しのぶは懸命に駆けていた。
姉と弦司が命賭けで作ってくれた時間。家族を守るために、小さな体で二人の少女を担ぎ、走り続ける。
しかし、それも限界が近づいていた。血鬼術による負傷に加え、元々筋力もない。二人の少女を担ぎながらの疾走は、しのぶには負担が大きすぎた。もう走るだけで苦痛が伴う。
だが、それは隣を走るアオイも同じだ。いや、しのぶ以上に苦しいはずだ。しのぶより傷は深く、同じように二人の少女を抱えているのだ。すでにアオイの意識はほとんど飛んでいる。それでも最善を尽くすという誓いのみで、ここまで走り続けていた。いつ力尽きてもおかしくない。
――家族を守るためなら、何でもいい。誰か早く来て。
「胡蝶!」
そんなしのぶの願いが通じたのか。
真ん中を境に左右で色合いの違う羽織を着た、不愛想な男。水柱・冨岡義勇がしのぶ達と合流した。
義勇を見て安心したのだろうか。しのぶとアオイは急に脚に力が入らなくなり、倒れ込んだ。
倒れ込んだしのぶに、義勇が駆け寄る。
「冨岡さん……」
「喋るな! 状況は伝わっている! 今は治療に専念しろ!」
「私はいいから。アオイとカナヲを優先して」
しのぶの体は小さい。その上、決して軽傷とは言えない傷を負っている。ここまで二人の少女を担ぎながら走るのは、並の労力ではない。しのぶは自身でも、治療が必要な事は分かる。
だが、それ以上にアオイとカナヲこそ予断を許さなかった。
アオイはしのぶよりも重傷だ。それでも体に鞭打って、二人の少女を担いでここまで来た。
カナヲは隊服を着ていないため、多くの傷を負っていた。負傷の度合いで言えばアオイと大差はないが、体のできてないカナヲにとって、この傷は大きすぎる。
二人ともすぐにでも治療が必要だった。
きよ、すみ、なほの三人は奇跡的に無傷だ。彼女達に手伝わせ、義勇に応急処置をさせる。思ったよりも手際のいい手当で、アオイとカナヲは最悪の事態には至らずに済んだ。
静かに横たわる二人を見て、しのぶはホッと息を吐いてから、今度は自身の治療をする。
一方、義勇は蝶屋敷の方角を向いて、立ち上がる。
「ここで待っていろ」
「っ! ダメっ!!」
しのぶが治療をする手を止め、義勇の袖を引く。
「あれには……上弦の弐・童磨には勝てない! 今行ったって犬死よ!」
「関係ない。それにお前の姉が――」
「もう、無理よ……!」
口に出して、姉の死を想像してしまう。
しのぶに残された唯一の家族。誰にでも優しくて、しのぶの憧れだった。もうあの笑顔も、声も、温もりも失ってしまう。
しのぶは顔をクシャクシャにして、大粒の涙を流した。
「何でよ……! 守りたいって思ったもの、全部すぐに壊れて……!」
思い出すのは、直前の誓い。今度は、私が姉の幸せを守る。そうやって啖呵をきったのにも関わらず、この有様だ。
姉は救えず、他の娘も傷だらけだ。
「受け継ぐって決めたのに……! 環さんも、姉さんも、私、何で守れないのっ!!」
「……胡蝶」
環の時もそうだった。救いたいと願ったものが、端から全て壊されていく。
このまま冨岡を行かせたら、彼も帰ってこない。上弦の鬼とは、それだけ恐ろしい存在だ。もう目の前で親しい人がいなくなっていくのは嫌だった。
「もう守れないのは嫌……! お願いだから、私の言う事を聞いてっ……!」
しのぶが悲痛に叫ぶと、義勇は止まった。
僅かに逡巡した後、しのぶに問いただす。
「どうして無理と判断した?」
「奴の、血鬼術は冷気よ。不破さんが『吸うな』って叫んでいた。多分、冷気が肺胞を壊死、させるんだと思う。上弦の弐は私達隊士の天敵よ」
「……」
「蝶屋敷を覆うような広範囲の血鬼術も使える。きっと、他にも、術は隠しているわ……」
言っててしのぶは涙が出てくる。こんなの反則だ。どうやったら勝てるというのだ。
カナエは死ぬ。そして、弦司も――。
しのぶはもう涙が止まらなかった。嗚咽を上げるしのぶを、義勇はしばらく見つめていた。
そして、突如として義勇は日輪刀に手を掛ける。
「逃げろ」
「えっ」
「鬼が二体近づいてきている」
「う、うそ……」
義勇に言われ気配を探ると、確かに鬼が二体近づいている感覚がある。
蝶屋敷にいた鬼は二体。弦司と……童磨だ。
弦司とカナエが離れるはずがない。これの意味する所を想像し、しのぶは顔色を失う。もう大切な人はいないのだと、絶望に沈む。
そんなしのぶに、義勇は鋭く声を上げる。
「早くしろ」
「っ、冨岡さんは!?」
「お前には関係ない」
「でも――」
「日輪刀もないお前に何ができる!!」
「っ!」
一喝されて、しのぶは悲痛な表情で立ち上がる。全部義勇の言う通りだった。ここで言い争う事に、何も意味はない。せめて、カナエと弦司が守りたかった少女達を、しのぶが守り切る。それだけしか、今のしのぶにはできない。
しのぶはアオイとカナヲを担ぎ上げる。きよ達三人を担ぐ余裕はない。後は自身の脚で走ってもらうしかない。
「冨岡さん……」
「……」
「絶対、追いついて下さいね」
「……」
義勇は返事をしなかった。
しのぶは涙を拭う。何度拭っても、涙は止まらない。
