第四部開始です。
あと少しですので、最後までお付き合いください。
「カナエの乳房を触りたい」
「地獄に堕ちろ馬鹿野郎!!」
弦司の漏れ出た魂の叫びを、しのぶが飛び膝蹴りで応えた。弦司は台所の端から端まで、吹っ飛ばされる。
しばらく痙攣した後、弦司はゆっくりと体を起こした。
「台所で暴れるなよ。危ないだろ」
「あんたの頭の方が危ないわよ!!」
しのぶが怒鳴るが、珍しい割烹着姿もあり、弦司はあまり恐ろしく感じなかった。むしろ、小柄なしのぶが割烹着を着ていると、何となく背伸びをしている感じがして非常に可愛らしい。手に持った包丁も、絶対に弦司に向けない。真面目で優しい娘である。ちなみに弦司も割烹着姿だが、蝶屋敷では見慣れ過ぎていて誰も違和感を覚えない。
「何!? 姉さんの体が触れないからって、妹の体を代わりに差し出せとでも言うつもり!?」
「いや……姉の代わりに妹とか、そういう発想はちょっと引く……」
「引かないでよ! そもそも、誰のせいよ!」
叫びながらも、しのぶは手を止めない。丸々太った瑞々しいスイカを次々と細かく切っていき、一部は裏漉ししていく。
――あの事件から二日が過ぎた。
雨ヶ崎の葬儀も終わった。時間は悲しみに寄り添ってくれない。無常のまま流れていく。人は前に進まなければならない。だが、そう簡単に割り切れないのが人だ。
特に、蝶屋敷の面々は引きずっていた。
しのぶは元気そうに見えるが、一人になるとどうしても雨ヶ崎の事を思い出し、しばしば泣いてしまった。これでは研究や鍛錬に手が付かないので、弦司に誘われ家事の手伝いをしていた。そして、弦司が馬鹿な事をすれば、いつもの調子が蘇る。そうやって、気を紛らわしながら、少しずつ前に進もうとしていた。
しのぶは頭をガシガシと強く掻きむしると、これ見よがしにため息を吐く。
「こんな馬鹿野郎に慰められている現状に腹が立つわ……! 絶対にこの借りは返すから、覚えておきなさいよ!」
歯軋りしながら、料理を続けるしのぶ。手先が元々器用なため、その動きは本職と遜色ない。
今、作っているのはスイカのゼリーだった。
実は今日、差し入れでスイカをもらった。中々熟れておいしそうだったのだが、食べる前になって問題が浮上した。
――きよ、すみ、なほの三人が食べるのを拒否したのである。
あの事件から、三人は弦司やしのぶ、もしくはアオイが作った料理しか食べられなくなっていた。血鬼術を口にした、その事が心の傷となって、信頼した人間からの食事しか取れなくなったのだ。料理をしているのは、三人でも食べられるようにするためであった。
きよ達は弦司達の手を煩わせて悪い、と謝罪してきた。それは全く問題ではない。むしろ、料理が好きな人員ばかりなので、楽しいぐらいである。
どうやって、今後その傷を治していくか。今も方法が分かっていなかった。仕方なしに、対処療法的に弦司達は料理を作るしかなかった。
「おーい、きよ、すみ、なほ、カナヲ! 出来たぞー!」
「わーい!」
「おいしそうなスイカです!」
「配膳、お手伝いします!」
そうこうしている内にできたゼリーを、四人を呼んで運ばせる。きよが途中で顔を曇らせる。
「アオイさんの分は、どうしましょうか?」
「……ちょっと声を掛けてみる」
「不破さん、私も一緒に行くわ」
ここにはいないアオイの分を持って、弦司はしのぶと一緒にアオイの部屋へと向かう。
――あの日から、弦司とアオイは顔を合わせられていない。
鬼に対する恐怖。それがまた、アオイの中で蘇ったのだ。
戦いの時は気を張っていたので、大丈夫だった。問題は全てが終わった後だ。
緊張が解けた時に、鬼に襲われかけたと理解したのだろう。それが、アオイの鬼に対する恐怖を思い出させた。今は弦司と話す事さえ、アオイは恐れている。
それでも距離を置く事だけはしなかった。アオイはしのぶを通して『距離は置かないで』と伝えていた。
初めて会った日、アオイは恐怖を堪えながら同じように自ら提案した。あの時と何も変わらない。二人で一緒に蝶屋敷で働きたい。その願いを叶えるために、弦司は何度でもアオイに話しかける。
「カナヲ」
「あなたも来る?」
向かう途中、トコトコとカナヲが後ろをついてきていた。
――あの日から、カナヲもまた変わった。
カナエとしのぶがいなければ動かなかった彼女が、弦司にもついて回るようになった。好かれたのだろうか。それとも、心に傷を負って、無意識のうちに追っているのか。感情の浮かんでいないカナヲの瞳からは、何も感じられなかった。彼女を守ろうという気持ちが、弦司の中で前よりも強くなった。
