また切るタイミングを失ったのと、長くなったので一旦ここまでで投稿します。
それではお楽しみください。
もう、ゴールしていいよね。
――弦司がカナエに見惚れる。
形の良い唇も、上気した頬も、弦司を真っ直ぐ映す大きな双眸も。弦司には全てが美しく愛おしい。
そんな弦司の前で、カナエは不思議そうにコテッと首を傾げる。
「のぼせでもした?」
「……いや。カナエがいる事に驚いた」
「ふふっ、そうですか。作戦成功です」
口を大きく弧を描かせ、カナエは悪戯っぽく笑う。我に返った弦司は、少し面食らう。
最後にカナエを見たのは、いつだったか。確かすごく忙しそうで、なぜか余所余所しかった。それがなぜか今日はご機嫌で、何となくだが今までで一番カナエが綺麗に見える。
「いつまで驚いているのー? ほら、座って座って」
カナエは自身の隣に座布団を置くと、その上をぽんぽんと手で叩く。釈然としないが、何も悪い事はない。弦司は大人しくカナエの右隣に座った。
「俺の部屋なんだけどな……」
「細かい事は気にしない気にしない」
カナエはテキパキと動いて、弦司と自分の分の茶を机に置いた。ありがとう、と言ってから茶を口に運ぶ。何度も飲んだはずの茶の味が、よく分からなかった。
隣では肩が触れ合いそうなほど近い距離で、カナエが同じように茶を啜る。
「ふー……弦司さん、ちょっと長く里にいるみたいだけど、色々あったみたいね?」
「何だかんだで血鬼術の練習する事になってな。とりあえず、今日で練習は切り上げて明日の夜には帰るつもりだ」
「ふふっ、楽しかった?」
「ああ、充実はしてたな……カナエこそ、急にこっちに来てどうかしたのか?」
「せっかく弦司さんがこっちにいるから、来てみたわ。日輪刀の研ぎ直しも近かったしね」
「それだと、俺に会いに来たみたいだな」
「みたいじゃなくて、そうなのよ。こうやって二人きりで、会いたかった」
「……俺も会いたかった。時間を作ってくれて、ありがとう」
「……ど、どういたしまして」
ニコニコと効果音がありそうなほど、カナエは上機嫌で眩しい笑顔を弦司に向ける。それでも、やはり直接的な言葉は恥ずかしかったのか、頬がほんのり赤くなっている。
だが、それは弦司も同じだ。しばらくカナエに会えてなかったのもあるが、どうも今日のカナエはいつも以上に真っ直ぐ気持ちを伝えてくる。もう少し迂遠で、漏れ出るような感情だったはずなのに。
(いや、これは誤魔化しか)
茹った頭でも分かる。
――カナエは好意を隠すのを止めた。
弦司は自身が彼女の心を溶かすつもりだった。それがどういう心境の変化なのか、カナエから仕掛けてきた。この変化は非常に面映ゆい。何より、カナエのような美女から寄せられる明確な好意だ。攻めに転じた破壊力は凄まじかった。
「…………」
弦司は黙ってお茶を飲む。カナエの奇襲にやられて、彼女を完全に意識してしまった。いつもならポンポンと会話が続くのに、今日は中々次の言葉が出ない。
「…………」
カナエも黙ってお茶を飲む。主導権を握ったのだから、そのまま攻めればいいのに、目を伏せて濡れた髪先を弄る。弦司に意識させるために退いた……という事はないだろう。よく見れば、頬だけではなく耳まで赤い。今になって急に恥ずかしくなったのかもしれない。今度は初々しいカナエの姿に、弦司の心をかき乱される。
落ち着けと弦司は己に言い聞かす。カナエとの関係を進める事も大切だが、他にも話す事はたくさんある。まずは、やる事をやってからだ。そこから先は……もうなるようになれ、だ。
弦司は空になった湯呑を机に置く。喉は全然潤った気がしなかった。
「ゆっくりできそうなのか?」
「うん。日輪刀の調整も明日には終わるし、明日の夜に弦司さんと一緒に発つつもりよ」
「じゃあ、今日はゆっくりできるんだな」
「明後日もゆっくりしようと思っているわ。しばらく蝶屋敷も空けていたし、みんなも心配だから」
「そうか。それなら、みんなも安心するな」
「……弦司さんがいてくれて本当に良かったわ。あの日はあんなに沈んでいた蝶屋敷が、今は明るかった」
刀鍛冶の里に来る前に、蝶屋敷に寄ったらしい。カナエは空になった湯呑を机に置き、悲しそうに目を伏せた。カナエの長いまつ毛が、黒い影を落とす。
