鬼滅の刃~胡蝶家の鬼~   作:くずたまご

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いつも誤字報告ありがとうございます。
少し長いですが、後編をお楽しみください。


第5話 緊急柱合会議・後編

 カナエは弦司より先に会議場となった座敷に着いた。今回は陽の光を浴びられない弦司がいるので、いつもの庭園ではなく、室内での会議となる。

 弦司は真っ赤な駕籠に乗せられてやってきた。駕籠から出た彼には、特に何かされた様子も見られない。カナエは胸をなで下ろしたが、すぐに気を引き締める。本番はまだこれからだ。

 駕籠から出た瞬間、弦司は三人の男に囲まれる。右は行冥、左は天元、後ろは実弥といった形だ。妙な動きをすれば、一瞬で頸は落とされるだろう。

 カナエはしのぶと隣同士でいるが、弦司はさらに天元を挟んだ向こう側。下座から見て右側が弦司、左側がカナエとなっており、かなり距離がある。手助けは難しい。カナエからは弦司の顔もよく見えない。

 カナエから見る天元は冷静そのもの。対して、実弥は敵愾心むき出しで、カナエと弦司を睨みつける。行冥は念仏を唱えるだけで、それ以上は語らない。

 

 

「姉さん」

 

 

 しのぶがカナエを呼ぶ。表情からは不安が伺える。

 

 

「大丈夫よ」

 

 

 カナエは微笑みで応えた。しのぶを、弦司をこれ以上不安にさせてはならない。

 後は重苦しい沈黙一色となる。

 『お館様』が来られてから会議は開始する。カナエは座って、ただただその時を待つ。

 重苦しい沈黙の後、

 

 

「お館様のお成りです」

 

 

 子どもの甲高い掛け声と共に、襖が開く。

 柱達が――遅れてしのぶと弦司が――跪く。

 

 

「私の剣士(こども)達。急な招集にも関わらず、集まってくれて嬉しく思うよ」

 

 

 流麗な黒髪に華奢な体躯の男性。

 鬼殺隊九十七代目当主――産屋敷(うぶやしき)耀哉(かがや)

 耀哉──お館様は病に爛れ半分しかない視界で、ゆっくりとカナエ達を見渡し、ある一点で視線を止めると柔らかく微笑む。

 

 

「初めまして、不破弦司。私は鬼殺隊当主、産屋敷耀哉。君の事はカナエから聞いているよ」

「……初めまして。本日はお手柔らかに」

 

 

 にこやかな耀哉に対して、弦司の声は固い。やはり、思うところがあるのだろうか。

 いつもなら、ここからお館様に対する挨拶合戦の始まりだが、今日のカナエにはそんな余裕はない。

 

 

「お館様」

 

 

 真っ先に声を上げたのは天元。主導権を手放す気はないらしい。

 

 

「益々ご壮健のことお喜び申し上げます。また、この度の緊急柱合会議においては、お力添えいただきありがとうございます」

「こちらこそありがとう、天元。不在の柱の委任状まで取り付けて、今回の調整は難しかっただろう」

「恐縮でございます。それでは畏れながら、緊急柱合会議の議題に入る前に、まずは不破弦司なる鬼に対するお考えをお聞かせ願えないでしょうか」

 

 

 天元の質問はカナエも気になる所だった。

 カナエは耀哉に報告はしていた。弦司の観察は続けるようにとの返答は来ていたが、それ以上の具体的な指示はなかった。耀哉の考えをカナエは知りたかった。

 耀哉が上座に腰を下ろす。

 

 

「彼の事なら私が容認し、カナエに任せていた。このまま、引き続きカナエに任せたいと思っている」 

 

 

 カナエに任せる……その言葉に、カナエは少なからず驚いていた。弦司の存在は特異だ。どこかで鬼殺隊として、管理される可能性も考えていた。これはカナエが耀哉に信頼されていると考えるべきか。それとも、カナエの想いを慮ってくれたのか。もしくは、その両方かもしれない。

 

 

「お館様、あの者は鬼でございます。鬼殺隊が、しかも柱が鬼を匿うなど、私は承知しかねる」

「我らは鬼殺隊でございます。胡蝶カナエは降格、胡蝶しのぶは除隊。鬼は即刻処断を願います」

 

 

 対する行冥、実弥の反応はどちらも反対だった。特に実弥の処罰は、到底受け入れる事は出来ない。しのぶに至っては、今にも殴りかかろうとして、それでも冷静になろうと歯軋りしている。

 カナエは短く深呼吸する。ここからは、弦司に対するだけではない。自身やしのぶには聞くに堪えない罵詈雑言や、仕打ちがあるだろう。それに頭を熱くしてはいけない。あくまで冷静に、的確に対処する。

 カナエは顔を上げる。

 

 

「畏れながら、不破弦司は鬼になってから半年以上、一度も人を喰らっておりません。加えて、報告している通りここ数日間は一般的な人の食事で、飢餓を克服している事を観察しております。彼を解析・調査する事は、今後の鬼殺隊の戦略に大いに寄与すると存じ上げます」

