鬼滅の刃~胡蝶家の鬼~   作:くずたまご

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ここから先は後日譚空間となります。
基本、シリアスなしですので、本編の余韻だけを感じたい人は注意して下さい。


後日譚 蝶屋敷襲撃後 ~胡蝶カナエは奪われたい~

 ――蝶屋敷襲撃から、数日が過ぎた。

 あの日、蝶屋敷の日常は壊され、胡蝶カナエは人としての未来を失った。誰も彼もが傷ついた。それでも誰も喪う事なく生き残った。

 だが、鬼に蝶屋敷を見つけられたのは事実だ。また鬼に襲撃される可能性は残っている。もう蝶屋敷に住む事はできなかった。

 少女達は、蝶屋敷を捨てるしかなかった。

 さすがにしのぶの研究資料は、柱も投入して回収したが、思い出の詰まった品々を回収する時間も人手もなかった。全てを置き去りにして、去るしかなかった。

 後戻りはできない。今を生きる者は、前に進むしか道は残されていない。

 すぐに新たな屋敷は与えられた。広い家屋で蝶屋敷の七名が住んでも余裕がある。蝶屋敷にあった品々と類似した物も、取り揃えられた。

 もちろん、気遣いだけではない。蝶屋敷に似た場所を用意する事で、カナエと弦司をここに縛り付け監視下におき、鬼化による影響を観察するためでもあった。この観察の結果によって、カナエと弦司の正式な処遇が決まる事になっている。

 鬼舞辻無惨以外の鬼が、人を鬼にしたのだ。この措置は正しい。だが、仲間であった隊士が、尊敬する()花柱を監視しなければならない……その事実が、鬼となったカナエの過酷な運命を予感させ、誰もが心を痛めた。

 その代わり……という訳ではないが、蝶屋敷の他の人員には正式に長期の休暇が与えられた。

 東京府の事件、蝶屋敷襲撃と過酷な事件が相次いだ。蝶屋敷にいる誰もが、傷ついている。肉体的にも精神的にも、癒す時間が必要だった。

 結果的に、蝶屋敷は皆がのんびりとする時間と居場所を、久方ぶりに得た。

 鬼となってしまったカナエがいずれ来るであろう、過酷な日々。その時に備え、英気を養う貴重な時間となるだろう……。

 

 

 ――そして、胡蝶カナエは存分に休暇を楽しんでいた!

 

 

「うふふ」

 

 

 早朝、カナエはだらしなく顔を緩ませながら、弦司に着物を着せる。帯を締めて――少し不本意だが、割烹着を渡して――完成である。

 

 

「ありがとう」

「いいのよ。私と弦司さんの仲だもの~」

「……そうだな」

「うへへ~」

 

 

 カナエは顔を綻ばせながら、同じく割烹着を着物の上に着る。

 過酷な運命? 過酷な日々? 今、そんなものを考えても、カナエの処遇が決まるまで何もできないのだ。ならば、楽しんだもの勝ちである、というのがカナエの考えだった。

 だから、新しい蝶屋敷では間取りを自分好みにし、部屋は弦司と同室にした。食事中の隣の席も分捕ったし、食器やその他小物も全部、お揃いの物にした。食べたい物や今まで着られなかった華やかな着物だって遠慮なく頼んだ。こっそり首輪だって再発注した。

 今もこうやって誰の目も憚る事無く、弦司と時間を共有して一緒にいる。少しくすぐったくて、嬉しかった。

 一方で、こういう()()()だけではなく、ちゃんと『夫婦』として認められる準備も進めている。といっても、鬼のカナエと弦司が祝言をまともに挙げられるはずがないので、戸籍上だけの話である。

 正直、カナエも付き合い始めて一週間足らずで婚姻を決めるのは、急ぎ過ぎとは思ってはいる。それでも、弦司は己の物だと、カナエは弦司の物だと。一つでも弦司との繋がりを、誰もが分かる形で残したくて話を進めている。

 最初、話を聞いたしのぶは呆れた。それでも、最後には認めて祝福してくれた。

 しのぶだけではない。カナヲにきよ、すみ、なほ、義勇に天元に、弦司の両親に、行冥だって数珠を爆砕させて、祝ってくれた。

 カナエと弦司は彼らの祝福を受けて、このまま正式に夫婦となるだろう。とても有難い事だった。

 

