それは弦司が蝶屋敷を訪れて三日目の夜だった。
今日も一日が終わり、後は眠るだけ。カナエは何の気なしに弦司の部屋を
「おう」
素っ気無い返事だった。
「いただきます」も「ごちそうさま」も。あんなに嬉しそうで温かかったのに、この時だけは何も感じなかった。
環境が変わって疲れが溜まっていたのだろうか。そんな風に思って床に就いたが、気になって眠れなかった。
悪いとは思ったが、気配を消して弦司の部屋を覗いた。
弦司は一人暗い部屋の隅に座っていた。それが酷く心細そうに見えた。思わず立ち入って訊ねた。
中々答えてくれなかったが、カナエが聞くまで寝ないと分かると、ポツポツと語り始めた。
「寝静まった家の中、たった一人起きている」
「誰もが眠る」
「俺だけが眠らない。眠れない」
「たった一人取り残されたような気になる」
「洞穴にいた時は思わなかった」
――今は夜が長い。
一人だけ眠れない夜。それは人をどれだけ孤独にするのか。
また気づけなかった。こんな簡単な事に気づけなかった。
カナエは部屋を飛び出した。自身の布団と本を数冊引っ掴むと、弦司の隣の部屋まで行った。
「何やってんだ」
騒がしくしていたせいか、弦司がそう訊ねてきた。「お引っ越し」とだけ答えて布団を敷いた。
弦司は何か言いたそうな顔をしていたが、本を渡して追い出した。
そして、弦司が部屋から出る前に「おやすみ」と言った。
「……おやすみ」
温かい声が返ってきた。今度はゆっくり眠れそうだ。
○
弦司が蝶屋敷に居着いて五日が経った。
なし崩し的に居着いた彼であったが、概ね良い影響を与えていた。
一番大きいのは、身近な目標ができたことだ。人を唯一鬼に変えられる鬼・鬼舞辻無惨を倒すという目標が、鬼殺隊にはあった。奴を倒さなければ、悲しみは終わらない。最終目標として、カナエもしのぶと同じ目標を持っていた。
しかし、誰も鬼舞辻無惨を見たことはない。どういう存在なのか、伝え聞いた話でしか分からない。形がない雲のような存在を追う……果たして、自身は無惨に近づいているのか、分からなくなってしまう時がある。
だが、今は違う。明確に助けるべき
また、しのぶには「よく笑うようになった」と言われた。日々充実しているからだと、カナエは思っている。
しかし、良い事ばかりではない。
まだ、人を喰らわない十分な証拠がないため、しのぶとの相談の上、まずは半年。人間の食事だけで事足りるのか。それを確認するために、座敷に閉じ込めているのだ。
それと課題が一つ。鬼舞辻無惨の情報についてだ。生き証人である弦司は、奴の情報を持っているはずだ。それを引き出せば、鬼殺隊に大いに役立つ。だが、カナエはそれができないでいた。
鬼舞辻の呪い……とでも言うのか。鬼は奴の情報を口にしようとすると死ぬ。しかし、弦司の存在は鬼の理から外れ始めている。そんな存在を臆病者の奴が放置するとは、とても思えなかった。
呪いが解けている可能性がある。だから、弦司から鬼舞辻の情報を引き出すことができるはず――。
しかし、もし……もしも、呪いが解けていなければ。鬼舞辻の名を口にした瞬間、弦司が死ぬ。カナエが弦司を殺してしまう。その可能性が怖くて、カナエは訊けないでいた。
だからといって、このまま半年を待つつもりはない。少しでも協力者を探すため、奔走する。今日は命の恩人でもある岩柱・
悲鳴嶼邸。
柱にはそれぞれ屋敷が与えられる。蝶屋敷はしのぶの希望もあり、医療向けに改造を繰り返した。ここ悲鳴嶼邸は、柱の邸宅とは思えないほど質素で小さい。
座敷に通されたカナエは、主である行冥を正座して待つ。
すぐに彼は来た。
「柱合会議以来だ、花柱・胡蝶カナエ。お互い息災で何よりだ」
現れたのは七尺を超える巨漢。
カナエと同じ黒い詰襟、その上の羽織りには念仏が所狭しと刺繍され、首と合掌された両手には数珠。さらには、額には真っ直ぐの傷跡。
得体の知れないこの男が悲鳴嶼行冥その人だ。外見からは想像もつかないが、これでも非常に涙脆く心優しい。