どうしてこうなったのだろうか。涙を流しながら、しのぶは再び足に力を込めた。
〇
「ごめんなさい、弦司さん」
――その声を聞いた時、誰もが耳を疑った。
「えっ、どういう事……?」
あの童磨でさえも、目の前の現実を見て、信じられず呆けた。
大日本帝国陸軍を思わす黒い詰襟。ただし詰襟の腰から下は斬り落とされており、腹部の綺麗で青白い肌が良く見える。
目を引く容姿はやや垂れた大きな双眸は可愛らしく、艶やかな唇には色香が漂うが血で汚れている。さらには思わず手を伸ばしたくなるような、腰まで伸びた翠の黒髪。
――胡蝶カナエ。
五体満足のカナエが、手足を失った弦司を抱えて立っていた。
抱えられた弦司が、震えた声で問う。
「カナエ……本当に、カナエ、なのか……?」
「はい。あなたのカナエです」
微笑むカナエを見て、誰もが気づく。
上がった口角。僅かに覗く犬歯が牙のように尖っていたのだ。加えて、瞳は赤く煌いている。
確かに花柱・胡蝶カナエは死んだ。
だが、ここにいるのは――
胡蝶カナエは鬼となった。
〇
気づけばカナエは、綺麗な川の畔に立っていた。地面に咲き誇るのは彼岸花。
カナエは自身が死んだのだと理解した。その証拠に、川の向かいには愛する父と母がいる。つまり、この川はあの有名な三途の川なのだろう。
カナエは川の向かいの両親に手を振る。
「父さん! 母さん! ちょっと待ってて! 私、好きな人ができたの! 彼ももうすぐ来るから、来たら一緒に行くね!」
「カナエ。来てはいけません」
笑顔で手を振るカナエに、父は厳しい声で応じた。
カナエは納得できなかった。もう己は死んだ。彼らと同じように死んだのだ。もうしのぶとはいられない。ならばせめて、愛する両親の元にいたい。こんなに頑張ったのに、そんな事さえも許されないのか。
カナエは笑顔を引っ込め、声を荒げる。
「何で!? 私、頑張ったよ! たくさん人も救ったし、しのぶ達だって助けた! なのに、何で頑張ったって褒めてくれないの!? 何でそっちに行ってはいけないの!?」
「あなたには、まだやる事があるでしょ?」
今度は母が優しく諭すように言う。カナエは意味が分からなかった。
「やる事って何!? もう私、腕もないし、呼吸もできないし、体だって半分にされたのよ!? きっと、今頃喰われているし……一体、私に何ができるの!?」
カナエは童磨に殺された。彼らがどんなに願おうと、それは変わらない。もう生は帰ってこない。失った命は回帰しない。
だから、受け入れて欲しい。なのに、愛する両親は決してカナエを、あちらに来させようとしない。
己は死んでも、幸せになってはいけないのか。それが悲しくて悔しくて、涙が出てきた。
涙を流すカナエに、両親は優しい微笑みを投げかける。
「どんなになっても、カナエは私達の娘だよ」
「だから幸せになるために、もう少し頑張って」
今一つ、両親の言葉は要領を得なかった。だが、その声には確かに、カナエに対する親愛が込められていた。
涙の意味が変わる。死んでもなお、カナエを愛してくれている。幸せを願ってくれている。
何ができるか分からない。何もできずに、またここに戻ってくるかもしれない。でも、愛する両親がカナエのために、くれた言葉だ。もう少しだけ頑張ってみよう。
――そう思っていた時には、視界は変わっていた。
視界に広がるのは、星がきらめく夜空。死んだ時に見た景色と変わらない。だが、体は明確に変わっていた。
腕もある。胴も繋がっている。体のどこも痛くない。その上、力が有り得ないほど湧いてくる。
事態に頭が追い付かず、呆然と体を起こす。近くには、手足を失った弦司の傍に童磨がいた。弦司を連れ去ろうとしている童磨が、カナエに自身のやるべきことを思い出させる。
カナエは童磨の頭を吹き飛ばし、弦司を救出した。
「カナエ……本当に、カナエ、なのか……?」
「はい。あなたのカナエです」
事態が理解できていない弦司に、カナエは優しく微笑みかけた。
――弦司を抱えた時、カナエの鬼としての本能、とでも言うべきか。何が起きたか、おおよそを察した。
人が鬼になるには、鬼舞辻無惨の血を摂取する必要がある。
童磨に殺される間際、カナエは弦司に口づけをした。その際、カナエは意図せずして弦司の血液を大量に飲んだ。その血を切っ掛けとして、カナエは鬼となった。
ならば、弦司の血を飲めば誰もが鬼になるのかと問われれば、そうではない。
――血鬼術・宿世招喚
弦司の血鬼術の肝は『前世』などではない。『変化』させる事だ。ただし、その対象は
そもそも、弦司がなぜ『変化』が好きなのか。彼は満足できないから『変化』に充足を見出したと言っていた。だが、カナエはそれだけではない事に気づいた。
結局の所、彼が真に望む『変化』は自身の望むように『変化』する事なのだ。自身の理想へと成る事なのだ。
考えてみれば、当たり前だ。目の前の物が劣化する場合と、改良される場合。どちらの『変化』が良いか。後者に決まっている。弦司も心の奥底では、同じ事を考えていたのだ。
そして、弦司はいくつもの死と別れを体験した。潜在意識でこう望んでいたのではないか。『みんな鬼だったらこうはならなかったのに』と。