「大変な時にいられなくて、ごめんなさい。雨ヶ崎さんの事で辛いのに、無理をさせてしまったわ」
「いいんだ。これも年長者の務めさ」
「ありがとう。でも、本当に無理しないでね。辛いなら、辛いって言って」
「辛い」
「ふふ……弦司さんのそういう素直な所、好きよ」
「じゃあもう一つ。ちゃんと別れが言えなかったのが、キツイ」
「……うん」
カナエの返事が少し遅れた。
葬儀に出られないのは仕方ない。でも、本来ならあの場……戦場で別れは言えた。風能がやってきて、弦司をボロボロにしたから、ちゃんと別れを言えなかった。
風能より早く着いていれば、別れだけでもできたと、カナエは未だ己の責任と思っている節があった。
カナエは眉尻を落として、寂しそうに微笑んだ。
「いつか、一緒にお墓参りに行きましょう。こはるさんも、きっと喜ぶわ」
「……だといいけど」
「大丈夫よ。だから、お別れはそれまでにとっておきましょ」
「ああ。世話を掛ける」
「いいの。私と弦司さんの仲だもの」
「……」
「……」
再び静寂が舞い降りる。弦司はそっとカナエを盗み見る。彼女は流し目で弦司を見ていた。瞳の奥に、熱っぽいものが垣間見える。弦司も、同じような視線を送っているのかもしれない。
「……」
「……」
僅かに視線が交錯して、すぐにすれ違う。
もう確認する事はないか。もう話すべき事はないか。弦司はない、と判断する。
カナエも特に何も言ってこない。ここからは、二人の時間でいいのだろうか。
弦司は寝転がってみる。カナエは特に咎めない。心なしか楽しそうに、微笑むだけだ。
「どうしたの?」
「……少し気分転換がしたい」
「そう……何か希望はある?」
「鬼舞辻にも見つかったし、外にはしばらくは出られないし……一緒にのんびりしたい。今日は一緒に居てくれないか?」
「ふふ、そんなのでいいの~?」
カナエは少し声を弾ませると、同じように寝転がった。
弦司は寝転がったまま、顔を横に向ける。カナエは体ごと弦司の方を向けていた。長い黒髪が横に流れ彼女の美しい容貌が僅かに隠れる。それが何となく、彼女が乱れているように見えて色っぽい。
カナエは横になった姿勢で、器用に上目遣いになる。それだけで、弦司の血流が速くなる。カナエに見つめられて、目が離せなくなる。
「不思議な感覚。なぜかしら?」
「不思議?」
「うん。同じ部屋で転がっているだけなのに、それがすごくムズムズする」
「……俺が寝る事がないからか?」
「そうね。いつも弦司さんがおやすみって言ってくれて、それで終わりだもの……」
「……そうだな」
「だからね……今日は、一緒に……っ」
「……一緒に?」
「もうムリ……」
カナエは煙が出そうなほど顔を真っ赤にすると、両手で顔を覆った。どうやら、羞恥に耐えて頑張っていたが、ここらが限界だったらしい。
カナエの視線から解放され、弦司は僅かに余裕を取り戻す。いつもの悪戯心が湧きだし、カナエが呑み込んだ言葉を掘り起こす。
「添い寝しようか?」
「……意地悪」
「ごめんごめん」
カナエは弦司に背中を向けてしまった。浴衣越しに肩甲骨や腰骨が浮かび上がる。腰に向けて細くなる背中の華麗な曲線が美しい。
つい、カナエの背中に触れてしまいそうになる。でも、どこまで近づいていいのか。
カナエは弦司に好意を持っている事を示し、弦司もそれに応えるように対応している。急に恋人未満のような関係になった気がした。
変化が急すぎて、カナエがどこまで望んているのか、弦司には分からない。あれだけ抱き締め合ったのに、どこまでが許された線引きなのかが分からない。
すぐに告白でもして恋人関係になれば早いが、まだそこまで雰囲気が整っていない。そもそも、カナエと弦司が同じものを望んでいるのか分からない。
探りを入れる意味も含めて、指先で肩に触れた。触れた瞬間、ビクリとカナエの体が跳ねる。
カナエの体は僅かに震えていた。緊張のせいなのか、それとも──。
指先に伝わるカナエの体温が、弦司の胸の奥を熱くする。だが、感情のまま突き動いてはいけない。カナエの様子から、動くのはまだ早いと判断する。冷静になる意味も込めて、優しく肩を叩いた。
