全体の構成を考えると、区切るタイミングがなくなった上、長くなったので分割します。
それでは、お楽しみください。
カナエの願望にたっぷり付き合った後。
部屋に残されたのは、疲労困憊の須磨と、結局、有効な助言はあれが最後となり仏像と化した行冥と、最後は頷く機械となった天元だった。最後の方は色々ヤバめな提案もいくつか通してしまったが、とりあえずカナエはご機嫌で先に帰っていった。
ようやく終わって、天元は脱力する。
「地味に疲れた……どうにかなって良かったな、悲鳴嶼」
「だが、根は優しい娘だ。迷いが完全に振り切れる事はない。また迷う事もたくさんあるだろう」
「そりゃそうだが。ま、これでくっ付けば、ひとまずは落ち着くだろ」
「……それとこれとは別問題だ」
行冥の手元の数珠がひび割れる。どうやら、彼女の恋心は認めても、その先については受け入れてないらしい。
相手は鬼だ。不安や憤りが行冥の胸の内にはあるかもしれないが、はっきり言って、そんなものは今さらだ。弦司を強制連行した緊急柱合会議、あの時に彼を受け入れ、さらには鬼殺隊へ入隊した以上、彼は一人の人間として扱わねばならない。
もしかしたら、男親のような感情が行冥の胸の内にはあるのかもしれないが……もう少し、それらしい事をやれと天元は言いたい。
兎にも角にも、カナエと弦司の関係について、天元は二人に任せることにした。この話は、これで終わりである。そう思い、天元は別の話題を切り出す。
「悲鳴嶼、風能の件だが」
弛緩した空気が、一気に張り詰めた。
――風能誠一。
あの日、派手に問題を起こした鬼殺隊の元隊士だ。なぜ彼があそこまで、弦司の討伐に頑なだったのか、天元自ら追加調査を行っていた。そして、分かった事があった。
「あいつが言ってた女は実在した」
「……何?」
風能がしきりに訴えていた女の証言。
とある特徴を持ち、虐げられていた女性の情報を、確かに天元は入手していた。
「まだ理由までは分かっていないが、その家は頑なにその女を、死んだものとして扱っていた。鬼殺隊の情報網に引っかからなかった理由は二点。その女に風俗紛いの事をさせて、一部、下半身の緩い隊士に奉仕させていた。そんな馬鹿をしでかして、正直に女の話ができる訳がなかったってのが一点。それと先も言ったように、そこの主人が女を死んだものとして扱っていたため、生きていた痕跡が少なかったってのがもう一点だ。全部、馬鹿隊士達からの情報だけどな」
「なんと愚かな……」
行冥が怒りで眉間にしわを寄せる。
「しかし、そうであればなぜ、風能元隊士はあそこまで不破弦司に拘った?」
「不破が便利屋だった時、確かに例の藤の家での出入りはあったみたいだが、直接不破と女との面識はなかった。執着する理由は俺にも分からないな」
「この事を彼らには?」
「伝えてない。何も分かっていない事を伝えて、地味に不安がらせても意味がないし、知った所で対処のしようがないからな」
「うむ……」
二人して首を捻る。一体何があって、風能はああなってしまったのか。真相の形が見えてこない。例えようのない不安が二人の胸の内に生まれる。
「ま、その女が風能と接触した所までは分かっている。そいつを追えば、おいおい分かるだろうよ」
「……だといいが」
結局、何の結論も出ないまま、この日は解散となった。
〇
「どうもコンニチハ。ワシこの里の長の
「初めまして、不破弦司と申します。よろしくお願いいたします」
ひょっとこのお面を被った、子ども程に小柄な老人に対して、弦司は低頭していた。
現在、弦司は刀鍛冶の里へ訪れていた。
山岳部に巧妙に隠されていた里は、周囲を鬱蒼とした森林に囲われており、まさに秘境と呼ぶに相応しい装いだった。
まずは一番に長へ挨拶を、という事で会ったのが、この小柄な老人だった。
