鬼滅の刃~胡蝶家の鬼~   作:くずたまご

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第2話 蝶と涙・後編

 待っていて、と言われた弦司は素直にその場で待っていた。しかし一度は負傷したせいか、かなり腹が減った。

 たまたま見つけた鳥を狩ると、解体して全て串枝で貫き焚火にかける。あいにく、調味料は手元にない。味付けのない焼き鳥だったが、空腹がいい具合の調味料となり全て平らげた。

 その頃にはさらに夜が更けた。深夜と言っていい時間帯となったところで、彼女がやってきた。

 陸軍軍装のような黒い詰襟と羽織り。優し気な双眸と艶やかな黒い長髪。未だ名前の知らない女性は、来るなり大きな瞳を可愛らしく丸くさせる。

 

 

「はぁ~。本当に待ってらしたんですね、妖怪人間さん」

「……お疲れ様でーっす。またな」

「え、お疲れ様――って、ちょっと待って! ごめんなさい! これは皮肉とかじゃなくて、純粋に褒めているんですよ!」

「本当かぁ……?」

 

 

 腰を途中まで浮かせた弦司。疑わしい目で女性を眺めてから、焚き火の傍の丸太に腰掛ける。

 

 

「それで、茂吉は大丈夫か?」

「はい、無事に村までお連れしましたよ。お説教の方は……頑張りましたけど、ちょっとダメでしょうね。今頃、怒られているかもしれません」

「まあ、しょうがないか。これに懲りて、無茶は控えて欲しいな」

「それには心から同意します」

 

 

 互いに苦笑を浮かべる。夜道を歩くのもそうだが、戦いの場にも乱入してきたのだ。これはお互い本心からの言葉だった。

 これで弦司の心残りはなくなる。

 

 

「そうか、ありがとう」

「その……いいですよ。これも鬼殺隊の仕事です」

「別に茂吉の事だけじゃないさ。君がいなければ、俺は死ぬほど後悔していただろう」

「……はい」

「それで、そっちは他に何の用があるんだ?」

「……えっと……」

 

 

 そこで、女性の言葉が途切れる。彼女の顔を見やれば、小さな口を何度も開閉していた。訊きたい事がある、それでも何と言えばよいか分からない。そんな風に弦司には見えた。

 

 

「とりあえず、時間はあるからその辺に腰を落ち着けたらどうだ?」

「あ、はい。それもそうですね」

 

 

 まずは落ち着くために、弦司は座る事を勧めた。幸いと言って良いかは分からないが、鬼が倒した樹木から座れそうな丸太を焚き火の周りに置いてある。

 女性はしばらく視線を彷徨わせた後、意を決したように口を強く結ぶ。彼女が座ったのは、弦司の隣だった。弦司は少し面食らった。

 焚き火のほのかな灯りが、弦司達を照らす。彼女は真っ直ぐ弦司を見ていた。

 

 

「お名前をお伺いしてもよいでしょうか? いつまでも妖怪人間さんだと、不便でしょうし」

「そうだな……俺の名前は不破弦司。不破でも、弦司でも好きに呼んでくれ」

「ふふ、弦司さんですね。私は胡蝶カナエです。私は妹がいるので、出来ればカナエと呼んで下さい」

「……お蝶?」

()()です!」

 

 

 女性……カナエが目尻を少し吊り上げ、ずいっと顔を近づける。彼女の甘く瑞々しい花のような香りが、鼻腔をくすぐる。

 

 

「あの後、茂吉君にお蝶夫人って村の人に紹介されて、顔から火が出るほど恥ずかしかったんですからね!! 思い出すだけで恥ずかしい!」

「ごめんごめん。君の悪い印象を吹き飛ばそうと思ったら、蝶々しか思いつかなかったんだよ」

「変な印象しか残ってませんよ」

「そうか? 蝶ってカナエにすごく似合ってると思うけどな」

「そうやって話を逸らしたってダメですよ。未婚女性を夫人と呼んだ罪は消えないんですからね」

 

 