蝶屋敷は広いと言えども、屋内の移動だ。アオイの部屋の前にすぐたどり着く。
弦司はやや緊張した面持ちで、襖へ向けて声を掛けた。
「アオイ?」
「っ! 弦司、ですか?」
「大丈夫なのか!?」
襖の先から、アオイのちょっと固い、けれど凛とした声が返ってきた。
彼女の声が聞けた。それだけで、とてつもなく嬉しかった。
「はい、少し緊張はしますが……時間を置いたのが、良かったのでしょう」
「そうか……頑張ったんだな」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいさ。初めて会った時と同じだ。少しずつ、克服していこう。そして、また一緒に働こう」
「……はい、ありがとう、ございます……! また、一緒に料理を、作りたいです……!」
襖の向こうからすすり泣きが聞こえてきた。弦司はしのぶに目配せをすると、彼女に任せて離れた。カナヲは弦司の後ろをそのままついてくる。
あの日から蝶屋敷は、どこもかしこも傷だらけだ。今もみんな苦しんでいる。もちろん、弦司だって苦しんでいる。
友が死んだ。雨ヶ崎と
だが、苦しんでいる時間はない。
先の戦闘で、素顔を鬼の前に晒してしまった。弦司の素顔が、鬼舞辻無惨にバレた可能性が高い。遠くない未来に、弦司の素性にたどり着くだろう。もう気軽に外を歩くわけにはいかない。いつ奴の追手が来てもいいよう、弦司の強化が急務だった。
弦司は鬼だ。業腹だが人とは違う。一足飛びで強くなれる。その最たる例が、前回の戦いで発現した血鬼術・宿世招喚だ。前世の記憶の中から、戦闘に転用できる物体の記憶を招喚し、体を『変化』させる弦司のみが唯一持つ異形の力である。
強くなるため、宿世招喚の試行錯誤を何度も繰り返した。その結果、幾つか分かった事がある。
とにかく、力の消費量が大きい。それも、構造が複雑であればあるほど、『変化』と『維持』に力を使う。
例えば、自身の体を銃に変化させたとしよう。銃口、弾倉、引き金等々、全ての部品ごとに力を使う。『変化』するだけで力を使い、さらに『維持』するために力を使う。今の弦司では、とてもではないが兵器類を宿世招喚するには、力が足りなかった。
反面、最も硬度が高い素材に自身を変化させる『鋼』が、力の消費が少なく維持も簡単だった。再生能力を持つ弦司が、体の強度を上げるだけでも戦術の幅は広がる。今後は、これを軸に戦いを組み立てていく事になるだろう。
しのぶの協力もあり、ちょっとした小細工もある。弦司はすぐに今の数倍は強くなる。
とにかく、強さについては、どうにかなる道筋ができた。残った最大の問題は――カナエとの関係だ。
結論から言うと、弦司は鬼とか人間とか幸せとか、とりあえず遠くへぶん投げた。
カナエに救われて以来、初めて死を身近に感じた。風能とのやり取りで、人間への羨望、鬼への憎悪。様々な感情が綯い交ぜになった。全ては死の前に段々と剥がれ落ちていって……最後に残ったのはカナエだった。
もちろん、自身の体や鬼に対する憎しみは消えていない。人間に戻る願いを、今も持ち続けている。
それでも、今の幸せが欲しくなった。カナエを手に入れたくなった。何より弦司も、柱のカナエさえも、明日にはどうなっているか分からない。このままどちらかが死ねば、悔いしか残らない。鬼舞辻無惨に情報が漏れた以上、尚更今が大事になった。
まずはカナエと付き合う。鬼殺とか、体が鬼とか、幸せとか……そういうのは付き合いながら考える。二人で話し合って決める。
とにかく、未来を考える事は一先ずやめた。今の幸せを最優先とした。
だが――肝心のカナエが捕まらない。
あの事件から、忙しそうにカナエは走り回っている。何度か挨拶もしたが、何やら焦った様子ですぐにどこかに行ってしまう。蝶屋敷に来てから、カナエとこんなにも接していないのは初めてだった。台所での呟きは、カナエ成分が不足した結果の事故だったのだ。事故だったという事にしよう。
(いかんな。何かあったらカナエに甘えてたせいか、すぐにカナエに頼る。依存……しているんだろうなぁ)
今の感情を正常とは、弦司自身とてもではないが言えなかった。でも、変化してしまった。辛い毎日が続いて、カナエに甘え続けて、弦司はそう変化してしまったのだ。もう後戻りはできない。するつもりもない。このまま進んで、また変わっていくしかない。