――それに、胡蝶姉妹に対する負い目もある。
もちろん、この場で負い目につけこむつもりはない。それでも、他の柱と比べれば交渉はしやすい。理解はされなくとも、中立ぐらいは保ってくれるだろう……そんな思惑もあり、訪れたのであった。
カナエの対面に行冥が正座する。
「一別以来です、行冥さん。それと、今日は私人として訪れましたので、そんなに固い呼び方をしないで結構ですよ。あっ、それとさっき来る途中にお饅頭見つけたんですけど、美味しそうなので買ってきました。後で食べて下さい」
「それでは、そうさせてもらおう」
にこやかに挨拶を交わすカナエと行冥。
それからしばらくは、世間話をした。行冥の口数は多くないため、自然とカナエが話すようになる。それも、カナエ自身としのぶについてが主だった。
「最近、ちょっと男性と話をする機会があったんですけど、それを見てしのぶったら
「この時期は多感だ。あまり揶揄うのはよしなさい」
「……はい。それはもう、海より深く反省してます……」
終始、和やかな会話が続く。突然の来訪であり多少は心配もあったが、行冥に不機嫌な様子はない。
カナエは頃合いだと思い、話を切り出す。
「それで、その男性についてお話ししたい事があります」
「あぁ……彼が鬼である事か」
「――えっ!?」
行冥の言葉に、カナエは二の句が継げなかった。
腹の底が冷えてくる。思考がまとまらない。
鬼殺隊に弦司の情報は広まっていなかった。それなのに、なぜ。どういうことか。
千切れる思考の中、行冥が涙を流す。
「情報は宇随天元からだ。信じたくはなかったが、その様子を見る限り……なんと哀れな」
「いつから……ですか?」
「私が聞いたのは一昨日。彼が情報を手に入れたのは、五日前だと聞き及んでいる」
「……最初から全て筒抜けだったわけですね」
カナエは臍を噛む。先手を取ったつもりが、完全に後手に回っていた。いや、ともすればすでに手遅れかもしれない。
もし、このまま自身の力不足で弦司の身に何かあったら。生きろといって、ただただ苦しめただけではないか。悔やんでも悔やみきれない。
――今、やれる事を全てやらねば。
カナエは頭を下げた。
「申し訳ありません、行冥さん。伝え聞いているのなら分かっていると思いますが、私は彼……不破弦司さんを人を喰らわない鬼だと確信しております。それを証明するための時間が必要と判断し、
「……かつて、私は鬼から君たち姉妹の両親を助ける事ができなかった。君の哀しみは分かっているつもりだ。なぜ、鬼を受け入れる? 私には理解できない」
カナエは頭を上げる。行冥の目が、カナエを見ている。彼は盲目だ。その視界には何も見えていないが、まるで心を見透かすように、白い瞳がカナエを射抜く。
――理解。
彼の心と在り方を理解するのは困難だ。鬼殺に身を置けば置くほど、弦司の存在は鬼から遠い位置にある。
鬼殺隊一、鬼に甘いと自負できるカナエでも、弦司を殺しかけた。それぐらい、彼の存在は異質だった。
もしかしたら、いくら言葉で説明しても、誰も弦司を理解してくれないのでは。彼の心が伝わらなければ、通じ合えないのでは――と、ここでカナエは首を横に振る。
彼の在り方を伝え、理解者を一人でも多く募る事が、自分の役割ではないか。そして、弦司を理解したと思えるなら、それは難しい仕事ではない。
カナエは彼のあるがままを言葉にする。
「
「……」
「想像してみてください。人を喰らえと求め続ける体で、心は人である自分を。人を助けます、人と心を通じ合わせられます、そして……人を愛せます。しかし、心の奥底では人を喰らえと体が囁くのです」
「ああ……なんと哀れな生き物だ」
「はい。ですが、私は哀れだと嘆くだけで、終わらせたくありません。知って理解した以上、助けたい。これは鬼殺隊……いえ、人として間違っていますか?」
「間違ってはいない。しかし、それは相手が人の場合だけだ。鬼にそのような慈悲は必要ない」
