鬼滅の刃~胡蝶家の鬼~   作:くずたまご

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第1話 蝶と涙・前編

 弦司は呆然と山を登っていた。

 何度も何度も泣いた。

 涙が枯れるまで泣いて……全てを諦めた。

 人を喰らえず、飢えも満たせず。ただただ苦しいだけの生に、一体どれほどの価値があるのか。弦司には見出せなかった。

 だから、死のう。誰にも迷惑をかけず、ひっそりと。しかし、生きるだけで苦しいのだ、死ぬ時も苦しみたくない。そう考え、とにかく高い所を目指して山を登っていた。

 化け物の健脚が為せる業なのだろうか。すぐに切り立った崖にたどり着いた。

 崖から下をのぞき込む。そこはちょうど森の切れ目となっており、剥き出しになった岩肌があった。岩肌近くの森林は恐ろしく小さく見える。死ぬのには、高さは十分に思えた。

 ――後はここから、飛び降りるだけ。

 そう思いさらに崖に近寄り、落ちた事を想像する。身震いと共に眩暈を起こし、思わず後ずさる。

 

 

「俺は何をしているんだ……!」

 

 

 今後に及んで命を惜しむ己の行動に、呆れと怒りが湧いてくる。もう諦めただろう。生きていても、苦しいだけだと悟っただろう。そう何度も心の中で呟いても、足は竦んで最後の一歩を進む事ができなかった。

 そうやって弦司が逡巡していると、突如吹いた突風に背中を押される。それと同時に感じる浮遊感。

 弦司は崖から身を投げ出されていた。

 

 

「う、うわぁっ!!」

 

 

 望んでいたはずの一歩だったが、口から出るのは情けない悲鳴だった。さらに何かを掴もうと、空でもがく。頭は死を望んでいるのに。体は死から抗おうとする。

 

 

「――――っ!?」

 

 

 何かを思う暇もなく体は地面に引かれ、平衡を崩し――肩から墜落した。

 

 

「か――っ」

 

 

 肩がへしゃげ、首の骨は直角に折れ曲がる。落ちた勢いで二転三転と岩肌を跳ね飛び、樹木に背中から激突し止まった。

 左肘は曲がらない方向へ曲がり、肩からは血が噴き出す。頭も割れているのか、頭頂部から何かが流れる感覚があった。

 ――それを認識すると同時に、激痛が全身を襲う。

 

 

(痛い痛い痛い痛い痛い!!!!)

 

 

 喉も潰れたのか、弦司は叫び声も上げられず、心の中で苦痛を叫ぶ。

 普通の人間ならば、即死していてもおかしくない傷。想像を絶する痛みがあるのは、当然だった。

 ――そして、弦司はすでに普通の人間ではない。

 人間なら体験する事のない苦痛が徐々に消えていった。

 弦司の心臓が痛いほど鼓動する。あれだけ痛い目にあったのだ、無事であるはずが無いと常識が訴えかける。だが頭のどこか冷静な箇所は、最悪の事態を確信を持って予想する。

 弦司は恐る恐る己の体に視線を向け、愕然とした。全ての傷がまるで何もなかったかのように無くなっていたのだ。赤色に染まった衣装だけが、墜落した事実を物語っていた。

 

 

「あ、あはは……死ぬことも許されないのか……」

 

 

 ポツリと呟き、弦司は目を虚ろにし脱力する。もう何もしたくなかった。歩くことも、考えることさえも。何をしたって、絶望し苦しみの中でもがくだけだ。

 それからは、頭を空っぽにしてただただそこにいた。渇きも飢えもあったが、何も思わなかった。何も思わないようにした。

 何もしなくても、時は流れる。次第に空は明るくなっていた。

 

 

「こんな時でも、朝日は昇るのか……っ!?」

 

 

 そんな何て無い感想抱いていると、なぜか歯の根は合わなくなり、体が震え始めた。寒い訳ではない。だとするならば──これは恐怖。本能が太陽を恐怖していた。

 

 

「何だよ……太陽の光も浴びられないって言うのかよ!」

 

 

 もう何度目になるか分からない理不尽。何で俺だけがこんな目に、と思わずにいられない。

 しかし、頭の中で一つの案が浮かぶ。本能がこれだけ恐れる太陽の光。それを浴びれば死ねるのではないのか、と。

 

 

「そうだよ、このままこうしてれば死ね──」

 

 

 だが、同時に頭を過るのは苦痛。墜落であの激痛なのだ、この体が死ねる太陽とは、どれだけの苦しみなのか。

 周囲が一段と明るくなる。東の空と山の境目が、溢れんばかりの光を帯び始める。

 太陽が顔を出せば――弦司は死ぬ。

 

 

「あ……うわ……あああああっ!!」

 

 

 気づけば弦司は周囲を見渡し、ちょうど目に映った洞穴に向けて駆けていた。心の折れていた弦司には、墜落以上の激痛と徐々に迫りくる死に耐えられなかった。

 だが、逡巡した時間だけ駆け込むのが遅れた。洞穴に飛び込むと、逃げ遅れた左足が僅かに朝日を浴びる。燃え上がるような激痛が走り、弦司は頭から転倒してしまう。

 激痛に歯を食いしばりながら、陽の光を浴びた左足を見やり、弦司は声を失う。左足は文字通り灰になっていた。

 

 

「う、うわあああああっ!!」

 

 