触れれば触れる程。潜れば潜る程。弦司はカナエという女性から離れられなくなる。
(
弦司は心中で密かにカナエをそう呼ぶ事にした。
「弦司さーん!」
「どうしたんだ、きよ?」
弦司が居間に戻ると、ちょうど弦司を呼ぼうとしていたきよと遭遇した。その手には、手紙が握られている。
「隠の方からお手紙が届きました」
「ありがとう」
弦司はきよから手紙を受け取ると、心を躍らせながら開く。少し前から弦司はある申請を出していた。これはその回答であろう。
手紙の中身を確認する。待ち望んでいた回答が書かれていた。
「すまない、今日の夜には出かけるわ」
「任務ですか?」
「いいや」
きよ達に手紙を見せる。
それを要約すると、こう書かれていた。
――刀鍛冶の里へご案内します。
〇
宇随天元は頭が痛かった。
何も怪我をした訳ではない。風邪という訳でもない。
敬愛するお館様――産屋敷耀哉の難題過ぎる
『カナエの相談に乗ってあげてくれないかい?』
二つ返事で了承した。すぐに、了承した事を後悔した。
緊急柱合会議の時は、まだ揶揄う余裕があった。定例の柱合会議では
そして柱合裁判後の今日、お館様の願いを盾に個室のある食事処へ呼び出してみれば――。
(派手に悪化してんじゃねーか!!)
もう
どうしてこうなっているのか。天元は派手で優秀な元忍だ。原因は分かっている。
鬼だ。男だ。不破弦司だ。
特に先日の風能元隊士との一件。天元が報告を聞いた際、カナエらしくないとは思った。色々と爆発したのだろうと予想はした。だが、ここまでとは正直思っていなかった。
こんなに拗れてしまったものを、どうすれば良いのか。さすがの天元も、すぐには対処法が思いつかなかった。
「……南無」
隣に座った七尺を超える巨漢が呟き、両手の数珠をジャリジャリと鳴らす。
彼――悲鳴嶼行冥を天元は巻き込んではみたが、この感じだと役に立つ気配が感じられない。そもそも、この男に恋だの愛だのは門外漢だった。
そして、天元は最後の望みと隣を見れば、
「カナエさん、疲れてるんですかねー」
お茶をすすり、うふふと暢気に笑う可愛らしい女性。長い黒髪と、垂れ気味の目元が何となく小動物を思い浮かべさせ、庇護欲を誘う。
天元の三人いる内の嫁の一人、須磨だ。
天元は自他共に認める
人選を完全に誤った。もう腹を括って天元が頑張るしかなかった。
「先日は大変だったな」
「いえ、私がもっとしっかりしていれば防げた悲劇ばかりで、自身の不明を恥じるばかりです」
「お前の所の不破が、きっちりやり切ったって話じゃねえか。自虐はするな、あいつのためにも胸を張れ」
カナエはニコリともしない。さらに空気が重くなる。早速、選択肢を間違えたかと、天元の胃が痛くなる。
「彼は友を喪い、腕を落とされ、体を二分にされて、頚も半ばまで斬り落とされてしまいました。どうして、胸が張れるのでしょうか。私がもっとちゃんとしていれば、あんなに苦しまなかったでしょうに……」
「お前の気持ちは分かるが、少しは男の覚悟と努力を汲んで報ってやれ。それに、お前のそんな顔を見て不破の奴は喜ぶ男か? もう一度言うぞ。あいつのためにも胸を張れ」
カナエは瞼を下ろすと、何度も深呼吸を繰り返す。
「…………すみません、言葉が過ぎました。それで本日のご用件は何でしょうか?」
次に目を開けた時には、目の色に冷静が戻っていた。しかし、いつものおっとりとした空気はほとんどない。こんな地味な綱渡りを毎回毎回せねばならないのかと、天元はげんなりする。
溜息一つ吐いてから天元は本題に入った。
「さっきの件もそうだが、色々と不破の事で悩んでいるんだろ。最初に報告を聞いた際、俺は胡蝶らしくないと思った。お館様も心配されておいでだ。ここでの話は秘密にするから、正直に胸の内を話してみろ」
「…………そうですね。私も、以前から自身が不安定なのはずっと感じていました。柱だから気軽に誰かに話す事もできなくて……でも、宇随さんと行冥さんと須磨さんなら、安心して話せます。どうか、私にお時間をいただけないでしょうか?」
見た目よりも理性が残っていたのか。カナエの発言には、所々に理知を感じさせるものだった。この感じならば、大丈夫かもしれない。
「私達はそのために来た。遠慮なく話してみなさい」
安全圏に入ったと思ったら、途端に行冥が割り込んできた。天元はかなりイラっとしたが、今のところ話し合いは順調に進んでいる。
ぐっとこらえて、カナエの言葉を待った。
「その、えっと……」
「どうした?」
