苦しいのも。
悲しいのも。
虚しいのも。
ある日ぷっつりと音がして、何も辛くなくなった。
苦しいだけの毎日がなくなったから、それでよかった。
――そんな日々が壊れたのは、二人に手を引いてもらったあの日から。
美味しい物をいっぱい食べて日々を過ごせた。
それでも、一度途切れたものは取り戻す事ができず、楽しいも悲しいもよく分からなくて。何も己では決められず、全ての選択は銅貨で決めていた。何も感じず、ただただ決めていた。
――それが否定されたのは、初めてみんなで出かける予定だった日。
大好きな姉達は急な任務で出かけられず。それでも『好きな物』が見つけられて、もしかしたら途切れたものがまた戻ってくるのではないか。
――全て鬼によって破壊された。
自身の選択で姉と兄と大切な人を失わせてしまった。
その日から、心の奥底では己で選択できるようになりたいと思うようになっていたのかもしれない。戦いの際は、銅貨を振る事はなくなった。食事の時は、好きな物を頼むようにした。普段は好きな人にくっ付いて歩く事にした。でも、それ以外の
少しでもどうでもいいと思うと、どれを選んでも何も感じなくて。結果、何も選べずに銅貨を投げるしかなくなる。
家族は誰も責めなかった。自然と投げなくなる、その時を待ってくれた。
それでも、己は変わる事ができなくて。このまま己は変わる事ができずにいるのではないか。
――そんな日々は突然、変わった。
『表が出たら、カナヲは心のままに生きる』
『表だ!』
『カナヲ、頑張れ!! 人は心が原動力だからどこまでも強くなれる!!』
カナヲが踏み切れなかった一歩を、少年は簡単に踏み越えさせてくれた。
表が出たから。自身は銅貨に従っているだけ。
そんな建前を元に、たくさんの選択ができるようになった。不思議なもので、一度選択ができるようになると、どうでもいいものはどんどん少なくなっていった。
普通の人の様に選択できる訳ではない。判断が遅くて、迷って、放ったらかしにする事もある。
それでも、カナヲは変わった。たくさんの人がこれまで支えてくれて……最後の一歩を少年が押してくれた。
少年の名前は竈門炭治郎。
これからきっと、変わっていく。
――炭治郎のおかげで変わっていく。
想う背中を、一人の鬼が見つめていた事を最後までカナヲは気づけず。
――そして『第三十八回カナヲ★大会』は開催される。
〇
――那田蜘蛛山の戦い。
それは蜘蛛になる毒だった。髪は抜け落ち、手足は縮み、蜘蛛になるのは時間の問題と思われた。あまりの衝撃に気を失ってしまって……気が付けば鬼は討ち取られており、蟲柱・胡蝶しのぶにより解毒薬を打たれ助けられた。
あれから善逸は長い間、蝶屋敷で療養に努めていた。今ではすっかり鬼の毒も快癒し、体力も那田蜘蛛山の時よりもついた。
鬼殺隊に復帰する日も近い。また命を懸けないといけないのか、と日に日に意気消沈していた善逸。今は
一体何の用事だろう、と考えていた善逸の良過ぎる耳が、微かな女性の声を捉える
「お馬さん」
「!?」
善逸の足が止まる。
声の主は善逸の耳が正しければ、胡蝶しのぶの姉・カナエである。
女好きを自認する善逸であったが、実は蝶屋敷の女性陣は苦手だった。
――まずは、神崎アオイ。
テキパキと働き者な気の強い女の子。ちょっと善逸が泣き言を言えば、その数倍でガミガミ説教が飛んでくる。可愛くて良い子だとは思うが、それと同じぐらい厳しくて善逸に全然優しくない。
まあ、ここまではいい。ちょっと……いや、かなり怖い女の子。それだけだ。しかしながら、善逸はアオイを恐れている。それは彼女のとある
療養中、寝台で退屈にしていた善逸の良過ぎる耳が拾った、とある隠と隊士がしていた噂話。
――神崎アオイ伝説。
――曰く、神崎アオイは十二鬼月・上弦の弐と遭遇した。
――曰く、その戦いにおいて少女達を守り抜き、生き残った。
――曰く、蝶屋敷最強は実は神崎アオイである。
その話を聞いて、善逸は震え上がった。
普通の鬼でもあんなに恐ろしいのに十二鬼月。しかも上弦の弐。相対するだけでも死んでしまうのに、さらに戦った上で少女も守り抜くなんて、とんでもない話だった。
そんなに強いなら代わりに鬼殺へ行って欲しいと思うが、きっとアオイでも無傷ではすまなかったのだろう。後遺症があり、それでも鬼殺隊に貢献したくて蝶屋敷にいる……と善逸は勝手に解釈した。
とにかく、神崎アオイは善逸の想像以上にヤバい御人。本気で怒らせると、自身なんて簡単に塵にされてしまう。善逸はさらに頭が上がらなくなった。
――そして話は戻り、胡蝶カナエ。
彼女もご多聞に漏れず、ヤバい御方であった。
最初、カナエも人を喰らわない鬼と聞いた時、頭では禰豆子と同じだと分かっていても恐ろしかった。だが、彼女の音を聞いた時、そして会って話をして恐ろしさは吹き飛んだ。
カナエの音はとても優しかった。実際に話してみても、常ににこやかだった。何より顔だけで飯が食っていけるほど美しかった。旦那がいると聞いてちょっとがっかりして、こんな綺麗な女性を娶ってけしからんと思っていたが、滅茶苦茶幸せそうなカナエを見て、色々と敗北感を味わった。
――それだけのはずだった。
ある夜、厠へ行っている途中の事である。善逸の良過ぎる耳がまた、かすかな声を捉えた。
『お犬さん』
それを聞いた時、善逸は混乱した。
カナエの声。それは間違いない。
甘ったるくて熱っぽい音。カナエが旦那と話している時に出す、嫉妬に猛狂いそうになる音だ。
ただ、音の質と言葉の内容が全然繋がらない。
そして何より、
(えっ? えっ? 何でこんなに
一瞬、綺麗とさえ感じた音色。だが、それは良く聞けば旋律の全てが
こんな音、善逸は聞いた事がなかった。先の発言も相まって、さらに善逸は訳が分からなくなった。
聞き間違えだろうと思い、善逸はその日はとっとと厠に行って寝た。だが、それからどうしても気になって、カナエの音を良く聞くようになった。
――良く聞けば、全部旋律が微妙にズレていた。
同じく療養中の炭治郎から聞いたが、カナエは上弦の弐と戦った折、鬼になってしまったらしい。さらに、旦那が――当時はまだ結婚していなかったらしいが――鬼になった時は、炭治郎から伝え聞いた柱合会議など目じゃないほど、色々と過酷な事があったとも聞いた。
色々とあり過ぎて、どこかズレて行ってしまった。善逸の想像でしかないが、そんな気がした。
同情もするし、すごく優しい人ではあるものの、やっぱりどこがズレてヤバい御方。善逸の中で、胡蝶カナエはその日からそういう位置付けになった。
そして、今聞いた音は、あの日聞いた音と遜色ない。
(お馬さんって何!? 何でお馬さんでそんな音が出るの!? もう嫌だ、あの鬼夫婦!!)