「――ごめんなさい。私、もう彼が鬼だとは思えません」
カナエはもう一度、深く頭を下げる。
行冥からバチリと破壊音がした。砕けた数珠が畳に散らばるのが、視界の端に見えた。
「……今、何と?」
「私は彼が
「人を見て、涎を垂らす生き物を人とは言えない」
「彼は子どもを助けました。恋人を自身から助けるために離れました。大切なものを守るために、自身を犠牲にできる……それでも彼は人と言えないのでしょうか? 傷つくたびに涙を流す彼を、私は人としか見られないんです」
「……」
「私は頸を斬るのではなく、本当の意味で救うべき
行冥が沈黙する。
失望しているのだろうか、それとも軽蔑しているのだろうか。そうなったら悲しい。悲しいが……自分の心に嘘は吐けない。弦司を助けたいという気持ちは、もう捨てられない。
しばらくして、行冥は長く息を吐き出した。
「……思えば昔から君たちはそうだ。これと決めたら、決して曲げない」
「いつもいつも、心配ばかりかけてごめんなさい」
「鬼は理解できない。しかし、君の心は理解した。私から言える事は一つ……彼が人である事を証明しなさい」
「行冥さん……」
カナエは顔を上げる。行冥は再び涙を流していた。
彼は鬼に家族のように大事にしていた子どもたちを殺されている。自身と同じように、鬼に大切なものを奪われている。鬼の醜さを知っているゆえ、弦司を理解してくれなかった。
それでも、カナエの気持ちには理解を示してくれた。本当に優しい人だった。
「ありがとうございます。黙っていた事、本当に申し訳ありませんでした」
「良い。それより、急いだ方がいい」
「どういう事ですか?」
「本日、緊急柱合会議が開かれる」
行冥の言葉に、カナエは驚きで固まる。
――柱合会議。
その名の通り、鬼殺隊の柱達による合同会議だ。通常、半年に一回開かれる。
今回は名前の通り緊急なのだろう。問題は柱であるカナエが会議の存在を知らない事だ。
「今、宇随天元・
「っ! 情報封鎖の本当の意味は、そういう事ですか! 私たちを逃がさないように、対策も打てない内に処罰を下すために」
「緊急柱合会議では、
「行冥さん……」
「さあ、早く向かうといい」
「ありがとうございます! このお礼は必ず!!」
カナエは行冥の返事も聞かずに屋敷を飛び出した。
風柱・不死川実弥。
カナエが穏健派だとすれば、彼は鬼殺隊一の過激派。全ての鬼を憎み、その存在自体を許さない。悪鬼滅殺を体現する男。
会議にて処罰を決めるなら、今すぐ殺す事はないだろう。それでも、鬼を見て
カナエは全速力で蝶屋敷へと向かった。道のりは酷く遠く感じた。
○
弦司の一日は単調だ。
まず、飯を食う。三食食う。ひたすら食う。最近では、一食で力士三人前は軽く食べられるようになって、しのぶからは『穀潰し』というありがたい名前までもらうほどに。
食べてからは、ひたすらじっとしている。たまには本を読むが、それでも基本部屋にいる。
今は、食事のみで飢餓状態を耐えられるのか、検証を行っていた。そのため、食事以外の要素をなるべく省いた生活を送っている。
これを後、半年――思うと弦司は溜息が出る。正直、カナエの頼みでなければ、弦司は断っていただろう。
基本的に、この何もしない時間というのは苦痛だ。本もいずれ読み終える。前世の映像を見返すのもいいが、とにかく何か手につけたかった。囲碁か、それとも裁縫でも始めようか。そんな風に弦司が考えていた時であった。
「朝食ですよ」
「待ってました」
襖の向こうからしのぶの声がかかり、弦司はちゃぶ台を取り出す。
襖を開け、しのぶが持ってきたのは、お櫃にお鍋。それを直接ちゃぶ台へドン、と。これが現在の弦司の朝食である。
もちろん、最初はお椀に盛っていたのだが、いちいちお替りが面倒だとこんな形になってしまった。ここから直接食べはしないが、全部弦司が盛れという事だ。
お櫃にはご飯、鍋は野菜のごった煮である。弦司がよく食べると分かってから、鍋しか出てきていない。今後も鍋しか出ないのだろうか、ちょっと不安になる。
