」
まだ色気より食い気なのか。三人娘が口々に食べたい物のある夜店を指差す。
「全部回るぞ! 金とか残すとかは気にするな! 金はカナエから貰ってるし、残しても俺が全部食べてやる!」
「やったー!」
「太っ腹です!」
「食べるぞー!」
わいわい盛り上がって、年長者たちの手をめいめいが引く。
誰もがそれを笑って受け止めて、夜店へ向かっていった。
弦司はそれに着いていきながら、カナヲの足を叩く。
「どうだ? 何か面白いものは見つかったか?」
「……分からない」
最近、簡単な受け答えができるようになったカナヲから、平坦な声が上から降ってくる。それを弦司は嬉しく思いながら、カナヲに答える。
「そっか。じゃあ、食べたい物とか、何か気になる物はあるか?」
「…………」
探しているのだろうか。中々返事が返ってこない。それから、きよがたい焼きを買って、すみがどんどん焼きを買って、ようやくカナヲは指を差した。
内心、弦司はちょっと驚いた。てっきり、何も決められないものかと思っていたからだ。
カナヲの差した方には、荷車があった。男が荷車から、何かを取り出している。鬼の弦司にはそれが何なのか、はっきりと見えた。
「……あれ」
「ああ、ラムネか?」
「……ラムネ」
配達夫だろうか。縁日に合わせて頑張って増産し、売りに来たのかもしれない。
アオイ達に一言伝えると、彼女達も着いてきて、人数分ラムネを買った。
カナヲはビー玉を落とすところから、じっとラムネを見ていた。
弦司は受け取ると、すぐにカナヲに渡した。カナヲは興味深そうに見るだけで、何もしない。
「飲み物だ。飲んでみろ」
「……」
弦司が手本として飲んでみせると、カナヲも真似をして瓶に口をつけ傾けた。
「……しゅわしゅわ」
「ああ、炭酸だな」
「……あまり飲めない」
「炭酸だし、傾けるとビー玉が塞ぐからな。慌てずゆっくり飲んでみろ」
それからカナヲは、弦司が特に指示する事なくラムネを飲み干した。きっとこれが、彼女の初めての『好物』だろう。
弦司はもう一本買うと、カナヲに渡す。何も言わず、また飲み始めた。
「いいか。それが『好物』ってやつだ」
「……」
「もっと『好物』を増やしていこう」
返事が返ってこない代わりに、上からゲップが聞こえた。
○
それからも粉物を中心に買い込んだり、どこに需要があるのか分からない装飾品を買ったり。めいめいが楽しんだ。
あれだけ凄惨な悲劇に襲われたきよも、すみも、なほも笑顔だ。アオイも眉間のしわがなく、力の抜けた笑みを浮かべて、よく分からない面をしている。カナヲはラムネをがぶ飲みしている。
カナエとしのぶには悪いが、今日は来て本当に良かった。
とはいえ、ずっと遊び続ける事も体力的な問題でできない。軽い休憩も兼ねて、一旦人混みから抜け出して、適当な路地に入った。
薄暗い路地で女性陣が話し込む傍ら、男性陣はそっと輪を離れる。
弦司と雨ヶ崎は女性陣が余らせた両手一杯の料理を、少しずつ食べていく。
「いやー。楽しんだ楽しんだ」
「だね。やっぱり、こういうのは皆でわいわいするのが楽しいよ」
「でも、良かったのか? せっかく二人の時間だってのに」
男二人。口をついて出るのは女性の話である。
「まあ、俺には勿体ないできた女性だから。分かってくれるんだよね……ホント、できた女性だよ」
雨ヶ崎はラムネを一口飲み、喉を潤してから続ける。
「こはるはね、鬼殺隊をやめろって言わなかったんだ。他の女性は、誰も彼もやめろって言ったんだけどね」
「……」