善逸は急ぎ遠回りして、目的の場所である診察室を目指す。その足は、音から遠ざかりたいという思いと、早く
(早く
苦手な女性が多い蝶屋敷。その中の例外が待ち人である蟲柱・胡蝶しのぶであった。
顔立ちも、カナエと遜色ないほど美麗で可愛いが、何より善逸を安心させるのは彼女の奏でる音色だ。
カナエのように優しい音。一方で途轍もなく鍛え抜かれていた。
考えてみれば当たり前だった。家族を鬼にされ、家族を治すために鬼の研究をして。さらには体が小さくて鬼の頚を斬れないから、鬼を殺す毒まで作って。そして、善逸のような鬼殺で怪我をした隊士の治療まで行っている。
きっと何度も困難にあったのだろう。それでも、しのぶはここにいる。
しのぶの音は人は何度でも立ち上がれるのだと教えてくれる。強くて頼もしくて安心できる音だった。
もちろん、人柄も良かった。いつも自然な笑顔で優しく話しかけてくれた。時々厳しい事も言うが、たまに聞かせてくれる何でもない愚痴がすごく親しみやすくて安心できた。
そんな途轍もなく(人として尊敬できるという意味で)好ましい女性に、善逸は秘かに呼び出されていたのだ。あんな怖い音は聞いた後だ、しのぶの元へと急がずにいられなかった。
そして何より、夜に二人きり……有り得ないとは思うが、期待するなという方が無理だった。
「し、失礼します……」
善逸は深呼吸してから緊張半分、期待半分で診察室へと入る。しのぶは机に向かい、何やら書類をまとめている最中であった。
善逸の姿を認めるとすぐに手を止めてくれた。
「我妻君、夜分遅くに申し訳ありません」
「い、いえ! その、どうせ今は暇でしたし、全然かまわないですよ!」
申し訳なさそうに眉尻を下げるしのぶを、善逸は慌てて気遣う。というか、ほとんど事実であるので気遣いでも何でもない。
そもそも、善逸は元来、女性の頼みは断れない。そのせいで騙されて鬼殺隊に入ってしまった訳だが。とはいえ、今回は尊敬できる女性からの呼び出しだ。過去がどうあれ、絶対に断るつもりはない。
対して、しのぶは善逸の言葉を素直に受け取ってくれて、笑顔を咲かせる。そして、用意していたであろう部屋の中央にある椅子を善逸にすすめる。
「ありがとうございます、我妻君。さあさあ、立ち話もなんですから、座って下さい」
「あ、ありがとうございます」
「いえいえ」
しのぶは準備していたであろう紅茶を、洋風の茶器に注ぐ。あまり嗅いだことのない香り。少し安心できる香りが診察室に漂い、茶器が善逸の前に差し出された。
しのぶは自分の分も用意し、善逸の対面に座った。
「義兄の影響で紅茶を飲むようになったんです。口に合えばいいですけど」
「ありがとうございます」
「それで、体調はどうですか?」
「いやもう、絶好調ですよ! もう診療受ける前より調子が良いです! やっぱり、医師が良いと違うんですかね!」
「あら、また調子の良い事言って。そんな事言ってると、今からでも任務へ行かせちゃいましょうか?」
「えっ!? いや、それは……!」
「ふふっ、冗談です。ちゃんと当初の予定から変えませんよ。ただ、他にも怪我人はいるので、他の場所ではあまり大きな声で言わないようにして下さい」
「はいぃ……」
「ですが、元気なのは良い事です。この調子で復帰まで過ごして下さい」
善逸が緊張していた事が分かったのか、しばらくしのぶは雑談をしてくれた。
(ああ~……やっぱり、しのぶさんはいい人だな~……癒されるんだ~……)
そして善逸の緊張が解れ、紅茶の中身も半分ほど無くなった時、しのぶから話を切り出した。
「つい長々と話しちゃいましたね。本来は別の目的で呼び出したのに、時間を使わせて申し訳ありません」
「いいえ! 俺もしのぶさんと話すのは楽しいですから! いくらでも使っても構いません、むしろ全部使って下さい!」
「ありがとうございます。それで、実は我妻君を呼んだのは……頼みたい事があるんです」
「頼みたい事?」
善逸は正直、意外だった。
しのぶはできる女性だ。それが善逸のような弱虫に頼み事なんて、普通に考えたら有り得ない。頼むとしても、他に頼める人はたくさんいるはずだ。
一瞬、今までの女性のように己を騙すつもりか……と思い、善逸は心の中で強く否定する。しのぶがそんな事をするなんて有り得ないし、何より音が
しのぶに頼られて嬉しいと同時に、どんな困難なのかと善逸は身構える。
そして、しのぶは表情を真剣なものに変えると、
「私の代わりに出て欲しいんです」
「出る? それは一体――?」
「カナヲ大会」
「えっ」
「カナヲ大会に出て下さい……」
言ってて恥ずかしくなったのか、しのぶの声が段々小さくなり俯いた。
一体何なのか、善逸は訳が分からなかった。善逸は恐る恐る訊ねる。