――そうして、カナエは弦司の『血』と『血鬼術』をもって、鬼へと『変化』させられた。
弦司がカナエの血を飲んだ事で、僅かに力が戻った事も、関係しているのかもしれない。
そして、カナエが鬼へと変えられた証拠とでもいうべきか。カナエと弦司の間を繋ぐ『力』のようなモノを、カナエは感じていた。これがある限り、カナエは『命』も『体』も『心』も、全て弦司の物なのだろう。もしかしたら、『命』も『体』も『心』も捧げた狂おしいほどの情愛があったからこそ、『変化』できた可能性もある。
(生き残れたけど……)
カナエは複雑な思いで、自身の手の甲を見る。傷一つない、綺麗すぎる程、青白い肌があった。
確かに生き残れた。ただし、カナエの中にあるのは歓喜だけではない。寂寥感も同じだけある。
弦司を人に戻すと誓った。そんな己が、人ではなく鬼へとなる。妹が恨んで止まない、己が哀れと思う存在へとなる。
きっとこれから先、カナエは何度も苦しむだろう。それこそ、今まで目の当たりにした弦司と同じように、苦しみ喘ぐだろう。だが、その良し悪しは今は脇へと置いておく。何においても童磨だ。あれを滅さない限り、カナエと弦司に平和は訪れない。両親が死んでも望んでくれた、カナエの幸せは来ない。
――ならば、カナエのやる事は一つだ。
「弦司さん、少し待ってて。今、悪い鬼は私が退治します」
弦司を横たえると、カナエは童磨と向かい合う。
童磨は冷や汗をかいて、呆然とカナエを見ていた。
「本当にカナエちゃんなの? それにその目に牙って……鬼になったって事? この短時間で?」
「そんな事、どうでもいいじゃないですか」
「えっ」
「あなたは私達を襲い、幸福を壊した。弦司さんを悲しませた」
「う、うん。それで?」
「『救済』してあげますね」
カナエはニッコリと笑顔を咲かせると、同時に姿が掻き消える。そして、童磨の胸をカナエの右腕が穿ち抜いた。
「っ! 速――」
「どんどんいきますよ」
腕を抜くと同時に、今度は左腕が童磨の顔面を襲う。扇で受けるが、鬼となった膂力に加え、全身をバネの様に使ったカナエの一撃は重い。扇を打ち抜き、カナエの拳は童磨の顎を弾き飛ばした。
お返しとばかりに童磨も扇を振るうが、最小限の動きで躱される。合間にカナエの蹴りが、童磨の右膝を砕いた。
童磨が膝をつく。すでに顔と胸は再生しているが、丁度いいとばかりに顔を再びカナエの膝蹴りが吹き飛ばす。
――戦いは一方的なものになっていた。
それもそのはず。鬼となったカナエに、呼吸は関係ない。童磨の撒き散らす、粉凍りに効果はない。
そもそも、低い身体能力で童磨と打ち合えていたのだ。鬼となり五感も身体能力も上がったカナエが、不利になる道理はない。
とはいえ、童磨も上弦の弐。身体能力だけで力量差が埋まるほど、彼は弱くない。二人の優劣を決定づけているもの、それは――。
「っ!?」
「本当に便利ね」
跪いた童磨が、扇でカナエの腰を斬り裂こうとするが、高い金属音が鳴るだけで傷をつけられない。
カナエの体の表面、扇の触れた個所だけ『鋼』がかかっていた。童磨にとって相性の悪い『鋼』がカナエの有利を決定づけていた。
――カナエは弦司と同じ血鬼術が使えた。
これも、カナエと弦司の精神が関係している。確かにカナエは弦司に『変化』させられた。彼に隷属していると言っていい。だが、弦司もまた『命』と『体』と『心』を捧げると誓った。彼もまたカナエに隷属していると言えた。
この奇妙な関係が、弦司の支配下にいながらも、カナエに弦司の血鬼術を使わせていた……もちろん、カナエも弦司も知っていたから
「これはどうです?」
カナエは手刀を漆黒化させると、童磨の左腕を斬り飛ばした。
カナエは攻撃を受けた個所、もしくは攻撃した部分だけ『鋼』を展開していた。最小の力で最大の効果を得る。血鬼術の使い方は弦司よりもカナエの方が上手になっていた。
「――っ!」
「上弦の弐・童磨? 不利となるとだんまりですか?」
「……」
カナエの挑発に、童磨の顔から笑顔が消えた。
『血鬼術・
無表情の童磨が左腕を生やすと、二対の扇による氷と扇の連撃をカナエに加える。
カナエの対応は簡単だ。攻撃が当たる箇所のみ『鋼』を展開。さらには、童磨の攻撃が『鋼』に当たった機に、カナエが攻撃し返す。
カナエは傷つかない。だが、童磨は攻撃した回数だけ傷が増える。
このままではダメだと思ったのだろう、童磨は手管を変える。
『血鬼術・
「それはダメ」
御子を作成しようとした童磨を、カナエは蹴り飛ばす。氷像は途中で氷を霧散させられ、形にならない。
血を吐きながら地面を転がる童磨に、この時、カナエは追撃をかけなかった。
現状はカナエが有利だ。力の消耗も、再生と血鬼術を頻繁に使う童磨の方が激しいだろう。だが、カナエの体は未知数。何が切っ掛けで、再び戦況が傾くか分からない。だからこそ、確実な勝利が欲しい。
カナエは落ちていた
――童磨の頚を落とす。
それこそが、カナエ達の確実な勝利。
カナエは鬼となった己の全力を出す。全身を漆黒化したカナエが日輪刀を構えて童磨に肉薄した。