「ごめんって。揶揄って悪かったよ。お願いだから、こっち向いてくれ」
「……」
振り返ったカナエは、真っ赤なままだった。ここまで勢いで弦司に攻勢をかけてきたが、ふと我に返ってしまったのかもしれない。
「大丈夫か?」
「……弦司さんは緊張しないのね。やっぱり、手慣れているのかしら?」
「いや、これでもいっぱいいっぱいだから」
「本当に……?」
疑いの眼差しでカナエは弦司を見る。カナエより慣れているのは確かだが、こういうじれじれのはっきりしない関係に、いっぱいいっぱいなのも事実である。
どこまでやってもいいのか。どうやって近づいたらいいのか。不安と緊張で探り探りだ。突然、カナエが主導権を投げ渡してくるので、なおさらである。
それでも、一度高まった熱は中々引かない。このまま、行ける所まで行きたい。ただ、刺激の強すぎるものは今のカナエには、どうも吉とは思えない。だから弦司は少しずつ、段階を踏むように雰囲気を整えていく。
「本当だって」
「全然、顔色変わってない」
「嘘じゃない。ほら」
「――っ」
弦司はさも自然な形でカナエの左手を取った。そしてそのまま、弦司の胸元へ持って行く。それだけで、心臓が早鐘を打つ。
「ドキドキしてるの分かるだろ?」
「……うん。私と、同じ」
弦司が緊張しているのだと分かり、カナエが目に見えてほっとする。少しだけ、落ち着いたように弦司には見えた。もう少し刺激を与えても大丈夫かもしれない。それにせっかくカナエの手を取ったのだ、もっと
弦司は自身の指をカナエの指の間を通していた――俗にいう恋人繋ぎでカナエの手を握った。
カナエが大きく目を見開く。
「弦司さん……!」
「嫌か?」
「……嫌じゃない」
カナエは全身をカチコチに緊張させる。繋がった掌からは、カナエの震えが伝わってきた。それでも、弦司が力を込めれば優しく握り返してくる。
浴衣が乱れて覗いた彼女の胸元は、紅潮して真っ赤だ。これ以上の触れ合いは、カナエとは
「…………」
「…………」
それからはしばらく、二人して無言で手を握ってみたり、握り返されたりしてみる。
カナエの手は小さく、華奢だった。だが、掌には数えきれないタコができていた。彼女の生きていた足跡のように思えて、弦司は何度も確かめる様に掌を擦り合わせた。
最初は恥ずかしそうにしていたカナエも、段々と余裕ができてきたのか。タコをわざと強く押し付けたり。気づけば残った手も、指を通して握り合った。
「……」
「……」
寝転がって向き合って、言葉でなくて両手で繋がる。
二人の体温が伝わり合い、段々と同じ温度になっていき、感覚が混ざり合う。それでも思いがけない僅かな身じろぎが、二人を別々の存在だと知らせる。
感情が昂る。優しい繋がりが段々とじれったくなってくる。もっと明確で強烈な繋がりが欲しくなる。
「弦司さん……」
「カナエ……」
自然と互いの口から、相手の名前が漏れた。
カナエも弦司と同じ気持ちなのか、目尻はトロンと蕩けていた。そして、大きく潤んだ瞳で、期待を込めて弦司を見つめる。
もういいだろうか。カナエも弦司も同じ所まで高まっている……はずだ。
弦司はカナエの手を強く握った。カナエは応える様に、痛いぐらい強く握り返してくれた。
覚悟を決める。
「胡蝶カナエさん」
「はい」
弦司は一度、小さく息を吸い込む。心臓が痛いほど、胸を強く打つ。
彼女の気持ちは伝わっているはずなのに。覚悟だって決めたのに。酷く息苦しかった。これが弦司の弱さなのか。
それでもあの日――カナエの好意に気づいた日――から抱き続けている気持ちを、そのままカナエにぶつける。
「俺はあなたに初めて会った時、心は死んでいた。ただ生きるだけの、屍鬼となっていた。あなたが俺を外に連れ出してくれたおかげで、俺の心は蘇ったんだ。それだけじゃない。辛い時は必ず傍にいてくれて、また死なない様に心を守ってくれた。今、俺の胸に宿っている気持ちは、あなたが救ってあなたが育ててくれたんだ」
「…………」
「俺は夢ではなくて、一人の男として近くにいたい。あなたの救ってくれた命で隣に立ち、育ててくれた心であなただけを愛してもいいでしょうか?」