「あの……何ですか、カナヲ大会って?」
「私の継子で我妻君の同期である栗花落カナヲは知ってますね? カナヲは最初、全然感情を表に出さなかったので、笑顔にしようという目的で始めたのが『カナヲ大会』です。みんなであの手この手でカナヲを笑わせようと和気あいあいとする……それが『カナヲ大会』です」
「はぁ。分かるような分からないような」
「分からなくていいです」
カナヲ大会が何なのか……とりあえず、馬鹿な大会とだけ解釈して善逸は分かった事にする。きっとしのぶも、その解釈を望んでいる事だろう。
カナヲ大会はもういい。問題はなぜここまでしのぶが困っているのか。そして、善逸に何をして欲しいか、である。
「それで、どうして俺に頼みたいんですか?」
「――失笑」
「えっ」
「もう失笑されるのは嫌だから」
「……」
しのぶは顔を上げると、滅茶苦茶心痛な面持ちでそんな事を言った。音に嘘はなかったが、善逸は思わず黙り込んだ。どう反応すればよいか、分からなかった。
善逸の反応をどう思ったのか、しのぶが目を大きく見開き善逸に訴えかける。
「分かりますか、我妻君! 沈黙の後の失笑! 笑う練習をする姉と義兄! 真顔になるカナヲ! 忙しい合間を縫って参加して、この仕打ち……耐え難いんですよ!!」
「いや……笑顔にする大会ですよね?」
「それは最初だけで、今はただの隠し芸大会です! もう三十七回もやって……あいつら、騒ぎたいだけなのよ!」
「えっと……」
「……こほん。少し取り乱しました」
誤魔化す様に佇まいを正すしのぶ。全然誤魔化せていないが、善逸はそれを務めて無視して続ける。
「出たくない理由は分かりました。それなら出なくていいだけと思うんですけど、どうなんですか?」
「一度その手を使いました。けど、ちゃんと私の予定のない日を狙ってやるから、普通に迎えに来て強制的に……!」
「うわぁ……」
「でも、我妻君が参加すれば、人数は確保できている事になります。時間の都合もありますから、私の参加は不要……いえ、むしろ参加できなくなって、私は平和に過ごせる……!」
そこまで言うと、しのぶは机に身を乗り出し、両手で善逸の手を取った。
「しのぶさん!?」
「お願いです、我妻君! 私、あなたを一番頼りにしていますから……どうか私の代わりに参加して下さい!」
「任せて下さい!!」
善逸は即答した。
――大会当日、善逸は後悔する事になる。
○
「……チィッ!」
善逸は蝶屋敷の道場に揃った面子を見て、まずは強く舌打ちをした。そして、白い目でもう一度面子を確認する。
「あれ? あれ?」
キョロキョロ周りを見渡す女性。蝶の髪留めが着いた長い黒髪が、キラキラと揺れている。
胡蝶カナエ。大会の主催者らしいので、彼女がいる事は特に問題ない。
「練習の成果を見せるぞー!」
「おー!」
「おおー!」
気合を入れる蝶屋敷三人娘。
寺内きよ、中原すみ、高田なほ。彼女達は笑わせる側の主役みたいなものだ、この場にいるべきだ。むしろ、居て下さい。
「二人とも……逃げたなぁ……!」
怒りに肩を震わせる少女。
伝説の隊士・神崎アオイもこの場にいた。見た目通り真面目らしく、この馬鹿な大会にも生真面目に来たらしい。まんまと逃げおおした二名に対して憤っている。あまり触れないでおこう。
「いたな、お蝶夫人! 今日こそお前に勝つ!」
「誰からその話を聞いたの!?」
猪の被り物を着けた男。嘴平伊之助がカナエに突っかかっている。
何でいるんだ、お前に笑わせられるのか、そもそも意味が分かっているのかと問い詰めたい。だが、今日は百歩譲って伊之助がいてもいい。
「……」
さらに隅っこには、竹筒を加えた可愛い女の子。
今日も可愛い禰豆子だ。どうやら、彼女は見学に来ていたみたいだった。
善逸のやる気がちょっと回復するが……最後の二人を見て一気に盛り下がる。
「今日は俺がカナヲを笑わせてみせるから」
「そ、そう……」
額に痣がある少年と、蝶の髪留めを側頭部に着けた可愛らしい少女。
――竈門炭治郎と栗花落カナヲ。
二人を見て、そういう事なのかと善逸は一瞬で理解した。
先日まで行っていた機能回復訓練。そこで見たカナヲはいつも意味もなく微笑んでいて、音はとにかく静かで、正直何を考えているか分からない少女だった。
それが今。どう見てもその表情は固く、チラチラと視線を竈門炭治郎に注いでいる。そして、そんなカナヲの姿を、カナエが伊之助を締め上げながら嫌ったらしい微笑みで眺めている。
善逸は心の中で憤怒する。
(ああそういう事! そういう事ですか、この堅物デコ助軟派野郎がっ!! 鬼殺隊はフラフラ寄って女の子とイチャイチャする所じゃないんだよ!!!)