だが、童磨も上弦の弐。カナエが日輪刀を拾った僅かな時間に、決断を下していた。
『血鬼術・霧氷・睡蓮菩薩』
遮るは巨大な菩薩。拳をカナエに向けて振り下ろす。
『花の呼吸・肆ノ型
カナエの大きな斬撃が、菩薩の拳を迎え撃つ。
均衡は一瞬。先に耐えきれなくなった菩薩の肘から先が砕け散る。
『花の呼吸・捌ノ型
カナエは透かさず突貫した。地面を割る踏み込みで、菩薩の胴へ襲い掛かると、光速の斬撃を放つ。
先は半ばまでしか斬れなかった菩薩。しかし、鬼となったカナエの一撃は、見事に菩薩を断ち切った。
菩薩は形を維持できず、崩れ散っていく。
飛び散る冷気の中、カナエは童磨に襲い掛かろうとするが、その表情を一転、憤怒へと変える。
童磨がどこにもいなかった。
「~~っ!! 逃げられた!!」
カナエが歯軋りしながら周囲を感知して探ると、童磨の気配はすでに遠くまで行っていた。一応、しのぶの逃げた方向とは違う。
童磨は自身の最強の血鬼術を、逃走のためだけに使ったのだ。あそこでその判断ができる鬼が、他にいるのか。強大な敵を逃してしまったと、カナエは後悔の念しか浮かばない。
「――カナ、エ」
「っ、弦司さん!」
愛する人の声が、カナエを怒りから覚まさせる。
声の方へ駆け寄ると、先ほどカナエが横たえた場所に変わらず弦司はいた。まだ手足は生えてきていない。力が戻っていないのだろう。
惨いとしかいえない状態の弦司。しかし、彼は苦痛を訴える事はない。ただただ、カナエを再び目にして泣いた。
「カナエ……カナエッ……!」
「お待たせしました、弦司さん。あなたの、あなただけの、カナエです」
カナエは弦司を抱き締めた。ここにある確かな温もりが、カナエに伝わる。
もう二度と感じる事はないと思っていた。もう二度と手に入るとは思っていなかった。愛する人が、確かにいた。
カナエも涙が止まらなかった。
愛する人を抱き締めている。今はそれだけで嬉しかった。
「弦司さん」
「カナエ」
一頻り泣いた後、カナエは弦司を小脇に抱える。
そして、涙を拭い笑顔で言う。
「みんなの所へ帰りましょ」
〇
しのぶが駆けだそうとした瞬間。しのぶは自身が狂ったかと思った。
「しのぶ」
脚が思わず止まる。こんなの有り得ない。ならば、これは血鬼術だ。絶対に振り返ってはいけない。アオイをカナヲを、きよを、すみを、なほを守るために、しのぶは駆け続けなければならない。姉との誓いを守るために。
だが、しのぶは理性に反して振り向いた。これは姉の声だと。唯一残された家族の声だと。自身の感覚が必死に訴えかけていた。
「しのぶ!」
「姉……さん……」
そして、そこにいたのは確かに姉であった。ただし、気配は人のそれではなく……鬼。その証拠に、彼女がいつものように微笑むと、口から牙が覗く。
しのぶを庇うように立った義勇は、明らかに動揺している。鬼を前にしたというのに、日輪刀を抜いていない。確かに、気配は鬼だ。だが、小脇には弦司を抱えているし、何より弦司の気配と
きよ達はしのぶの羽織の裾を掴んで、固唾をのんで見守る。
荒れた呼吸が収まらない。しのぶは何度も深呼吸しながら、一先ずアオイとカナヲを静かに下ろした。二人も目を大きく見開いて、カナエを見る。
姉であって欲しい。だが一方で、姉であってほしくない。そんな矛盾した想いを抱えながら、しのぶは震えた声で尋ねた。
「本当に、姉さん……なの?」
「うん。姉さん、鬼になっちゃった」
「なっちゃったって、そんな軽く……」
声も、雰囲気も、仕草も。全部が全部カナエだった。
――だが、鬼である。
たったそれだけの事が、しのぶに二の足を踏ませる。弦司という良い鬼の見本がいるのに、鬼の姉を簡単に受け入れられない。
カナエは寂しそうに笑った。
「そう……これが、弦司さんが感じていた事なのね……」
「! 姉さん、私――」
「ううん。いいの。だけど、これだけは言わせて」
カナエはしのぶだけに笑いかけると、一番言いたかった言葉を。しのぶが一番聞きたかった言葉を告げる。
――ただいま。
「――姉さんっ!!」
もう無理だった。鬼だとか、鬼殺隊だとか、どうでも良かった。
姉が、胡蝶カナエが、生きて帰って来てくれた。もうそれ以上は何もいらなかった。
しのぶは駆け寄ると、カナエに飛びつくように抱き着いた。カナエは抱きとめようとして、つい弦司を離してしまい――地面に落ちる前に、義勇が受け止める。
「姉さん! 姉さん!!」
「ごめんね、しのぶ。また心配をかけて」
しのぶはカナエの胸で泣いて泣いて泣いた。鼻腔をくすぐる甘い花のような香りに、柔らかさ。失ったと思ったものが、ここにあった。
声が枯れるまで、涙が止まるまで、しのぶは泣き続けた。
一方、義勇に受け止められたはずの弦司は、カナヲ達の輪に放り込まれていた。
「弦司……良かった……」
「弦司さーん!!」
「良かったです!!」
「もうどこにも行っちゃ、やです!!」
「げんじ……兄さん」
さすがに傷口は塞がってはいるものの、手足のないボロボロの弦司に全員が縋りつく。生きていて良かったと、誰もが喜ぶ。
色々なものを失った。