 

 

 カナエの説明に、実弥が噛みつく。

 

 

「半年間喰っていないから、なんだと言うんだ。これまで喰っていない事、これからも喰わない事、いずれも証明されていない」

「半年いただければ、証明いたします」

「人が喰われてからでは遅い! 即刻、処断を願います」

「鬼殺隊にも変化が必要です。手段の一つとしてご一考下さい」

 

 

 当然ながら、実弥とカナエの意見は平行線を辿る。これはよくない。天元は不明だが、行冥も反対意見なのだ。このままでは、反対多数で押し切られてしまう。

 ここ数日の経過報告で押し返すか。押し返しきれるか。確実とは言えない。やはり早朝、行冥に言われた通り、彼が人であることの証明が不可欠だった。しかし、そのための時間と手段がない。

 

 

「本件についてですが、提案がございます」

 

 

 天元が割って入る。今回の会議において、おそらく彼はおおよその()()を描いている。それがカナエの意に沿うか、それとも反するのか。彼の意向で弦司の未来は大きく変わる。

 カナエは座して注視する。拳に力が入る。

 

 

「調査いたしましたところ、不破弦司なる者の痕跡が追えました。胡蝶カナエの申告の通り、半年前に不破弦司が鬼になった姿を多くの者が目撃しております。その後、山間部へ向かったとの報告を最後に目撃証言は絶えております。山間部周辺で鬼による被害も確認できませんでした。半年間、人を喰らっていないのは事実と判断できます」

「テメェ、何のつもりだ……!」

 

 

 カナエの擁護ともとれる発言に実弥は色めき立つ。

 

 

「人をこれまで喰らっていない事を地味に証明しただけだ。普通の鬼とは違う……これは一考の余地があるとは思わないか、不死川?」

「そんなもん、生かす理由になるかァ! そもそも、こいつが人を喰らわない保証がないィ!」

「だから、今から派手に証明してもらう。人を喰らわない事、そして本当に鬼殺隊に寄与できるかどうかを」

 

 

 生きたければ鬼殺隊の役に立ち、人に危害を加えない事を証明しろ。天元の提言をまとめれば、単純な話であった。

 最初から、カナエの意に沿うか反るかなど、彼にとっては思考の埒外。鬼殺隊にとって害か有益か……きっとそれだけの事なのだろう。だからこそ、害しかない柱同士の衝突を最小限にするため、動いているのかもしれない。ならば、カナエはそれに沿う形で、自身の願いを引き出すだけだ。

 

 

「なら、当初の予定通り時間をいただけないでしょうか」

「ダメだ、胡蝶。半年はいくらんなんでも長すぎる」

「本件は鬼殺隊にとって、前代未聞の事態です。慎重すぎる程が丁度良いのではないでしょうか?」

「いいや。すぐに、今この場で全てを確認する方法がある」

 

 

 何を、とカナエが視線で天元を問い質そうとすると、彼は反対方向……弦司の側を向く。

 そして天元は弦司を見ると、彼に向って、

 

 

 ――鬼舞辻無惨。

 

 

 カナエは心臓が掴まれたかのように、胸が苦しくなる。息ができなくなる。

 天元の言う役立つ方法とは、鬼舞辻無惨の情報を弦司から引き出す事だった。

 天元はカナエが飛び越えられなかった線を、あっさりと踏み越えたのだ。

 

 

「きぶつじむざん?」

「――っ!」

 

 

 止める暇もなく、弦司はその名を自然と口にしていた。天元によるあまりに鮮やかな手腕だった。

 ――弦司が死ぬかもしれない。

 その思考が頭を過ぎっただけで、カナエの鳩尾の辺りが酷く冷たくなって、手足の感覚が分からなくなる。

 しかし、すでに事は起きてしまった。カナエは息を凝らしてただ祈る。意味はないと分かってはいたが、祈らずにはいられなかった。

 静寂が場を支配する。痛いほどの沈黙は、五秒、十秒と続いていき──。

 

 

「……なあ、どうしたんだ?」

 

 

 弦司が沈黙を破った。弦司は何も変わりなく、ここにいる。

 生きている。生きていて、本当に良かった。しかし、安堵している暇はない。

 カナエは詰まっていた息を吐くと、一気にまくし立てる。

 

 

「鬼舞辻の名を口にした瞬間、普通はどの鬼も死にますが彼は生きています。これは鬼舞辻の情報を得るまたとない機会でございます。弦司さん、あなたを鬼に変えた下手人、鬼舞辻無惨について、ご説明いただけませんか?」

「死!? っ、カナエの気遣いか……ああ、俺の知っている事なら、全部答えますよ」

 

 