つまり、この急遽開催された『カナヲ大会』は、カナヲと炭治郎との仲を取り持つために行われたのだ。
善逸はしのぶのために来た。だというのに、なぜ炭治郎の恋の仲立ちをしなければならないのか。腹立たしかった。
(うぐぐ……! でもここで俺が逃げたら、しのぶさんが……!)
同時にこうも思う。しのぶがここに来たならば、やはり失笑されて、その上で二人の仲を取り持つ。想像するだけで、悲惨過ぎる。やはり、ここは善逸が頑張るしかない。
善逸が涙をのんで参加を決めると、カナエが近づいてきた。
「あの……我妻君? しのぶと弦司さん知らない」
「今日は俺、しのぶさんの代理です。旦那さんは知らないっす」
「えっ。しのぶ参加しないの!?」
(えっ、じゃないよ。どうして参加してもらえると思ってたんだよ)
ちょっと驚いているカナエに、善逸は冷めた視線を向けていると、カナエの後ろでのびていた伊之助が復活する。
「弦蔵なら、最強の俺に託してどこか行ったぞ!」
「弦司さん本当に来なかったの!?」
(旦那にも妹にも逃げられるって、一体何したんだよ)
旦那も逃げ、しのぶも逃げた。もう善逸は嫌な予感しかしなかった。
「しのぶも弦司さんも全くもう……! 後でお話ししなきゃ」
カナエは不満気に頬を膨らませるが、すぐに気を取り直す。そして笑顔で、道場に集まった全員に向けて拳を突き上げる。
「時間も来たし、『第三十八回カナヲ★大会』を開催するわよ!」
「わーい!」
「頑張りますー!」
「いくぞー!」
「おー!」
「猪突猛進!!」
(三十八回って、何回やれば気が済むんだよ)
善逸以外が一気に盛り上がる。ちなみに、カナヲは静かに見えるが、炭治郎が何をするか気になるのか、チラチラと彼に視線を送り、別の意味で盛り上がっている。善逸は嫉妬で炭治郎の首を絞めたくなった。
「それじゃあ、まずは俺だ!!」
善逸が炭治郎に殺意を抱いている間に、手を挙げたのは伊之助。さすが猪男、羞恥心も何もなく、最初からいきなり飛び出てきた。
善逸は内心冷めながらも、山育ちで常識知らずのこの男が、何をするのかちょっと興味があった。
他の面子も特に最初からやりたい訳ではないらしく、全員が固唾を飲んで伺う。
伊之助はカナヲの前に出ると、
「天ぷら! 天ぷら!」
突然意味の分からない事を叫び始めた。
いや、言葉の意味は善逸でも分かる。揚げ物である天ぷらだ。それがなぜ、笑わせる事になるのか善逸には分からない。カナヲも訳が分からないのか、可愛らしく口を小さく開けて呆然としている。
「天ぷら! 天ぷら!」
しかしながら、善逸は大変不本意だが伊之助との付き合いはそこそこある。少し、思い至る節があった。
(えっ。もしかして、自分が好きだから? 天ぷらって言えば、笑顔になれると思ってんの? 馬鹿だな、こいつ……)
「天ぷら! 天ぷら!」
善逸の内心など知らない伊之助は、何度も何度も叫ぶ。しかし、カナヲの表情は変わらない。
伊之助はついにムキー! と叫ぶと、
「天ぷら! 天ぷら!」
「……」
「おい、何で黙ってるんだ! お前も言え!」
「!?」
「天ぷら!」
「……」
「天ぷら!!」
「……て、てんぷら……」
「声が小さい!」
「て、てんぷら」
「天ぷらぁっ!!」
「天ぷら」
「天ぷらぁぁっ!!!」
「天ぷら!」
「よし!」
(よし、じゃねーよ!! 何しに来たんだ、テメエ!!)
結局、猪頭の伊之助は当初の目的を忘却。カナヲが大声で天ぷらと叫んで満足して、伊之助はカナヲから離れた。
カナヲは一体何だったのか、誰か教えてくれと道場の皆に視線を送るが、答えられるはずもなく。全員が苦笑するか、首を横に振るだけだった。
兎にも角にも、これで伊之助の出番は終了。かなり微妙な空気になる。善逸は正直、この空気で出たくはない。
一瞬、全員が目配せすると、
「……それでは、私が」
アオイが控えめに手を挙げた。
この空気で名乗り出るとは、さすが伝説の隊士だ。善逸が内心感心していると、アオイは箱を持ってくる。
中には青色を帯びた瓶が敷き詰められていた。
「カナヲの好きなラムネよ」
(えっ!? 物もありなの!?)
善逸が内心抗議するが、咎める人は誰もいない。どうやら、これも
アオイがカナヲの目の前に箱を置く。カナヲの笑顔は変わらない。だが、善逸の耳は確かに音が、僅かに高くなったのを聞き取った。カナヲは喜んでいた。
(マジで好物なの!? そんなの知るかよ! つーか、箱丸ごととか卑怯だろ!!)