 次第に目の前の現実が頭に追いつき、弦司は絶叫した。激痛の先にあるのは、死ですら生温い()()であった。

 なぜ、こんな仕打ちを受けなければならないのか。理不尽だった。

 喉が裂けんばかりに絶叫した。耳が痛いほど、洞穴に声は反響した。

 悲鳴のような絶叫を聞いた者は誰もいなかった。

 

 

 

 

 弦司は手足を投げ出し、堅い岩肌で仰向けに寝転がっていた。頭の中では、気絶する直前に流れた覚えのない映像を反芻していた。疑問に思ったからではない。絶え間なく続く飢えと渇きと絶望から、目を逸らすための現実逃避だった。

 とはいえ、これが中々面白かった。今はこの映像の中に存在する『映画』を見ていた。声と色彩が着いているだけではなく『CG』と呼ばれるものがあり、実在しないものをまるで本物のように映す技術は、弦司の想像を超える迫力を持っていた。例え現実逃避の行動とはいえ、映像の中には称賛すべきものがたくさんあった。

 ──そうして耽っていたせいか、()()の接近に気づかなかった。

 

 

「グゥゥゥッ……!!」

「えっ」

 

 

 間近で聞こえたうなり声に、弦司は立ち上がろうとして──その途中で後頭部に衝撃を受けた。そのまま吹き飛ばされ、岩壁に叩きつけられる。

 

 

「がっ……!?」

 

 

 衝撃に空気を吐き出す。同時に頭には激痛とへこんだような嫌な感覚。しかし、それもすぐに収まる。弦司は傷は気にすることなく、衝撃の元凶を見やる。そこには、全身毛に覆われた直立した巨大な獣──熊がいた。

 

 

「グオォォォッ!!」

「……なんだぁ」

 

 

 咆哮する熊を見て、弦司の内に沸き立ったのは怒りだった。今までの理不尽とは、どこにもやりどころがなく、嘆き叫び絶望するしかなかった。だが今回は違う。明確に他者がいる。感情を向ける相手がいる。つまるところは──八つ当たりできる対象が来た、という事だった。

 弦司は緩りと立ち上がる。

 

 

「グルゥゥゥゥ……!!」

 

 

 熊は明らかに怯え、くぐもったうなり声を上げる。死んだと思った敵が、何の堪えた風もなく立ち上がったのだ。生物から逸脱した現象に、怯えて当然だった。しかし、今の弦司にはその様子は映らない。この怒りをぶちまける事しか頭になかった。

 

 

「畜生の分際で、俺に何をした!!」

「っ!?」

 

 

 叫びながら飛びかかる弦司。その速さに熊は目がついていかなかったのか、弦司からすればただ突っ立っているようにしか見えない。

 弦司は熊の頭を掴むと、

 

 

 ──ブチッ!!

 

 

 そのまま引きちぎった。

 着地と共に首のない体は揺れ、そのまま仰向きに倒れる。弦司はそちらに目を向けることはなく、忌々しげに手元の首を見ると思い切り叩きつけた。

 

 

「馬鹿が! お前が何をしたか分かったか!」

 

 

 肉と骨と脳漿が辺り一面に飛び散り、弦司はそれを一つずつ踏み潰していく。怒りをぶちまける事しか頭になかった。

 

 

「分かったか! ……分かったか」

 

 

 粗方潰し終えたところで頭が冷えてきて、弦司は脱力した。爽快感なんてなかった。ただただ虚しかった。

 岩壁に背を預け、その虚しさの結果を見る。頭のない死骸、その首口からは止めどなく血が流れている。

 そのまま、血が広がっていく様を見た。自身が起こした惨状だが、何の感慨も湧かなかった。ただ、己はこうやって人を殺め喰らおうとしているのか、と漠然と思った。

 岩肌を広がる血。それを眺めていると、弦司はふと思いついた。

 

 

「こいつが人の代わりにならないか……?」

 

 

 自然と口をついた言葉に、弦司は一瞬背筋を凍らせる。人の代わり、という言葉が自然に出て事が、自身の悍ましい変化を否応なしに感じさせた。だから、この()()もはっきり言えば採りたくなかった。しかし、腹の虫は鳴り止まず、むしろ食を意識したせいか飢えと渇きがぶり返してきた。

 迷ったのは数瞬。やはり飢餓には勝てず、弦司は熊の腕を引きちぎり毛皮を引き剥く。新鮮な肉が剥き出しになり、血が滴る。血抜きはしない。この肉が人だった場合、生きたままでも齧りついていたと、嫌な確信があったからだ。代わりとするならば、このまま食べるしかない。

 弦司は恐る恐る口を近づけると、覚悟を決めて齧り付いた。途端、口に広がるのは血の香りと、生肉の柔らかい食感。味もなく美味くはなかった。はっきり言って、不味かった。それでも我慢し咀嚼し、無理やり飲み込んだ。

 感じるのは、不味いものを食べた不快感と、もう食べたくないという率直な感想。それでも、背に腹はかえられないと二口、三口と熊肉に口を付けていった。

 全ての腕を平らげた時、弦司は己の異変に気づいた。

 

 

「腹が膨れた……?」

 

 

 さっきから渇望していた飢餓という欲求が抑えられていたのだ。信じられなかったが、自身の感覚が正しい事を証明していた。

 正直、現状は昨日から考えると最悪もいいところだ。環から逃げ出して、帝都から離れ、人里からも離れていき、さらには太陽を浴びられぬ死ねない体。その上、食べられるのは人を除けば生の獣肉ときた。優雅に帝都で暮らしていた時から、雲泥の差である。