「いえ、改めて言うとなると恥ずかしいな、と」
「まあな。かくいう俺も緊張してんだ。あまりかしこまって言うなよ」
「ははは。それじゃあ、言いますね」
カナエは頬を僅かに赤く染めると、
――弦司さんが私に好意を持っているみたいなんですよ
「脳味噌爆発してんのか!!」
「!?!?」
天元は思わず叫んだ。この女、この期に及んで何を言っているのか。本気で脳味噌が爆発しているのかと天元は思った。
「今はお前の話をしてんの! もっと重要な事があんだろうが! 何で不破の話になるんだよ!」
「えっ、いや、その」
「そもそも、逆だろうが!! お前が不破に好意持ってんの!!」
「ち、違います! 私は別に好きとか、違います!」
「違わねーよ馬鹿! なんで『私、惚れてませんから』みたいな顔しながら言っちゃってんだよ! どいつもこいつも、とっくの昔に気づいてんだからな!!」
「えっ」
「えっ、じゃねーよ! きょとんとするなよ! 驚きたいのはこっちだよ!」
天元は頬杖を突くと、イライラと机を指先で叩く。つまり、カナエは自身の認識から間違っているのだ。そこから矯正しないと、歪んだ部分は治せない。
何で同僚の子どものような恋愛観を、元忍の天元がわざわざここまで面倒見ないといけないのか。本当にイライラするが、お館様に頼まれた以上、天元がやり切るしかない。
「好きじゃないとは言うが。例えばお前の妹が不破と派手に結婚するとか言い出したら、どうするんだ?」
「―――─」
「ひぎぃ」
須磨が小さく悲鳴を上げると、湯呑を取り落とす。カナエが真顔になり、殺気が漏れ出していた。イライラして雑に対処してしまったのが間違いだった。
行冥が見えない目で、非難めいた視線を天元に投げてくる。確かに、さっきの応対は短絡的だった。だが、それならお前がやれと天元は睨み返してやる。行冥はそっぽを向いた。
須磨のこぼしたお茶を布巾で拭きながら、天元は白い目でカナエを見る。
「少し想像するだけで、その有様だ。本気で言ってんのか?」
「あっ、これは、その……」
「さっきも言ったが、ここでの話は秘密にする。特に不破の奴には絶対言わない」
「…………」
「あのな、あの様で一人で解決できると思ってんのか? 少しでもできないと思うなら、今すぐ全部話せ。話すつもりがないなら、もう終わりだ。俺は帰る」
「……本当に、ありがとうございます」
殺気が抜けたカナエは、悲しそうに眉尻を下げると、ようやく心の内を打ち明ける。
「私はいつの間にか、弦司さんがずっと私の元にいると思っていました。もちろん、そんなはずがなくて、一度は私の元から離れて、それが急に苦しくなって……それからです。救う以外の感情がある事を、はっきりと自覚したのは。そして、戻ってきて欲しいという醜い感情が現れました」
「醜い、ねえ……」
天元からすれば可愛い感情だ。要は好きな人が取られたから、取り返したいと思った。独占欲、それだけである。
だが、優しいカナエは、他人の幸せを奪うような感情を許せなかった。だからこそ、醜い感情と断じ、蓋をして閉じ込めようとしたのだろう。そして事件を切っ掛けに、箍が外れ蓋から溢れ出そうとしている。
カナエの告白は続く。
「それで本当に戻ってきて……気づいたら、私だけの物と思っていました。彼は物でも、夢を叶える道具でもないのに」
「……」
「間違っているって、何度何度も自分に言い聞かせました。でも、全然止まらなくて、段々増長していって……いつの間にか、このままでいて。私以外、仲良くして欲しくないと思うようになりました。それが先日の事件の時、頚を斬られかけた弦司さんを見て、頂点に達しました。あろう事か日輪刀で人を傷つけてしまった上に、今は彼が傷つくぐらいなら……彼をその……」
「……その?」
「…………閉じ込めたいと、思っています」
「!?!?」
「今は本当に閉じ込めてしまいそうで……弦司さんに会うのが怖いです。私は、一体どうしたらいいのでしょうか……?」
カナエは震えた声で言い、俯いた。
天元は辛うじて驚愕を飲み込む。須磨と行冥は口を半開きにして引いている。本当にあの胡蝶カナエから出た言葉なのか、心底疑わしい気分だった。
彼女がこうなるまで、なぜ放置していたのか。誰か知らないが、天元は小一時間説教したい気分だった。
だが、今は何においてもカナエである。天元は慎重に言葉を選ぶように、率直な感想を述べる。
「俺には胡蝶が不破を好いているようにしか聞こえないが。一体、何が違うって言うんだ?」