「善逸」
善逸が憤慨し、でもアオイが怖くて黙っていると誰かが袖を引いた。炭治郎だった。
善逸は嫉妬を込めて、炭治郎を白い目で睨み付ける。
「……何だよ、炭治郎」
「あれ、善逸怒ってる? ダメだって、怒っていたらカナヲを笑わせられないぞ」
「怒ってるのは、炭治郎に対してだけだっつーの」
「えっ」
「それで、何が訊きたいんだよ」
「えっと……ラムネって何?」
「知らねえのかよ。本当に田舎者だな。まあ簡単に言えば……シュワシュワして美味しい飲み物だ」
善逸が簡単に説明すると、炭治郎は目を輝かせる。
「へー! そんな飲み物があるんだな」
「任務に復帰したら飲みに行けよ。隊士の給金なら、余裕で買えるぞ」
「ああ、そうす――」
頷こうとした炭治郎の前に、瓶を握った手が突き付けられる。善逸と炭治郎が、揃って手を辿っていく。カナヲだった。
カナヲがやや固まった笑顔で、ラムネを炭治郎に渡そうとしていた。炭治郎はやや困惑そうに眉根を落とす。
「いいの、カナヲ?」
「うん。多いし……炭治郎、飲んだ事がないんだよね?」
「そうだけど……アオイさん?」
炭治郎がカナヲの背後へ視線を送る。贈った本人であるアオイが無表情で、カナヲの背後にいた。
アオイは呆れたように溜息を吐くと、いつものキリっとした表情に戻る。
「いいですよ。元々、カナヲ一人で飲む量でもありませんし」
「ありがとう! カナヲ、アオイさん!」
「……うん」
「どういたしまして」
炭治郎が笑顔になり、カナヲが僅かに頬を赤く染める。一瞬でも油断すれば、アオイのように二人の仲を取り持つ踏み台とされてしまう。『カナヲ★大会』は本当に恐ろしい大会だった。ちなみに伊之助は、ラムネを横から奪おうとしてカナエに絞め落されぐったりしていた。これでしばらく伊之助は静かだろう。
カナエは伊之助を道場の隅に放り投げると、
「この調子でどんどんいきましょう」
「はい!」
「はいっ!」
「は~い!」
きよ、すみ、なほの三人も元気よく続く。
何をするのか善逸達が眺めていると、カナエが道場から出て行く。そして、
カナエは洋琴を置くと、少女達は何やら思い思いに発声の練習を始めた。
「もう大丈夫?」
「はい!」
「準備万端です!」
「いつでも大丈夫です!」
そして、喉が温まったところで、カナエが演奏を始める。街を歩けば、必ず耳にする流行歌であった。
洋琴を伴奏に、きよから歌を歌い始めた。すごい上手い訳ではない。ただ、その歌声にはしっかりと努力の跡が伺えた。そして、カナヲのために歌っている想いが乗っていた。優しい歌だった。
カナヲが目を瞑り、静かに聞き入る。禰豆子も部屋の隅から、カナヲの隣まで自然と歩を進めた。
全員が聞き惚れる。きよが最後まで歌い切ると、誰もが拍手をした。
「すご~い!」
「練習の成果が出たわね」
「上手」
「えへへ……ありがとうございます」
賞賛が収まったところで、今度はすみが続く。
きよと同じく流行歌で、少し曲調の変わったしっとりとした歌。
先の昂った感情を、良い意味で落ち着かせてくれる。
終わった時、自然と水面のように段々と広がっていく拍手となった。
「すみちゃん、すごい大人っぽかった」
「……すごい」
「皆さん、ありがとうございます」
最後はなほ。
今までと打って変わって明るい曲調となる。
「手拍子お願いしま~す!」
なほは禰豆子とカナヲに手拍子を求めて巻き込み、空気も明るく楽しいものへと変わる。
盛り上がり過ぎたのか、なほの拍子がかなり早くなり、カナエが合わせるのに苦労していたが、それもご愛嬌。みんなが一体となり、この時を楽しんだ。
歌い終わった時の拍手は、なほだけに対するものではなく、みんなに向けたものへと自然と変わった。カナヲの笑顔も、心なしかいつもより自然に感じられた。
ちなみに、少女達が頑張る傍ら、物で釣ったアオイはちょっと表情が死んでいた。
「すごいすごい!」
「なほ、こんなのどこで習ったの? すごいじゃない!」
「みんな、ありがとう」
「楽しかったです!」
「いやぁ、みんなすごかったな、善逸」
「ああ……」
三人娘の発表は滅茶苦茶盛り上がった。次の人……善逸か炭治郎はこの空気の中、やらなければならない。
酷い重圧でもう逃げ出したい――といつもの善逸は思っていただろう。だが、今日の善逸は違う。ちゃんとしのぶから、策を授けられていた。
善逸は熱狂が冷めやらぬ内に、道場の隅に置いていた三味線を手に取り演奏する。
ただし、その曲は――。
「あっ、私の曲!」
最初にきよが歌った曲であった。
(しのぶさんの言う通りだ! やったぜ!)
当たり前だが、参加決定が直前だったため、善逸には芸を覚える時間はほとんどなかった。このままでは、伊之助と大して変わらない事しかできなかったはずだった。
しのぶの依頼を承諾したものの悩んでいた善逸に、しのぶは彼女達が歌う事を教えてくれたのだ。
――そして、策を授けていくれた。彼女達の歌……それをその場で聞いて演奏してみてはどうか、と。
これだけ盛り上がった音楽を、カナヲが大好きだと感じた曲を再現して、失敗など有り得ないとしのぶは太鼓判を押してくれた。
善逸の耳は良い。一度聞いた音を再現するなどお手の物だ。
善逸は少女達が興奮しているのを感じ取りながら、曲調を一気に変える。
「今度は私の!」
しっとりとした曲調に変わり、すみ達がキャッキャと騒ぐ。善逸は調子に乗って、また曲調を変える。
「私のだ! 善逸さん、すごいです!」
「私も負けてられないわ!」
なほの曲に変わったところで、カナエも演奏に加わり場の空気は最高潮となる。
善逸の隠れた芸に誰もが驚き、さらにカナエの即興による連奏……盛り上がらないはずがなかった。
誰も彼もが盛り上がって、禰豆子はなんと嬉しそうに善逸に向けて手拍子をしてくれた。善逸は嬉しすぎて泣きそうになった。
さらには、きよ達も歌で参加し、最後にはもう訳が分からなくなったが、とても楽しい時間だった。
(最初はどうなるかと思ったが、最高じゃないか『カナヲ大会』! そうだよ、あのデコ助軟派野郎は放っといて、可愛い女の子とキャッキャウフフしてるだけで良かったんだよ!)