弦司が言い切ると同時に、カナエは目を大きく見開き、燃えるように顔を上気させていく。
「……ぁぅ」
カナエが小さく呻いた。すると、両手を繋げたまま、弦司の胸に頭を寄せた。カナエの表情が隠れ、艶やかな髪しか見えなくなる。
「待って……今、何も考えられないの……」
カナエは上擦った声で言った。弦司の耳がおかしくなければ、その声の奥には喜びが表れている。弦司は逸る気持ちを抑えて、カナエの返事を待った。
しばらく、カナエは弦司の胸に顔を埋めたり、激しく深呼吸を繰り返したりする。少しは気持ちが落ち着いたのか、弦司の胸に顔を埋めたまま答える。
「いつも挫けそうになって、それでも立ち上がるあなたに、私は何度も心が震えていました。この気持ちを芽吹かして、花を咲かせてくれたのは、あなたです」
「カナエ……」
「私もあなたをお慕いしています……一緒に、いさせて下さい……」
「……本当に、いいのか?」
弦司は馬鹿だと思いながらも、訊き返さずにはいられなかった。
「俺は……何て言い繕っても鬼だ。カナエを不幸にするような事も起きる」
「それは全然いいの。私はそういう弦司さんを含めて、一緒に居たいし幸せにしたい……逆に弦司さんこそ、本当に私でいいの? 私、すごい嫌な女よ」
「そうか? 俺には最高の女だけど」
「っ……私ね。弦司さんから告白してもらって、すごく嬉しい。なのに、『足りない』って思っちゃう」
「教えてくれ。俺にできる事なら、何でもするから。君を満たさせてくれ」
「……怒らない?」
カナエは弦司の胸元から離れると、上目遣いで弦司を見つめる。弦司は即座に頷き返していた。
「怒るものか。全部受け止めるから、正直に話してくれ」
「……私、弦司さんの『心』が全部欲しい」
「そんなもの、すぐに――」
「本当にくれるの? 環さんを想っていた分も全部、私の物にしていいの?」
「……悪い女め」
「ごめん、なさい……」
弦司は苦笑する。
気持ちをあげると言えば、環への想いはその程度だったのか、カナエも同じように心変わりするのかと詰られる。ダメだと言えば、カナエへの想いはこの程度かと責められ、環へ筋を通せと指摘されるだろう。
面倒な質問だった。だが、カナエが悪いとは、弦司は思わない。
環と別れたあの日から、誰も弦司の前で環について触れなかった。弦司も環の事を話さなかった。誰にも、弦司の胸の内を曝け出さず、全て己の中で片づけていた。
弦司がカナエと一緒になる以上、環との関係は弦司一人の問題ではなくなる。だから、この質問は必然なのだ。弦司が環と完全に別離し、カナエと結ばれるために避けては通れない。きっと何と答えても角が立つ。それでも、弦司は答えなければならない。
弦司はカナエを真っ直ぐ見返して、はっきりと答えた。
「いいよ。俺の気持ちを全部、受け取ってくれ」
「……本気、なの?」
「うん」
「今すぐ人間に戻れたとして、環さんの所へは行かない?」
「カナエの傍にいる」
「何で? 弦司さんの誓いって……簡単に変わっちゃうの?」
カナエは一瞬、後悔したように表情を崩すと、目を逸らした。言うべきではなかった、とでも思ったのだろうか。だが、弦司はカナエのそういう面も含め、受け入れたい。
弦司は繋がった手を離し、カナエの酷く熱を持った頬に手を添えた。カナエは逸らした目を、困惑気だが再び弦司に向けた。頬をゆっくり撫でる。
「ごめんな、不安にさせて」
「ううん、私が面倒なだけだから……」
「いいや、俺が悪い。カナエに俺の胸の内を、何一つ見せてなかったからな。ちゃんと話すから、話を聞いてくれないか?」
「……悪い男。そうやって、すぐに私を甘やかす」
「ごめん」
カナエが頬を弦司の掌に擦りつけ、気持ちよさそうに目を細める。彼女の可愛らしい姿に、弦司は小さく笑ってから続ける。
「俺の小さい頃の話って、した事なかったよな」
「えっ? した事ないのは確かだけど、それがどうしたの?」
「初めて牛鍋を食べた時、子どもの俺がどう思ったか分かるか?」
「えっと……『おいしい』とか『珍しい』とか?」
「『よくこんな糞不味い物を有難がって食べられるな』」
「えっ」