後藤から、雨ヶ崎は鬼殺隊に入隊してから恋人が途切れた事がないと、嫉妬交じりに聞かされた事がある。雨ヶ崎がもてるのはもちろんだが、きっと鬼殺隊の事で揉めて、別れを繰り返していたのだろう。
雨ヶ崎の意見が絶対的に正しいとは、弦司には言えない。それでも、彼が必要としていたのは、こはるのような女性なのだろう。
「悲しませるなよ」
「努力はするさ」
「鬼殺隊じゃなかったら、ぶん殴ってやってたところだ」
「だろうね。俺も……本当はずっと、こうしていたいんだけどね。でも、悪い鬼がいて手の掛かる同僚がいたら、仕方ないでしょ?」
「誰だよ、手の掛かる同僚って?」
「さあ、誰でしょう」
雨ヶ崎の視線の先には、こはるがいた。こはるはアオイと談笑している。彼女はきっと、雨ヶ崎をいつもいつも待っている。ただただ待っている。それは酷く、息苦しい事だろう。でも、弦司は笑顔以外の彼女を見ていない。カナエやしのぶ、アオイとはまた違った強さを持った女性なのだろう。
弦司はすみが残したどんどん焼きを平らげる。
「彼女に贈り物は買ったか?」
「買ったし、もう渡したよ。不破さんこそ贈り物は?」
「なんか良さそうな簪があったから買った。帰ったら、カナエに渡すさ」
「攻めるな……でも、カナエ様って優しいから、趣味に合わなくても着けちゃうけど、その辺はどう考えてる?」
「その時は、また改めて一緒に買う約束でもするさ」
「……ちょっと冗談で話したつもりだったんだけど。不破さんって最近また変わったね」
雨ヶ崎は言いながら、亀の子焼きを齧る。少女達が遠慮なしに買い込んだので、中々料理が減らない。
「変わるさ。変わっていかないと、いけないからな」
「やっぱり、カナエ様の……気づいた? 気づくか……」
「今までは、気づかない様にしてた……気づいたら、仕方ないだろ」
「それはまた酷い色男だね。でも、その様子だと向き合う事にしたんだ。良かった……って言えないところがダメだけど」
「何か心配事でもあるのか?」
「いや、不破さんの実家行った時、やりあったそうじゃない? 風能の奴のやらかしも考慮すると、カナエ様って俺の見立てじゃ結構重そうだよ? 女所帯にいて大丈夫?」
「……相談には乗ってくれよ」
「ただでさえ便利屋扱いされているんだ。お手柔らかに頼むよ……」
――本当に楽しい時間だった。
慕ってくれる同僚がいて。仲間がいて。友もいて。
人間だった自分がいなくなっても。こうして、その時共に過ごしている人がいてくれれば。そんな事を思った。
――何時だって、鬼は傍にいると一瞬でも忘れてしまった。
「……っ!?」
たい焼きを齧ると同時に感じたのは、不快感だった。自身の内側から、何かが広がるような嫌な感覚。
何か不純物でも入っていたのかと、確認のためにもう少し齧る。そして、確信する。これは味や風味ではない。
別の力が自身を内から侵そうとするような、そんな感覚。つまり料理が元来持っている物とは、全く別種の力。
そう例えば――血鬼術。
手が怒りで震える。一体、お前たちは、なぜこうも人の幸せを脅かすのか。特に人の食べ物に仕込むなど最悪だ。
燃え上がる感情を歯を食いしばり耐え、あくまでも冷静に尋ねる。
「これを買ったのは誰だ」
きよが手を上げた。
「あ、私です! 鯛の形してて珍しいなって思って買ったんです! 餡も美味しくてついついたくさん食べちゃいました!」
「はい! とっても美味しかったです!」
「また食べたいです!」
嬉しそうに語るきよに、すみとなほが同意する。
弦司は血の気が引く。預かった少女達が、全員血鬼術に侵されているとしたら――。