 カナエの言葉に恐怖を見せながらも、弦司は半年前の出来事を気丈に語ってみせた。

 ――初めて聞く弦司の境遇は『理不尽』の一言に尽きた。

 『永遠』『不変』。

 奴の持つ価値観から正反対に弦司がいたから鬼にした……カナエは想像するだけで腸が煮えくりかえる。奴だけは、同情も救いも絶対に与えないと改めて決意する。

 弦司の話を聞いた者たちの反応は、だいたい二つに分かれる。カナエのように奴の存在そのものに怒りを覚えるのが、実弥と行冥。耀哉と天元は感情を露わにする事はなく、思案に没頭していた。しのぶだけが、情報量の多さに目を白黒している。

 考えがまとまったのか、耀哉が顔を上げ半分の視界に弦司を収める。

 

 

「ありがとう、弦司。君の命を懸けた証言は必ず鬼殺隊の役に立つよ」

「……はい」

 

 

 耀哉の礼にも、弦司は素っ気無い。耀哉は寂しそうに笑った。

 他にも言いたい事、伝えたい事が耀哉にはあるのだろう。カナエは申し訳ないと思いつつも、今が押し切る好機。遮る様に声を上げる。

 

 

「不破弦司は鬼殺隊において唯一無二の働きをしました。私はこれを以て、彼の処罰の取りやめを願います」

「……私はカナエの意見に賛成したい。他の剣士(こども)達はどう思っているかな?」

「お言葉ながら!」

 

 

 実弥はそう叫ぶとカナエを、弦司を睨みつけ立ち上がる。

 

 

「人間なら理解しますが、こいつは紛れもない鬼です! 何より、未だ人を喰らわない事を証明できていない!」

「ですから、半年いただければ証明を――」

「半年も必要ない! 今この場で……俺が証明します!」

 

 

 実弥は日輪刀を抜く。弦司を傷つける訳でも、ましてはカナエに刃を向ける訳でもない。

 ――刃の先は、実弥自身。

 彼は腕を斬る。鮮血が舞う。何事かと振り返った弦司の顔に血飛沫が飛ぶ。

 

 

 『(まれ)血』。

 

 

 人の中に極少数、珍しい血がある。鬼にとって希少な血とは、五十人にも百人にも匹敵する栄養となる事がある。

 実弥の血は、その稀血だった。しかも、さらに希少な()()()()()()()血。

 鬼達は実弥の血を浴びれば最後、前後不覚となり何も分からぬまま稀血を求めてしまうのだ。

 弦司は人に対する己が()()を最も嫌悪している。嫌悪して止まないものを呼び起こそうと、実弥はしている。

 耀哉の願いでもない。カナエは実弥を止めようと立ち上がり、しかし天元が立ち塞がる。

 

 

「退いてください、宇随さん。鬼舞辻の情報提供直後に追い詰めるなど、正気ですか? いくら何でも、惨すぎます」

「脳味噌爆発してんのか。人を喰わない事を派手に証明しない限り、鬼を生かす訳ないだろ」

「だから半年――」

「そんな地味な証明、一度の稀血で派手に覆されるぞ」

「――っ!」

「あいつが生き続けるには、稀血を派手に乗り越える以外ねえんだよ」

 

 

 カナエは反論できなかった。運が良ければ……本当に運が良ければ、稀血に会わなくて済む。

 だが、そんなの有り得ない。カナエは他の鬼のように人里を離れ、宵闇を生きる弦司を望んでいるわけではない。人の営みの中に、弦司がいる事を望んでいる。カナエと話しただけで流した涙……その想いを守っていきたいと思っていた。

 その想いを叶えるには、弦司は色々な人と出会い交わる。いつか必ず『稀血』と巡り合う。天元の言う通り、望みを叶えるなら乗り越えるしかなかった。

 そして、稀血に対する対応策を、カナエは何も用意していなかった。もうカナエには、弦司を信じて待つしかできない。

 それでも何かできないかと思い、

 

 

「な、何だよ。これなら、一回経験済みだ、大したこと――」

「弦司さん、気を強く持って!」

 

 

 そんな足しにもならないような、応援しかできない。

 弦司がカナエの意を汲み取ってくれたのか、立ち上がると実弥から慌てて後退った。

 大丈夫と思ったのか、弦司はカナエに視線を送る余裕さえ感じる。しかし、一滴、二滴と実弥の血が流れ落ちるたびに、弦司の顔色から余裕は消えていった。

 視線は段々と実弥の血に釘付けとなり、呼吸が荒れていく。

 ――ポタリ。

 弦司の口から、涎が一筋垂れ落ちた。それを切っ掛けに、次から次へと涎が溢れてくる。弦司は口を拭わない。実弥を、血を、物欲しそうに眺めるだけだ。

 段々と酩酊が回ってきたのだろうか。視線から意思が抜け落ちていき、足元が覚束なくなる。

 

 

「い、嫌だ……! 俺は、こんなの、こんな、違う……!!」

 

 

 弦司は欲求を拒絶しようとする。それでも、本能は稀血を求めるのか。ゆっくりと弦司の手が実弥に伸びていく。

 そんな弦司を見て、実弥は嘲笑を浮かべる。

 

 

「やっぱりなァ。こっちが本当の飯なんだろ鬼ィ!」

 

 