一目見て弦司は鉄珍に抑えきれぬ期待を抱いた。一見、小さなご老人としか見えない彼だが、不破家で数々の人物を見てきた弦司には、職人然とした空気を敏感に感じ取っていた。小さくもぶ厚い皮に包まれた掌然り、時折感じるお面の下の鋭い視線然り。
弦司の直感が告げる。今まで出会ってきたどの職人よりも、鉄珍の前であれば霞んでしまう事を。胸の内の期待を弦司は隠しきれない。
まるで少年のような心持でいたためか、お面の下の目が温かいものに変わる。
「君が鬼って聞いて、ワシも色々考えたのにな。そんなキラキラした目で見られたら、アホらしくなったわ」
「ありがとうございます。それと、何か里の外でお困りごとがありましたら、その時は是非、不破家を御頼り下さい」
「ガツガツしてるね、キミ」
しばらく談笑したが、それは短い時間であった。里の長であり、里一番の刀鍛冶である鉄珍は当然のように忙しかった。今回、弦司が会えたのは、鬼殺隊に味方する鬼を一目見たいと、鉄珍自身の要望があったからに他ならない。
「何か困った事があったら、遠慮せずに言いや」
「はい、本当にありがとうございます! それと、里の外で困った事があれば――」
「不破家やな。よく分かったから、元気でな」
「はい、お元気で」
挨拶もそこそこ、弦司は次の目的地へと向かう。
「て、鉄谷と申します。私の作った銃の使い心地は如何だったでしょうか?」
別室に通され、今度はひょっとこのお面を被った男と対面する。声の質や体から、弦司と同年代の男性。この鉄谷こそが、弦司のわがままを叶えてくれた刀鍛冶だ。
担当の刀鍛冶と話をして、より強力な日輪刀を作成する。それが弦司が刀鍛冶の里を訪れた理由だった。
ただ、やはりと言うべきか。弦司が鬼と聞いているため、鉄谷はおどおどとしている。
「もっと重たく、威力を上げられませんか?」
彼も生粋の職人だ。武器の話をすれば、いつもの調子に戻るだろうと弦司が要望を伝えると、俄かに様子が変わった。
鉄谷はプルプルと震えると、
「馬鹿言ってんじゃねーぞ、ボォケッ!」
「っ!?」
いきなり弦司に掴みかかってきた。
意味が分からず目を白黒させる弦司に、鉄谷はひょっとこのお面を近づける。
「あんな技術も糞もない武器作らせやがって! もっと重たくだ!? それなら、鉄筋でも抱えて戦えってんだ!!」
どうやら、弦司の脳筋仕様が気に入っていなかったらしい。それが職人としての誇りを傷つけられたようで、鉄谷は怒気を滾らせ弦司に突っかかってきた。
ともかく、これで鬼とか何とか関係なく、鉄谷と話ができる。
「すみません、俺が剣の才能がないばかりに。でも、せっかく鬼の体なんですから、それを活かす武器を使いたいんですよ。重さは無理でも、銃の威力はどうにかなりません?」
「ならねえよ! そりゃ長に命令されて、銃の方も研究しているけどな! うちらは刀鍛冶なんだよ! 技術の蓄積もないのに、一朝一夕で改良できるか!」
鉄谷の言う事はもっともだった。
彼らの本質は刀鍛冶だ。銃は門外漢である。それでも、銃を取り扱ったのは、弦司も戦えるように、という気遣いだけではない。遠距離から鬼の頚が斬れるなら、今後の鬼殺に大いに寄与する。戦略面から必要と感じ、無理をして専門外の銃を作成したのだ。すぐに形になっただけでも素晴らしいのに、これ以上の品質改良は確かに難しかった。
だが、弦司には秘密兵器がある。
「鉄谷さん、俺にはあなたの研究を一気に進める方法がある」
「……お前は何を言っているんだ?」
「最新鋭の武器、興味ありません?」
鉄谷の目の色が変わる。彼は職人だ。新しい技術に触れられるかも、となると興味が湧いてきたのだろう。
「ただし、この里の中で秘密にする事が条件です。伝える事も、言い聞かせる事も、広める事も許可できません」
「……私が使う分には?」
「先の約束を守っていただければ、いくらでも」
「ふ、ふーん……ま、まあ、私が使えるならいいでしょう」