「不破さん、今日の調子はどうですか?」
しのぶは、自身のお膳をちゃぶ台を挟んだ弦司の向かい側に置く。距離を感じる。
「特に何も変わった感じはないな。そっちこそ、腕の調子はどうだ?」
「っ、こんなのかすり傷ですから、何ともありません」
「そうか。重い荷物を運ぶ時は、声をかけてくれよ」
「かけません。そもそも、ここから出てはダメじゃないですか」
「うーん。でも、こうやってじっとしてるのもな」
「いいから、早く食べて下さい。私はお喋りしに来たのではなく、あなたの経過観察を朝食ついでにしに来たんです」
(固いなー)
それだけ言うと、黙々と食べ始めるしのぶ。初対面の時、彼女にとって様々な失態があったせいか、今も壁を感じる。でも、時間はたっぷりある。なんせ半年だ。距離を縮める機会は、いくらでもある。
弦司が自身のお椀に料理を盛ったところで、
「ああ、そうだ。囲碁とか裁縫とかなんか時間潰すもの用意してくれないか? さすがに暇でしょうがない」
「もう本は読んでしまったんですか……はあ、しょうがないですね。後で持ってきます」
「申し訳ない」
「申し訳ないと思うなら、これ以上姉を振り回さないで下さい」
「手厳しいな」
厳しい言葉に、弦司の手が止まる。思ってた以上に、壁があるかもしれない。
しかし、しのぶは弦司の様子を特に気にした風を見せる事もなく、再び食事を始め――その手を止める。
「どうした?」
「屋敷が騒がしいですね」
「えっ」
しのぶに言われ耳を澄ます。鬼となり発達した聴力が、屋敷中の音を拾う。玄関も縁側も――裏口からも足音が聞こえる。
「全部で六人か? 何かあったか?」
「静かに。それと私から離れないで」
しのぶが箸を置くと、ちゃぶ台とお膳を部屋の隅に置き中央に立つ。弦司も傍に立ち、何が起きてもいいように身構える。
すぐに廊下から一段と荒い足音がし、一気に襖が開け放たれた。
「鬼を匿った馬鹿共はここかァ」
現れたのは凶悪な目つきを持った黒い詰襟の男。身長こそ僅かに弦司より低いが、その肉体は鍛え抜かれている。何よりも目を引くのは、全身の傷跡だ。顔に腕に胸に――なぜか、詰襟の前が全開――晒した肌に押し並べて傷跡があった。
「テメェ……」
「っ!?」
男は弦司を見るなり表情を一変させる。ただしそれは殺意などという表現は生温い。弦司の腕一本……髪毛一本でさえ、存在を許さない――悪鬼滅殺。男の目は弦司の全てを否定していた。
男は腰に下げた刀に手を掛ける。
「鬼殺隊に巣食う鬼かァ!」
「不死川さん!」
しのぶの小さな体が弦司と男の間に入る。
不死川――その名前に、弦司は聞き覚えがあった。カナエが言っていた、鬼殺隊の柱の中でも要注意人物。鬼殺を体現したような男――それが不死川実弥だと。
その実弥がしのぶを見て凶悪に笑う。
「おう、鬼を匿った馬鹿かァ。何の用だァ?」
「それはこちらの言葉です。朝食中に人の家に勝手に上がり込んで、一体どういうおつもりでしょうか?」
「どうもこうもねェ。鬼と馬鹿共を処罰しに来たに決まってんだろォ!」
「意味が分かりません。そもそも、鬼とは――」
「テメェら馬鹿共の行動は全部筒抜けなんだよォ!」
「えっ」
実弥の言葉に、二人揃って身を固める。
半年。弦司の無害を証明するために、匿うと決めた期限だ。当然、カナエは情報封鎖に努め目撃者や隊士に、情報が拡散しないように話をつけている。
それが蝶屋敷に来てまだたったの五日。五日で全てがバレた。
一体、いつ、どこで。そもそも、今は何が起きているのか。何も分からない。
動揺する二人の前で、実弥は懐から一枚の書を出す。それを見てしのぶは顔を青くする。
「『胡蝶カナエ・胡蝶しのぶ・不破弦司 以上の三名を緊急柱合会議に連行する』」
「嘘……なんで……」
「鬼なんか匿ったからに決まってんだろうがァ!!」
「っ!!」
屋敷が揺れるほどの覇気と怒気で叫ぶ実弥。弦司としのぶ、二人して身を竦ませる。