 

「行くか」

「はい」

 

 

 最後に七色の簪を差すと、弦司と一緒にカナエは台所へと向かう。蝶屋敷の面々は現在、治療に専念している。家事は健康体であるカナエと弦司の大事な仕事だ。

 

 

「それでは始めますか、あなた?」

 

 

 台所に着いたところで、試しにカナエは呼び方を変えてみる。言うだけで顔が熱くなる。弦司も気恥ずかしそうに頬を掻く。

 

 

「……呼び方、変えるのか?」

「……やめておく」

「そうか……それじゃあ、始めますか」

 

 

 ちょっと残念そうな弦司の声が聞こえる。これはこれで何かの手札になるかもしれない。時々呼んでみようとカナエは思った。

 浮ついた雰囲気の中、二人は黙々と調理を始める。作る食事の量は多い。七人分と人数が多い事もあるが、とにかくカナエと弦司の食事量が多いのだ。どうやら、カナエの体は弦司の性質をそのまま受け継いでいる様で、彼と同じように食事から力を得る。食事量も弦司程ではないが、それでも多い。

 蝶屋敷での食事量は単純に以前の倍となっており、調理は忙しいものとなっていた。だからこそ、カナエと弦司で調理する必要がある。

 作業を進めながら、カナエは一方で別の事を考える。

 経過観察の間は蝶屋敷から簡単に外へは出られない。空いた時間で今までできなかった鍛錬も学習もするが、それだって一日中できる訳ではない。そうなると残りの時間に何をするか。

 

 

(弦司さんと一緒に居るしかないのよね~)

 

 

 嘘や誇張ではなく、本当にそれぐらいしかやる事はない――という建前でイチャつく。

 仕方ない仕方ない、と誰に対するか分からない言い訳をしながら、具体的には何をするか考える。

 もうカナエと弦司は夫婦みたいなものだ。なら、夫婦らしい事をしたい……とまで考え、カナエはある重要な事実に気づく。

 

 

(夫婦らしい事……そういえば、最近、接吻してない。いえ、そもそも、私達ってまともな接吻した?)

 

 

 初めては刀鍛冶の里。つい興奮したカナエが弦司の唇を奪おうとして、間違って髪を食んだ。

 二回目は蝶屋敷。ただし、死の直前の出来事だ。カナエから弦司の唇に吸い付いて、大量の血を飲んだり飲ませたりした。この行為のおかげで鬼となって蘇ったわけだが――。

 二回ともカナエから口づけしている上に、どちらも異物混入だ。これは由々しき事態、異常事態である。

 監視下であり、夜はきよ達に一緒に寝る事を強要されている。二人の時間というものは少ない。とはいえ、これではあまりにも色事が少なすぎる。せっかく正式に夫婦となれるのだ、接吻ぐらいまともなものを一つぐらいしたい。

 だが、カナエは立派な大人の女性だ。自分から強請るような真似は、あまりしたくない。

 それに――。

 

 

(奪うのもいいけど、奪われてみたい……)

 

 

 考えるだけで頭がボーっとしてきて、野菜を切り刻む包丁の動きが早くなる。

 とにかく、これでカナエの今日の方針は決定した。

 ――弦司に唇を奪われる。それも彼から迫る形で。

 だが、どうすれば奪われるのか。カナエは自身が奪った状況を考える。そう、奪いたくなるような雰囲気を作るのだ。弦司はカナエが大好きだ。そうすれば、後は弦司が勝手にやってくれる。何より、カナエが興奮してやった時は、だいたい上手くいかない。

 カナエは落ち着いて、冷静に弦司をその気にさせる。後は弦司が上手くやってくれる。カナエだって恋愛弱者でも学習するのだ。

 そう決定し、カナエは包丁でまな板をトン! と叩く。

 

 

「何事!?」

「今日は味噌づくしに挑戦する?」

「本当に何事!? ……それじゃあ、挑戦するか?」

 

 

 ――こうして、今日もカナエは蝶屋敷を振り回す。

 

 

 

 