 カナエは頬を膨らますと、顔を離し弦司を恨めしそうに見る。その様が可愛らしくて、弦司は笑った。

 誰かが隣にいて、何でもない会話をかわす。こんな日常と呼べる時間は、本当に久しぶりだった。そもそも、こんな時間は二度と来ないと思っていた。そう思うと、急に何かがこみ上げてきて胸が詰まった。

 

 

「大丈夫ですか!? あの、私何かしちゃいました!?」

「いや、そうじゃない……! そんなつもりじゃ、こんなつもりじゃ、なかったんだが……!」

 

 

 狼狽しながらカナエは、弦司を伺うように顔をのぞき込んでくる。

 カナエは弦司が鬼だと知っている。どんな恐ろしい存在か、理解している。なのに、彼女は弦司を気遣ってくれる。一人の人間として接してくれる。鬼になって全てを諦めた日から、二度とないと思っていたものをカナエが次々と運んできてくれる。それが嬉しくてたまらない。

 もう弦司はカナエを直視出来なかった。俯いて両手で顔を覆う。だが、どれだけ隠そうとしても、一度溢れた感情は止められなかった。

 

 

「おかしい、よな……ただ、話した、だけなのに……嬉しいなんて……! 鬼なのに、人といられて、嬉しいなんて……!」

「弦司さん……」

 

 

 涙が止め処なく流れる。もう涙は涸れたと思っていたのに、次から次へと溢れ出して止まらない。

 

 

「鬼になったあの日、俺は……恋人を、喰らおうとした……! 大好きだったのに、どうにも、できなくて……! もう、人の中じゃ、生きられないって……だから、ここに逃げた……! 逃げて、生きる価値、ないって気づいたのに、俺、弱くて死にきれなくて……! 全部諦めたくせに、生き続けて……半年も……!」

 

 

 分かってはいた。

 弦司は諦めるフリをして、感情に蓋をしただけで。だからひたすら苦しくて、死にきれなかった。

 それを全てカナエが壊してくれた。

 一度決壊した感情は昂り、嗚咽が止まらなくなる。

 

 

「俺は……うぅ、俺は……!」

 

 

 これ以上は言葉に出来なかった。今まで目を逸らし、耐えてきたもの。全てを吐き出すように声を上げて泣いた。

 

 

「弦司さん」

 

 

 泣いている弦司を、何かが優しく包み込む。柔らかくて温かい。不意にそれが弦司の背中を撫でる。人間の手のひらだと気づき弦司は狼狽した。

 弦司はカナエに包み込まれるように、抱きしめられていた。

 

 

「カナ、エ」

「ごめんなさい」

「なんで、お前、謝るんだ……」

「気づけなくて、ごめんなさい」

 

 

 カナエは弦司を胸に引き寄せ、謝罪を口にする。その声は震えていた。

 カナエの胸の柔らかさ、温かさ、胸に広がる花の香り。彼女の震えた声でさえ、今の弦司には心地良かった。全てをカナエに任せてしまいたくなる。

 でも、それはダメだ。

 弦司は人を喰らう鬼だ。どれだけ優しくされても、弦司が人を喰らわない保証とはならない。

 弦司はカナエから逃れようともがく。しかしそれは、鬼とは思えないほど、弱々しかった。

 

 

「やめてくれ……俺、鬼なんだ……」

「こんなに、頑張ってるのに。すぐに気づけなくて、ごめんなさい」

 

 

 カナエは離さない。むしろ、さらに腕に力を込めて、精一杯抱きしめる。

 

 

「私、あなたが話せる鬼だと思って、実はワクワクしていたの。そんなの有り得ないって思いながら、いたら楽しい。本当だったら一体何を話そうか、何をしようか、どうやって仲良くなろうか、って。自分勝手よね。あれだけ、鬼は哀しい存在だって言ってるくせに、自分の都合の良いことしか、考えてなかった。私の思う理想でしか、あなたを、見て、なかった」

 

 

 カナエの声が段々と湿ってくる。弦司は抵抗を止めた。カナエにされるがまま、抱き締められる。

 

 

「あなただから仲良く出来るんじゃない。あなたが頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って! それで一緒にいられる。そんなの当たり前の事、そんな簡単な事に気づかないなんて、本当に馬鹿……!!」

 

 