鉄谷は僅かに思案した後、すぐに頷いた。やはり、最新という言葉に勝てなかったのだろう。
それから弦司は準備をした。ただし、それは武器を見せるという行為からは、一見かけ離れているとしか思えない準備である。
「なんで飯? というか、量多っ!?」
力士十数人分は超える料理を、部屋に運び込ませる。部屋の中に、料理と料理の匂いが充満し、匂いで鼻を殴りつけてくる。だが、こうしなければ、最新鋭の武器には触れられない。
弦司は僅かに深呼吸を繰り返し心を落ち着かせる。そして、頭の中に知っているが、経験した事のない鮮明な映像を浮かび上がらせ、小さく呟く。
血鬼術・宿世招喚――想起。
すると、弦司の腕の形状が俄かに変わり始める。
宿世招喚『想起』。弦司の前世にある物体に、体を変化させる血鬼術だった。
小銃というには長い銃身と大きい口径。『対物ライフル』などと呼称される、大口径の狙撃銃……らしいものに、弦司の腕が変わる。
「ぬおっ!?」
鉄谷は飛び上がって驚くが、すぐに見慣れぬ銃に興味を持ったのか。恐る恐る近づくと、ちょんちょんと何度も指先で触る。
「こ、これは……?」
「俺の血鬼術です、んぐ。記憶の中にある物体に、体の形状を変化できるのですが、あぐっ。中にはまるで未来の技術で作られたようなものがあって、はぐ。これを上手く技術転用できないかと、相談を――」
「すごいのは分かったけど、何で合間合間に飯食っちゃってんの!? 私は馬鹿にされてんの!?」
喋りながら食事を始める弦司に、興奮しながら困惑する鉄谷。彼の言い分も最もだが、当然ながら弦司はふざけている訳ではない。
「この血鬼術、変化と維持に異様に力使うんですよ。まあ、この兵器が細かい部品で作られているのとか、色々と理由はあるんですけど」
「ああ、食事で力を補給しているから、回復しながら使うのにはこうなってしまうのか……」
鉄谷は納得すると、弦司の腕を凝視する。もうそこに、弦司に対する恐怖や血鬼術に対する恐れはない。職人としての好奇心と向上心が、彼を突き動かす。
しばらく鉄谷は眺めると、
「これ外せよ」
「えっ」
「えっ、じゃなくて。見にくいから外せよ」
銃に変形はしているが、これは弦司の腕だ。銃を外すという事は、弦司の腕を切り落とすのと相違ない。
弦司は当然、首を横に振る。
「いやいや、これは一応俺の腕だから! 外せないって!」
「いいや、私の見立てじゃ外せるね! だから頑張れ、ほら頑張れ! できるできる!」
「できないって!? 頑張れで腕は外せないだろ!?」
「ああもう、じれったい! 何でそんな良い能力持ってるくせに、全然使いこなせてないんだよ! 持ち込んできたくせに、こんなんじゃ全然研究なんてできん!」
鉄谷は襖の外に声を掛けると、もっともっと食事を持ってこさせた。
弦司は頬が引きつる。
「あの……これは……」
「まずは不破殿の能力を磨きましょう。研究の話はそれからです」
「いや、難しいようなら、また今度で――」
「能力磨くまで、日輪刀の整備しませんから! もちろん、粉々になった籠手もそのままです!」
「いやいやいやいや!! そこまでする!?」
「はい、そこまでします! 絶対、整備なんてしませんから! そのつもりで、腹括って特訓しましょう!」
どうやら、変な方向に職人魂に火を付けてしまったらしい。
研究を進めるなら、まずは弦司の能力を伸ばせ。伸ばして、それで正確な技術を確認する、と。確かに日輪刀の強化は望んでいたが、まさか血鬼術を磨くとは考えていなかった。
鉄谷はやる気を漲らせて、腕で力こぶを作る。
「さあ、特訓開始です!」
頑固になった職人を止める手立ては弦司にはなく、そのまま地獄の特訓に突き落とされた。
○
鉄谷の特訓ははっきり言って糞だった。
洞察力は優れている。弦司の伸びしろについては、確かに合っているかもしれない。だが、助言が全くできなかった。