鬼に襲われ、まだ傷も癒えていないのに。健三郎少年が懸命に守り切った命だというのに。鬼はまだ危険に曝すか。また幸せを奪うのか。
息が詰まりそうになる。それでも弦司は逸る気持ちを抑えつける。ここから先、一手の間違いが全てを終わらせる。
「っ、アオイ。お前は食べたのか?」
「……はい。他はきよ、すみ、なほと弦司だけではないでしょうか?」
不審そうに眉根を寄せるアオイだが、弦司の質問に明瞭に答えてから、弦司に近づく。雨ヶ崎も寄ってきた。
「弦司、何かあったのですか?」
「……この食べ物から、血鬼術を感じ取った」
「っ、あ、そんな、嘘……!」
「ああもう、何でこんな時に……しかも食べ物とか、ふざけんなよ……」
アオイは荒れそうになる息を必死に抑え、雨ヶ崎は頭を掻きむしる。
誰もが思う。どうして。何で。こんな日に。
だがすでに事は起きてしまった。後悔も怒りも何も意味は持たない。
──楽しい時は失われ、この瞬間から戦いが始まる。
○
「また外れ……ですか」
カナエとしのぶは、とある民家の座敷にいた。対面に座った二人の間には、地図がある。地図には多数のバツ印がついていて、また一つしのぶが新たに書き加えた。
緊急任務に招集されたカナエ達であったが、苦戦していた。なぜなら、そもそも鬼を誰も見つけていなかったからだ。ならば、なぜ招集されたかと言えば、『鬼による被害』が各所から挙がっていたから。だが、隊士が行ってみれば、暴れていたのはただの人間で、鬼は影も形もない。
──血鬼術。
誰もがそう思ったが、一体どんなものなのか。誰も見当がつかなかった。仕方なしにカナエは待機し、この地域で使える隠と鎹鴉を動員し、情報が集まるのを待っていた。
未だ、決定的な情報は上がってこない。あまりにも不気味だった。
幸い……と言っていい訳ではないが、弦司達が遊んでいる地域から騒動は少々離れている。念のため、警戒の連絡ぐらいは伝えたかったが、人が多く彼らを見つけるのが困難である事に加え、労力を回す余力がなかった。
カナエは長く息を吐き出す。終わりの見えない戦い。何時まで続くのか……そんな考えが頭を過った時、一羽の鎹鴉が来た。
「雨ヶ崎隊士、オヨビ神崎隊士、不破隊士ヨリ伝言! 我ラ、鬼ノ痕跡を発見セリ! カァァッ!」
「えっ」
「嘘……」
カナエとしのぶは、揃って言葉を失う。今日、彼らは鬼殺と遠く離れた日常を送っていたはずだ。現に、今の騒動からも離れた場所にいた。それが突如として、奪われたのだ。彼らの事を思うと、カナエ達も苦しくなる。
だが、そんな想いは一瞬だけ。鬼がいるならば、滅さねばならない。
カナエは花柱として接する。
「痕跡は地図のどの辺り?」
「ココ!」
鎹鴉が指した地点は、カナエ達も巡ろうとしていた場所で、地図の印から離れた場所だった。一緒に居ればと、僅かな後悔が生まれる。
そして、彼らの情報により確信する。地図の印から離れた場所で鬼の痕跡を見つけた……やはり鬼の狙いは別にあり、それを隠すために各所で血鬼術を用いて攪乱を行っているのだ。
「それで、彼らは何と?」
「食事ニ血鬼術ガ仕掛ケラレテイル可能性アリ! 至急応援ヲ求ム!」
「分かりました。すぐに、私としのぶで行きましょう」
「タダシ緊急事態ニツキ、雨ヶ崎隊士、不破隊士、オヨビ
「――っ」
後悔が大きくなる。おそらく、すでに一刻の猶予も許さない事態だと、現場では判断したのだろう。
そして、カナヲを伴うと聞いたからだろうか。しのぶの顔色が一気に悪くなる。
「姉さん! 何でカナヲまで……!」
「あの二人では、単純に戦力が足りないからでしょ」
「でも、カナヲはまだ幼いし、隊士でも――」