 カナエの声が詰まり、冷たい滴が弦司の頭に落ちる。

 カナエが大きく呼吸をする。村と森を往復しても息が荒れなかった彼女が、ただの呼吸に何度もつっかえた。

 

 

「なんで、カナエが、泣くんだよ……俺は、鬼だぞ」

「だって、弦司さんの頑張り、分かるから……」

「……俺の、何が分かるんだよ」

「──鬼は自分のお腹を痛めて産んだ子どもまで、喰らうの」

「え」

 

 

 カナエの言葉に、弦司の背筋が凍る。どれだけ大きな渇望と戦っていたのか、弦司は今更ながら理解した。

 カナエは弦司を理解している、理解しようとしている。その思いが少しでも伝わるように声を張り上げる。

 

 

「どれだけ深く愛していても、喰らってしまうの。そんなどうしようもない本能を抑えるなんて、どれだけ苦しい事か……! 私はそんな想像もできないで、浮かれてただけで……鬼殺隊に入って、哀しみの連鎖を断ち切るなんて言いながら、私は何も分かろうとしてなかったのよ」

「カナエ……」

「辛かったよね。誰ともいられなくなって、寂しかったよね。報われなくて、苦しかったよね。なのに、誰にも認められなくて、何も知らない私には、殺されかけて……! こんなの哀しすぎる! このままだなんて絶対ダメ! 私は……あなたを助けたい!」

「……っ!」

 

 

 カナエは本気で弦司の事を想い、考え、理解してくれようとしてくれる。彼女の言葉一つ一つが、弦司の心の中に染み渡って広がっていく。心の底の澱んだモノが、澄み渡っていく気さえする。

 もういいんじゃないか。彼女の差し伸べた手を、握り返してもいいんじゃないか。彼女と話す度、何度も何度も思う。思って……弦司は動けない。心のどこかで、彼女を信じられない。こんなの言葉だけじゃないかと、カナエを拒絶する。

 それが伝わったのか、彼女は歯軋りをしながら、さらに弦司を強く抱きしめる。そして、大粒の涙を零しながら、絞り出すように言った。

 

 

「私に、助けさせて、下さい」

「──」

 

 

 もう無理だった。信用だとか、出来ないだとか。そんな理屈、全て吹き飛んだ。

 

 

「カナエ!」

 

 

 弦司は想いのまま、彼女に抱きついた。彼女の伸ばした甘い甘い救いの手に縋りついた。

 

 

「死にたくない」

「うん」

「生きたくない」

「うん」

「こんなのもうたくさんだ」

 

 

 弦司は感情をカナエにぶつけ、彼女はただ頷いて受け入れる。

 弦司はもはや己を抑えるつもりもない。カナエも止める気はない。

 そして、膨れ上がった感情は、弦司の願いに辿り着く。死にたくない。生きたくない。そんな矛盾する弦司の想いの行き着く先は──。

 

 

「人になりたい」

「──」

 

 

 二人の願いは、誰にも叶えられない。

 弦司もカナエも泣いて泣いて泣いた。願いを叶える手段がない二人は、泣く事しか出来なかった。

 

 

 

 

 どれだけ哀しくても、泣いてしまえば感情は萎んでいく。次第に平静に戻っていった二人はある感情に苛まれた。

 

 

 ──恥ずかしい!

 

 

 二人は初対面。さらに異性である。にも関わらず、家族にも見せないようなあられもない姿を晒した。恥ずかしくて当然である。

 二人は身動ぎ一つしない。離れるのは相手を突き放すようで嫌……という以上に、少しでも動くと体の感触が返ってくる。それが生々しくて相手を必要以上に意識してしまい、身動ぎできなくなっていた。

 それでも、二人とも大人である。恥ずかしくても、口先だけは器用に動き出した。

 

 

「その……ありがとう、カナエ」

「あはは……どういたしましてでいいのかしら? 結局、私も泣きたいだけ泣いちゃったけど」

「俺は嬉しかったけどな」

「女性を泣かせて嬉しい?」

「言い方」

「ふふ。貸し一つね」

「酷い。暴利だ」

「乙女の涙は安くないのよ。覚えておいてね」

「ああ、わんわん泣いたこと、忘れない」

「ふーん。そういう事言うのね~。それじゃあ、この貸しは、これからどうやって使おうかしら?」

「……()()()()、か」

「……」

 