「だって、こんな薄汚い感情が愛だなんて……絶対違います。もっと、美しくて尊いもののはずです。閉じ込めたいだなんておかしい。間違っています」
「それは違うな、胡蝶」
天元はカナエの言葉を敢えて否定した。
胡蝶カナエという女性は、一言で言えば優しい。鬼でさえも救いたいと、常日頃から宣言していた。そして、不破弦司という鬼を現実に救ってみせた。まだカナエは救っていないと思っているみたいだが、天元からすれば、命があり衣食住も揃い今も笑えているなら、それは十分救えている。後は、そいつの責任だ。
それはともかく、心優しいカナエからすれば、好きや愛とは清廉で美しいものだったのだろう。確かに、そういった一面はある。だが、それはあくまで一面に過ぎない。嫉妬や不安に束縛。愛や恋の負の面はいくらでもある。
でも、カナエは潔白な物だとしか知らなかった。だからこそ、カナエは自身の醜い一面に動揺した。そして、知らないからこそ抑える術が分からなかったのだろう……それでも、閉じ込めたいは極端だが。
カナエには醜さも好意の一面だと教えねばならない。
「確かに、好きだの愛だのは一見美しく見える。俺も鬼殺と嫁を秤にかけるなら、嫁だと決めている。だけどな、それと同じぐらい醜い部分だってある」
「そうでしょうか? 私には、天元さんのその気持ちは、とても眩しいものとしか思えません」
「おいおい、派手な俺には嫁が三人いるのを忘れたのか? 本当に綺麗な感情なら、そんな事できると思うか?」
天元の嫁である雛鶴、まきを、須磨は忍の棟梁である、天元の父親が決めた結婚相手である。勝手に決められた結婚……それでも、彼女達を幸せにしたいと思い、三人とも娶った。
だが、どんなに言葉を着飾っても、これは誠実ではない。もちろん、彼女達がどんな待遇や境遇でも天元と一緒にいたい、という願いは知っている。それでも、結局根幹にあるのは『俺が幸せにする』という身勝手な欲望だった。
「全員平等に愛したって、俺の体は一つだ。一人愛するより、どう頑張ったって時間も密度も三分の一以下になる。それでも三人一緒に居るのは、俺が三人とも欲しいと思ったからに他ならない。胡蝶には、派手に欲望丸出しのこれが綺麗に見えるか?」
「……でも、いつも宇随さんといる時は、誰もが幸せそうです。本当に、そんな事あるのでしょうか……?」
天元の欲望を聞いても、カナエは納得できないのか。俯いて肯定を返さない。
仕方なしに、天元は須磨にも言わせる。
「……須磨」
「えっと、確かに天元様にはよくしてもらっているんですけど、やっぱり時間が足りないな~、って思う事はしょっちゅうです。そういう時は、本当に申し訳ないんですけど、他の人に引っ込んで欲しいというか、まきをさんあまりガツガツすんなよクソ! とか思います!」
「須磨」
「あと、雛鶴さんのあの態度は癪に障ります! なんですか、みんなして雛鶴さんを正妻正妻呼んで! 私達に一番も二番もないのに! なのに、雛鶴も雛鶴さんで正妻面しやがって、割と頭の中でいつもボコボコにしてますよ!」
「誰がそこまで言えと言った!!」
「あっ! ご、ごめんなさい――その」
つい、と須磨は付け加える。つまり、割と須磨の本心であった。
天元もなるべく嫁達の不満が溜まらないように気を遣っているが、それでも完全な平等とはいかない。やはり、もっと時間を増やすべきなのだろうか。
帰宅したら嫁達を労おうと思っていると、カナエが顔を上げた。そして行冥を見る。どうやら、全員の意見を聞くつもりらしい。
行冥は何やらジャラジャラと数珠を弄ぶばかりで何も言わない。天元は行冥を睨み付ける。お前もカナエが納得するような話をしろ、と重圧を掛ける。
数珠のこすれ合う音が止まると、行冥は諦めたように口を開いた。
「私は母親に手を引かれ、楽しそうにしている子どもを見るだけで泣く男だ……だが、親を鬼にされ、それでも声を張り上げる子どもがいて、いっそ殺して解放したいと思ってしまった事もある」
(何言ってんだ、この男……)
恋だの愛だのから一気に離れた。人間の二面性というのか。優しさの裏にある残酷な感情を、一応は行冥は説明したが、あまりに極端過ぎる。ちなみに、須磨はようやくとんでもない場所に連れて来られたと理解したのか、涙目で天元を見ていた。後で頭を撫でる事にして、天元は一旦は須磨を無視する事にした。
そしてカナエは、
「行冥さんのような優しい人でも、子どもに対してそんな事を思ってしまうんですね……」
(何でそうなる!?)