善逸は最高のひと時にだらしなく表情を崩す。今は場の空気が良いので、誰も引いたりしない。
さあ楽しかった、もう帰ろうと善逸が思っていると、
「この後に俺がするのか……困ったなぁ……」
「困ったんなら、やらなくてもいいんじゃね? この後、何やったって盛り下がるだけだろ」
「善逸!?」
今の調子に乗っている善逸でも、この空気で最後を務める気は起きない。誰も求めてもいない。だったら、やらない方がマシだ。
半分ざまあみろ、半分親切心で善逸はやる気を出す炭治郎に言うと、
「そんな事ない」
「!?」
カナヲが善逸と炭治郎の間に入った。カナヲは微笑んではいるものの、若干足音が荒々しかった。
善逸は小さく悲鳴を上げて後退すると、もうカナヲの視界からは善逸は消える。そして、カナヲは炭治郎と向かい合うと、
「私を、笑わせて」
「いいのか、カナヲ?」
「せっかく来てくれたから……炭治郎も参加して?」
「……ああ!」
炭治郎が笑顔で答え、カナヲの頬が赤くなる。善逸の収まっていた嫉妬心が復活する。
(ああくそが、俺が頑張った成果を炭治郎は横から掻っ攫っていくって訳か! この長男が、失敗しろ失敗しろ失敗――)
ここでふと、善逸は疑問が浮かぶ。
(あれ? 炭治郎、何する気だ? 何も持ってないし、まさか伊之助と同じ事、する訳ないだろうし……)
疑問が匂いに出ていたのだろうか、炭治郎は善逸の方を振り向くと片目をパチッと閉じて、
「任せろ、善逸。今まで弟とどんな喧嘩をしても、これで一瞬で笑顔にしてきたんだ」
「……ん? 炭治郎、お前途轍もなく不吉な事、言わなかったか?」
「カナヲ」
嫌な予感がした善逸だが、もちろん炭治郎は止まらず。カナヲも待ってましたと楽しそうな音を鳴らし、まあカナヲが喜んでいるなら他の皆も動かず。
炭治郎はカナヲに近づくと、
「こちょこちょこちょこちょ~~!」
「!?!?」
カナヲの脇腹をくすぐり始めた。
善逸もアオイもきよもすみもなほも、そしてカナエも予想外過ぎて固まった。
その間も、炭治郎のくすぐりは止まらない。
「どうだ、カナヲ。降参か? 降参するか?」
「っ、んあ、た、たんじろ、あっ――!」
「こちょこちょこちょこちょ~~!」
気になる男子に触られるどころか、くすぐられるカナヲ。恥ずかしそうに顔を真っ赤にして、それでも好意を持つ男子の手を拒絶できず、少し身をよじるだけだった。
くすぐったいのか、それとも――と思った善逸の耳が、カナヲの音を拾う。
炭治郎がくすぐればくすぐるほど、恥ずかしい、くすぐったいという音が消えていく。そして、代わりに芽生えた感情は――。
「あああああああああっ!!」
「ぐへっ!?」
善逸は炭治郎を殴り飛ばした。
解放されたカナヲはぷるぷる震えながら蹲り、炭治郎は道場を転がる。周りはどうすればよいか分からず、あわあわし始める。
炭治郎は顔を抑えながら立ち上がると、
「な、何するんだ、善逸!? 後もう少しで笑わせ――」
「いやお前何やってんの!? 馬鹿だろ、馬鹿炭治郎だろ!!」
「だって、弟はこうやったら笑って――」
「あの子はお前の弟じゃないだろ! 俺達の同期の女の子!! しかも、お前より年上の女性だろうが!!!」
「あっ……」
「あっ、って言ったな、この馬鹿!! どうすんだよ、これ責任取れるのかよ!!」
善逸は蹲ったカナヲを指差す。今も羞恥と若干の興奮で、体を震わせながら熱い吐息を吐いている。衆人環視の中、男子にくすぐられるという羞恥行為で何か目覚めてしまったら、炭治郎はどう責任を取るつもりなのか。嫉妬とか一先ず置いて、あまりにも酷かった。
炭治郎もさすがに、異性に対してのくすぐり行為は拙かったとようやく自覚したのか、顔を赤くしながら慌て始める。
「ど、どうしよう、善逸!? 俺、こんなつもりじゃなかったのに」
「そりゃ、こんなつもりだったらお前の事、本気で軽蔑するわっ!!」
「軽蔑してもいいから、俺を助けてくれ! お前だけが頼りなんだ!」
「……チィッ!」
善逸は舌打ちをしながら、三味線を取り出す。
どうして炭治郎の尻拭いをしなければならないのか。大変不本意だが、このまま『お宅のカナヲさん、性癖捻じ曲がりました』とか報告できるはずがない。何とか有耶無耶にしなければ、カナヲもだがしのぶも可哀想だった。
「おい、炭治郎……さっきの曲は何度も聞いたよな」
「う、うん」
「だったら、下手な歌聞かせて、笑われて終われ」
「ごめん、善逸」
もう格好良く終わる事は出来ない。なら、炭治郎には笑い者になって終わるしかない。それぐらいしか、善逸は思いつかなかった。
「紋逸と炭八郎! お前らだけずりぃぞ! 俺も参加する」
「伊之助……分かった、伊之助も手伝ってくれ!」
「応よ!」
そして、丁度良く起きた伊之助がなぜか参加する事になり、念のため善逸が予備で用意していた太鼓を道場に持ち込む。
善逸は演奏を始める。
きよが歌った流行歌。あわあわしていた一同が、善逸の意図をくみ取り注目する。その中には、もちろんカナヲもいて……蹲りながらも、この期に及んで熱っぽい瞳で炭治郎だけを見ていた。
――プツン。
この後、この世のモノとは思えぬ呪詛と怨念が一同を襲い、『カナヲ★大会』は中止となった。