 何で笑う。何で笑える。

 彼の理性を奪って、彼が最も毛嫌いする本能を呼び起こして。どうして笑えるのか。

 カナエには全く分からない。

 

 

「ね、姉さん……!」

 

 

 しのぶがカナエの手を握った。いや、正確にはカナエの拳を解こうとしていた。いつの間にか、拳を強く握っていたらしい。血が畳に落ちていた。

 でも、これがどうした。こんな痛みの何倍も弦司は苦しんでいる。

 

 

「弦司さん!」

「……っ!?」

 

 

 カナエの呼び声でも何か効果があったのか。一瞬、弦司はカナエに視線をよこす。瞳に理性が戻り――絶望に染まる。

 どうして、何で、俺はこんな事をするのか。嫌だ。本当に嫌だ。カナエにはそんな声が、聞こえてくるようだった。

 見ているのさえ、苦しい。だけど、弦司はもっと苦しんでいる。

 乗り越えてくれと何度も何度も願う。弦司は歯を食いしばり、自身の手を止めようと腕に力を込める。

 それでも、段々と目から理性が失われいく。本能が、稀血を求める。

 こんな結末、あんまりではないか。これではまるで、弦司を苦しめるためにカナエが生かしたみたいではないか。

 嫌だと何度心の中で否定しても、弦司は止まらない。弦司が実弥に近寄る。後は、そのまま手を掛けるだけ。

 ――そう思った瞬間、鈍い音がした。

 血が、辺りに飛び散る。だが、それは実弥のモノではなく、弦司のモノ。

 弦司は自分自身を殴っていた。

 

 

「くそっ! 止まれよ!」

 

 

 血が飛び散ろうと、骨が陥没しようと構わず。さらに二発、三発と殴る。痛みからか、弦司の目に確りとした理性が戻ってきた。

 弦司は再び理性が失われる前に、部屋の隅に蹲った。もう動かないと、大きな体を小さく小さく丸めた。弦司はそのまま動かなくなる。

 実弥が呆然とし、天元は驚きに目を丸くする。行冥は見えない目で弦司を凝視していた。

 ――乗り越えた。弦司は、稀血を乗り越えてみせた。

 だが、カナエの心に喜びは湧いてこなかった。

 

 

「くそっ……! 何で……! 何で俺は、いつもこうなんだ……!!」

 

 

 弦司は泣いている。隅で蹲って震えて、血まみれで泣いて耐えている。こんなの、喜べるはずがなかった。

 

 

「カナエ、彼を別室に連れて行ってくれないか」

「御意!」

 

 

 耀哉の指示に、カナエは一も二もなく承諾し、弦司に駆け寄った。涙と涎と血で、顔はぐちゃぐちゃだった。

 連れて行かせようと手を取る。拳は彼の血と体液で濡れていた。努力の証とするには、あまりに惨すぎる。

 まだ足に力が入らないのか、弦司はカナエに寄りかかってきた。カナエはしっかりと弦司の肩を抱き、支える。震えが伝わってくる。

 

 

「弦司さん、ごめんなさい。こんな酷い事ばかり強いてしまって」

「……分かってる。分かっては、いるんだ。だけど、辛いよ」

「はい」

「苦しいよ」

「はい」

 

 

 ――何で鬼なんかになったんだろうな。

 

 

 こんな思いをさせて、後悔しかない。

 

 

「ごめんね」

 

 

 退室する際、背後から耀哉の謝罪が聞こえた。

 弦司にその言葉は届いていなかった。

 

 

 

 

 なんだこれ。

 それがしのぶの率直な感想だった。

 急に柱合会議の場に連れ出されたかと思えば、鬼舞辻の情報に、血まみれになってでも飢餓に耐える鬼。

 情報過多で頭の中が全く整理できない。

 その中でも、一番衝撃だったのは自身の姉と不破弦司。

 

 

「何が大丈夫よ……」

 

 

 しのぶから見た二人は、仲が良くて楽しそうで、弦司が鬼である事をつい忘れてしまう事もあった。その認識は大きな間違いだった。

 楽しいだけではない。その裏には、鬼ゆえの苦しみがある事を、しのぶは初めて認識した。

 今後、どうやって弦司と接すればよいのだろうか。少なくとも、今までの態度では接する事はできなかった。

 

 

「鬼という病を持った人」

 

 

 カナエと弦司が退室した後、耀哉が呟いた。

 言い得て妙だ。確かに、彼の振る舞いや心の在り方は完全なる人だ。しかし、心の奥底にはどうしようもない鬼の本能がある。本人だけの努力では取り除けない負なる面……確かに、その在り方は病と似ていた。

 

 

「彼の事は、きっとカナエにしか任せられないと思う。全てカナエに任せていいかな」

「御意」

「御意」

「……御意」

 

 

 三人の柱から承諾が返ってくる。

 耀哉は嬉しそうに笑うと、ゆっくりと立ち上がる。

 

 

「それじゃあ、私はこれで失礼するよ。少し疲れてしまったみたいだ」 

 

 