「『産屋敷』に連れていくゥ」
「……でも、こんな――」
「待て、しのぶ。従おう」
弦司はしのぶの肩を掴み、止める。
「これは正式な命令書なんだろう?」
「……はい」
「なら、俺達の策は失敗だ。ごねることに意味はない。大人しく従――がっ!!」
「不破さん!!」
弦司は気づけば、大きな手に頭を掴まれ畳に叩きつけられた。
仕掛けたのは実弥。鬼となった弦司でも、その動きは追いきれなかった。
さらに力も強い。弦司は抵抗もできず、後ろ手に畳に押さえつけられた。
「鬼、いい心だけだなァ。特別に頸を斬る時は、苦しまないようにしてやるゥ!」
「不死川さん! 彼は逃げません! だから、乱暴な事はやめて下さい!」
「誰も鬼なんざ信じないんだよォ! 黙って蹲っていろォ!」
「っ!!」
またか。またなのか。
何もしていない。ただ、生きてしまっただけなのに。鬼。それだけで、権利も尊厳も何もかも踏み躙られてしまうのか。理不尽だった。
それでも、今の弦司に拘束される以外の選択肢は存在しない。
しのぶも何もできない。確か、実弥はカナエと同じ柱だ。平隊士であるしのぶが言い返しただけでも、十分すぎる抵抗だった。
弦司はそのまま何もできず、実弥によって拘束された。どこから取り出したのか、ご丁寧にわざわざ鎖を使って、芋虫になるまで何重にも巻きつける。
さらには麻袋を取り出す。こんなものに入れられたら、ただ苦しいだけだ。
弦司としのぶは抗議の声を上げる。
「おい、それに入れるつもりか!? やめてくれよ!」
「不死川さん! 本当にここまでする必要あるんですか!? 今、朝なんですよ? 外へ連れていくだけで、逃げる事もできません!」
「うるせェ。鬼なんて信用ならねえだろうがァ。これぐらいが丁度いいんだよォ。そもそも、どうやって連れて行こうが、
「お、鬼の味方だなんて……! 私はただ――」
「おい、誰かこの馬鹿も拘束しろォ」
「えっ」
実弥が声を上げると、目元だけ開いた黒子のような衣装をまとった二人が現れる。おそらく、
「待ってくれ! その子は縛らなくてもいいだろう!?」
「本当にうるせえなァ。そうやって、女にお優しい言葉でも囁いて篭絡したのかァ? 馬鹿共には通じても、俺には通じねえよ鬼ィ!」
「あああッ!!」
うつ伏せになった弦司の背中に、実弥の足が圧し掛かる。
苦しい。痛い。
「不破さん!!」
しのぶの悲鳴のような声が聞こえる。
手足は動かない。歯軋りしかできない。無力だった。悔しかった。しかし、弦司には最早どうする事もできない。
「もし」
そこにかけられた優しい優しい声。あまりに場違いな声音に、全員が振り返る。
胡蝶カナエ。彼女が、いつもの美しい笑みをたたえて、いつの間にか部屋に立っていた。ただし、額には大粒の汗を流し頬は上気しており、蝶の翅のような羽織はない。
カナエはひどくゆっくりと隠に近づくと縄を取り上げ、さらに実弥の麻袋に手を――。
「っ、胡蝶! テメェ!」
「あら酷い。女性の手を叩くなんて乱暴ですね~」
「ああん? ぶっ殺されてえのかァ?」
「ふふ、それはそちらでしょ? 随分と我が家で好き勝手しましたね~」
縛られた弦司と悲しそうなしのぶを見やり、カナエは笑顔のまま殺気を実弥に放つ。いつもの優しいカナエと対照的な気配に、誰もが動きを止める。しかし、殺気を向けられた当人である実弥は、面白そうに口角を上げる。
「おいおい、勝手したのはテメエらだろうがァ。鬼殺隊は平和ボケした仲良し集団じゃねえんだァ。仲良しごっこのおままごとなら、姉妹だけでやってろォ」
「目に入るもの全て斬りつける暴力集団でもありませんけどね」
「鬼を匿う馬鹿の言葉は違うなァ」
「不死川さん、あなたが全てを主導していたなら、問答無用で斬りますよね? 斬っていないって事は、緊急柱合会議までの
「……」
「……」
互いに射殺さんばかりに睨みつける。互いに、腰の『日輪刀』に手を掛ける一歩手前。まさに一触即発。少しでもこの均衡が崩れれば、恐ろしい柱達の斬りあいが始まるだろう。