 それでも、人を喰らわず生きていける術を見つけた。弦司は前に変化できたのだ。

 前に進めた自分に。僅かに見つけ出せた光明に人知れず涙を流した。

 哀しい歓喜の涙だった。

 

 

 

 

 弦司が山に入ってから半年が過ぎた。人を喰らわず、人と交わらず。そんな生活も半年も経てば、ある程度決まった日常が出来上がる。

 日の入りとともに、弦司の一日は始まる。よく見えるようになった暗闇を進み、最初に向かうのは小川だ。洞穴に水を長期間溜められる場所がない。そのため、一日の最初は水場へ向かう。

 そこでは、主に水浴びと洋服の洗濯を行う。特に洗濯は洋服一着しかないので細心の注意を払って行う。一応、熊の皮を鞣しているものの、所詮素人の浅知恵だ。どこまで使えるか分かったものでないので、大事に洋服は洗う。

 次は狩りだ。この体の視聴覚は人とは比べものにならないほど優れている。例え夜でも、獲物は簡単に見つけられた。最近は手慣れたもので、眠っている猪に忍び寄り、眉間を一突きで仕留めている。

 後は薪になりそうな木材を拾いながら洞穴へ戻り、獲物の処理を行う。ここ一か月ほどは、火で炙った肉でも腹が膨れるようになった。味はあまり変わらないが、より人に近づいた食生活のために焼く。

 まだ陽が昇っていない場合は、そこから探索へと向かう。

 半年もいれば色々な物を見つける。岩塩や山椒、山葵は先月小川を辿っていたら見つけた。これらの調味料も、最初は直接齧らなければ味を感じられなかったが、最近では多少多めに肉に塗すだけで味が感じられるようになった。

 日が沈んでから、洞穴で薪を燃やす。木の枝に血抜きをした肉を刺し、塩と山椒をかける。十分に火が通ったところで、冷める前に肉に齧りつく。

 かなり固く、味も乱雑だ。それでも、今ではこれが山での最高の贅沢だ。

 食事を終え、陽が昇ったら洞穴に引きこもる。この時間は少しでも生活基準を上げようと、殴り倒した丸太や獲物の毛皮を加工する。

 最近は燻製用の箱を作った。丸太をくり抜いて蓋をしただけの簡素な物だが、日中の暇つぶしとして重宝している。

 それでも、日中の時間は長い。すぐに出来る事は無くなる。そういう時は、例の体験した事のない映像を思い浮かべた。何もない洞穴では、これが唯一の娯楽だった。

 ただ、こうして何度も思い浮かべ分かった事がある。それはこの映像が弦司ではない、誰かが体験した一生という事だ。映像からは彼は現在より、かなり進んだ文明で生きていた事が伺えた。もしかしたら、これが弦司の前世で、幼少期の燻った想いの原点だったかもしれない。

 そして、この前世と思われる映像こそが、弦司の心が人のままである原因と推察した。

 体が変わったとき、同時に心も変わっていく感覚があった。しかし、弦司の潜在意識には今の弦司とは他に別の弦司がいた。別の弦司がいた事で、彼が身代わりになり今の心が残った。弦司はそう仮説を立てた。

 無論、こんな仮説を立てた所で何も成らない。暇つぶしだ。だが、そうして現実逃避しないと不安に押し潰されそうだった。

 

 

(こんな日常が長く続くわけがない)

 

 

 そうやって今日も日中を潰した弦司は、日の入りが近づいた洞穴で一人不安を抱く。

 日常が続かない根拠は二つ。一つ目は食事量の増加だ。

 生肉を食べた日から次第に味覚は人へと近づいた。だが、それと比例するように食事量も増加していた。今日はすでに猪一頭を平らげている。山の動物を狩り尽くすのに、さして時間はかからないだろう。

 二つ目は人里だ。いくら山奥とはいえ、全く人の手が入っていない場所などそうそうない。その証拠に、この近郊にも村があった。村人は滅多に弦司のいる山へとは入らないが、全くない訳ではない。加えて、村では発展の兆しがみられる。いつかは弦司のいる山へ生活圏を拡大する事が予想された。

 二つの根拠。短期的にも長期的にも、この山にいられない。今の僅かに安定した生活さえ捨てなければならない。弦司はそんな未来、今は考えたくなかった。

 

 

(……とにかく、捜索範囲を広げよう)

 

 

 今日も日の入りまで結論は出ず。弦司は重い腰を上げて洞穴を出る。日課通りまずは小川に向かおうと足を進め──耳が捉えた音に足を止める。

 異常に強化された聴力を頼りに音源を割り出す。

 弦司は眉を顰めた。耳が捉えた音とは、すすり泣く音だった。一段高い木の上に登り、音の方角を見る。木の隙間からとぼとぼと歩く子どもの姿があった。

 

 

(マジかよ)

 

 

 弦司は渋い顔つきになる。子どもを助けたいという想いはあるが、安定を望む上では不利益しか生まない。

 まず子どもを助けようとしたとして、心を開かない可能性が高い。そうなれば、村へ戻った子どもが悪評を流す。それはそのまま、弦司の排除へと繋がるだろう。

 仮に子どもが弦司に懐いたとして、山奥に不審者がいる現状を村の大人が良しとする訳もない。弦司を探し出し、そのまま受け入れてもらえばいいが……今の生活を思えば、その望みは薄いだろう。

 どうなっても不利益しか生まない選択。しかし弦司はすぐに決断できなかった。何のために人を喰らわなかったのか。それは人を殺したくないからだ。だというのに、人それも子どもを見捨てる……自身の最後に残った矜持さえ棄てかねない。それだけはどうしても避けたかった。