「しのぶ」
カナエは自らでもおかしいと思う。しのぶの感覚こそが正しいと思う。それでも、カナエは花柱として言わなければならない。
「カナヲは継子です。そのための装備も、弦司さんに渡しています。鬼が目の前にいて、力が必要となれば戦わねばなりません」
もし、カナエやしのぶがその場にいれば、必要はなかっただろう。だが、あまりにも弦司や雨ヶ崎では力不足だった。
その場に継子がいるならば、戦わなければならない。それが柱の継子、ひいては未来の鬼殺隊士になるという意味なのだ。
しのぶは悔しそうに唇を噛むと、立ち上がる。
「分かってる……! それじゃあ、雨ヶ崎さんの鴉! 彼らの所に案内して!」
「ソレハ無理!」
「はぁっ?」
「カァァッ!?」
しのぶが思わず殺気を飛ばし、鎹鴉がカナエの胸元に飛び込む。
カナエは鎹鴉の頭を指で撫でながら、
「無理ってどういう事かしら?」
「人ガ多イノ! アイツラ鬼ノ痕跡ヲ追跡シテルカラ、私ダケジャモウドコニイルカ分カラナイノ! カァァッ!」
「情報の共有と民間人の救助を優先した、という事ね……」
鬼殺隊として、人命救助は最優先事項だ。彼らの選択は理解できた。だが、それはあまりにも危険だ。いや、だからこそカナヲまで引っ張り出したのだろう。
全ては悪鬼滅殺と人々の命を守るために。
「しのぶ、私達で弦司さん達に追いつきましょう」
「うん」
「後、使える人員は全部こっちに回すように指示も出して」
カナエはそれだけ言い残すと、間に合えと願いながら、屋敷を飛び出した。
○
「吐き出してきます! そして、吐き出させます!」
立ち直ったアオイの第一声はそれだった。
食べ物に血鬼術が混入? しているのなら、吐き出すのが一番だと。
アオイはこはると一緒に裏路地に三人娘を連れ出すと、手本として己が嘔吐した。今は三人娘を泣かせながら、嘔吐させようとしている。残酷、などと言っている場合ではない。手遅れになれば、命にかかわるのだ。
一方、弦司と雨ヶ崎とカナヲの三名は、服装を着替えていた。
弦司は隊服と面覆いと散弾銃に籠手。
カナヲは訓練着の和装と、しのぶが昔使っていた日輪刀。
そして、雨ヶ崎も一応持ってきていた日輪刀を腰に帯びた。隊服はないため、裾を引き絞っている。
この時、弦司は目ざとく雨ヶ崎の異常を見つけた。
「雨ヶ崎、お前怪我してたのか!?」
「あはは、バレちゃったか……」
苦笑を浮かべる雨ヶ崎。彼の上半身のほとんどが、包帯に覆われていたのだ。
「休暇なのに緊急任務に呼ばれなかったのは、そういう事か!? おい、無茶は――」
「するなっていうのは聞かないよ。今は、無茶をしないといけない時だ」
「待て、救援を呼べば――」
「それが難しいんだよ」
雨ヶ崎は肩に乗った鎹鴉の顎を撫でる。
「今日は人が多すぎる。二羽いるならまだしも、一羽しかいないんじゃ片道の連絡がせいぜいだよ」
「なら、鬼の居所を見つけてから、連絡すれば――」
「その間に、人がたくさん死ぬね」
「……くそっ!」
弦司は悪態を吐く事しかできない。本当に状況は最悪だった。
「とにかく、俺が前線だ。雨ヶ崎は後衛を頼む」
「うん。でもその前に……鬼の襲撃は、ないみたいだね」
「ああ。血鬼術に気づかれたから、来るかと思ったんだけどな。となると、夜店の人は外れか?」
今、弦司達が最も警戒していたのが、鬼の急襲だ。そのため、カナヲにまで戦闘態勢を取らせた。
杞憂であったのは良かったが、そうなると鬼の痕跡が血鬼術のみとなる。