全員の思い出が詰まった蝶屋敷。カナエの人としての未来。カナエと弦司が紡ごうとしていた、その先も――。
築き上げるはずだった幸福は薄い硝子の上に乗っていて、あっという間に破壊された。それでも、誰も欠ける事なく生き残った。
もうあの日々は戻ってこないだろう。きっと今以上に苦しい時は来る。
それでも、生きていれば、いつか幸せを掴む日は来る。それを信じて、もう一度手を取り合い突き進む。
――でも今、この時だけは、目の前の幸せを味わい続けた。
〇
帝都の裏路地の一角。
無人の通路に一人の男がいた。白い中折れ帽を被り、黒いジャケットを羽織ったモダンな紳士。
鬼の首魁である鬼舞辻無惨、その人である。
佇む彼の後ろに、跪く白橡色の髪に、虹色がかった瞳の男――上弦の弐・童磨。
「ご報告に参りました」
「報告? 何を報告するつもりだ?」
童磨の体に衝撃が走る。皮膚が、肉が、骨が罅割れていく。全身に激痛が走り、血が流れ出す。
無惨は青筋を立てて、言葉を続ける。
「私は言ったはずだ。『裏切り者の鬼を連れて来い』と。難しい命令ではないはずだ」
「返す、言葉、も、」
「黙れ、童磨。それどころかまた一匹、余計な鬼を増やしたな。なぜ、余計な真似をした? 裏切り者と異常者の感傷などに付き合わず、すぐに殺していれば増えなかっただろう、この馬鹿者が」
「……」
「童磨……童磨! お前には本当に失望した。こんな簡単な遣いもこなせないとは。『上弦の弐』にはもう期待しない」
「……」
無惨はそれだけ言うと、童磨を見向きもせず去って行った。
童磨の激痛が引く。全身の傷が塞がる。
「あはは。怒られちゃったなあ」
童磨は血塗れで笑う。ただし、それは顔だけだ。声は全くの平坦だった。
常に成果を収めて、人を『救済』してきた。童磨にとって、ここまでの失敗は初めてだった。ここまで人に貢献してきたのに、一度の失敗でこの仕打ち……自身が可哀想と思う。
だが、童磨にそれ以上の感情は湧いてこない。胡蝶カナエの言う通り、喜びも悲しみも、当たり前の感情さえ感じていない。
「胡蝶カナエと不破弦司、か」
しかし、自身が敗北する原因となった二体の鬼については、しっかりと覚えた。
蝶の髪飾りの女の鬼と、変な血鬼術を使う男の鬼。
自身の血鬼術との相性は最悪だ。このままでは次に会った時も、同じ結末だろう。そうならないように、何か対策が必要だろう。
その一方で、会わなければそんな面倒な事もしなくても済むと思う。彼らは、はっきり言って頭がイカレている。死ぬ直前に血液を飲むなど、正気の沙汰じゃない。できれば、付き合いたくない。
「……帰ろうか」
色々と思考を巡らしたが、結局は童磨の思考は他人事から変わらなかった。感情は生まれない。
――上弦の弐・童磨。彼は敗北し打ちのめされても、何も変化しなかった。
〇
――上弦の弐の襲来。
――花柱の死。
――胡蝶カナエの鬼化。
全ての情報が舞い込んだ産屋敷邸は、多忙を極めていた。
一挙に舞い込んだ情報は、ほとんど全て前例のない事態に加え、思わず耳を疑うような情報ばかり。
とにかく、柱を緊急招集したものの、情報をもたらされた彼らとて、同じ反応を返す事しかできず。
そもそも、何が正しくて何が間違っているのか。結果、産屋敷邸で開かれた緊急柱合会議は喧々囂々の会議となり、夜通し議論が交わされる事となった。
会議に必要な証言をした蝶屋敷の面々は、産屋敷邸の一室に通され睡眠をとっていた。
本来なら怪我人もいるため、医療施設に運ぶのが正しいのだが……それは少女達が全会一致で拒否した。少なくとも、今日一日は絶対に離れないと、全員がカナエと弦司を掴んで離れなかった。
とはいえ、疲労は全員が頂点に達している。全員が同じ浴衣に着替えて布団を敷くと、すぐに力尽きたように眠った。ただし、カナエと弦司を捕まえたまま、である。
弦司はきよ、すみ、なほ、カナヲに圧し掛かられていた。全員から、気持ちのいい寝息が聞こえる。
一方のカナエは、しのぶとアオイにしがみ付かれていた。凛とした二人が甘える姿は珍しく、思わず弦司とカナエの目尻が下がる。
全員分の布団があるにも関わらず、この状態だ。今日一日、彼女達が目覚めるまで……いや、もしかして目覚めてもこのままだろう。
「弦司さん」
そう思っていた弦司に、カナエがひそひそと声を掛ける。ちなみに、カナエも弦司と同じように、食糧で力を補給できる事が分かった。就寝前に食事を弦司と共に摂っていたので、手足も元通りになり、今は二人そろって力が有り余っている。
「どうした?」
弦司も同じように、声をひそめて返す。
「二人きりになりたい」
カナエの提案に弦司は少し驚いた。優しいカナエの事だ、今日は少女達を思い切り甘やかせ、逢瀬は先の話と思っていた。
カナエが縋る様に弦司を見る。思えば、ここまで急激な変化があったにも関わらず、カナエは気を張り続けている。カナエは一度も、気を抜けていない。弦司は二人の時間が必要だと判断した。
弦司が頷くと、少女達を引きはがし布団へと寝かしつける。やはり疲れていたのか、誰も起きる事はなかった。
静かに部屋を抜け出す。すると、意外な人物が部屋の外にいた。