 

 

(ああもう……やるしかないじゃないか)

 

 

 迷いに迷い弦司は大きく舌打ちすると、木から飛び降り子どもの下へと向かった。未来の事は未来で考える事にして、今は目の前の子どもを助けることにした。

 弦司はすぐに追いついた。変に大きな音を立てないよう静かに近づき、少し離れた所から声をかける。

 

 

「ぉい」

「っ!?」

 

 

 ここ半年もろくに喉を使わなかったせいか、掠れた声が出た。それでも、子どもには届いたのかキョロキョロと回りを見渡す。

 

 

「うえっ……」

 

 

 月明かりも射さない深い森の中だ。弦司の姿が見えないせいか、さらに嗚咽が大きくなる。

 

 

「ごめんな、急に声なんてかけたりして。落ち着いてからでいいから、少し話を――」

「あああぁぁぁっ!!」

 

 

 言い終わる前に、子どもが駆け出す。聞きなれぬ声、見えぬ姿、暗闇の森林……いずれも、子どもの恐怖心を掻き立てるには十二分だった。

 必死に走る子どもだったが、暗闇に足を取られたのか。すぐにこけてしまい、うずくまり声を上げて泣き出す。

 弦司は面倒そうに頭を掻きむしると、子どもに駆け寄る。

 

 

「うわああああああああっ!!」

「ごめん、驚いたよな。俺が悪かった」

 

 

 手を差し伸べる弦司の手を、子どもは払う。だが、起き上がる気力はないのか、そのまま大声で泣き続けた。

 

 

「ああ、本当にごめんよ。痛かったよな。俺が悪かったから、起き上がるのだけ手伝わせてくれ」

 

 

 何度も謝り、何度も手を払い除けられ、それでもしつこく子どもを起こそうとする。最後には子どもが根負けしたのか、弦司に身を任せ起き上がった。

 その頃には、嗚咽は止まっていないものの、ある程度話せるようになった。

 

 

「……だ……だれ?」

 

 

 強張った顔で問う和装の子ども。声音と体つきから、十歳程度の少年である事が伺えた。

 本能が呟く。

 ──子どもの肉は美味い。

 衣食足りて―─実際足りてはいないが―─食の当てがあるのが大きいのか、本能の呟きはあまり魅力的とは思えなかった。

 とはいえ、それは悍ましい思考だ。誰にも悟られてはならないし、表へ出してはいけない。弦司は茂吉の視線に合わせるよう屈むと、努めて優しく語りかけるように返す。

 

 

「弦司だ。お前は?」

「………………も、茂吉」

「茂吉って言うのか。茂吉、足は大丈夫か?」

「うん」

「強い男だなお前は……それで茂吉、お前の家は近くの村なのか?」

「……うん」

「そうか。いい村だよな、あそこは。東京育ちの俺には新鮮だよ」

「……東京?」

「ああ。茂吉は東京に行ったことはあるか?」

 

 

 茂吉と名乗った少年は首を横に振る。弦司はニヤリと笑う。久しぶりすぎて、ぎこちない笑みだった。

 

 

「それは勿体ないなー。最近は洋食店も増えて誰でも食べられるようになったし。楽しいから一回行ってみろよ」

「でも、僕の家……お金、ないもん」

 

 

 茂吉が俯き、再び目に涙を溜める。どうやら、家族の事と現状を思い出し、不安になったようだった。

 弦司は立ち上がる。

 

 

「まあ、ダメ元で一回頼んでみろよ」

「っ……でも、お家の場所、わ、分かんない……頼めない」

「大丈夫だ。村までの道は知ってるし、俺もちょうど用がある」

「ほ、本当!?」

 

 

 茂吉が顔を上げる。なぜ知っているのか。そもそも本当に知っているのか。そんな驚愕と疑念が混ざり合っているように弦司には見えた。

 

 

「ついてくるか?」

「……」

「ま、こんな不審者にはついてきたくはないわな。それじゃあ、俺が先に歩くから後ろついてくるか?」

「……」

 

 

 茂吉は答えない。いや、答えられないのだろう。あまりにも情報が少なく、判断ができない。しかし、弦司にはそもそも判断させるつもりはない。この子の安全が確保できれば、それで良い。

 

 

「それじゃあ、先行くぞ」

「っ!?」

 

 

 茂吉が答える前に弦司は村の方角へ進む。茂吉はしばらく動かなかったが、次第に離れていく弦司の背中を見たせいなのか。

 

 

「~~~~っ!! 待ってよ、兄ちゃん!!」

 

 

 一人になる不安には勝てず、茂吉は慌てて弦司を追いかけた。すぐに追いつき、弦司に張り付くように後ろを歩き始める。

 

 

「……」

「……」

 

 

 そのまま無言で二人、しばし歩いた時だ。

 

 

「…………ねえ、兄ちゃん」

 

 

 茂吉から話しかけてきた。嗚咽はもう止まっていた。

 

 

「なんだ?」

「兄ちゃん、昨日は村の辺り歩いてた?」

 

 

 弦司は首を傾げると、昨日を思い出す。

 昨日は水浴びと狩りしか行っていない。村の近辺は歩いていなかった。

 

 

「いや、その辺りは歩いてないな。何かあったのか?」

「……笑わない?」

 

 

 弦司が視線を後ろに流す。茂吉は不安と緊張が綯い交ぜになった、強張った表情をしていた。

 

 