 味噌づくしになった朝食も終わり、食器を片付けていた時の事である。

 弦司もカナエも食事量が多い。暴力的と言ってもいい。だから、少女達が胸焼けしない様に一度二人きりで食事を摂ってから、改めて全員で朝食を食べている。当然、食器の数も多くなる。ゆうに十数人分の食器……一人だけで片付けるのは難しく、今日もカナエと弦司で、食器を洗う事になっていた。

 ちなみに、アオイにカナヲ、きよ、すみ、なほも協力を申し出たが断っている。アオイとカナヲはまだ傷が塞がっていない。きよ達三人には、洗濯物など弦司とカナエでできない家事をお願いしているので、そっちに集中してもらった。二人きりになりたいから……という理由も多少はある。

 

 

「ねえねえ」

 

 

 弦司が食器を洗っていると、食器の水気を拭いていたカナエが、突如として手招きをした。いやに頬がゆるゆるな顔である。

 カナエと弦司が夫婦になると決めてから、彼女は浮ついている。調子に乗っていると言ってもいい。

 また、何かやらかしそうだが、喜んでいる彼女に水を差すのも本意ではない。だから、弦司はカナエをそのままにする。こうやって、弦司がまたカナエを甘やかすのが、やらかす一因とは分かっている。それでも喜ぶカナエを見たくてありのままの彼女を受け入れてしまう。

 もちろん、本当に間違っている時は本気で止めるが、今日のこれも悪戯程度だろう。弦司は手を止めると、カナエに逆らう事なく近づく。

 

 

「耳」

 

 

 言われるがまま、耳をカナエに寄せる。 

 カナエは僅かに背伸びをすると――そっと。

 

 

()()()()さん」

「!?!?」

 

 

 その一言で、全身に電流が走ったような痺れた感覚に陥る。慌ててカナエから離れる。

 カナエは笑みを浮かべたまま、自分の上唇を舐める。また新しいカナエが見れて、弦司の体は緊張する。

 

 

「あなたの名前を呼んだだけよ? どうかしたの?」

「そうだけども! ……もっと、普通に呼べないのか!?」

 

 

 実は弦司の婿入りという形で、カナエと弦司は夫婦になる予定だ。だから、カナエの言い分は何も間違っていない。間違っていないのだが、なぜ耳元で囁く必要があるのか。弦司には分からなかった。分かるのは、中々に刺激的だという事だけだ。

 カナエもそれは分かっているのだろう、悪戯っぽくクスクスと笑うと、内緒話をするように口元に手を添えると、小さく囁く。

 

 

「胡蝶弦司さーん」

「……っ」

 

 

 夫婦になるのだと、その一言で強く自覚させられる。鼓動が速くなる。

 

 

「返事がないですよ、胡蝶弦司さん」

「……はい」

「胡蝶弦司さん、胡蝶弦司さん、胡蝶弦司さん」

「分かったから!? 胡蝶家の弦司です……こ、これでいいだろ。まだ食器残ってるから、洗うぞ」

「ふふ。一度中断、です」

 

 

 弦司が逃げる様に家事に集中しようとすると、阻むようにカナエが距離を詰めてくる。弦司が後退れば、カナエが迫ってくる。

 

 

「な、何だよ……」

「次は胡蝶弦司さんの番ですよ?」

「えっと……」

「名前」

「……胡蝶カナエ」

「胡蝶弦司さん」

「……胡蝶カナエ」

「胡蝶弦司さん」

(何の遊びだ!? この……可愛いじゃないか!)

 

 

 弦司は心の中で悶絶する。

 同じ名字で呼ばれて、呼ばされて、夫婦になったのだと強く強く心に刻まれる。この美しくも可愛らしい女性が己の妻なのだと、意識させられる。

 カナエとのやり取りがじれったくて、くすぐったい。弦司は慣れない行為に顔が熱くなり、たまらず叫ぶ。

 

 

「待て待て待て待て!? ホント、朝から何だよ!? 変な気にさせて、どうするつもりだよ!?」

「変な気って何ですか? どういうこと、するつもりですか?」

「っ!?」

 

 

 気づけば、弦司は壁際に追い詰められていた。カナエが上目遣いで、弦司を見る。

 弦司は茹った頭で考える。つまり、それはそういう事か。カナエなりの合図なのか。

 家事中だとかつまらない言い訳を、全部捨てる。可愛い妻のお願いには応えねばならない。

 弦司はカナエの顎に指を添えようとして――彼女が弦司の手から逃れる。

 