 そのまま耀哉は座敷を後にした。部屋には柱三人としのぶ、計四人が残される。

 正直、気まずい。血まみれの座敷に柱三名と同室とかどうすれば……と思うしのぶを余所に、実弥は真っ先に立ち上がる。

 

 

「不死川さん、どちらに行かれるんですか?」

「任務に決まってんだろうがァ」

「大変不本意ですけど、治療ぐらいならしますよ?」

「うるせえェ。こんなのかすり傷だァ」

 

 

 今朝、どこかで聞いたような言葉を吐いて、実弥は出て行ってしまった。歩いた後に、血痕はない。血は確かに止まっていた。やはり、柱になるにはあれぐらい化け物でないといけないのだろう。

 実弥が出て行くと、今度は天元が立ち上がる。

 

 

「派手に動いて疲れたから、俺も帰るわ」

「……お疲れ様です」

「そんな顔で睨むなよ。必ず丸く収まるよう、どっちに転んでもいいようにしただろうが」

 

 

 鬼殺隊にとっては丸く収まるよう、ね……という言葉をしのぶは飲み込む。鬼殺隊の不利益を歓迎するような発言は、さすがに憚られた。

 代わりに、部屋から出た姉とあの男を案じる。

 

 

「姉さんと不破さんは大丈夫でしょうか? 私には丸く収まっていないように見えるんですけど」

「あれは二人の問題だろ。俺は関係ない」

 

 

 それだけ言うと、天元は部屋を出て行こうとする。柱が掃けて助かる──とか思ってると、出る直前で振り返る。ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべて。

 

 

「そういや、あの二人はどこまで進んでんだ?」

「は? どういう──」

 

 

 天元の言葉で思い起こされるのは、五日前の出来事。自身の勘違いで、二人はそういう関係だと早とちりし、挙げ句の果てには弦司を義兄とまで呼んでしまった。

 未だ消化できない過去の想起に、しのぶは羞恥で顔が熱くなる。それをどう読み取ったのか、天元は口笛を吹き、悲鳴嶼は数珠を爆砕した。

 

 

「胡蝶もやることは地味にやってんだな。いや、相手が鬼だと考えると、ド派手だな」

「あぁ、なんと愚かなことを。彼には恋人がいると聞いている……早く愚かなあの男を殺して解き放ってあげよう」

「脳味噌爆発してんのか? 恋人の一人や二人、嫁の二人や三人いても問題ないだろ」

「問題だらけだ」

「あーっ! 違います、私の勘違いです!」

 

 

 あらぬ方向に話が飛んでいきしのぶは慌てる。収めるには、自身の恥を晒す他ないだろう。

 もうここにいない男を考えてもしょうがない。それに彼自身の努力の結果、今後も一緒にいるのだ。

 しのぶはとりあえず弦司の事は保留とし、二人の誤解を解く事にした。

 

 

 

 

 退室するなり、御内儀──産屋敷あまねが先導し、別室へと案内された。彼女は嫌な顔一つせず、すぐさま弦司の汚れを落とし、カナエの掌も治療。さらには、部屋には大量のおにぎりが用意周到に準備されていた。

 彼女は何も発言せず、会釈だけをして部屋を後にした。

 ――弦司と二人きりになった。

 カナエは弦司と隣り合わせに座る。

 弦司が黙々と食事を摂る傍ら、カナエは黙って俯く。声を掛ける勇気を持てなかった。

 理由は二つ。

 一つは守ると言いながら、何もできず空回りするばかりで、最後には弦司に負担を強いて、彼を傷つけさせてしまった事。

 もう一つは一時の感情に流されて、飢餓に苦しむ弦司の前で出血してしまった事。

 無様で滑稽で情けなくて、本来なら顔も合わせられないが、逃げるのは一番無責任な選択だ。カナエは罵られても軽蔑されても、最後まで弦司に寄り添わなければならない……もちろん、弦司が酷い事はしないと分かってはいる。

 弦司がおにぎりを飲み込んだ機に、なけなしの意地を振り絞り話しかける。

 

 

「弦司さん、落ち着いた?」

「ああ……」

「…………あの」

「なあ、カナエ」

「……はい」

「お互い酷かったな」

 

 

 カナエは顔を上げ、弦司を見る。彼の方が遥かに背が高い。自然と見上げる形になる。

 弦司の顔は力がなく、目には涙の後も残っていた。

 弦司はカナエを見下ろす。きっと、弦司の目にも同じように酷い顔のカナエが映っているだろう。

 

 

「……そうね。お互い行き当たりばったりで、空回りしてばかり。今、一緒にいられるのは……弦司さんが頑張ったから」

 

 

 カナエは堪らず目を逸らす。鬼舞辻の呪いに稀血……全て弦司が一人で戦い、勝ったからこそ今も彼は生きている。カナエは何もしていない、できてない。歯がゆかった。

 

 

「本当に弦司さんはすごいわ」

「……あんなみっともない姿が?」

「そんなことない」

 

 