「笑わない」

「本当に?」

「笑わないって。笑ったら、東京連れてってやる」

「本当!? でも、それなら笑ってくれてもいいかも」

「冗談言えるならもう大丈夫だな。それで、何を見たんだ?」

「う、うん……」

 

 

 茂吉が僅かに俯き、小さく呟く。

 ――口が裂けた、化け物を見たんだ。 

 

 

「っ!?」

「? どうしたの?」

 

 

 一瞬、己の事かと弦司に緊張が走る。しかし、茂吉が見たのは昨日。その日は村には近づいていない。ならば、茂吉の見た化け物とは一体何なのか。疑問は尽きないが、一先ず弦司はそれを飲み込み平静を装う。

 

 

「いや、何でもない。しかし化け物か。それは物騒だな」

「うん。だから僕、村のみんなに教えたんだ。なのに、村の誰も信じないんだ……」

「おい、それで何でこんな真夜中に歩いてるんだ?」

「……」

「誰も信じようとしないから、探しに来た……って、ところか?」

「……」

 

 

 茂吉が気まずそうに視線を逸らす。

 

 

「……俺からは何も言わん。しっかり説教されてこい」

「えっ」

「え、じゃないだろ。急に真夜中に村からいなくなって、お前の親が怒ってない訳ないだろ」

「どうにかならないの!?」

「どうにもならん。甘んじて受けてこい」

「嫌だよ! 母ちゃん、怒ると怖いんだよ!」

「母ちゃんは怖い生き物だ。諦めろ」

「謝っても絶対許してくれないんだよ!」

「普通に謝るな、誠心誠意謝れ。そうしたら、許してくれる」

 

 

 余程、説教が怖いのか。茂吉はどうにかならないかと、弦司にまとわりつく。

 ――それが幸いした。

 突然、突風が吹き荒れる。茂吉がまとわりついていたからこそ、弦司は咄嗟に茂吉を突風から身を挺し守る事ができた。

 

 

「くっ……!」

 

 

 そして、突風が通り過ぎ弦司は苦悶に表情を歪める。左肩が半ばまでばっさり斬り裂かれていた。

 血飛沫が飛び、地面に血だまりを作る。

 それを見て、ようやく茂吉が事態を理解すると、恐怖に顔を引きつらせた。

 

 

「に、兄ちゃん!!」

「少し待ってろ」

 

 

 弦司は茂吉を背中に隠すと、傷の原因となった奴を睨み付ける。

 そこには、頬の半ばまで裂けた口と、長い舌を持つ異形の化け物がいた。

 突風。それは単なる風ではなく、この化け物が高速で動いた結果だった。

 化け物は獣のように両手足を地面につけて座る。左腕についた弦司の血を見ると、乱雑に長髪を梳くと、裂けた口を不愉快そうに歪めた。

 

 

「ガキかと思ったら、ご同輩も一緒か。久々の食事だってのに間が悪い」

「兄ちゃん! あれだよ、僕が見たのは!」

「……」

 

 

 化け物は忌々しげに左腕を振るって、弦司の血を吹き飛ばす。そんな化け物の様子を見ながら、弦司の頭にはある言葉が残っていた。

 ──同輩。

 今の己の姿を、突きつけられた気分だった。

 そして思う。今、こうして茂吉と話せているのは奇跡だと。そして奇跡とは長く続くものではないのだ。いつかは己もこんな化け物になる。しかし、自分から奇跡を終わらせるつもりはない。少しでも、最悪の結末に抗う。

 弦司は茂吉の背中を押すと、親指で一点を指差す。

 

 

「兄ちゃん?」

「茂吉、重要任務だ。助けを呼んできてくれ」

「兄ちゃんは?」

「あいつを足止めする」

「!? でも、そんな怪我じゃ──」

「だから重要任務だ。早く行って、俺を助けてくれ」

「~~っ、うん!」

 

 

 茂吉は強く頷くと、森の奥へと駆けていった。弦司が示した方角に村があるのは確かだった。だが、弦司は助けなんて期待していない。子どもの足では、すぐにはたどり着けない。何より、弦司を見て助けようなどという人間は、もうこの世にいないだろう。

 化け物が苛立たそうに、細い目で弦司を睨みつける。

 

 

「……どういうつもりだ、小僧?」

「見れば分かるだろ。楽しい楽しい()()()()()だ」

「『鬼』が人間ごっこか? ケケケッ、こりゃ滑稽だな! 中々面白い見世物だったぜ!」

 

 

 化け物──いや、鬼が弦司を嘲笑する。同時に弦司は腑に落ちた。人を喰らう化け物である己は確かに、奴と同じ鬼なのだ。そんな化け物が人間のフリなど、滑稽以外の表現のしようがない。

 それでも、弦司は強く拳を握る。鬼の笑みが消え、長い舌を引っ込める。

 

 

「面白いか。それじゃあ、公演終了まで付き合ってくれるよな?」

「……おい、正気か? ()()()が近くまで来てるんだぞ? 冷静になれ。ガキは半分やるから、協力といこうぜ?」

 

 

 ──鬼狩り。

 また、聞き慣れない言葉だが、ある程度予想はついた。

 弦司は視線を左腕にやる。出血も止まっている。問題なく動く。

 ならば、弦司のやる事は一つだ。

 

 

「それは良い事聞いたな。なら、公演時間は延長だ。観客が揃うまで、ご起立はご遠慮いただこう」

「……狂ってやがる!」

 

 