 

 ふと零れた、未来を思う言葉。

 今、弦司はカナエに会えて本当に幸せだ。だが、この先の展望は何もない。

 幸福はすぐに終わってしまう。なら、このまま全てが終われば、自分は幸福のまま……そんな諦観が伝わってしまったのか、カナエが痛いぐらい力を込めて抱き締める。

 

 

「……苦しい」

「良くない事考えたでしょ?」

「……ごめん、少し考えた。でも、本当にどうすればいい? これからも人は喰わないつもりだけど、いつまでもこの山で過ごせない。茂吉の件もあるし、少なくともここを離れるが、その先はどうする?」

「う~ん……とりあえず、人里離れた物件を探しましょう。今より生活環境が整えば、少しは気持ちも前向きになると思うわ。後は飢えをどうするかだけど――」

「確かに、最近は猪一頭平気で食えるようになったからな。なるべく食糧事情の良い、動物の多い山がいい」

「そうね、動物が多い山──」

 

 

 突如、カナエは弦司を腕から解放する。なぜと思う間もなく、肩を掴まれるといい笑顔のカナエが弦司の顔をのぞき込んだ。

 

 

「猪ってどういう事? 弦司さん、私何も聞いてないんだけど?」

「人の代わりに獣肉喰ってるって……言ってなかったっけ?」

「言ってないわ、馬鹿野郎」

「!?」

 

 

 (カナエ)が毒を吐いた。弦司はようやくいかに大事な情報を伝えていなかったのか理解した。

 

 

「特異体質? それとも、鬼の元々の生態? まあ、その辺りの調査は全部しのぶに任せればいいわよね」

「えっと……それで、俺の処遇はどうなるんだ?」

 

 

 カナエは懐を漁ると、包みを一つ出した。包みの中にはおにぎりが四つ入っていた。

 弦司はカナエの意図が分からず困惑する。

 

 

「これ食べられる?」

「ええと、鬼になってから試してないけど……いいのか? これお前の食事だし、そもそもこんな事に何か意味はあるのか?」

「細かい事気にしなくていいの。大事な事なんだから何も言わずに食べて」

「なら……いただきます」

 

 

 弦司は白いおにぎりを一つ掴むと、恐る恐るかじった。動く事を前提に考えていたのか、かなり塩気が効いたおにぎりだった。握ってから大分時間が経っていたのか、食感は固い。

 カナエは弦司が食べる様子を嬉しそうにじーっと眺める。

 

 

「どう?」

「半年間、肉ばかりだったからな。久しぶりに米が食べられて、かなり嬉しい」

「そうだったのね……ところでそのおにぎり、私の妹が作ったんだけど、どう?」

「美味いけど……これ、俺が食べて本当に良かったのか? 妹が(カナエ)のために作ったんだろ」

「大丈夫、しのぶなら分かってくれるわ……多分」

「不安しかないな……はぁ、四つもあるんだからカナエも食べろって。半分こだ」

「でも、それで足りる?」

「いや、お前が来る前に鳥狩って食べてたから、二つで十分だぞ」

「だからそういう重大な事は先に言ってよ……って、ああそうか。焚火があるのはそういう理由ね」

 

 

 カナエは嘆息しながら、弦司に言われた通りおにぎりを口に運び、美味しそうに頬張った。

 弦司ももう一つおにぎりを食いつく。ただの作り置きの、何の変哲もないおにぎり。半年ぶりに誰かと食べる食事は、今まで味わったどんな料理よりも美味しかった。それに腹が満たされる感覚があった。惰性のまま生き続けたこの半年間……確かに弦司の体は『変化』していたのだ。

 すぐにおにぎりはなくなった。

 

 

「ごちそうさま。美味かったよ」

「そう、良かったわ。それで、獣肉以外の食べ物でも、満足できた?」

「ああ、空腹が解消された感覚がある。植物もいけるなら、山の動物を狩りつくさなくても済みそうだ」

「ふふ、心配する所はそっち?」

「ごめんな、自分の体なのに何も分からなくて」

「いいわよ、これからたくさん知っていけば。それで、あなたのこれからだけど、その前に――」

 