 カナエは逸らしていた視線を戻す。弦司を貶めるような言い方は、例え彼自身でも容認できない。弦司と同じ事を、一体誰が成し遂げられると言うのだ。

 

 

「弦司さんは十分に頑張ってる。頑張りすぎてる。本当なら、もっと私が――」

「カナエ、もうそれじゃあ足りないんだ」

 

 

 足りないのは私だ――そう言い返そうとして、言葉に詰まる。弦司の涙の跡が残るその顔に、決意が宿っているのが見て取れた。

 カナエは場当たり的な反論を飲み込む。

 

 

「俺達は甘えてたんだ」

「甘えていた?」

「ああ。俺はカナエの『助ける』って言葉に。カナエは()って立場に」

「甘えって何? あなたを助けるのは、柱の立場がある私で――」

「違うんだ、カナエ。お前は柱の力を使って俺を助けて。俺は百回の恩恵にささやかな一個を返す。だけど、それだけじゃ、()の俺が生きるには全然足りないんだ」

「――っ」

 

 

 否定の言葉が出てこない。今さっき、何もできなかったのは()の自分だ。足りない。確かに何もかも足りていない。やっと本当の意味で救える人に会えたのに。自分では助けられない。あれだけ救うと謳っていたのに、何と滑稽な事だろうか。

 カナエが自嘲気味に笑うと、コツンと弦司が頭を叩いた。

 

 

「いたい」

「今、馬鹿な事考えただろ?」

「だって――」

「だってじゃない」

「……ごめんなさい」

「カナエが頑張ってくれているのは分かってるんだ。何もお前を否定したいんじゃなくて……これからはやり方を変えようっていう提案なんだ」

「やり方?」

 

 

 弦司はカナエの両手を取る。彼の大きな掌が、カナエの両手を優しく包み込んだ。

 

 

「俺を助けるとか救うとかじゃなくて。()()()()()()()、その手助けをしてくれないか」

 

 

 弦司の提案はカナエが考えたこともない内容だった。

 弦司が身を屈め、カナエと視線を合わせる。弦司の赤い瞳が、よく見える。

 

 

「俺が無害で穏やかな存在だって分かれば、平和に暮らせると思っていたんだろ?」

「……はい」

「でも、そんな存在認められるはずがないんだ。俺が化け物で、それでも人間社会にいたいなら、人間の役に立つことを示し続けなきゃいけないんだ」

「……そんなの、おかしい。弦司さん、何も悪くないのに……それに化け物じゃない」

「ありがとう。だけどな、これは良いとか悪いじゃないんだ。俺が人と暮らすなら、これは絶対にやらなくちゃいけないんだよ。柱合会議でそれは分かっただろ?」

 

 

 弦司の通り、思い知らされた。柱という立場に胡坐をかくだけではダメだと。ただ大切に壊れ物のように扱っても、周囲は安全で役立つのか証明を求められる。

 分かる。分かるが、これではカナエの取った行動は、いくら何でも惨すぎる。

 

 

「頑張ったと褒めそやして。守ると助けると嘯いて。結局は人の間に放り込んで、働かせる……これじゃあ、詐欺みたい」

「カナエ、その言い方はさすがに自虐が過ぎる。本気で怒るぞ。少なくとも、俺は命を救われてるんだ、自分の行動を否定しないでくれ」

「……ごめんなさい」

 

 

 窘める様に弦司は言う。しかし、細められた両目からは優しさを感じる。繋がった手から彼の体温を感じる。

 

 

(優しい。温かい。彼を助けたい……助けたいなぁ)

 

 

 心の底から渇望する。鬼となった弦司を助けたい。だけど、それは柱でも叶わない。カナエ一人では叶えられない。

 今日、散々打ちのめされた。夢を叶える力は自身にはないのだと知り、胸が苦しくなる

 ――それが、何でだろうか。

 

 

「これからはちゃんと()()で協力して頑張ろう」

 

 

 ──二人で。

 その言葉一つで苦しみは取り払われる。

 

 

「カナエ」

「はい」

「俺が人を助ける、手助けをしてくれ」

「はい」

「俺もカナエが(ひと)を助けられるよう、協力するから」

「――」

 

 

 一人でダメなら二人。

 助けてもらえないなら、まず助ける側になる。

 単純な話だ。だけど、とても気持ちのいい結論だった。

 胸の苦しみはなくなった。代わりに温かいものが広がっていく。

 カナエは自然と笑っていた。

 

「共同作業……」

「うん?」

「つまり、ここからは二人で初めての共同作業っていう事ね!」

「だから言い方!」

「? 何か間違ってる?」

「いや、だからそれは飯を食わせるアレで……いや? 今の文化だとそもそもないのか……やっぱ何でもない」

 

 

 何やら弦司が慌てて否定し、カナエの手を離す。何か気がかりでもあるのだろうか。でも、口元は笑っている。なら、大丈夫だろうか。

 それよりも、心が軽くなった。だからだろうか、お腹が空いてきた。

 

 

「弦司さん、私もおにぎり食べていいよね」

「まあ、俺が作った訳じゃないけど。これだけ食事あるんだし、一緒に食べようか」

「うん!」

 