 鬼は両手足で地面を蹴る。まるで爆発が起きたかのように、鬼は弾け飛び、風となり弦司へ迫る。速かった。だが、ここ半年間で何度も見た猪と同じ軌道。

 弦司は右拳を振り上げると、鬼の動きに合わせて一気に振り下ろす。鬼の背中へ拳を叩きつけた。

 

 

「かはっ……!」

 

 

 鬼は地面に追突し、衝撃で血を吐く。弦司も真っ向から受けて立ち、右腕は赤く染まっているが、損害は敵の方が上。手ごたえから、背骨は折れ衝撃は内臓にまで達しているだろう。

 が、そこは鬼。即座に四肢に力を入れ、弦司から距離を取った。

 

 

「小僧、鬱陶しい真似を……!! 手足を引きちぎって、太陽で燻ってやろうか!!」

「朝まで延長公演をご希望か? 中々あんたも好きものだな」

「その軽口、二度と叩けないようにしてやる!!」

 

 

 再び地面を蹴る鬼。しかし、今度は愚直には来ない。左右に高速で動き回る。時に木を足場に、時に木を陰に軌道を隠し予想のつかない動きをする。

 弦司は視線を左右に巡らせる。段々と速度を上げその姿が一つの塊となるも、弦司は鬼を見失わない。

 時間にして十数秒。鬼の速度が最高に達したと同時に、軌道を急激に変え一直線に弦司へ向かう。ほとんど黒い影となった姿を辛うじて捉えた弦司は、右拳を真っ直ぐ振る。

 確実に捉えたと思った攻撃は、しかし弦司の腕に右に受け流される感覚を伝える。

 

 

「っ!?」

 

 

 何が、と思う暇もなく、弦司の腹部に強烈な衝撃が突き刺さり、体が()の字に折れ曲がる。内臓が破裂し口中に鉄の味が溢れ、血を吐き出す。

 

 

「この――!」

 

 

 痛みに意識が半ば飛びながら、弦司は必死に突き刺さったそれにしがみついた。

 腕だった。しかし、()()()()()()()二本の内の一本。

 鬼は背中の腕で弦司の攻撃をいなし、もう片方で痛撃を与えていたのだ。今の弦司は、横向きにした背中の腕を腹部に受け、必死にしがみついていた。

 鬼は弦司を引っかけたまま再び地面を蹴り、

 

 

「がはっ!!」

 

 

 樹木に弦司を叩きつける。轟音と共に脊椎と後頭部が潰れ、辺り一面に血飛沫が飛ぶ。それでも鬼は手を緩めない。そのまま弦司を樹木ごと薙ぎ倒し、

 

 

「がっ!! あっ――」

 

 

 続けて、一本、二本。弦司の背中が粗方拉げた所で、鬼は急停止する。

 慣性に引かれた弦司は、樹木に叩きつけられる。そのままずるずると、大量の血痕を残しながら力なくずり落ち、ようやく動きを止めた。

 鬼は背中の腕で自身の吐血した血を拭うと、侮蔑の視線を弦司へと向ける。

 

 

「分かったか、小僧。鬼の力は人を喰らった数で決まる。未だ()()()()()に興じる貴様に、俺が止められる訳がないんだよ」

「ま……て……」

「それじゃあ、あのガキは俺が全部喰ってやる。せいぜい俺に協力しなかった事を、後悔してろ」

 

 

 鬼が背を向ける。このままでは、茂吉が喰われる。それだけは、絶対に嫌だった。だが、脳が半ば漏れ出し全ての脊椎が砕かれてしまっている。歯を食いしばった。何度も力を込めた。それでも、指の一本も動かなかった。

 人としての一生を失った。そうして残った最後の矜持も、今、失おうとしている。

 

 

(鬼になってまで、鬼に全て奪われるのか……!!)

 

 

 憎かった。無力な自身も含め、鬼という存在全てが。

 

 

(俺はどうなってもいいから……! あいつを止めてくれ……!!)

 

 

 何度強く祈っても、鬼は止まらない。

 鬼が四肢に力を込める。

 

 

(やめろ……!)

 

 

 強靭な肉体が、地面を押し飛ばそうとする。力が解放された瞬間、茂吉は奴によって喰われてしまう。

 

 

(やめてくれっ!!)

 

 

 弦司が最悪を幻想した瞬間――鬼が真横に飛んだ。

 砂煙をまき散らし飛び退る鬼。それは何かから逃げるような、我武者羅な動きだった。

 そのまま二転三転し転げ回り、鬼がようやく止める。

 

 

「えっ」

 

 

 弦司はようやく喋れるようになった口で、間抜けな声を漏らした。それもそのはず、鬼にあるはずのもの――両手足が欠けていたからだ。

 鬼が必死に飛び退いた跡、飛び散る砂煙に視線を向ける。

 砂煙には、いつの間にか一つの人影があった。

 全ての粉塵が収まった時、一人の女性が露わになる。

 まず目を引くのは、その服装だ。

 大日本帝国陸軍を思わす黒い詰襟。無骨な衣装とは正反対に、その上の羽織りの基調は白。さらに、外へ向かうほど鮮やかな色彩を帯び、まるで蝶の羽を想起させた。

 そして、服装以上に目を惹いたのは、女性の容姿だった。やや垂れた大きな双眸は可愛らしく、艶やかな唇には色香が漂う。さらには思わず手を伸ばしたくなるような、腰まで伸びた翠の黒髪。一対の蝶の髪飾りが、その美しさに華を添えていた。

 しばし容貌に目を奪われた弦司だが、月明かりに煌く刃を見て我に返る。彼女の手にあるのは、一振りの日本刀。外見からは想像もできないが、彼女が一瞬の内に鬼の手足を斬り飛ばしたのだ。

