単行本未収録分のネタバレを多分に含みますのでアニメ派、単行本派の方はご注意を。
その夜、ひとつの幸せが壊れた。むせ返るような血の匂いで満ちた剣道場に男が独り、失意の底で座していた。ささやかな幸せを掴んでいた男の両手は血に穢れ、守る為にあったはずの技は幾つもの死で堕ちた。六十七もの無残な死体と、その返り血を一身に受けた惨めな男を、美しい上弦の月が残酷なまでに明るく照らしていた。
黒い小袖と袴、そして炎を思わせる意匠の羽織を羽織り、腰には鎬作の日輪刀と呼ばれる刀のみを携えた精悍な顔立ちをしたこの青年は、人知れず人喰い鬼から只人を守る、江戸幕府非公認の組織「鬼殺隊」で最も位の高い剣士、「柱」の一人である。
(ここ数日、この辺りに鬼の気配はなかったはずだが...)
常人の目には留まらぬ程の速度で疾走しながら鬼の気配を探るが、それらしいものは見つけられない。達人である煉獄は彼らの気配を正確に悟ることが出来るが、遂にその気配をまるで察知することなく鬼が出たと騒がれている剣道場に辿り着いた。
深夜にも関わらず門は無造作に開け放たれており、そこから凄惨な血の匂いが漂っている。
「遅かったか...」
煉獄の口から後悔の念が漏れる。依然鬼の気配は感じられないが、注意を払いつつ煉獄は腰の日輪刀を抜き、道場へ歩みを進める。
日輪刀は太陽に最も近い山で採れる鉱物で打たれた刀であり、この刀で鬼の頸を断つことが、人間に可能な唯一鬼を滅する手段である。また柱である煉獄の日輪刀にては「悪鬼滅殺」の四文字が特別に意匠が施されている。この刀は遣い手によって刀身の色が変わるという不可思議な性質を持ち、煉獄の日輪刀は情熱的な赫に染まっている。
道場内には目を疑うほどの無数の遺体が転がり血の海と化していた。そのほとんどが原型が分からないほど欠損しており、またその遺体からまろびでた内蔵や脳、四肢に眼球、骨に至るまでかつて人の一部であったであろう物質が天井及び壁に飛散していた。煉獄はここが地獄と言われても疑う余地がないほどの惨状の中に一人だけ彼と同じ年代の青年が生きているのを認め、その人物が鬼ではなく、しかし強烈な殺気を放っていることを悟った。そしてその殺気から、彼がここの人間を虐殺したのだと言うことも理解した。
「鬼の気配のない場所で鬼が出たとの騒ぎがあったので出向いてきてみれば!」
煉獄は美しい刀を鞘に収めながら地獄に似つかわしくない明朗な声で惨劇の中に佇む青年に語りかける。
「ただの人間だったとは!!」
煉獄が最後まで語らぬ内に青年が瞬く間もなく間合いを詰め、血に濡れた右の拳を煉獄の腹部を狙い打ち出す。煉獄は一瞬驚きの表情を見せるが直ぐにその手首を同じく右の手で掴み、同時にもしこの拳を防げなかったなら今頃己の腹部には風穴が空いていただろう事を直感した。煉獄は拳を掴む手の力を微塵も緩めることなく続けた。
「俺は鬼殺隊炎柱、煉獄黎寿郎!君は何者だ!」
およそ理性があるとは言えない青年にこの声が届いたとは思えないが、この呼び掛けに呼応するように青年は右腕を掴まれた状態のまま左足で蹴りを繰り出す。鉄さえ歪めるであろうその脚を躱す為に煉獄は右手を離し後方へ跳ぶ。青年は半ば本能的に右腕と右脚を前方へ向け戦闘態勢をとる。両者とも互いの間合いに入らない距離で膠着状態が続き、視線だけが交差する。煉獄は青年の射殺すような殺気を孕んだ双眸に途方もなく深い絶望が浮かんでいるのを感じ取った。月明かりの下で、あまりにも長い一瞬が過ぎた。青年の殺気が質量を得たかのような犀利な蹴りが静寂を裂いた。瞬間。煉獄から燃え盛る炎を思わせる轟音が響き、青年の脚が空を切った。気づけば青年はうつ伏せの状態で地に伏し、煉獄がその背中の上で不遜な笑みを浮かべている。そして背後を顧みる青年に笑みを消さないまま問うた。
「お前も鬼殺隊に入らないか?」
これは、全てを失った狛犬の決して有り得ることの無い、「もしも」ですらない泡沫の夢。願わくば、彼の泡沫が花火の如く美しく散らんことを。
お手柔らかにお願いします