 

「姉さん、今日の予定だけど――」

 

 

 その時、ちょうどしのぶが台所に入ってきた。しのぶの覚悟の証なのか、蝶の翅のような羽織を隊服の上から袖を通している。

 どうやら、しのぶの気配を察知したために、カナエは離れたようである。弦司はホッとしたような、でも残念な。ちょっと複雑な気持ちになる。

 壁際にいる弦司を見て、しのぶが首を傾げる。ちなみに、しのぶは最も軽傷だったためか、簡単な仕事には復帰している。

 

 

「? どうかしたの、()()()()?」

「あっ、馬鹿――」

 

 

 つい以前の癖で、弦司の旧姓(となるであろう名)を呼ぶしのぶ。カナエが顔を顰めて不機嫌になった。

 

 

「しのぶ」

「うぇっ!? いや、これはいつもの癖で、別に悪意があった訳じゃ」

「しのぶ」

「……に、義兄さん」

「よろしい」

 

 

 絞り出すような声で言うしのぶ。羞恥からか、耳まで真っ赤になっている。

 対して、カナエは一瞬で上機嫌となり、家事に戻る。

 今日はカナエに振り回されてばかりだ。だが、それはカナエにとって弦司が特別だからだ。むしろ、弦司はこの状況を楽しんでさえいた。

 弦司も食器洗いに戻る。慌てる事はないだろう。休暇はまだあるし、日中に二人きりになれる時間はほぼない。さっきの続きは、もう少し後だ。

 しのぶもバツが悪そうに、今日の予定について説明する。弦司もカナエも、しのぶの説明に耳を傾ける。

 ――この時、弦司はカナエが自身の口元を見ている事に全く気付かなかった。

 

 

 

 

 弦司は鍛錬でカナエにボコボコにされた後、カナエと一緒に検診を受けた。

 体に変化がないか、血液の採取から身体能力の計測など、簡単に検査を行う。二回に分けて行うのは面倒、との理由でカナエと一緒に受ける事になっていた。

 新しい診察室に弦司とカナエは並んで椅子に座る。向かいに座ったしのぶの表情は渋い。

 

 

「ふ……に、義兄さんは今日も変化なし。姉さんも……変化なし」

 

 

 カナエが鬼になった経緯は、鬼殺隊はもちろんの事、しのぶにも伝えている。

 口づけと聞いて赤くなったり、一度死んだと聞いて青くなったり、童磨をボコボコにしたと知って叫んだりと、色々と騒がしくしながら説明した。

 しのぶは一つの可能性を考えていた。

 ――血鬼術で鬼となったならば、時間経過で戻るのではないか、と。

 その可能性を信じて、姉が人に戻る事を願っていたが、検診の結果は変化なし。いくら今のカナエを受け入れているとはいえ、僅かな希望を見出し、それさえも失っていく……気落ちして当然と言えた。

 

 

「そうなると、ここの報告書は――」

 

 

 だが、しのぶはすぐに切り替えた。彼女は本当に強くなっていた。

 椅子を回転させると、弦司達に背を向けて書類に何かを書き始めた。集中している様で、カナエと弦司が放置される。

 声を掛けるのも憚られる。時間に余裕もあるので、しばらく待っておこう。弦司がそう判断すると――ツンツンと、何かが弦司の太ももを突く。

 弦司を突く指を辿っていくと、当たり前だがカナエがいる。弦司がカナエを見ると、口元に笑みを浮かべたまま突き続ける。

 

 

「何?」

「……」

 

 

 弦司が声を潜めて訊ねるが、カナエは何も言わない。笑顔のまま、むしろ突く力を込める。

 弦司は止めさせようとカナエの手を追いかけるが、あっさり躱される。そして、再びツンツンと――。

 太ももの付け根に向けて韻律を踏みながら迫ったかと思うと、急に力を弱めて膝に向けて指先をツーっと、ゆっくりと這わせていく。

 

 

(だから一体何の遊びだ!?)