 

 カナエは早速、大皿に大量にあるおにぎりの中から一つを掴むと口に運ぶ。米が一粒一粒立っており、食感が良い。冷めても美味しい。具の梅干しも良い物なのか、程よい酸味が疲れた体に心地良い。

 あっという間に一つを食べ終える。

 横目で弦司を盗み見る。すでに三つを食べ終えたにも関わらず、さらに追加でおにぎりを頬張っている。本当においしそうに食べてる。

 料理が美味しいだけじゃない。きっと今この瞬間、カナエと弦司が一緒にいるから、こんなにも美味しい……かもしれない。

 

 

(二人で美味しい食事に、共同作業か……)

 

 

 そんな事を思っていたためか、カナエの頭の中で二つの単語が合体。先の弦司の様子にある一つの推察が立った。

 

 

(……食事がどうのこうの言ってたけど、なるほど。弦司さんは二つの約束『美味しい食事を一緒に食べる』『二人で協力する』を合わせて、そういう想像をした訳ね。何て逞しい想像力かしら~)

 

 

 カナエの言い方が悪いのではない。弦司の柔軟な発想力が悪いのだ。

 ──そんな悪い男はイタズラされてもしょうがないと結論づける。

 

 

「弦司さん」

「どうした?」

 

 

 カナエは自分でも悪い顔だと自覚しつつも、口角が上がるのを抑えられない。弦司が驚く様を想像しながら、おにぎりを差し出し、

 

 

「あ~ん」

「!?!?!? げほっ! げほっ!」

 

 

 イタズラは大成功だった。咽せる弦司を見て、ますます顔の緩みが酷くなる。

 

 

「どうしたの、弦司さん? さっき話したじゃない、二人で初めての共同作業だって」

「っ!? やっぱりわざとだったんだな、カナエ!」

「心外だわ~。弦司さんの心中を察して、二つの約束が同時に叶うように気を遣ったのに~」

「いらんわそんな気遣い……! くそ、今までそうやって、何人男を泣かせてきた!?」

「え……弦司さんが初めての(泣かせた男の)人よ」

「だから言い方ぁっ!」

 

 

 憤慨する弦司を見て、笑いが止まらなくなる。こんな何でもないやり取りが、とても楽しい。だから、まだまだイタズラは止めない。

 

 

「ほらほら。手が疲れるから、早く食べて。あ~ん」

「……ちくしょう」

 

 

 ニコリと笑うと、弦司が諦観して口を開く。最近分かったが、笑顔が弦司は好きらしい。カナエもしのぶの笑顔が好きだからよく分かる。今後も頼み事をするときは、笑顔でいこう。

 そんな事を考えながら、カナエは弦司の口におにぎりを運ぶ。弦司がパクリと食べると、半分以上が彼の口の中に消える。カナエとしのぶと違って、口も掌も本当に大きい。そんな小さな発見が楽しい。

 一つ二つと次々と弦司の口へおにぎりを詰め込む。

 

 

「あの、カナエ? もうそろそろ」

「もう一回。あともう一回だけだから」

「……」

 

 

 ますます楽しくなってくるカナエ。表現は悪いが、動物への餌やり染みていて、食べてくれるのがとても楽しい。特に、しのぶが毛の生えた動物が苦手で飼った経験がないため、より楽しく感じる。

 

 

「も、もういいだろ」

 

 

 結局、もう一回が六回ほど続いた所で弦司が口を閉じる。もちろん、弦司が口を閉じた所でまだ終わるはずがない。

 

 

「あ~ん」

「な、何だよ。カナエが口を開けて、どういうつもりだよ」

「ほらほら、初めての共同作業なんだから、あなたもやってみて。あ~ん」

「やっぱり分かってやってるだろっ!!」

 

 

 言いつつも、弦司は律儀におにぎりを差し出す。

 何だかそれが無性に嬉しくて、カナエはおにぎりに食いついた。

 弦司が手ずから食べさせたおにぎりは、とても美味しかった。

 

 

 ──ちなみに、後に正気に戻ったカナエは、一週間ほどおにぎりを見ると赤面するようになった。台所では、嬉々としておにぎりを握る弦司の姿がよく見られた。

 

 

 

 

 ――熊谷(くまがや)(たまき)の生まれは恵まれていたと言える。

 片田舎の小さな町ではあったが、生家は地元では名家と呼ばれる家だった。

 厳しくも優しい両親に、頼りになる兄と姉。気の許せる許婚もいて、将来、幸せになる事を疑っていなかった。

 

 

 ――それが崩れたのは、十五の時だ。

 

 