 

 カナエは小指を立てた手を弦司に差し出す。

 

 

「一つだけ約束して」

「また突然だな、指きりなんて。ガキの時以来だな。それで、一体何を約束すればいいんだ?」

「あなたの命を私に預けて」

「さっきから、脈絡ないなホント」

 

 

 弦司は一瞬冗談かと思い笑うが、カナエは真っ直ぐ弦司を見据えている。

 

 

「正直に話すとね、あなたを人にする可能性に心当たりはあるわ」

「本当か!?」

「だけど、それは本当にか細い可能性よ。まだ実現もできていない。もしかしたら、私が生きている間は実現しないかもしれないわ」

「……やっぱり、難しいのか」

「そもそも、人を喰らわない鬼なんて、今まで一人もいなかったもの。鬼殺隊にとっても、鬼達にとっても、これは前例のない異常事態よ。もちろん私は全力であなたを助ける。それでも苦しい事も辛い事もあるわ。そんな時、死んだ方が楽だって思う時が来るかもしれないけど……私はあなたに生き続けて欲しい。だから約束。あなたが生き続けるために、あなたの命を私に預けて」

 

 

 弦司は感心する。何かあった時、弦司は()を選択肢に入れるだろう。本当に彼女が弦司の事をよく見ている。よく、見てくれている。

 だからこそ、弦司は冗談めかして返事ができる。

 

 

「勝手に俺の命を取るなよ」

「ケチ。あれだけいらないって顔してたんだから、くれたっていいでしょ」

「そもそも、まずは人を喰わないって約束が先じゃないか?」

「約束する必要ないもの」

「……指きりで俺が約束を守る根拠は?」

「守ってくれないの?」

 

 

 カナエがコテッと首を傾げる。

 弦司はため息を一つ吐いてから手を差し出し、カナエと同じように小指を立てる。

 

 

「鬼を転がして楽しいか?」

「純粋な乙女の好意なのに、そんな風にしか思わないなんて悲しいわ~」

「……俺はそんなに受け取っていいのか。俺は――」

()よ」

 

 

 カナエは弦司の言葉に割り込むと、そのまま強引に自身の小指で弦司の小指を絡め取る。カナエの華奢な体躯からは、想像できない強い力が伝わってくる。

 

 

「人を慈しんで、人を助けるあなたは立派な人よ」

「俺が人か……俺はカナエからもらってばかりだな」

「いいわよ。私がやりたいから、やってるだけだもの」

「人は助け合うものだと思うんだが、何か意見はあるか?」

「……そうきましたか」

 

 

 カナエは小指の力を緩め、眉尻を下げ困惑を表す。

 

 

「弦司さんのそういう所、とても好意が持てるわ。でも、もう十分に頑張ったのよ。もっと甘えていいのよ」

「そう言ってくれて、本当に嬉しい。きっと俺はカナエから百個は贈り物をもらってるんだろうな。だからこそ、たった一つだけでいい。俺に何かを返させてくれないか?」

 

 

 カナエは心から弦司を救いたいと思ってくれている。弦司の苦労を理解して、少しでも心が癒えるようやさしくしてくれている。その気持ちに甘えても、何ら隔たりなくカナエと付き合っていけるだろう。だが弦司はそれは嫌だった。そんな与えられるだけの関係を、カナエとは築きたくなかった。

 

 

「俺はもっとカナエと仲良くなりたい。ダメか?」

「……ダメじゃない」

 

 

 カナエは微笑んでくれた。陽だまりのような、心が温かくなる笑顔だった。

 

 

「それじゃあ、おいしいご飯を一緒に食べましょう。二人で同じおいしい食事を」

「了解。それじゃあ――」

 

 

 指切りげんまん

 

 

 ――鬼を哀れむ者と人を喰らわない鬼。

 この瞬間、二人はそんな『役割』を持った関係ではなくなった。

 ――『弦司』と『カナエ』。

 一人の人間と一人の人間。もっと強く血の通った暖かな関係に生まれ変わった。

 

 

「約束ですよ」

「ああ。ところでこの約束って回数決めてなかったよな? つまり千回でも万回でもいいわけだ!」

「~~っ、本当に憎めない人!」

 