 

 

 カナエの可愛らしくじれったい刺激に、いっその事抱き締めてやろうかと思うが、今は診察中だ。

 

 

(意識するな、しのぶは真面目にしてるんだ。意識するな)

 

 

 反応したら負けだ。そう判断した弦司が努めてしのぶの方へ視線を向けると、彼女が振り返る。ほぼ同時に、太ももの感触も離れる。

 

 

「そういえば、ここの所なんだけど……?」

「どうした?」

「? 何かあった?」

「何もないわよ~。それで、どうしたの?」

「……さっきの質問の回答なんだけど――」

 

 

 弦司とカナエが質問に答えると「ちょっと待ってて」と、しのぶは再び机に向かう。

 カリカリと何かを紙に書き込む音だけが、診察室に聞こえる。

 しばらくすると、先とはまた違う感触が太ももに広がる――。

 

 

「――っ!」

 

 

 柔らかい感触と温もりが、何度も何度も弦司の太ももを過ぎる。カナエの掌が、弦司の太ももを撫でていた。

 カナエの掌が太ももを滑る度に、背中にゾクリと変な感覚が走る。

 真面目に仕事をするしのぶの後ろで、カナエに太ももを撫でられている。背徳感とじれったい刺激で、声が出そうになる。

 こんな光景、しのぶに見られた日には、どうなるか。弦司は何とか止めようとカナエの手を追うが、柱の実力を無駄に発揮して、ヒラヒラと実に簡単に避ける。どれだけ追っても捕まえられず、再び弦司の太ももにはカナエの手があって、スリスリされる。

 このままでは、カナエに翻弄されるだけだ。だが、弦司ではカナエを止められない。

 

 

(仕方ない。ここは――こうだ!)

 

 

 攻撃は最大の防御――ということで、弦司がカナエの太ももを触る事にした。彼女の細く、それでいて柔らかい感触が、着物を通して伝わってくる。

 

 

「――っ!?」

 

 

 カナエもこれは予想外だったのか、慌てた様子で弦司の腕を掴んだ。

 女性の太ももを触る男性と、それを必死で止める女性。傍から見たら、弦司はただの痴漢である。

 だが、待って欲しい。そもそも、先に痴漢したのはカナエであり、弦司の行為は正当防衛ではないか。それに、カナエは弦司の妻なのだ。別にお触りしたっていいじゃないか。

 ――弦司も頭が茹っていたのだろう。そういう馬鹿な結論に至ると、意地でもカナエの太ももを撫でようとする。

 力と力のぶつかり合い。弦司は余った腕を添えてさらに力を込めるが、カナエも決して動かさないと力を込める。完全に膠着状態となった。

 いくら力を込めても動かない。弦司は力を抜いてため息を吐いた。カナエの防御が固くて撫でられそうにない。諦めるしかない。何より、いつまでもこうしていたら、しのぶに気づかれるかもしれない。

 弦司の力が抜けた事が分かったのか、カナエも力を抜く――その瞬間、弦司の手がカナエの太ももを滑る。

 

 

「!?!?」

 

 

 カナエの目が大きく見開かれる。ここまでの弦司の姿は、全て欺瞞だったのだ。さらに、弦司は余った手でカナエの腕を一本掴む。これで、弦司を止める事はできないだろう。

 焦るカナエに見せつける様に、弦司の大きな手がゆっくりと動く。柔らかいだけではない。しっかりと鍛え抜かれているのか、指を押し込むとしっかりと弾力が返ってくる。

 ここでカナエは何を考えたのか。カナエも弦司の太ももを撫で返し始める。

 

 

「……っ」

「……んっ」

 

 

 いつの間にか、二人は診察室で互いに向き合って無言で互いの腕を一本掴み、太ももを撫で合う。

 何がしたいのか。何がしたかったのか。もうよく分からない。

 ただ、ふわふわと浮ついた感覚と、何とも言えない快感が少しずつ体を満たす。相手しか目に映らなくなる。二人してだんだんと、おかしな気持ちになっていく。

 ――そのせいか、当然の帰結に全然気づかなかった。

 

 

「ねえ、二人とも何してるの?」

「っ!?」

「えっと、これは――!?」

 

 

 青筋を立てたしのぶが、笑顔のまま頬を引き攣らせて、じゃれ付く二人を見ていた。あれだけ二人して騒いだのだ、例え無言と言えど気づかれて当然だった。その当然に気づけないほど、二人は夢中になっていた。