神秘的な美しさを持った和装の女性。産屋敷あまね。耀哉の御内儀だ。
「付いてきて下さい」
彼女は綺麗な所作で弦司達を先導する。あまねの考えが読めず、弦司はカナエと目を見合わせるが、カナエも分からないと首を横に振る。
あまねが良い人だというのは、二人の共通認識。特に危害もないだろうし、何か意図があるかもしれないと思い、とりあえず着いていく事にした。
辿り着いたのは、普通の和室だった。特に広くもなく、かといって狭くもない。
――ただし、部屋の中央には布団が一つと枕が二つ。
もしやと思った弦司に、あまねは告げる。
「周囲は人払いを済ませております。子ども達が目覚めましたらお声を掛けますので、どうかそれまで二人でごゆるりと」
「えっ? えっ?」
首を傾げるカナエ。理解が追い付ていないようだ。
弦司は眉間を揉みながら、訊ねる。
「……つまり、自由に使っていいと?」
「はい。何なら、汚して――」
「分かりましたから! とりあえず、二人きりにさせてください!」
あまねは口角を少し上げると、頭を下げて退室した。
残されるのは、弦司とカナエ。あまねがあんな事も言える人物とは思っておらず、少なからず弦司は動揺する。
「…………す、座るか」
「はい……」
とりあえず、部屋に入って二人して布団の上に座る。カナエもようやく理解が及んだのか、顔を赤く染めてそわそわしだした。
急に変に意識してしまったせいか、雰囲気もおかしい。というか、そういうために二人きりになった訳ではない。鬼となってしまったカナエを、少しでも受け止めたくて二人きりなったのだ。
弦司は深呼吸しながら、向き合って座ってみる。
カナエの顔が良く見える。艶やかな唇に、僅かに覗く牙。思わず触りたくなるような、腰まで伸びた翠の黒髪。いつもの蝶の髪留めではなく、今は七色の簪を差している。そして、やや垂れた赤く大きな双眸は、熱を込めて弦司を見つめる。
「ん」
弦司の手は自然と伸びて、カナエの両手を握った。小さくて柔らくて、タコだらけの手。想いが通じ合った日、ずっと握り合ったあの手と同じだ。それがもう一度、弦司とカナエが生き残った事実を感じさせてくれた。
「カナエ」
「弦司さん」
互いに名前を呼び合うと、カナエが胸に向かって飛び込んできた。優しく受け止め、抱き締め合う。
浴衣越しに感じるカナエの柔らかさ。温かさ。花のような瑞々しい甘い香り。五感で感じる全てが彼女はここにいると教えてくれる。
「カナエ……!」
「弦司さん……!」
弦司もカナエも涙を流していた。童磨が現れたあの瞬間。もう二度と、愛する人と一緒にいられないのだと、どこか心の底では思っていた。どこかで、もう手に入らないモノと、諦めていた。でも、確かな温もりをもって、今ここに弦司とカナエがいる。二人きりになれて、彼女の生を弦司はようやく実感できた。
本当に嬉しかった。だが、抱き締めたカナエの体は震えていた。今の弦司には、それが単なる喜びではないと、なぜか分かった。
弦司は涙を流しながら、カナエの言葉を待った。
カナエはつっかえながら、弦司に訴えかける。
「弦司、さん、ごめんなさい……!」
「うん」
「私、生き残れて、嬉しい……だけど、生きるのが、怖い……!」
「うん」
「死にたくない……! でも、鬼になって、しのぶに、あんな目で見られるなんて……私、怖いよ……!」
「うん」
「みんなと一緒に、陽だまりを浴びて、一緒に眠りたいのに……!」
「うん」
「……怖い、よ……」
「……うん」
鬼となって、初めてしのぶに会った時。最初、しのぶの目は姉を見る目ではなかった。憎悪こそなかったが、あれは全く未知の生き物を見る目であった。
鬼となった時は、きっと生き残れた喜びが大きかったのだろう。だが、時間と共に高揚感は落ち着いていき、冷静となった頭が事実を再確認させた。それでも、不安に押しつぶされそうになる少女達が目の前にいたからこそ、今の今まで気持ちを抑えつけていた。
そして今、抑えを失った不安と恐怖が、カナエを苛む。
弦司を間近で見ていたからカナエだからこそ、分かるのだ。鬼になる事の苦しさ、鬼でいながら人の傍にいる難しさ。何より、妹が恨み、自身が哀れみ、己の人生を最悪へと叩き落した存在となる……その不安と恐れは余りにも大きい。
カナエは感情をただただ弦司にぶつける。
弦司は知っている。生きたくない。死にたくない。矛盾する感情の行きつく果ては――。
「人になれれば、こんな想い、しないのに……」
「分かるよ。俺も同じだから」
弦司はカナエの不安を少しでも和らげようと、艶やかな髪を撫でる。心配ないと、少しでも伝わる様に優しく抱きしめる。
「弦司、さん」
「大丈夫。俺がついてるから。カナエが守ってくれたように、今度は俺がカナエの心を守るから。だから、安心して……『俺に助けさせて下さい』」
「弦司さん……!」
これは初めて弦司がカナエと出会った日。彼女が弦司にくれた言葉だ。この言葉があったから、弦司の今がある。
彼女が与えてくれたものを、今度は弦司が与える番だ。
カナエが泣きながら、あらん限りの力で強く抱きしめてくる。弦司も涙を流しながら、より一層優しく彼女を受け止める。