止めなければ。ここにいる誰もがそう思い、恐ろしくてできない。一言も声を上げられない。
――そこへ無遠慮にずかずかと。
「随分と派手にやってるな。祭りの神に黙って、先に祭り開催とはいただけないぜ」
「宇随ィ……!」
「宇随さん」
額には大きな宝石、左目には血飛沫のような赤い模様。袖のない鬼殺隊服に鎖で繋がれた大剣が二振り。
音柱・宇随天元。伝え聞いただけだが、弦司は一目で彼が宇随だと確信した。
――そして、この場には鬼殺隊の最高位・柱の三名が揃った事になる。
鬼殺隊について理解の浅い弦司であっても、これがいかに異常事態か分かる。そして、それを引き起こした弦司は一体何なのか。これから己はどうなってしまうのか、全く分からなくなる。
対して天元は、この異常の渦中をまるで予定調和のように歩き、カナエと実弥の間に入る。
「柱がこんなところで派手にドンパチする気か?」
「そこの馬鹿が邪魔してるだけだァ」
「そこのお馬鹿さんが余計な真似をしているだけです」
「ああん?」
「ふふふ」
「だから、俺よりも先に派手に始めようとするんじゃない! それと不死川はその鬼から離れろ!」
言いながら、天元は実弥を押しのけると弦司の鎖を解いた。弦司には彼が何を考えているか分からず、混乱する。
実弥は天元ににじり寄り、カナエは悔しそうに歯を食いしばる。
「テメェ、どういうつもりだァ……!」
「今回の会議は緊急で、かなり無理に時間を作ったからな。会議まで地味に時間がない。お前がやると拗れるばかりだ」
「私は――」
「被告が被告を連れていけるわけないだろ。胡蝶は不死川が連れていけ。俺が代わりに鬼は連れていく。そうすれば、拘束もいらない……これで納得か?」
「ちっ……」
「全部あなたの掌の上……という事ですか」
今日、実弥が訪れ、カナエが止めて、天元が仲裁する。それが全て偶然とは、カナエには思えなかったのだろう。
今回の一連の騒動、完全に主導権を宇随天元に握られてしまっていた。
「さあ、分かったならお前たちは一緒に地味に行け! 俺は派手に行く!」
天元はカナエとしのぶ、実弥を追い出す。入れ替わるように、隠が箱型の赤い大きな駕籠を部屋に運んでくる。
彼は駕籠の上に飛び乗ると、下を指差す。
「俺は上で派手に行く。お前は中で地味にじっとしてろ」
「あ、ああ。その、鎖解いてくれて、ありがとう」
「……鬼からの礼とか気持ち悪! 早くしろ、地味に調子が狂うぜ」
「気持ち悪いはないだろ」
天元は面倒そうに対応すると、駕籠をコツコツと叩く。
弦司は素直に従い、駕籠の中に入る。戸を閉めると、中は光が入らないよう穴一つなく、真っ暗だった。もちろん、弦司には全てはっきりくっきり見えてはいるが。
――音柱様、重いです!
――何であなた様まで乗っているんですか!?
――うるさい奴らだ! 黙って派手に運べ!
そんな愉快な遣り取りがあった後、浮遊感。
文句があった割には、揺れの少ないしっかりとした足取りで駕籠は進んだ。
(……一体何が起きているんだ)
柱達のそれぞれの目的は。弦司に何を求め、何をしようとしているのか。全く分からなかった。
(俺は一体、どうすればいいんだ)
そして思うのは、カナエ。
初めて会った夜、蝶屋敷まで走って向かった。あの時の彼女は
彼女に負担ばかりかける己が、このまま頼り続けてもいいのか。そんな考えが頭を過ぎる。
いや、このままでいいはずがない。カナエがどれだけ理解を示してくれても、弦司は鬼だ。それは覆らない。
そして何より、弦司は
人間社会にいて、何もしていない化け物が認められるか? 認められる訳がない。もっと形に、行動にしなければ、誰も認めてくれなどしない。
足りない。何もかも、今の弦司には足りな過ぎる。
生き続けるために、もう一度変わる必要があるのではと弦司は感じていた。
――そして、緊急柱合会議が幕を開ける。
ここまでお読み下さり、ありがとうございます。