驚きながら何やら納得しているカナエ。カナエの行冥に対する信頼感は、一体どこから来るのか。天元には理解できない。
でも、行冥の言葉に一定の効果があったようで、カナエの瞳が揺れ動いていた。迷いの色が見える。天元には納得できないが、カナエは好きという感情に傾き始めていた。
カナエは再び俯くと、何度も目を瞬かせ胸元に掌を当てる。
「本当に、こんな醜い気持ちが……す、好き、なんでしょうか?」
「ああ。それに、胡蝶のその気持ちは、本当に醜いだけか? 不破を助けたいって気持ちは、これっぽっちもないのか?」
「……あります。助けて、彼を幸せにしたいです。でも、物でもないのに、私だけの物とも思っています」
「独占欲だな。俺の嫁に対する気持ちもそんなものだし、好きになるってのは大なり小なり、そういうものだろ」
「他人と交わりたいと思う彼を、私以外、仲良くして欲しくないとも思っています」
「それも独占欲だな。仕事柄仕方ないが、あんまり男と話すなとか思う事は俺もある」
「……じゃ、じゃあ、彼を閉じ込めて飼ってもいいのでしょうか?」
「何でそこだけ、ワクワクして訊いてくるんだよ!? 脳味噌爆発してんのか!? というか、地味に飼うに格上げすんな!! ホント、派手に独占欲の塊だな!! ……だがまあ、自分の物にしたいって、誰もが持っている欲望の一つではある。実際にはやるなよ?」
「誰もが持っている欲望――」
「……」
派手に特別な欲望だろ、と訂正しそうになる口を天元は咄嗟に閉じる。とにかく、カナエに弦司に対する好意を認めさせる。認めさせなければ、話は先に進まない。過激な所は、全部弦司に丸投げすればいいと天元は判断した。
また少し、好きに理解が傾いたのだろう。カナエが今度はもじもじし始める。
「好き……私が、弦司さんを、好き……?」
「どう見てもそうだろ。なあ、須磨?」
「恋するカナエさん、すごく怖、可愛いですよ~」
須磨がダラダラと汗を流しながら答える。だが、恋という単語が良かったのか、カナエは顔を真っ赤にさせて目を逸らしていた。
「恋……私が……弦、司さんを……」
名前を呟き耳まで赤くする。一人の女が、恋を自覚した瞬間だった。正直、一体何を見せられているんだと天元は思わなくもない。
とにかく、これで万事解決……とはいかない。すぐにカナエが不安に顔を曇らせた。
「でも、私は鬼殺隊の柱です。いつ死ぬか分からない上に、こんな恐ろしい気持ちを伝えてしまって怖がられないでしょうか? そもそも、私は彼を救うために一緒になっただけです。これでは救うと言いながら彼を自分の欲で手元に置いたみたいじゃないですか」
「地味に面倒くせえな。でもでもだってじゃねえ。そこからどうするかは、胡蝶の選択だろうが」
「す、すみません。どうすればいいのか、本当に分からなくて……」
申し訳なさそうにカナエは頭を下げる。
天元は投げやりに茶をすする。好意を認識すれば、後は惚れた腫れたの男女の世界だ。その悩みも苦しみもときめきも、全部二人のものである。天元の出る幕ではない。
もう帰ろうかと天元が思っていると、ようやく行冥が自分から動いた。
「このような生業で一緒になりたい。救うために一緒に居るはずが、自身の幸せを考えてしまう。君の抱えようとしている矛盾は分かる。だが、それを受け入れ進んでいる者が目の前にいる」
行冥が指しているのは、天元と嫁達の事だろう。
天元と嫁は全員が鬼殺隊に入っている。当然、命のやり取りをする。明日、突然死ぬかもしれない。それでも、今まで忍として奪ってしまったものを清算し、陽の当たる場所で生きるために戦っている。在り方も、生き方も、はっきり言って矛盾の塊だ。だから、天元は派手に規則を決めた。それをカナエに教えるぐらいはいいだろう。
天元は指を三本立てる。
「鬼殺なんざやってたら、嫁達の命か、鬼の頚か、必ず選択する機会は来る。どっちも選ぶなんて、矛盾だらけで選べる訳がないし、得てして贅沢な状況でもない。なら、俺は迷う前に派手にハッキリと命の順序を決める事にした」
「命の順序、ですか?」
「ああ。一番目は嫁達。二番目はのほほんと生きてる一般人。三番目は俺だ」
「えっ」
そんな発想自体なかったのか、カナエはぽかんと口を開けた。
「派手にぶっちゃけると、俺は一般人よりも嫁の命の方が大切だ。嫁にも、任務より命を優先するように、ハッキリ伝えてる」