「それに心配はいらないよ。しのぶにアオイ。カナヲ、きよ、すみ、なほ。不死川に冨岡に……たくさん、俺達を助けてくれる人がいる。それに……カナエも」
「私……?」
「ああ。こんなにも人が助けてくれるのは、カナエが俺を助けようと尽力してくれたからだ。俺が頑張れるように、カナエが助けてくれたからだ。それは全て、今のカナエを助けるために、繋がるんだ」
「今までの私が、私を……」
カナエは鬼と仲良くなろうと、弦司を助けようと頑張っていた。弦司は、この鬼は大丈夫だと周囲に伝えてくれた。それはカナエが鬼となった今、彼女の身に返ってくる。弦司は大丈夫だと理解してくれた彼らは、カナエも同じように、この鬼は大丈夫だと理解してくれる。
「カナエの夢が今のカナエを助けてくれる」
「――っ!」
彼女は誰よりも傍で弦司を見ていたから、知っている。鬼になる事で、たくさんのモノを失っていく事を。人として生きていた軌跡を、徐々に失くしていく事を。
だが、弦司はそうではないと言った。カナエが弦司を助けた分だけ、カナエを助けてくれる。弦司を助けたからこそ差し伸べられた手を見る度に、カナエは自身の人として生きた軌跡を知る事ができる。
「……私の、夢が、私を……う、ううっ……!」
カナエは声を上げて泣き始めた。縋りついて救いを求める彼女に、弦司は与えられたものを少しは返せたのかもしれない。
弦司はカナエを撫でながら、先の事を思う。優しさだけでは困難は乗り切れない。きっと、弦司とカナエは何度も苦しみ喘ぐ事になるだろう。それでも、必ず乗り越えてみせる。一人で乗り越えられなくとも、誰かが傍にいれば。弦司がそうだったように、カナエなら必ず前に進んでくれる。カナエと一緒なら、弦司も進んでいける。
涙の末に二人の心には、相手に対する愛しさが残る。愛する人が傍にいる。それだけで、二人の顔に笑顔が戻る。
「カナエ。これから先も一緒に居るから」
「はい……」
「絶対、一緒に治そう」
「……はい!」
互いの愛を確かめる様に、弦司とカナエは抱き締め合う。
いつの日か、愛する者と幸せになるために、必ず人になると誓いあう。
――二人の鬼は、その日が来ると強く信じて、長い時を共に在り続けた。
〇
竈門炭治郎は困惑していた。
鬼となった妹を治すために、炭治郎は鬼殺隊に入隊した。鬼の彼女と共に鬼殺に従事していた。
――鬼を連れた隊士。
噂では人のために戦う鬼がいると聞いたが、噂は噂。炭治郎は珠世という人を喰わない鬼に会ったが、他には会った事も見た事もない。
自身がどれだけ異例か、炭治郎は十分理解していた。それでも二度と妹と離れたくなくて共にいた。
だが、那谷蜘蛛山での戦いの折、ついに女性の隊士が妹に刃を向けた。彼女の判断は間違っていない。隊士が鬼の傍にいれば、炭治郎でも助けようと斬りかかるだろう。
刃が届く寸前で、自身の恩人・冨岡義勇により助けられたが、兎にも角にも鬼を連れている事が他の隊士にもバレてしまった。
もう鬼殺隊に居られないのか。抜けなければいけないのか。
不安にかられながら、連れていかれた鬼殺隊本部で――、
「大丈夫ですか、炭治郎君。他にどこか痛む個所はありませんか?」
「あ、大丈夫です! 痛いですけど、長男なんで大丈夫です!」
「ふふっ。何ですか、それは」
整った容貌と小さく艶やかな口、大きな双眸は優しく炭治郎を見つめる。
夜会巻きにした髪型と蝶の髪飾り。蝶の翅のような羽織が特徴的な小柄な女性。
――蟲柱・胡蝶しのぶ。
妹に刃を向けたはずの彼女が、甲斐甲斐しく炭治郎の世話を焼いていた。拘束をしないどころか、炭治郎を治療してくれた。今も異常なほど、炭治郎に気を遣ってくれる。
炭治郎は鼻が良い。人の感情を嗅ぎ分ける事もできる。彼女からは嘘の匂いはせず、それどころか罪悪感と親愛の情まで香ってくる。
訳が分からず混乱する炭治郎に、しのぶは優しく微笑みかける。
「大丈夫ですよ。妹の禰豆子ちゃんは絶対に信頼できる人に預けています。今、鬼殺隊本部にいるのも、私達柱に君の事情を説明するためです。それが終われば、君も禰豆子ちゃんも解放されるでしょう」
「えっ!? 本当ですか!?」
炭治郎は思わず訊き返す。
鬼殺隊とはその名の通り、鬼を殺すための組織だ。その多くが、鬼によって幸せを奪われた者で構成されている。炭治郎もその一人だ。
そんな組織の中で、鬼を連れ歩く……炭治郎はやっておきながら、そう簡単に許されるものではないと思っていた。
しのぶは悲しそうに眉尻を下げる。一見、悲しそうに見えるが、炭治郎の鼻は違うと主張する。
怒りだ。ただし、それは炭治郎に対してではない。
「ごめんなさい、私のせいですね。ちゃんと私が炭治郎君と禰豆子ちゃんの容姿を、予想できていれば良かったんです」
「えっ、そんな、しのぶさんは悪くありません!」
「そういう事らしいですよ、冨岡さん?」
「…………」
「ねえ、何か仰ったらどうなんですか?」
綺麗な庭園の隅にいる義勇を、しのぶは目を細めて見る。鼻を使わなくても分かる。しのぶは義勇に怒っていた。