 

 

()()()()が茂吉君の言った鬼ですね」

 

 

 周囲を見渡しながら呟く女性。弦司は安堵した。茂吉が無事、彼女に保護されていた事が分かったからだ。そして、彼女が鬼の言う鬼狩り。これ以上ないほど心強かった。

 後は彼女が鬼を狩るだけ――と思ったが、女性は中々弦司達に斬りかかってこない。

 彼女はしばし周囲を見渡すと、

 

 

「先ほどの子ども以外に、()()()()()がいたはずです。男性はどこにいますか?」

 

 

 優しく、しかしどこか声音に刺々しさを込めて、女性が問う。

 

 

(……人間の男性? 茂吉のやつ、何を言ったんだ?)

 

 

 首を傾げる弦司。質問の意味が全く理解できなかった。ところが女性は弦司の対応が気に入らなかったのか、その双眸に明らかな苛立ちが生まれる。

 

 

「まさか……()だと!? こんな山奥に嘘だろ!?」

 

 

 鬼は震えた声で叫んだ。女性の問答の間に再生させたのか、鬼の手足が生えているが、恐怖のせいだろうか。両の手足は震え、とてもではないが力は入っていなかった。

 そんな震える鬼に、女性は切っ先を向ける。

 

 

「もう一度訊ねます。男性はどこにいますか?」

「し、知らない! 俺が来た時には、ガキとそこの鬼しかいなかったんだ! ガキが何を言ったか知らないが、俺は誓って何もしていない!! だからお願いだ――」

 

 

 ――()()()()()()

 鬼の必死の命乞い。何人も人を喰らっていながら、自身は助けろ。どこまでも身勝手な主張に、弦司は怒りを覚える。 

 

 

「……私はまた、間に合わなかった」

 

 

 対して女性は怒らず、その容貌を曇らせた。

 だが、それは一瞬。再び表情を凛とさせると、

 

 

「同族でさえ争うしかできない哀しい鬼達。せめて、私が哀しみを終わらせます」

 

 

 未だ動けない弦司は問題外としたのか。女性は鬼へと向かう。

 

 

「ひぃっ!?」

 

 

 鬼は悲鳴を上げると、四肢に力を込め逃げようとしたが――出来なかった。瞬時に距離を詰めた女性が、一瞬の内に鬼の首を刈り取っていた。

 静かに宙を飛ぶ鬼の頭。頬まで裂けた口を限界まで開いた顔は、絶望一色。そのまま首は落下し、残った体も力なく倒れる。

 ――そして、数瞬もしない内に灰となって散った。

 それはまるで、太陽を浴びたかのようであった。

 

 

(何で……一体、何が起きたんだ?)

 

 

 消えた鬼を呆然と見やる弦司に女性が振り返る。彼女の卓越した剣技が為せるのか、衣装も刃にさえも返り血を一滴も浴びていなかった。

 鬼を斬った、その姿さえ美しかった。

 弦司がそんな事を考えてると露とも知らず、女性は弦司の前に立ち刃を掲げる。

 

 

「最後に尋ねます。人間の男性を知りませんか?」

「知らないな。君の勘違いじゃないのか?」

「……そうですか」

 

 

 弦司の返答に、女性は哀しみを深くする。そして、弦司を射抜く視線。そこには、例えようのない悼みと哀しみがあった。

 

 

(彼女は化け物になった俺を、哀れんでくれているのか)

 

 

 嬉しかった。こんなになった己に対して、想ってくれている事が。

 死ぬのは今も怖かった。それでも、彼女に哀れまれて逝けるなら、これ以上の幸福はない。

 

 

(ありがとう。名前も知らない女性)

 

 

 弦司は女性に心の底から感謝し、その時を待つ。そして、それはすぐに訪れた。

 月明かりに輝く刃を女性が振り下ろす。

 刃は弦司の首に吸い込まれるように動き、首が飛ぶ。

 ――それで終わりのはずだった。

 

 

「兄ちゃん!!」

「――!!」

 

 

 森に響き渡る甲高い声。

 女性は咄嗟に弦司の薄皮一枚斬ったところで、刃を止めた。

 声の主はすぐに現れた。

 

 

「茂吉君。来てはダメだって何度も――」

「兄ちゃんから離れろ!!」

「お兄さんってもしかして――いぃっ!?」

 

 

 茂吉は駆け出すなり、女性の脛を持っていた木の枝で叩いた。

 さすがに予想外だったのか、女性はまともに喰らった。女性の額から汗が流れる。それでも、表情は変えず視線は弦司に固定。日本刀を鞘に納めると、茂吉の枝を没収し背後から抑える。

 

 

「茂吉君、ちょっと待って! それ割と本気で痛いから、落ち着いて!」

「兄ちゃんを助けるどころか殺そうとして! この嘘つき!」

「それはそうじゃなくて! そうだけど、そうじゃなくって、そういう事だったの!? ああもう私の馬鹿~~!!」

(んん? 何か噛み合わないと思ってたが、最初から認識がズレていたのか?)