 しのぶは立ち上がると異様なほど足音を立てながら歩き、診察室の扉を思い切り閉めた。その音に弦司とカナエは体を震わせ、互いから手を離す。

 振り返ったしのぶは、笑顔のまま。笑顔である事が、底知れぬ怒りを感じさせる。

 

 

「正座」

「しのぶ、これは――」

「正座!!」

 

 

 今度こそ憤怒に表情を変えたしのぶに、二人は慌てて正座して俯く。これ以上、しのぶの顔は怖くて見れなかった。

 しのぶは舌打ちをすると、腕を組んで続ける。

 

 

「姉さん達が夫婦になれて喜んでいるのはいいわ。仲睦まじくするのもいい。でも、少しは節操を持てないの?」

「も、持っているわよ……いぃっ!?」

「俺もか!?」

 

 

 しのぶは無言でカナエと弦司の頭に拳を落とした。

 

 

「痛いっ!? しのぶが姉さんをぶった!?」

「ぶつわよ!! 朝から台所でイチャイチャ!! 二人っきりになったらイチャイチャ!! 私達が寝たら朝までイチャイチャ!! 今日は二人きりにならなくても、イチャイチャイチャイチャ!! どこに節操があるのよ!?」

「そ、そんなに……?」

「そんなに!! そもそも姉さんは――」

 

 

 今までカナエが幸せだったらそれでいい、という想いもあったのだろう。しのぶはあまり口出しをしてこなかった。

 だが、今日の無節操さにさすがに堪忍袋の緒が切れたのだろう。今まで溜まっていたものを吐き出すように、日が沈むまでしのぶの説教は続いた。

 

 

 

 

「また失敗した……」

 

 

 夜。夕飯も終わり、カナエは食器を片付けながら肩を落とす。

 今日は弦司に唇を奪われたくて、色々とやった。途中まで良かった。弦司もその気になってくれて……だが、運悪くしのぶが入ってしまい実現しなかった。

 そうなると少しの合間に雰囲気を高めたくて、しのぶの目がない時に弦司にちょっかいをかけた。そこまでは良かったと思う。だが、他人の目を忍ぶという行為には、何とも表現しがたい背徳感があった。イケない事と分かりながら、手が止まらなくなった。この世から、忍ぶ恋がなくならない一端を知った気がした。

 そこからは弦司の予想外の反撃があって、頭が真っ白になって……後はもう、それどころではなくなった。

 冷静になれとどれだけ思っても、一度たがが外れてしまうと、ずるずると行ってしまう。感情的になるなとも思うが、そもそも恋愛という行為が感情そのものだ。感情的な行動をしながら感情を抑えるとは、矛盾の塊である。それこそ、困難である。

 本当に恋愛とは恐ろしい。だが、そういう己も悪くない、むしろこの感情と付き合って育てたいとさえ思っている。この想いがあるからこそ、今はこんなにも幸福なのだから。

 ――まあ、暴走する事と恋愛感情は別問題ではあるが。

 

 

(そこは気を付けて、上手く付き合わなきゃ)

「姉さん」

「はいっ!」

 

 

 いつの間にか台所にいたしのぶに呼びかけられて、カナエは姿勢を正して振り返る。

 しのぶはちょっとやり過ぎたと思ったのか、気まずそうに視線を逸らすと、

 

 

「みんなでお風呂に入るから」

「みんなで? それなら私も一緒に――」

「義兄さんと二人きりでゆっくりしてって意味よ! 察してよ、馬鹿姉さん!!」

「えっ」

「カナヲとアオイにも、あまり部屋から出ない様に言っているから! その……あまり二人の時間が作れてないのは、私達も甘えすぎてたって思ってるから! それじゃあ!」

 

 

 しのぶは顔を赤くすると、ピシャリと扉を閉めた。

 カナエは目を瞬かせる。突如湧いた二人の時間に、しばらく思考が固まっていると、再び扉が開く。

 誰かと思い身構える。弦司だった。

 

 

「カナエ」

「っ、弦司さん。あの、どうかしました?」

「えっと……縁側に行かないか?」

「はいぃ……」

 

 