思慮の外の言葉だったためか、カナエが小さく口を開けポカンとする。今の弦司からは、想像もできないのかもしれない。よくここまで変われたものだと、弦司は自身の事ながら感心してしまう。
それでも、あの日の感情は今でも鮮明に思い出す事ができる。自身の家が裕福と理解し、それでも出てきた物が『あの程度』だった時の失望を。
「当時の俺は何を出しても満足しなかったんだ。もちろん、両親が劣悪な物を出した事なんて、一度もなかった。最高級の物を出してくれた事もある。でも、あの当時の俺の価値観では、何一つ満足できなかったんだ」
「目新しい物にはすぐに飛びつく、あの弦司さんが? 信じられない……」
「ありがと。もちろん、結果的には満足できるようになったのは、全部両親が尽力してくれたおかげで……まあ、今はそこは本題じゃない。問題は満足しなかった俺が、その後に取った行動だ。俺の不満を見抜いた両親は、事細かに尋ね、不満を解消できるように、改修改良をしてくれた。そして、俺は『変化』に心の充足を見出した。でも、実際はもう一つの道があったはずなんだ」
「もう一つの道?」
「俺自身が、満足する物を作れば良かったんだ」
確かに『変化』が好きになった。しかし、そんなのどんなに言い繕っても
真に満足したいなら、『変化』など探すのではない。自身で満足する物を探して作れば良かった。だが、弦司はそうはしなかった。
「あの時、俺の思い描く牛鍋は数十年経たないと作れなかった。だから、俺は生きてる間に手が届かないと思って諦めた。『変化』が好きになったのは、結果に過ぎない」
鬼になった時もそうだ。弦司は環の傍で耐え忍ぶ道は選ばなかった。できないと諦めて、苦しみの少ない道へ走った。
カナエに初めて会った時もそうだ。彼女と分かり合えないと諦めて、ただただ安易な死を望んだ。
何時でも弦司は、叶わぬと思った願いからすぐに手を引いた。自身の腕の届く距離までしか、手を伸ばそうとしなかった。
「俺にカナエのように、不可能に立ち向かう強さはない」
『あの程度』と全てを断じたあの日から続く、今も克服できない弦司の弱さだった。
「もう俺は環を幸せにできない事は知っているよな」
カナエは悔しそうに口を引き結んだが、その表情こそが全てを語っている。
蝶屋敷に来てから、鬼の研究に弦司は全面協力している。だが、鬼の治療に進捗はない。画期的な技術革新がなければ、状況は変わらないだろう。今では誰も口にはしないが、環もカナエもしのぶも生きている内に、弦司が人に戻る事はない。
だから、環が稀血と分かったあの日から、弦司は彼女を手の届かない存在と判断し、全てを諦めた。彼女の幸せを祈るだけにした。
どれだけ願っても叶わない願いを求めるのは、酷く辛い事だ。だから、すぐに願いを諦める。叶う可能性のある願いに、手を伸ばす。それが、不破弦司という男であった。
「天に輝く
弦司の胸の内を聞いたカナエが固まる。彼女の大きな瞳が不安そうに揺れ、震えた声で尋ねる。
「私が手の届かない所に行ったら、弦司さんは他の人を好きになるの?」
「……ああ」
「――っ」
弦司が頷くと、カナエは一層不安を深くする。弦司はカナエを不安にさせてしまった事を申し訳なく思う。反面、ここまで想ってもらえる事を嬉しかった。
だが、カナエは一つ思い違いをしている。
弦司はカナエの頬から手を離すと、彼女の頭へ持って行く。一瞬、ビクリと震えるカナエを無視して、絹のような髪に指を滑らせた。僅かに湿った毛先が、指先をすり抜ける度、気持ちのいい肌触りが伝わる。カナエの頭を撫でて、何度でも彼女の髪を触る。
「だけどな、決して苦しくない訳じゃない」
弦司は鬼となって時、一度全てを諦めた。手に入らないモノを望んでも辛いだけだと、全てを捨てた。そのおかげで、孤独な山の生活を耐えられた。だが、胸を貫いた痛みが、なかった訳ではないのだ。
今でも思い出す事ができる。ようやく手に入れたモノが、全て砕かれる感覚。当たり前だと思っていた日常が、全て奪われる絶望。あの苦しみは絶対に忘れない。
思わず、カナエを撫でる手に力が入る。
カナエは一瞬、怯んだように体を竦ませた。それでも弦司の元から動こうとしなかった。それが狂おしいほど愛おしくて、弦司の気持ちが溢れ出す。