〇
「どうしてそうなるんですか」
「本当にすみません!!!」
夜。今度はしのぶの自室に呼び出された善逸は、興奮も期待もなく、ただただ申し訳なさに体を縮こまらせていた。
しのぶに頼まれ、策まで授けられた結果が強制中止である。正直、善逸は顔を合わせるのも辛かった。
謝る善逸にしのぶは、いつもの微笑を浮かべる。
「責めている訳ではないんですよ、我妻君。あんな綺麗な演奏ができる人が、あんな怨念の籠った音を奏でるなんて、興味深かっただけです」
「いや、でも……」
「それにむしろ、感謝しています」
「えっ」
「姉さん、ああ見えて恋愛関係はポンコツで雑魚ですから。義兄さんの忠告も聞かずに決行したからには、何かやらかすと思っていましたので。我妻君には一切責任はありません」
「ええっ……」
「そして何より……もう『カナヲ大会』が開催されなくなった事! いやあ、最高ですね~」
しのぶが良い笑顔で言う。そう、『カナヲ大会』はもう二度と開かれなくなったのだ。
「最初、カナヲが運ばれたと聞いた時には焦りましたけど、まさか炭治郎君の歌で倒れたとは思いませんでした」
「いや、本当申し訳ありません」
炭治郎の圧倒的音痴と、善逸の怨念の籠った演奏と、伊之助のズレにズレた太鼓の拍子。聞く者の精神力を抉り取る演奏だった。
それを全力で聞こうとしていたカナヲは、卒倒してしまったのだ。
「仕方ないですよ。これを予想しろだなんて無理です。それに怪我の功名とでも言いましょうか? 軽い問診しかしてませんが、カナヲから綺麗に今回の記憶が抜け落ちていて、しかも『カナヲ大会』の話をすると頭痛がするそうです」
「いや、怪我の功名じゃないでしょう!?」
「それぐらい嬉しいって事ですよ」
軽い心因性傷害を負ったのか。カナヲは『カナヲ大会』と聞くだけで、軽い頭痛と眩暈を起こすようになっていた。しのぶの見立てでは、想い人の圧倒的音痴という事実を封じ込める本能的防衛処理との事だった。
兎にも角にも、これで『カナヲ大会』の今後の中止が正式に決定した。もう二度と、しのぶが失笑される事はなくなったのだ。
「我妻君、少し待っていて下さいね」
「あ、はい」
しのぶは再び上機嫌になると、楽しい足音を残して部屋を出て行った。
戻ってくると、お膳を二つ持ってきた。美味しそうな匂いが、部屋に充満する。
しのぶは善逸の前にお膳を、そして向かい側に自分のお膳を配膳する。
白と黄色と野菜の配色が鮮やかなライスカレーだった。
「ご、ごちそうじゃないですか」
「私の代わりに出てくれたお礼と、快復祝いです。遠慮なく食べて下さい」
「ありがとうございます! いただきます!」
善逸は対面にしのぶが座ると、遠慮なく匙を取りライスカレーを口に運ぶ。
カレー独特の辛味と野菜の甘みが広がる。この味がまた、米に良く合っていて、善逸の手は止まらなくなる。
次から次へと善逸がライスカレーを口に運ぶと、しのぶがホッとしたように微笑んだ。
「お口に合ったみたいですね」
「はい! 最高に美味しいです!」
「ふふっ、ありがとうございます。実は久しぶりに料理をしたので、上手く作れるか少し心配だったんですよ?」
言いながら、しのぶもライスカレーを食べる。満足いく出来だったのか、嬉しそうに頷いた。
そこから、しばらく善逸はしのぶと歓談した。美味しい料理に話の上手い美人。楽しくないはずがなかった。
「ごちそうさまでした」
すぐに料理は平らげ、楽しいひと時は終わった。
善逸が残念に思っていると、しのぶの表情がやや緊張したものに変わっていた。
「? どうしました、しのぶさん?」
「いえ、その……我妻君に訊ねたい事がありまして」
言われて、善逸は少し納得する。診療所ではなく、わざわざ自室に呼び出したのだ。今回のこれは『カナヲ大会』のお礼というだけでなかったのだろう。
だが、善逸にはしのぶが緊張する意味が分からなかった。訊いて、答えて……それで終わりなはずだ。どんな答えにくい質問でも、所詮相手は善逸だ。そこまで思い悩むはずもない。
だから、善逸は軽く訊ね返した。
「訊ねたい事ですか? 大丈夫ですよ、何でも答えますって」
「禰豆子ちゃんに関する事でも……ですか?」
「っ!」
竈門禰豆子。
人を喰らわない鬼で炭治郎の妹で……今、善逸が好いている女の子だ。
一体何を訊ねるのか。しのぶが緊張しているのだ、きっと軽い質問ではないだろう。
それでも、しのぶが意味もなくわざわざ場を設けて訊ねるはずがない。これにも、意味があるはず。
善逸はしのぶを信じて頷いた。
「はい。答えます」
「それでは、我妻君は……」
「……」
「我妻君は、本気で禰豆子ちゃんと添い遂げるつもりはありますか?」
「……はぁっ?」
一瞬、善逸が呆ける。
添い遂げる。つまりは、そういう男女の関係になって夫婦となるつもりがあるのかという事で――善逸の顔が一気に熱くなる。
「そ、添い遂げる!? それはつまり、竈門禰豆子が我妻禰豆子になるっていう意味の!?」
「はい、そうです」
「そうです!!? いや、それは考えてない事もないですけど!! その、やっぱり、それはお互いの気持ちが大切というか!! でも、全然そういうつもりがない訳でもなくてですね!!」