そもそも血鬼術について、感覚的も知識的にもよく知っていないのだ。助言ができるはずがない。
だから、鉄谷がかける言葉は決まって『頑張れ』『できる』そして『できないとは嘘吐きの言葉』。
精神論ばっかりで、何の役にも立たない。それでも、日輪刀の整備を盾に何度も何度も何度も何度も、弦司に宿世招喚を実行させた。
食事が追い付かず、飢餓で朦朧とする事もあった。何で刀鍛冶の里に来て、今にも死にそうになっているのだろうと思うようになった。そうなると、次第に前世と今世と体と心の在処が混濁していって……その瞬間、何かが噛み合う感覚を得た。
記憶も体も心も一体化し、その中から必要なものを引き出す。不要なものを切り落とす。言葉にすればそんな感覚が、弦司の血鬼術の幅を一気に広げた。
「で……できた……」
寝る間も惜しんでの三日の猛特訓の末、弦司はついに血鬼術の新しい力をものにした。その成果として、目の前には大量の
血鬼術・宿世招喚――
前世の知識を複数以上を組み合わせて、体の一部を変化・分離する。弦司の新しい血鬼術だった。
この模造銃達は『化生』。そして、宿世招喚を効率化するため、新しい発想を元に作られた。
なんと模造銃は、様々な部品や機構こそ本物と同一だが、全て単一の素材で作成されていたのだ。
複数の素材を組み合わせれば、それだけ構造が複雑になる。複雑になれば、『変化』と『維持』に力を使う。ならば、全て単一素材で作れば、力の消費を抑えられる。そういう発想の元、作られた物だった。
そして、試みは成功した。力の消費を抑えられ、さらに体から分離するだけの余剰分の力も確保できた……もちろん、それでも力の消費量は膨大であり、すでに弦司の頬は空腹でこけていた。今は一心不乱に飯に食らいついく。
「ほーら、できた。私の見立て通りでしょ?」
「…………」
自慢げに言う鉄谷。お前は何もしてないじゃないかと言いたいが、今の弦司は腹が減ってそれどころではない。
「私はしばらく研究します。整備はしておきますので、籠手と一緒に日輪刀は持って行って下さい。研究が進めば、鎹鴉経由で知らせますので。それでは、ゆっくりしたら蝶屋敷へ帰って下さい……ふひひひっ」
鉄谷は気持ち悪く笑うと、弦司の作成した模造銃を大量に担いで、どこかへ行った。
試射はあいつを的に行う。弦司は秘かに心の中で誓った。
○
刀鍛冶の里に来て、弦司はその時間のほとんどを血鬼術に捧げてきた。このままでは、里がつまらない記憶ばかりで彩られてしまう。
弦司は危機感を抱き、何か他に里にはないかと尋ねたところ、温泉が有名だと回答があった。血鬼術ばかりにかまけていたので、全然知らなかった。もちろん、鬼の体である弦司には効能は全くない。それでも、秘境の温泉。それだけで入る価値はある。
夜になると、弦司は真っ先に温泉へと向かった。集落の外れの階段を上り、硫黄の匂いが混じった湯気をかき分けると、巨大な岩で組まれた温泉があった。それだけで、心躍る。弦司が全裸になり入ろうとすると、先客が居る事に気づく。
凶悪な目つきを持った傷だらけの男。不死川実弥がすでに温泉に入っていた。向こうも弦司に気づいたのか、全裸の弦司を見つめると頭に手ぬぐいを乗せたまま固まった。
実弥の表情が焦りに代わる。
「テ、テメエ!? 何でここにいるゥ!?」
「温泉に入りに来たに決まっているだろ?」
「そういう意味じゃねえェ!?」
「ん? それなら、日輪刀の整備だが……」
弦司は素直に答えると首を傾げる。実弥の焦る理由が分からない。
「えっ、お前もしかして下半身は同性に見られたくない系? まさか、大きさを気にされておいでで――」
「どういう意味だァ!!」
「何か気にしてるみたいだからと思ったけど、違うのか……あっ、もしかして怪我してるのか? そりゃマズいか」
実弥は『稀血』である。一歩間違えれば、男の全裸で涎を垂らす地獄絵図の完成である。
弦司は離れようとするが、背中から声がかかる。