「幸せを破壊される瞬間の痛みは、今だって覚えている。俺はもう、あんな思いはしたくない……!」
「弦司さん……」
「カナエ、前提条件が違うんだ。他の人を好きになるって事は、俺の幸福がぶち壊されるって事だ。カナエが手の届かない所に行く? 誰がそんな事させるか」
「きゃっ」
「この手に幸せが届くなら、俺は絶対に離したりはしない」
溢れた想いが止まらず、弦司は想いのままカナエを抱きしめた。それでも壊れないように優しく、持てる力全てで、カナエの体を掻き抱く。
弦司の突然の行動に、カナエの体は固まっていた。それでも、徐々に力を抜いてくれた。それが、まるで弦司を受け入れてくれている様で、嬉しくてたまらなくて、弦司は欲望のままカナエの耳元で囁く。
「行かせるぐらいなら、俺は
「っ!?」
「ようやく捕まえたんだ。絶対に逃がさないから、覚悟してくれ」
「――」
カナエは一際、体を硬直させると、しばらくしてから弦司に身を預ける様に脱力した。
「……カナエ?」
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
弦司の呼びかけに返事はなく、代わりに耳元からカナエの荒い呼吸音が聞こえる。それが弦司の頭を少し冷まさせた。
やり過ぎた。そう思い力を緩める弦司だが、謝罪を口にすることはできなかった。
「うおっ!?」
突如、体に衝撃が走ると、強制的に身体が仰向けになる。
弦司の顔に、長い黒髪が掛かる。髪の先には、カナエの顔があった――ただし、その目は妖しく、ギラギラとさせて。どうやら、弦司は押し倒されたらしい。
カナエは弦司を穴のあくほど見つめながら、ゴクリと唾を飲み込み喉を震わせた。あまりに妖艶な姿に、今度は弦司の頭の中が真っ白になる。
「えっと……」
「げ、弦司さんが悪いんですから! 変な事、言うから……!」
「わ、悪い!」
「私だって……私だって――!」
カナエの顔が近づいてくる。蕩けた瞳が大きくなる。そして、唇と唇が触れ合うほど近づき……触れ合う直前、すれ違う。
今度はカナエは弦司の耳元に唇を置くと、熱い吐息を掛けながら囁く。
「弦司さんが傷つくぐらいなら、私が閉じ込めて飼いたい」
「――っ」
――ゾクリ。
そうとしか表現できない、歓喜とも驚愕ともつかない衝撃が、弦司の全身を駆け巡った。今世でも前世でも、こんな感覚は知らなかった。ただただ、カナエに与えられた刺激に弦司は翻弄される。
「弦司さんこそ覚悟して。あなたと幸せになるために、
「――っ!」
カナエは弦司の耳に息を強く吹きかける。弦司はまるで電流が全身を駆け巡ったような感覚に襲われる。未知の感覚だった。
その間も、カナエは止まらない。弦司の小指をカナエの小指が絡め取り……もう一度囁く。
「指きりしましょ」
「なん、て……?」
「命と体は、前の約束で預かったから。後一つ、預かっていないモノ、あるわよね?」
「…………」
「あなたの心。ちゃんと約束しましょ」
「……ああ」
弦司は気づけば了承していた。
耳元に小さく息がかかる。カナエが微笑んでいるのが、何となく分かった。
そしてカナエは、
「でも、これじゃあ不公平よね?」
「そう、なのか……?」
「うん。だから、私も弦司さんにあげる――」
――命と体と心を。
「指切りげんまん」
息が荒れて、心臓が暴れた。
眩暈がした。雰囲気といい、状況といい、カナエの言動が全て刺激が強すぎて、まるで快楽を直接打ち込まれたかのように、快感が頭から湧き出て止まらなかった。
弦司は動けない。あまりに今が心地よ過ぎて、動くという選択肢さえ思い浮かばない。
弦司が固まっている間に、カナエが耳元から動く。吐息は弦司の頬に掛かり、唇に掛かり。
吸い込まれるように、カナエと弦司の唇は合わさり。
――モサリ。
「うっ」
どちらとなく呻くと、カナエは慌てて飛び起きた。弦司が見上げると、カナエは無表情で弦司の上で佇んでいた。ただし、その口にはカナエの黒い長髪が含まれていた。
カナエは弦司を押し倒した。当たり前だが、重力に髪は引かれる。弦司もカナエも興奮しすぎて、その当たり前に気づかず、接吻した際に二人して重力に引かれたカナエの髪を食んでいた。