「禰豆子ちゃんは鬼です。それでも、ですか?」
「……どういう意味ですか」
しのぶの言葉に、善逸の頭が一気に冷える。
禰豆子が鬼など、百も承知だ。それをなぜわざわざ訊ねるのか。鬼だから、駄目だとでも言いたいのか。
善逸は頭に血が上りそうになるのを、ぐっとこらえる。しのぶは善逸と禰豆子を侮辱するつもりで言ってはいない。今も、声音がすごく痛々しかった。
とにかく、しのぶは善逸と禰豆子を傷つけたくて言っているのではない。
善逸はしのぶの言葉を待つと、彼女は何かを耐える様に告げる。
「私は無力です。未だ、鬼を治す薬を作れていません。もしかしたら、私が生きている間に薬はできないかもしれません」
「それは……」
「君も私も老います。ですが、禰豆子ちゃんも姉さんも義兄さんも老いません」
「……」
「今では、私は姉よりも年上になってしまいました」
「っ!!」
しのぶの言葉が善逸の胸に深く刺さる。
自身だけが年を取り、今では年上になってしまう……それは想像しただけで、酷く寂しい事だった。
「明確に外見に差が出て……最後は、私達が先に逝きます」
「……」
「我妻君、君は未来を想像した上で添い遂げると決めましたか?」
「それは……!」
考えた事もなかった。
禰豆子は可愛くて、優しくて、綺麗で、好きだったから。人も喰らわないなら鬼なんて些細な問題だと、簡単にしか考えていなかった。
でも、善逸にも言いたい事があった。
「考えてなきゃ、一緒に居ちゃいけないんですか?」
「……そうではありません」
「それじゃあ、何で――!?」
「義兄が姉に恋をした時、まだ姉は人でした」
「……それが何か」
「義兄は姉には決して伝えませんでしたが、
「どういう事ですか……?」
「我妻君、君が思う以上に鬼に恋できる人は少ないんですよ。だからもし、禰豆子ちゃんが君の事を好きになるなら……きっとそれは最後の恋です。最後の恋を『鬼だから』……私はそんな理由で、己ではどうしようもない事で、絶対に終わらせたくないんです。それに……」
「……」
「鬼である義兄の恋を見てきました。彼と同じ苦しみを、禰豆子ちゃんにも味わって欲しくないんです」
しのぶの言葉には、実感がこもっていた。不破弦司の恋がどんなものだったのか、善逸には分からない。だが、その結末が悲惨だった事は想像に難くなかった。見て知っているからこそ、しのぶはこんなにも気にしているのかもしれない。
「我妻君。鬼の現実を知った上で、君は禰豆子ちゃんと恋をして、添い遂げられますか?」
「しのぶさん……」
しのぶの問いかけはどこまでも厳しくて、そして……優しかった。禰豆子と善逸を思い遣って、苦しんで、それでも二人の幸福を願って行動していた。善逸の師匠である桑島慈悟郎とは、また違った厳しさと優しさを持った人。本当に尊敬できる人だった。
だから、善逸は正直に答えた。きっとそれをしのぶも望んでいるから。
「老いないって事は、いつまでも可愛いって事ですよね」
「そうですけど……?」
「それじゃあ、むしろ幸運っていうか、でもやっぱり大人になった禰豆子ちゃんも見てみたいっていうか! どっちにしろ、禰豆子ちゃんは最高なんで問題ないです!!」
「――我妻君」
しのぶは不意に優しく微笑むと、なぜか善逸の頭を撫でた。よく分からないが、何か胸にこみ上げてきて、善逸の鼻の奥がツーンとした。
「決断してくれて、ありがとうございます」
「えっ、いや、その! これも禰豆子ちゃんのためだし、でも俺、まだ何もしていないんですけど!!」
「いいんですよ、答えなんてどっちでも。大切なのは君が鬼である
「しのぶさん……」
「長く生きていくと、必ず彼らを鬼としか扱わない人が出てきます。そんな人達は、絶対に彼らと向き合いません。私は君がちゃんと向き合ってくれて、決断してくれた事がすごく嬉しい」
善逸の瞳から、大粒の涙がこぼれる。ただ、ちゃんと考えて答えた。それだけだ。それだけなのに、なぜか涙が止まらなかった。
「我妻君」
しのぶが善逸の頭から手を下ろすと、今度は小指を差し出してきた。
「えっ」
「約束しましょう。君が禰豆子ちゃんに恋をしている限り、私は我妻君を応援します」
「い、いいんですか!?」
「はい。ただし、彼女が道を踏み外さないよう助け、そして守る。そのための労苦は惜しまない事。約束できますか?」
つまり、善逸がこれまで通り禰豆子を好いた女の子として接する限り、しのぶは善逸を応援してくれる、との事だった。
今までと変わらず、しのぶの援助を受けられる。善逸は即座にしのぶの小指に、自身の小指を絡めた。
「もちろん! 禰豆子ちゃんのためなら、例え地獄だろうが俺は助けますよ!!」
「ふふ、良い返事です。それでは――」
――指切りげんまん。
「約束ですよ」
「はい!!」
〇
――後日、しのぶに機能回復訓練とは比にならないほど、厳しい訓練を課せられた善逸は、厳しすぎてガチで泣いた。
だが、これも全ては禰豆子のため。禰豆子のためを思えば、ゲロ以下の食事も耐えられる……と必死に自身に言い聞かせ、善逸は頑張るのであった。
とりあえず、後日譚はこれで終わりです。
後はIFをちょこっと投稿したいと思います。