早速手詰まりかと弦司と雨ヶ崎が難しい表情をしていると、アオイ達が裏路地から戻ってきた。ただしきよ、すみ、なほは号泣である。さすがのアオイもしゅんとしている。
弦司はきよ達の頭を撫でる。
「みんな、すまない。辛い思いをさせてしまった」
「げ、げんじ、さん……!」
「なんで、こう、なるんですか……!」
「いやです!!」
きよ達が弦司の胸に飛び込んでくる。全部、アオイが説明したのだろう。
今日は最高の日になるはずだった。いや、ついさっきまでそうだった。それが、なんで、どうして。
弦司は少女達の気持ちが痛いほど分かった。己もさっきまで、そうだったのだ。もう大丈夫だと言ってやりたかった。言って、もっと遊んであげたかった。だが、まだ何も終わっていない。弦司には、少女達を優しく抱きしめる事しかできなかった。
「ごめんな。今日はここまでしか付き合えない。蝶屋敷で待っていてくれ」
きよ達はしばらくわんわん泣いた後、
「……はい」
「弦司さん、絶対に帰って来て下さい」
「雨ヶ崎さん、カナヲ様も気を付けて下さい」
涙を拭って言葉にしてくれた。
「こはる、彼女達についていくんだ」
「はい。ご武運をお祈りしております」
対して、雨ヶ崎は非常に簡素な別れだった。
このままアオイ、きよ、すみ、なほ、こはるは蝶屋敷に向かう事になった。ここで問題になったのは、カナヲである。
「カナヲちゃんがこういう事態の時、どうするか決めてる?」
「……必要なら迷わず使え、と」
雨ヶ崎の問いに、弦司は苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てる。
カナヲが継子になった時に出た話題でもあった。そして、カナエは先の弦司の言の通り、カナヲを戦わせるよう伝えていた。
カナヲは今日、初めて自分の『好物』に出会えた。これからもっともっと『好物』を増やしていくはずなのに。どうして戦わねばならないのか、そんな想いが拭い去れない。
それでも、歯を食いしばって進まねばならない。だが、弦司には決定的な命令を口にする事ができなかった。そして、雨ヶ崎に言わせてはならない言葉を吐かせてしまう。
「不破さん。君より階級が上の隊士として命じるよ。栗花落カナヲを連れて行く。彼女はすでに俺と同等の力量を持っている。遊ばせておく余裕は俺達にはない」
「……すまない。だけど……カナヲ、今からお前を緊急任務に連れて行くが、命大事に、だ。お前はお前の命を一番に考えて戦え」
「……」
カナヲが感情の籠っていない瞳で、弦司を見返す。どうでもいい、とでも思っているのかもしれないが、これは弦司の譲れない線引きだ。これ以上の過酷は許さない。
こうして、カナヲは残る事になり、蝶屋敷へと向かう面々はアオイへと託す。
「それじゃあ、アオイ。みんなを蝶屋敷へ案内してくれ」
「こちらはお任せ下さい! それと、血鬼術の影響か分かりませんが……」
「ああ」
「先までは、きよ達と話していたのですが、次はあちらの方角に行きたいと思っていました。今となっては、なぜあちらに行こうとしていたのか、全く分かりません」
「そうか、重要な情報ありがとう。後は連絡が取れるようになったら、すぐに鬼殺隊へ知らせるんだ」
「はい。それではご武運をお祈りしております」
そうして、弦司達はアオイ達を見送った。
アオイは別れ間際、とある方角を指差した。それが意味する所は何も分からないが、重要な手がかりだ。僅かな情報も取りこぼしは命に関わる。
残されたのは、弦司と雨ヶ崎とカナヲ。戦いはまだ始まったばかりだというのに、後味の悪い選択ばかり続く。
本当に最悪な戦いになりそうだった。