カナエはペッ、と自身の髪を吐き出す。
「……」
「……」
二人して無言になる。盛り上がった雰囲気はどんどん霧散していく。昂った体と心が沈んでいく。先のような昂ぶりは、今日は戻ってこないだろう。
「……ごめんなさい」
自身の失態で雰囲気を壊したと思ったカナエは、ふらふらと部屋の隅に行くと、膝を抱え俯いた。
「何でもう私は学習しないのよぉ……興奮するとダメダメだって分かってるのに~……」
ぶつぶつと言いながら落ち込むカナエ。彼女には悪いが、弦司は内心ホッとしていた。
あのまま場の雰囲気に流されていたら、どうなっていたか。分かるのは、絶対に歯止めが効かなかったという確信だけだ。先を考えるだけで恐ろしい。それに『鬼殺隊をやめる』などという爆弾発言を、カナエはさらっと言い放っていた。その件については、ちゃんと膝を突き合わせて話し合う必要がある。
とはいえ、このままではあまりにカナエが惨い。想いを伝えあったのに、自分の軽率で雰囲気を壊したとなると、今後の付き合いに影響が出る可能性もある。別の思い出で上書きしようと、弦司は何時でも渡せるようにと、荷物からとある物を取り出した。
「カナエ」
「……恋愛弱者に何か用ですか?」
「本当の弱者は、彼氏もいないっての。それはともかく、贈り物があるから受け取ってもらえないか?」
「えっ」
「お土産買ってくる約束していただろ?」
緊急任務に行く直前、カナエにお土産を買って帰る約束をしていた。
カナエが顔を上げる。すでに笑顔になっていた。
「弦司さん大好き」
「こら。そういう事すると、何かあったら物で釣るぞ」
「弦司さんがくれる物なら、何でも大丈夫よ」
「ひょっとこは?」
「私、そんな安い女じゃないの~」
「はいはい。しっかりと厳選させていただきますよ、お姫様」
先とは違う、軽くて、それでもしっかりと繋がりを感じるやり取り。燃え滾るのもいいが、こういう温かい時間も良かった。
弦司が贈り物を背中に隠して近づくと、カナエは期待の眼差しを向ける。
「夜店で買っただけだから、あまり期待するなよ」
「うん、分かったから早く早く」
カナエに促され、弦司は緊張しながら贈り物――簪を取り出す。
虹色……とでも呼ぶべきか。七つの色を使った色彩豊かな花簪であった。カナエの羽織によく似た色合いだったため、つい手に取ってしまった品物だ。
いつもは蝶の髪留めがある側頭部に、そっと簪を差し込む。華やかなカナエには、これぐらい派手な彩でも良く似合う。
カナエは、はにかみながら笑い、何度も指先で簪に触れる。
弦司は気恥ずかしさから、つい防衛線を張る。
「気に入らなかったら言えよ。今度はちゃんと欲しい物を買うから」
「気に入ったら、もう次はくれないの?」
上目遣いでカナエは口元を緩ませて言う。機嫌は直ったようだ。
一安心し、弦司は長く息を吐く。
「あげるが、その発言はどう聞いても悪女のそれだぞ」
「はーい。気をつけます~」
「ホント、分かっているのか……まあ、しばらくは鬼殺以外で街は歩けないから、俺は選べないし。気に入った物があったら遠慮なく言えよ」
「今度町に行った時、選ぼうかな~。うーん、でも貰ってばかりだと悪いから、何か弦司さんにお礼を……あっ」
カナエが声を上げると、慌てて視線を泳がせた。弦司は目敏く、彼女が最初に目を向けた場所を確認した。何やら部屋の隅に袋があった。
「どうした?」
「何でもないわ! 本当に何でもないの!」
カナエは焦った様子で答えた。どう見ても、何でもありそうな様子だ。
そっとしておくか、それとも原因を究明するか。束の間、弦司は悩んで袋に向かって飛びつく。これまでのカナエの言動を考えると、慌てている時は大抵良い事ではない。即座の処置が必要だ。
カナエはぎょっと目を見開いた。そして、弦司を止めようとカナエは弦司にしがみ付く。
「待って!! 本当にダメなの!!」
弦司の背中に飛びついたカナエの顔は、真っ赤で涙目だった。弦司はこの判断は正しいと確信する。
袋を開けた。中に入っていたのは、黒いぶ厚い、固定具の付いた帯。長さや太さから帯革ではなく――首輪。
「えっ」
「ああああああああっ!!」
意味が分からない弦司に対して、カナエは絶叫する。何に……いや、