「でも私達、鬼殺隊ですよ!?」
「さっきも言ったが、好きだの愛だのは綺麗なだけじゃない。欲塗れで、汚い一面もある。両方あって然るべきなんだよ。銅貨みたいに表だけじゃなくて、裏もある。それが本来ある姿なんだ。俺の場合、嫁達を幸せにする事が表で、そのために命の序列を決めたのが裏。もちろん、欲のために何かを奪うなんてのは論外だ。だけどな、鬼殺隊だなんだ言っても、俺達は人なんだ。鬼殺より大事なものがあるってのは、そんなにおかしい事か?」
「……それは」
「ちなみに、上弦の鬼を倒した時には、普通の人間として生きると、ド派手にハッキリと決めている。その時は、後をよろしく頼むな」
「…………」
「ま、適当に参考にしな」
そこまで言うと、須磨が天元にしがみついてきた。見遣れば、泣いているらしい。僅かに肩を震わせている。天元の言葉が嬉しかったのか。それとも、どれだけの困難を思い出してしまったのか。もしくは、その両方かもしれない。
地味に鼻水がつくが、天元は黙って須磨の頭を撫でた。その様子をカナエは羨望や苦悩の混じった、複雑そうな面持ちで見ていた。
「……私の感情がおかしくないのは、分かりました。受け入れます。でも、本当にそんな風に振る舞って良いのでしょうか? 私はワガママになってもいいのでしょうか? 今までの生き方を変えても良いのでしょうか?」
「変わる事が恐ろしいのか?」
突然、行冥がカナエに問う。
カナエは少し迷うように口を結ぶと、静かに頷いた。
「……はい。その、私は行冥さんに認められるような、良い子でしたから。自分にこんな感情があった事に、驚いています。このまま激情に身を任せて、自分勝手に振る舞うことが……すごく怖い」
「そうだな。私も正直驚いている。君がどう変わるのか予想もつかず恐ろしいとさえ思っている。それでも……変わる事を恐れてはならない」
「それはどうしてでしょうか?」
「不破弦司が『変化』を好むからだ」
「えっ」
この時、カナエと同じく天元も間抜けな顔をしていただろう。何やら説法が来ると構えていた所への、この行冥の発言だ。間抜けにもなる。
行冥は生真面目に続ける。
「私は恋愛は得意ではないが、相手の好む行動が肝要だとよく聞いている。ならば恐れず『変化』する事だ」
大仰に言うので何事かと思ったが、恋愛に関する助言だったようだ。天元は気が抜けて、クスリと笑ってしまう。
対して、カナエは俯いて、肩を大きく震わせていた。当然、泣いているでも怒っている訳でもなく――。
「あはははははっ!!」
カナエはお腹を押さえて、眉尻も目尻も下げ切って、大口を開けて笑い始める。微笑む姿は何度も見たが、ここまで大笑いするカナエを天元は見た事がなかった。
ひとしきり笑ってから、カナエは涙を拭って微笑んだ。
「あーおかしい。いきなり、何を仰ってるんですか。でも、そうですよね。弦司さんが『変化』が好きなら、好まれるために『変化』を恐れていてはいけませんよね」
「……何も、そんなに笑う事はない」
「ふふふ、ごめんなさい行冥さん。でも、そっか。弦司さんは『変化』が好きでしたね」
うんうん、とカナエは何度も頷く。
この時、天元は弦司が鬼にされた理由を思い出していた。
――『変化』はその全てにおいて劣化だ。私の望む『不変』から最も遠い。
鬼舞辻無惨は、己の価値観と弦司が対極に位置すると知って弦司を鬼にした。鬼舞辻無惨から最も遠い位置にあるのが『変化』ならば、鬼殺隊士としてなぜ『変化』を恐れる必要がある。そして、弦司は『変化』が好き。
カナエには『変化』を恐れる必要も躊躇する理由もなかったのだ。行冥は知らず知らずのうちに、カナエに必要な金言を授けていた。
カナエも気づいたのだろう。纏っていた迷いや嫌な鋭さが消え、いつものカナエらしいおっとりとした空気が戻ってきた。
カナエが目を細め、行冥を見た。
「私は誰かのためじゃなくて、自分の幸福のために動く女になるかもしれません。鬼殺以外のモノに、たくさん目移りするかもしれません。私はそんな風に『変化』してもよろしいのですね?」
「…………」
行冥は沈黙すると、見えない瞳から大粒の涙を流した。いつもの、流れ出るような涙ではない。心の内を震わせた感涙であった。
これにはカナエも天元も動揺した。
「お、おい、悲鳴嶼!?」
「行冥さん!? あの、どうしたんですか!?」