「そこらの軟弱隊士と比べんなァ! 怪我なんざしてねえよォ!」
「……それじゃあ、入ってもいいんだな?」
「…………チッ」
実弥からは舌打ちが返ってくる。否定しないという事は、構わないと弦司は判断する。弦司は念のため、実弥から離れた場所から温泉に入った。
足を伸ばして、体を揺蕩わせる。蝶屋敷でも毎日、湯船には浸かっていたが、あそこは女所帯だ。使うにしても、色々と気を遣っていたので、娯楽という側面はほとんどなかった。湯を純粋に楽しむのは、本当に久しぶりだった。
「ああ~。いい湯だな~」
「…………」
「不死川は里に来ると、必ず温泉には入るのか?」
「……テメエなァ」
弦司が実弥に雑談を振ると、これ見よがしに実弥は顔を顰めた。
「よく俺に声を掛けられるなァ?」
実弥との接点は、半年前の緊急柱合会議。あの場で、弦司は人を喰らわない事を証明するため、『稀血』に耐えられるか実弥に試された。結果、弦司とカナエは酷く傷つけられた。どうやらその事があり、実弥は弦司の態度に納得がいかないらしい。
弦司は岩にもたれかかると、殊更気楽そうに言う。
「そりゃ、何も思っていないかって問われればそうじゃないが、あれは必要な事だったろ? その程度の判別はつくし、おかげで助かった件もある。感謝はすれど、恨むなんてお門違いさ」
「俺のおかげで元婚約者様を喰わなくてよかったとでも言うつもりかァ?」
「よく知ってるな。まあ、そういう事だ」
「……テメエ、皮肉って知ってるかァ?」
「ああ。だけど、真っ直ぐ受け取った方が気持ちが良い事が多いからな。なら、俺は自分の良いように解釈する」
「…………チッ」
再び、実弥が舌打ちする。弦司には何となく、実弥が困っているのが分かった。
鬼殺隊にこれだけ長く関わっていれば、嫌でも柱の話は耳に入る。
――母親が鬼にされ、弟妹を殺した。そして、その母親を実弥が討った。
実弥にとって、鬼とは血と心の繋がりがある肉親でさえも、殺めてしまうような唾棄すべき存在だった。しかし、弦司は心の繋がりだけで全てをひっくり返した。弦司とは実弥の考える鬼とは、対極に位置する存在なのだ。カナエが初めて弦司に会った時、例えに出した鬼も実弥の母親だったのかもしれない。
今の弦司の認識は、実は実弥に近い。誰も彼も面白半分で人々を喰らい、他人の不幸に心も痛めない。そんな場面を数多見てきた。あれらは、あってはならない生き物だ。
しかしそうなると、例外である弦司とは一体何なのか。どのような距離を取ればいいか分からなくなる。仮に弦司が実弥と同じ立場なら、困惑していただろう。実弥の心情はそんなところではないかと、弦司は推察していた。
弦司は弦司。鬼は鬼。そうやって区別をつけて接してもらいたいが、それも簡単ではない。弦司にできるのは、普通の鬼とは違うと、行動で実弥に伝え続けるだけである。
湯船の心地よさに顔を緩ませながら、弦司は再び実弥に話題を振る。
「そういや、ここの温泉って混浴だったりするのか?」
「テメエなァ……まるで友達みたいに話しかけんじゃねえェ。そもそも、それ訊いてどうするつもりだァ?」
「一緒に混浴行こうぜ」
実弥が頭から手ぬぐいを落とす。慌てて手ぬぐいを湯から取り出すと絞りながら、
「誰が行くかァ! 行くなら一人で行けェ!」
「いいか、二人で行けば『あいつが無理やり誘った』ってお互い言い訳ができるだろ? そうすれば、角が立たずに裸が見れる」
「角立ちまくりだボケェ! そんなガバガバな言い訳が、胡蝶姉に通じる訳ねえだろうがァ!」
今度は弦司が焦る番だった。
「な、何でそこでカナエが出る!?」
「テメエが言い訳する相手なんざ、そいつしかいねえだろうがァ!」
「あいつ、そこまでバレバレなのか!?」
「気づかねえ奴なんざ、冨岡の野郎ぐらいだろうよォ」
「交流が苦手そうだとは思っていたが、冨岡ってそんな残念な奴だったのか……」