 環を嫁に出すのを渋っていた父が、とうとう環を嫁に出すことを決めた年。環の体は急速に成長していった。

 身長はあっという間に、姉を、母を、兄を、そして父までも追い越した。

 困惑する家族。ただ、背が伸びただけなのに……そんな思いを許婚に告げると、返ってきたのは拒絶だった。

 ――お前みたいな男女と結婚はできない。

 何で、体が大きくなっただけで。自分は変わっていないのに。

 何度伝えても、今の環を受け入れてくれなかった。

 婚約は破棄になった。

 今までの人生はなんだったのだろうか。自分の積み重ねてきたものは、こうもあっさり崩れ去ってしまうのか。何とも空虚だった。

 そして、この婚約破棄は悪評となり、環の貰い手はいなくなった。

 気づけば、二十歳を迎えた。もう故郷に環の居場所はなかった。

 そんな時だ。東京に行った叔父から手紙が届いたのは。

 環の不遇を知った叔父は、新しく始める商売の手伝いを環に求めた。何の未練もなく、叔父の誘いに乗った。

 新しい商売とは喫茶店だった。そこの給仕として、環は働いた。

 だが、俯いていたばかりの環は、あまり優れた給仕とは言えなかった。

 ――そうして、鬱々としていた日々は、突如として終わりを迎える。

 『悪食家』。

 そう呼ばれる不破家の三男が、喫茶店を訪れた。

 どんな珍品だろうが、楽しく嬉しく受け入れる()()()。しかし、審美眼はかなりのもので売れると言ったものは必ず売れる。そんな悪評と好評が混じった、一般的に言えばおかしな男だった。

 彼は入店するなり、環に話しかけてきた。

 最初は警戒した。彼は何だって楽しむ『悪食家』だ。いくら行き遅れとはいえ、好きにされて喰い捨てられたくはなかった。

 それでも、彼はしつこく何度も何度も話しかけ、ついに環は言ってしまった。

 

 

 ――さすが悪食家様。私を食い散らかして、捨てるおつもりですか。

 ――人聞きの悪い事言うなよ!?

 ――私は二十でございます。

 ――あっ、俺、二十三。お似合いだな。

 ――身長が高うございます。

 ――俺の方が高いけど。

 ――だらしない体でございます。

 ――えっ……その、ありがとう?

 

 

 何と言っても彼は怯まず、楽しそうに……本当に楽しそうに話していた。

 そして、環は折れた。もう騙されてもいいから。少しでも、この時を過ごしたい……。

 もちろん、実際は騙すつもりなんて毛頭なく、嬉しくて楽しい時間を何度も何度も過ごせた。

 愛を示せば示すほど、彼も愛で返してくれた。幸せな日々だった。

 そして運命の日。彼に婚姻を申し込まれた。生まれて一番幸せな日だった。

 

 

 ――それもまた一瞬で壊された。

 

 

 何度思い出しても、何が起きたのか分からない。

 分かっているのは、最高の幸福を壊された事と、弦司を失った事。

 気が狂いそうだった。

 それでも歯を食いしばって立ち上がり、彼の生家を訪ね遮二無二頼み込んだ。環と弦司との間に、正式な婚姻関係はない。警察に駆け込んでも、捜索願は出せない。環には弦司を探してくれ、と縋るしかなかった。

 環はそのまま不破家に温かく迎え入れられた。弦司は本気で環との婚姻を考えており、すでに両親には伝えていたのだ。

 涙が出た。彼がここまで想っていた事に。弦司がいなくなり全てを失ったと思った人生にも、ちゃんと残っていたものがあった事に。

 不破家で寝泊まりし、給仕もしつつ、弦司を探す日々。辛くなかった……と言えば嘘だが、それでも確実に前に進めていた。弦司に再び会えても、恥ずかしくない自分でいられた。

 しかし、捜索は難航し、気づけは二つの季節を跨ぎ――八か月が過ぎていた。

 弦司がいない日々が日常となりつつあるその時、突如として手紙が届いた。

 差出人は『不破弦司』。

 心臓が高鳴った。彼か、いや本当に彼なのか。不安はあったが、手紙を読んだ。

 筆跡は全て弦司と同じだった。彼が生きていた。

 読みながら涙が止まらなかった。生きていた。それだけで、心の底から嬉しかった。

 しかし――書いてあったのは、自身の望まない内容だった。

 途中から、涙の意味は変わった。動悸がして、呼吸が定まらなかった。

 気づけば、弦司の父――不破弦一郎(げんいちろう)と母のあやのが傍にいた。同じように二人にも手紙が届いていた。

 

 

「手紙一つで済ませおって」

 

 

 弦一郎は弦司に似た大きな肩を怒らせて言った。

 

 

「何時になっても手のかかる子よ」

 

 

 あやのは弦司に似た柔らかい笑みを浮かべて言った。

 平たく言えば、どちらも弦司の意見を容れるつもりはない、との事だった。

 

 

「あなたはどうします?」

 

 

 あやのの大きな瞳が環に尋ねる。

 この八か月、弦司を想わない日はなかった。どれだけ苦しくても辛くても、彼がいれば、彼がいてくれれば。それだけで、力が湧いてきた。今だって、その想いは変わらない。

 答えは決まっていた。

 

 

「弦司様と一緒に帰りたい」

 

 

 弦司の帰る場所はいつだって(ここ)だ。

 もう二度と離さない。

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