 

 

 先までの凛とした佇まいが台無しになるほど狼狽する女性。暴れ回る茂吉。二人の言動から、弦司は状況を徐々に理解する。

 

 

(たまたま彼女に会った茂吉は、俺の言葉通り助けを求める。で、鬼が人を助けるなんて有り得ない事だと仮定したら、『人間の男性』と執拗に探してたのにも、納得がいく。そして、『人間の男性』がいないとなると……まあ、死んだか喰われたかと思った訳か)

 

 

 事ここに至って、女性も茂吉の言う『兄ちゃん』が弦司である事を理解したのだろう。しかし、首を斬り落とそうとしたのは事実。さしもの彼女の鬼を一太刀で斬り伏せる剛腕をもってしても、暴れる子どもを宥める事は困難を極める……という状況だった。

 もはや、首を斬ってくれとも言える雰囲気でもない。弦司は女性に助け舟を出すことにした。

 

 

「茂吉、俺は大丈夫だから落ち着いてくれないか」

「!? に、兄ちゃん!! すっごく血塗れじゃないか、本当に大丈夫なの!?」

 

 

 弦司の一言で、茂吉が落ち着いて駆け寄ってくる。女性がちょっと泣きそうになっていた。弦司はそれは見なかった事にして、無事を証明するために立ち上がりつつ、茂吉が納得するよう適当に話をでっち上げる。

 

 

「大丈夫なんだが……すまない、俺は茂吉に一つ隠し事をしていたんだ」

「隠し事?」

「実は俺、神隠しにあって妖怪に改造された妖怪人間だったんだ」

「「妖怪人間!?」」

 

 

 茂吉と女性が驚愕の声を上げる。お前は驚くなよ、と弦司は女性に責める視線を向ける。女性は俯いた。

 

 

「ああ。俺は体を妖怪にされて、心まで妖怪にされる直前に、どうにか逃げ出したんだ。そして、あの化け物は俺を追ってきた手先の一体だったんだ」

「妖怪って……兄ちゃん、それ本当?」

「本当だって。ほら、さっきの左肩の傷、もう塞がってるだろ?」

「本当だ……兄ちゃん、妖怪人間なんだ……」

「~~~~っ」

 

 

 女性が自身の口を押える。どうやら、妖怪人間がツボにはまったらしい。弦司はちょっと頭にきた。後でこの作り話に巻き込んでやると決意する。

 

 

「化け物たちは、夜な夜な人を攫い妖怪へと改造してしまう恐ろしい悪の集団だ。俺だけでは太刀打ちできない」

「それじゃあ兄ちゃん、これからどうするの……?」

「心配するな。悪の集団がいるなら、それの対となる正義の集団がちゃんと存在するんだ。その名も『悪鬼滅滅隊(あっきめつめつたい)』! 彼女はその隊員の『お蝶夫人』だ!」

「!?!?!?!?」

 

 

 女性が――否、お蝶夫人が信じられないモノを見るような目で、弦司を見上げる。その目が、弦司の正気を訴えかけるが、努めて無視した。

 

 

「苦戦の末、俺は化け物を倒したんだが、間が悪く彼女が来たんだ。茂吉の言う助けがいる人はいなくて、いるのは妖怪人間だけ……俺も悪の集団の一味と勘違いされて刃を向けられた」

「そ、それでどうなったの!?」

「斬られるその瞬間――あわやのところで、茂吉の登場だ。お前のおかげで誤解が解けて、今はお蝶夫人と俺は協力者さ。なあ、お蝶夫人!」

「~~~~っ!!」

 

 

 弦司に話を振られたお蝶夫人が、唇を強く結ぶ。何も語らないと、お前の話には乗らないとの意思表示だ。

 

 

「お蝶夫人?」

 

 

 だが、前世の弦司の絵物語を悪魔合体させた話に、茂吉はすっかり夢中になっている。キラキラと期待する少年の眼差しの前に、お蝶夫人は無力だった。

 彼女は満面の笑みで応えた。

 

 

「はい。茂吉君のおかげで、私は彼に人間の心が宿っているのを見ました。これからは、彼と協力して悪と戦いましょう」

「そうなんだ! 良かったね、兄ちゃん!」

「ああ。これも全部、茂吉のおかげだ」

 

 

 そうやって褒めれば茂吉は有頂天。もうこれで早々、女性に突っかかることはない。後は茂吉を村まで送るだけだ。

 

 

「そういえば、茂吉……大事な事忘れてないか?」

「え? 何かあったっけ?」

「おいおい、このまま帰ったら母ちゃんに叱られるの忘れたのか?」

「そうだった! でも兄ちゃん、誠心誠意謝るしかないんだよね!?」

「その事なんだが、お蝶夫人が協力してくれるらしいぞ?」

「本当!?」

 

 

 弦司の意図を察したのか、女性が頷く。

 

 

「今回の件は茂吉君のおかげで、彼と会う事ができました。そのお礼です。多少私からも口利きをしましょう」

「ありがとう、お蝶夫人!」

「……お安い御用ですよ。それでは、お家に帰りましょうか」

 

 

 女性が釈然としない顔つきで先導する。茂吉が彼女の後に続こうとして、振り返る。

 

 

「兄ちゃんは来ないの?」

「俺は妖怪人間だからな。彼女が代わりにやってくれるなら、俺は村に近づかない方がいいんだ」

「えっ……」

「悪いがここでお別れだ。ちゃんと謝れよ」

「……うん。さよなら、またね」

 

 

 沈んだ表情で、それでもしっかりと茂吉は別れを口にした。来て、とは言わなかった。本当に強い子だった。

 弦司の仕事はここまで。だから、彼らを見送った後は洞穴に帰ろうと弦司が思っていると、女性が弦司を見ている事に気づいた。

 

 

 ――待っていてね、妖怪人間さん。

 

 

 彼女が満面の笑みで、口だけを動かして弦司に伝えた。


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