「はっ、あいつは俺達を見下してんだァ。興味なんかないんだろうよォ」
「そうか? 『可愛いは正義★第一回カナヲ大会』出てくれたから、興味がないとかそういう事はないと思うぞ」
「何言ってんだテメエ?」
弦司は二カ月前の惨劇について、詳細を説明する。
――カナエの変顔。
――しのぶの大滑り。
――弦司の冨岡被り。
実弥は何やら、納得したように頷いていた。
「前回の柱合会議で、冨岡の馬鹿が胡蝶に突っかかっていたのは、そういう事かァ」
「何かやらかしたのか?」
「『あの顔はやめろ』とか胡蝶に向けて言いやがって、猛抗議受けていたなァ。うるさかったが、そういう真相だったかァ」
「それは冨岡が悪いな。何で馬鹿正直に蒸し返すか……」
「だから言ったろォ。あいつは他人を見下して――って、ちげえェ!!」
実弥は何やら突然立ち上がると、手ぬぐいを温泉に叩きつけた。水柱が立ち上り、湯が周囲に飛び散る。
「うわっ、すげえな……隠し芸か?」
「変な所で感心するなァ! そうじゃなくて、何普通に話してんだよォ!? テメエは鬼だろうがァ!!」
「えっ、俺達は一緒に混浴に入ろうとする仲だろ!?」
「どういう仲だァ!」
実弥は弦司にずかずか近づくと、人差し指を弦司へ指す。
「いいか、俺は鬼が憎いんだよォ!」
実弥が額に青筋を立てて、睨み付ける。
弦司は間髪入れずに笑顔で返した。
「そうか。俺も同じだよ」
「――っ」
実弥の表情が複雑なものに変わる。困惑で眉尻が下がって、それでも顔を顰めようとして、それも失敗して。結局、実弥は目を吊り上げ、力いっぱい弦司を睨み付けた。
「テメエは鬼だろうがァ。鬼が鬼を憎むなんざ、どういう了見だァ」
「人を憎む人がいるんだ。鬼を憎む鬼がいてもいいだろ」
「なら、テメエはいつかテメエを殺すつもりかァ?」
「カナエがいなかったら、そうなっていた未来もあったかもしれない」
「…………」
ただただ生きていた山での日々。毎日毎日、心に蓋をした。いつか淀んで、枯れ果てて……心が死んだ時、弦司は陽の光を浴びたかもしれない。
それを全て、カナエが止めてくれた。今、弦司の心が生きているのは、カナエが来てくれたおかげだ。そして、カナエは弦司の心を守り続けた。自死するような未来はもう有り得ない。
「俺が俺として生きる限り、俺は人になるまで生き続ける」
「……チッ」
弦司が微笑むと、実弥は舌打ちをして背中を向けた。弦司からは、もう彼の顔は見えない。
「……テメエと話していると、調子が狂うんだよォ」
「そうか。俺が人だったら、狂わなかったか?」
「テメエがおかしいんだァ。大して変わんねえだろォ」
「じゃあ、俺が人間になっても変わらないか試してみるか?」
「……俺が生きているうちに、テメエが人間に戻れたらなァ」
実弥は振り返らず、そのまま温泉を出て行った。
実弥と普通に話す事が出来た。弦司はご機嫌で湯船に浸かり続けた。
〇
刀鍛冶の里での成果は、弦司にとって満足いくものだった。
過程はともかく、血鬼術の練度も上がり、技術も鉄谷に伝えられた。さらには秘境の温泉を楽しみ、実弥とも交流を持てた。これ以上ない成果である。
湯上りに鼻歌を歌いながら歩くほど、満足していた。
――だからこそ、彼女がいたのは本当に予想外だった。
「弦司さん、良いお湯でしたか?」
「――っ」
垂れた瞳と眉尻。色香の漂う艶やかな唇に、絹のような長い黒髪。胡蝶カナエが弦司の借りている部屋で寛いでいた。
カナエも風呂上りなのか、紅潮した頬と僅かに濡れそぼった髪が、常よりも色気を放つ。さらに、蝶の髪留めもなく、白を基調とした浴衣姿。肩の力が抜けた……悪く言えば無防備な格好もあり、その色香は倍増する。加えて、蝶屋敷ではない。非日常感とでもいう雰囲気が、弦司を否応なしに緊張させる。
カナエの微笑むその姿はまさに妖艶で、弦司の知らない新しいカナエが脳裏に深く刻まれた。