 

 カナエは小指を解くと、弦司の手を引いて立ち上がる。彼女は晴れやかな笑顔を弦司へ向けると、

 

 

「それじゃあ早速、約束を果たすために向かいましょう」

「おお、早速美味い飯か。それで、どこに行くんだ?」

「もちろん、私の家です」

「えっ」

「私と弦司さんは一緒に暮らすんですよ~」

「はあっ!?」

 

 

 狼狽する弦司に、カナエはしたり顔で応える。どうやら、弦司の揚げ足取りに対する仕返しのようだった。そして、弦司はまんまとやられてしまった。

 それでも、弦司は訊き返さずにはいられない。

 

 

「……本気? 俺、一応男だぞ?」

「本気も本気よ。それとも弦司さんは、私という理解者のいない場所で、いつまでも待っていられる? あ、妹に変な事したら本気で怒るから、それだけは肝に銘じて」

「お、おう。仰せのままに」

「素直でよろしい。それに心配ないわよ。今の弦司さん、太陽が浴びられない以外はかなり肉体が人に近づいているもの。食事の用意に問題はないから、遠くにいるよりも近くにいた方が何かと都合が良いわ」

 

 

 弦司を驚かすだけでなく、実益を兼ねた案だった。

 ここまで信頼されて、弦司に断る選択肢はなかった。

 

 

「ああ、ありがとうな。それとこれから世話になるけど、よろしく頼む」

「こちらこそ。それじゃあ『蝶屋敷』に行きましょう」

 

 

 カナエが弦司の腕を強く引く。

 ――この手を二度と離したくない。

 二人の手は強く握りしめられたままだった。

 

 

 

 

 胡蝶しのぶ。

 鬼殺隊を支える()の一人、花柱・胡蝶カナエの妹だ。

 彼女は小さな体躯のため、鬼の首が斬り落とせない。一時は剣士として()()を言い渡されるも、持ち前の知識と機転で『鬼を殺せる毒』を発明した。そうして、しのぶは鬼殺隊唯一の『鬼の首を斬らない』剣士となった。

 天才と呼ぶべき頭脳を持つしのぶだが、状況が全く分からず苛立っていた。

 昨晩、唯一の家族であり優秀な剣士の姉が、予定の時刻を過ぎても屋敷へ帰って来なかった。しばらくして、鎹鴉――鬼殺隊で伝令を担う特別な鴉――から帰宅が遅れる手紙が届いたものの、非常にそっけない文面であった。

 そして、深夜である現在。続報は何一つない。

 ――もしかしたら、姉の身に何か起きたのではないか。

 鬼殺隊の任務は過酷だ。鬼は力も強く、手足が斬られてもすぐに再生する。中には『血鬼術』という不可思議な力を操る鬼もいる。対して、鬼殺隊は失った手足は戻らないし、不可思議な力も振るえない。

 例え柱と言えど、常に死は隣にある。しのぶの心配は至極当然の事だった。

 とはいえ、こんなにも苛立っていては『もしも』の時も即時対応ができない。しのぶは気持ちを制御するため、熱い緑茶を一杯用意した。

 ゆっくり湯飲みに口をつけようとした――その時、

 

 

「カァァ! 胡蝶しのぶゥ。花柱・胡蝶カナエヨリ手紙ィ!」

「! 見せて!」

 

 

 鎹鴉からの手紙に、しのぶは飛びつくように受け取る。

 突如届いた、深夜の手紙。嫌な予感がした。

 両親を鬼に殺され、しのぶに残された唯一の家族がカナエだ。もし、姉の身に何かあったとしたら――。

 しのぶは茹った頭を少しでも冷ますため、緑茶に口をつける。しかし、全然頭は冷静にならず、湯飲みを持つ手は小刻みに震えた。

 それでも、しのぶは覚悟を決めて手紙を開く。

 書かれていた文面は――。

 

 

 紹介したい男の人がいます

 

 

 しのぶは一杯、お茶を無駄にした。

 




ここまで読んで下さりありがとうございます。
短編としての内容はここまでとなっております。

次回以降は、連載となります。

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