 カナエは弦司に従い縁側に行く。

 縁側から見える庭には物干し竿以外何もない。殺風景な庭だった。いずれ蝶屋敷の様に、誰もが落ち着く庭を作るつもりだが、それはその内やる予定だ。

 縁側にはいつの間に用意したのか、徳利と盃が二つ。酒の肴なのか、漬物が各種置いてあった。

 弦司が庭を向いて縁側に座る。カナエは緊張しながら隣に座った。

 満月……とはいかないが、煌々と輝く月がよく見えた。

 

 

「ちょっとだけ飲まないか? まあ、鬼だから酔えないけども」

「……はい、お付き合いします」

 

 

 互いの盃を満たす。乾杯してから弦司が呷った。

 実はカナエはほとんど酒という物を飲んだことがない。作法が良く分からず、カナエは弦司と父親の姿を思い出して、一気に飲み干す。

 日本酒だろうか。口に広がる酒気。知らない味覚と、喉を焼くような感覚にちょっと咽る。

 

 

「っ!? げほっ、げほっ!」

「大丈夫か!? ほら」

「ご、ごめんなさい」

 

 

 周到に水差しまで用意していた弦司。カナエは水を受け取り、酒を洗い流すように飲み込んだ。世の男はこれを好んで飲んでいる。カナエにはちょっと分からない感覚だった。

 それでも、弦司が飲んでいるのだ。気持ちを共有したくて、盃を差し出す。

 

 

「なあ、もしかして飲んだ事なかったのか? なら、無理しなくていいんだぞ」

「確かに初めてだけど、無理はしてないわ。どうせ酔わないし。それに……鬼殺隊に入ってからは、酔うと任務に支障がでるから、全く飲めなかったの。今は気にせず飲めるから、味わってみたい」

「そうか……なら、ゆっくりでいいから、無理はするなよ」

「うん、ありがとう」

 

 

 もう一度、二人の盃を満たす。今度は一気に呷るような事はしない。二人ともゆっくりと、盃を傾ける。

 慣れてきたためか、酒気以外にも香りがある事に気づく。甘味類とは違う、ほのかな甘み。隠れた複雑な味わいに、少しだけ酒の楽しみ方を見つけた気分だった。

 だんだんと気持ちが落ち着いてくる。屋敷の風呂場からだろうか、少女達のはしゃぐような明るい声が聞こえた。微笑ましい気分になる。そして何より、愛する人と穏やかな時を過ごせている。縁側から見える景色が、何となく素晴らしい光景に見えてきた。

 

 

「カナエ」

「ん」

「もっと近づいて」

「うん」

 

 

 ごくごく自然に、カナエは弦司の肩に身を寄せる。そのまま頭を傾け、彼に身を預けた。

 弦司の大きな体はしっかりとカナエを受け止めた。とても胸が高鳴る。すごく優しい気持ちになれる。

 カナエの肩を弦司の大きく固い手が、優しく抱く。もっと弦司に近づく。酒だけのせいではない、熱い吐息が漏れた。

 

 

「ねえ、弦司さん」

「うん」

「こうやって、穏やかに一緒に過ごせて、夢みたい」

「俺も同じだよ」

「ありがとう。でも、もっと早く自分の気持ちに正直になって、しのぶに相談すれば良かったわ」

「そうだな。一緒に暮らしているんだ、もっとしのぶとも話し合わないとな」

 

 

 最初からみんなと話し合って、こうやって寄り添い合えば、一日悶々とせずに簡単だったのかもしれない。だが、誰もが最初から正解なんて見出せない。こうやって探りながら、間違っても少しずつ近づいていく。それが人間であり、夫婦なのかもしれない。

 

 

「ふふっ……胡蝶家に婿入りするんだから、もっと考えましょうね、あなた」

「仰せのままに、奥様」

 

 

 カナエは見上げ、弦司は優しい眼差しを向けると、微笑み合った。

 そして、カナエは自然な動作で瞼を閉じる。

 ほどなくして、カナエの唇に弦司の唇が落とされた。

 

 

 

 

「ふわぁ……」

「すごいです……」

「大人です……」

「!? みんな、退散よ退散!」

 

 

 ちなみに、風呂から出た少女達はバッチリ二人の仲睦まじい所を見た。

 誰も声が掛けられず、酒が空になるまで二人はずっと寄り添い続けた。

 少女達はあまり眠れず、次の日は寝不足となった。

 

 




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