「何度も言いましたよね。人を喰らわない鬼がいるなら、私に会わせて下さい、と。会っていればこんな事態、避けられたのではないですか?」
「えっ」
炭治郎は驚いた。義勇が自身を鬼殺の剣士として育てた鱗滝以外にも、禰豆子の存在を伝えていた事に。
炭治郎が義勇を見ると、いつもの不愛想な表情のまま、
「(姉の事で胡蝶は頑張り過ぎている。もうこれ以上、背負う)必要はない」
「またそれですか。いつも言ってるじゃないですか、言葉が足りないと。今日こそ説明して下さい」
「……」
「……もういいです」
しのぶはため息を吐くと、義勇から視線を外した。怒りの中に、僅かに悲しみの匂いを感じた。
そんな彼らの様子に、他の柱達がそれぞれ反応を示す。
「……地味に姉妹だな。もう勘弁してくれよ」
大柄の派手な男は呆れてため息を吐き、
「け、喧嘩はダメだよ」
胸元の大きく開いた隊服を着た、桜色の髪の女性は狼狽しながら間に入り、
「胡蝶は冨岡の何に怒っているんだ!」
まるで炎のような髪型をした男は叫び、
「…………」
少年の隊士は空をただ見つめ、
「……南無」
念仏が縫い込まれた羽織を着た大男は、数珠を鳴らしながら念仏を唱え、
「冨岡の言葉足らずはどうにかならないのか。痴話喧嘩ならまだしも、柱合会議にまで持ち込んでくるのは、どういう了見だ」
木の上で寝そべった左右の目の色が違う細身の男が、ネチネチと冨岡を責め、
「…………ちっ」
凶悪な目つきの傷だらけの男だけは、炭治郎を見て舌打ちをした。
炭治郎には柱はとにかく個性が強烈な事と、しのぶと義勇の間に何かがあった事は分かった。
しのぶが咳払いをする。
「とにかく、事前に炭治郎君の事情や禰豆子ちゃんの状況は、私から柱達へと根回ししています。お館様がいらっしゃったら、一緒に禰豆子ちゃんも来ますから、安心して君の口から説明して下さい」
「何から何までありがとうございます!」
「うんうん。やっぱり素直が一番ですね。ずっと素直な君でいて下さい」
「えっと……はい!」
ほどなくして、お館様――産屋敷耀哉が来た。
流麗な黒髪に華奢な体躯の男性で、顔の半分は爛れていた。目が見えていないのか、視線は中空で固定されている。
「私の
柱が全員跪き、慌てて炭治郎も跪く。だが、炭治郎に彼の言葉は耳に入っていなかった。耀哉の背後で控えている人物に目が釘付けだった。
やや垂れた大きな双眸、艶やかな唇に腰まで伸びた翠の黒髪。さらに、七色の簪を側頭部に差した、色彩豊かな洋服を着た女性。そして、その隣にいるのは、整った容姿と優しい眼差しを持った、こちらも洋服の大柄の男性。
どちらも目は赤く、口元から牙が見える。
――鬼だった。
だが、その匂いは清らかだ。人を喰らわない珠世よりも、ずっと澄んでいる。妹の禰豆子に近いぐらいだ。ちなみに、その禰豆子は楽しそうに女性の膝の上に座り、男性に頭を撫でてもらっている。
炭治郎はしのぶを見る。女性の鬼としのぶ。容姿も匂いも、あまりに似すぎていた。
見られている事に気づいたしのぶが、炭治郎に微笑みかける。
――鬼としのぶは姉妹だ。
身内が鬼となり、それでも鬼殺隊にいる。きっと、しのぶも家族を治すために、今も戦い続けているのだろう。
家族が鬼となってしまう不安、恐れ、恐怖。理解を示してくれる人はいる。師匠の鱗滝と恩人の義勇。同期の我妻善逸に嘴平伊之助。
だが、本当の意味で分かってくれる人はいない。どこかでそう思っていたのかもしれない。
――彼女は自分と同じだ。
自分と同じ気持ちが分かるから、親身になってくれるのだろうか。少なくとも、彼女が頑張ってくれたからこそ、こんなにも簡単に炭治郎と禰豆子は受け入れられている。
――気づけば、炭治郎は涙を流していた。
嬉しかった。自分を分かってくれる事が。分かり合って、戦ってくれる人が鬼殺隊にいてくれて。
同時に誰も味方がいない中、戦い続けていたしのぶを、心の底から尊敬する。
「噂は聞いているかもしれないけど、炭治郎にも紹介しよう」
耀哉のその言葉で炭治郎は現実に引き戻される。
炭治郎は目元を拭い、彼の言葉に耳を傾ける。
「彼らは禰豆子よりも先に鬼となり、人のために戦い続け、証明してきた」
――鬼殺隊には二人で一組の鬼が存在した。
たくさんの人の命を救い、その強さと優しさで隊士と柱を手助けした。
鬼殺隊では誰もが尊敬する彼らだったが、鬼が人の中で生きる苦しみはたくさんあった。
叩きのめされる事も、一度や二度ではなかった。
それでも、歯を食いしばり、前に進み、二人で寄り添いながら人と成ろうとした。
彼らを見て、皆は親愛を込めて呼んだ。
「『胡蝶家の鬼』カナエと弦司だ」
――これは鬼を哀れむ者と人を喰らわぬ鬼。本来なら、交わらなかった者たちの物語。
最後までお読みいただきありがとうございます。
本編については、これで終了となります。
後は後日譚と、番外的な話をいくつか投稿するかと思います。
リクエストは活動報告へ、後書きや解説はまた後日にでも。
それでは、ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
~追記~
リクエストは終了いたしました。
ご協力ありがとうございます。