「……私は君たちの覚悟を目の当たりにして、育手を紹介した。君は見事、最終選別を乗り越え柱まで至った。覚悟に応え、数多の人々を救っている。それは間違いなく、喜ばしい事であった」
見えない目を閉じ、懐かし気に語る行冥。だが、天元はその声に混じる、僅かな悔恨に気づいた。
天元は伝え聞いた話で、胡蝶姉妹は元々行冥が鬼から救った娘と聞いている。彼女達が鬼狩りになると聞いた時、そして覚悟を見せつけられた時。救ったはずの娘達が、地獄へ向かう……行冥が忸怩たる思いであった事は想像に難くない。
行冥は瞼を開け、まるで心の内を見る様に、何も映らない瞳で真っ直ぐとカナエを見た。
「だがどこかで、強く優しい大人になって人生を歩んで行って欲しいと願っていた」
「行冥さん……」
「今、君は両親を失った日から初めて、自身の幸せを見つめ直した。私は君が未来を見た事が、嬉しくてたまらない」
行冥の頬が緩む。滅多に笑わない男が、確かに笑っていた。
「君が未来を見つめる限り、私は君を認めよう。もし、君が道を違えようとしているなら私が正す。だから、心赴くままに『変化』しなさい」
「ありがとう、ございます……!」
カナエが僅かに目を潤ませ微笑みながら、感謝を述べた。
色々あった。はっきり言って、損な役回りだと天元は思っていた。だが、カナエと行冥の笑顔が見れただけで十分な報酬だと天元は思い直した。己らしくないと天元は思ったが、それでも微笑みが止まらない。
カナエは目元を拭うと、気恥ずかしそうに頬を掻く。
「何度もご迷惑をおかけしてすみませんでした、行冥さん、宇随さん、須磨さん。私の中でようやく折り合いがつきそうです」
「もうこんな事、勘弁しろや。で、具体的にはどうするつもりだ?」
「そうですね……」
カナエは胸に手を置く。しばらく考えるような間を置くと、頬を緩ませた。
「以前、私は弦司さんを救うつもりも託すつもりもないと言われ、身勝手にも
カナエの引退とも取れる発言に、天元は驚くほど落ち着いて聞いていた。優しい彼女にとって、鬼の頚を斬る事は向いていないと、どこかで思っていたからだろうか。
「その後は?」
「彼の治療に専念したいです。そして、いつか鬼を治せる薬を作れれば……なんて」
今度は綺麗に天元の腹に落ちる。
カナエの持つ深い悲しみと悲痛な覚悟。鬼でさえ救いたいと思う彼女にとって、本当に必要なのは断ち切るための刀ではなかったのかもしれない。未来を紡ぐ、治すための力が本当に必要だったのではないかと、天元は思った。
次に、カナエは気まずそうに目を伏せると、
「もちろん、他にも考えて受け止めなければならない事がたくさんありますが、それもこれも、まずは恋愛成就しなければ意味がないので……この件が終わるまでは、もう少し面倒見ていただけませんか?」
「冗談キツイぜ。不破弦司は胡蝶カナエの事が好きなんだろ?」
「それとこれとは話が違うと言うか……! とにかく、そこを何とかお願いします」
カナエは手を合わせて頭を下げる。調子を取り戻すとすぐこれである。だが、天元は悪い気はしなかった。
今まで、カナエは未来を見て生きていなかった。それが『変化』を受け入れ、前を向くようになった。鬼殺なんて生業である。その大半が、数多の鬼を殺す事しか考えていない。行冥ではないが、この『変化』は素直に嬉しい出来事であった。
もう少しだけ付き合ってやるか、と天元が考えていると、カナエは須磨の手を両手で握った。
「実は私、須磨さんが
「一番!?」
「はい、
「――お姉さんに、任せなさい!」
頼られた経験の少ない須磨は、一にも二もなく了承する。それより、いつの間にか『もう少し』が『最後』に変わっている。須磨はそれに気づいていないのか。
すっかり調子を戻したカナエに流れを奪われてしまう。
「それじゃあ、弦司さんが私に囲われる方法とか、私の独占欲を密かに叶える方法とか、弦司さんが無条件で私を甘やかす方法を考えて下さい!」
「欲張り三点組みはやめろ!! 恋愛なめんなよ!!」
やはり付き合うべきではなかったか。僅かに後悔した天元だったが、カナエの弾けるような笑顔に、溜息を吐くしかできなかった。
私生活の方ですが、仕事などで時間の確保が難しい状況です。
加えて、最終話は複数話まとめて投稿したいと思っていますので、しばらくは週に一回ぐらいのペースでの投稿になるかと思います。
ご了承ください。