弦司は悶絶するカナエと向かい合う。雰囲気とか、空気とか今はどうでもいい。これは絶対に話し合わなければならない案件だ。
「これは一体何なんだ」
「待って! 説明させて頂戴!」
「言ってみろ」
全身発汗したカナエが、引き攣った顔でバタバタと身振り手振りをする。
「弦司さんの頚が斬られかけたでしょ!? そんな事が二度と起きない様に、頚を守るために作られた防具が……これよ! あのゲスメガネ前田君に花柱が直接作成依頼した、弦司さん専用特注品! なんと隊服の倍以上の頑丈さを持った品で、しのぶの突きぐらいなら一度は耐えられるのよ! すごいでしょ!?」
「……」
カナエが商品説明染みた口調で述べる。というか、嘘でなければ驚くべき性能である。着ける以外の選択肢はない。
「ねっ! だから、全然おかしくないの!!」
「……」
カナエは汗を拭いながら、早口で捲し立てた。おかしくないならば、もっと落ち着いて語ればよいだろうに、冷静さの欠片もない。むしろ、もっと怪しいと弦司は感じた。
弦司は袋をさらに漁る。今度は一回り小さい物が出てきた。
カナエはさらに目を大きく見開く。
「ほう……これは何だ?」
「さ……さあ?」
「大きさから、ちょうど女性の首ぐらいの太さだったら、ピッタリに着けられるように見えるが?」
「……後生ですから、もう詰らないでぇ……!」
「だったら、全部正直に話しなさい」
土下座するカナエの頭を上げさせてから、弦司は説明を求める。
「一時の気の迷いだったんです……!」
「本当に気の迷い? 捨ててもいい?」
「……」
「分かったから捨てないから。とにかく、どういう目的か話しなさい」
「……弦司さんの頚が斬られかけたから、頚を守るための防具が必要だと思って、作ろうとしたのは本当」
「そうなのか。うん、そこまではありがとうな」
「うん……それから形を思案していたら、中々良い形がなくて。前田君がとりあえず作りましたって、これを渡してきて……」
「渡してきて?」
「これだったら、疑似的に飼うような倒錯感が得られるなぁと、考えてしまった次第で……」
「考えてしまった次第か……じゃあ、何でお前の分まであるんだよ」
「首はちゃんと守らないと──」
「カナエ」
「……興味本位で、つい」
「……ふぅ」
弦司は頭が痛かった。誰だ。こうなるまでカナエを放置してしまったのは……弦司だった。
カナエにとって弦司は夢であり、想い人だ。そんな特別な感情を持つカナエに対して、半年で弦司は何度心配をかけた事か。もっと早くしっかりと対応していれば、ここまで拗らせなかったかもしれない。
それでも、弦司は二人で幸せになると決めた。ならば、これも受け入れて進まねばならない。
「今日はとことん話し合うぞ」
「えっ、えっ……!? ちょっと待って、頭が追い付かない!」
「お互い好き合っているとはいえ、俺達は全く別の存在だ。やりたい事は全然違う。この首輪がいい例だ」
「はい……すみません……」
「怒っている訳じゃないって」
これまでの経験上、カナエにあまり我慢を強いると碌な事にならない。適度に発散させるためにも、願望はしっかり聴き取らなければならない。それが例え、倒錯した感情であってもだ……もちろん、倒錯している感情は弦司の中にもある。カナエには、それをしっかり受け止めてもらわなければならない。
「何で私って、恋愛が絡むとこうなるの……」
大きく肩を落とすカナエ。弦司は不憫に思うが、お互い捻じれに拗れた感情を抱く者同士。将来のためにも、ここらで一つ清算が必要だ。カナエのためにも、そして弦司のためにも。
「カナエだけが悪いって訳じゃないさ。俺もカッとなって滅茶苦茶言ったし……お互いホント、変に拗らせちゃったな」
「それは……うん、そうね」
「でも、割れ鍋に綴じ蓋ってよく言うだろ。俺達がこれでいいなら、それでいいんだよ」
「……馬鹿」
こうして、恋人同士になった弦司とカナエの初めての夜は、至極真面目な話し合いに終始した。何とも締まらない初日となったが、少なくとも今の弦司とカナエは、この何でもない日常を過ごせて幸せだった。
──ちなみに、翌日から二人の首には新しい防具が着くようになった。