気づいたら鉄格子の中にいた。それがわたしの最初の記憶である。それまで何をしていたのか、自分が何者であったのかも知らない。そもそも何もしておらず、それまでは生まれてもなかったのではないかとも思っている。
3年間。わたしはこの狭い独房のなかでひっそりと暮らした。四方がコンクリートの壁で囲まれているせいでその日の天気もわからないどころか、時計もないので朝なのか夜なのかもわからない。しかし何となく夏と冬は判別できる。夏は寝苦しく、冬はずっと起き上がれなくなるからだ。独房の温度管理が適当だったおかげだろう。
ここでは基本的に私とベッドとトイレと天井の電球だけしか存在しない。あとは朝と夜の二回だけガスマスクを被った人が食べ物を与えに来てくれる。鉄格子の扉の隙間から長方形の黄色い何かを投げ入れるのだ。背が高い無口な人で、いつも黒に限りなく近いグレーのスーツを着ている。この三年間、一言も声を聞いたことが無い。機械的にこちらにやって来ては、黄色い何かを投げつけると、踵を返して元の場所に戻っていくだけだ。わたしが話しかけてもまともに返事をした試しがなく、もしかしたら人間ではないかもしれない。とにかく私はその黄色い謎の物体を食べて生きている。味は何もしない。無味。不味くもなければ、美味くもなく、ただ私を生かすために存在している代物だ。触感は焦げたクッキーに似ている。
誰がどんな理由で私をこのなかに閉じ込めたのか何もわからない。おそらくガスマスクの人が私を閉じ込めているのだろうが、喋りかけても返事はないため、その考えも疑わしいものだろう。三年間。わたしは誰とも交流はなかった。とても長い時だ。しかし大半は無為に過ごしていたので、その時の流れは今思うとこれまでの人生でも体感的にはかなり速かった。きっと何も考えていなかったからだろう。家畜のように運命を受け入れるほか無かったのだ。幸せなことだった。
その頃、独房が世界の全てだった。本もテレビも酒も友達もいない。私は有り余る時間を頭の中で生活して過ごした。トイレのなかの水溜りに写った自分をブルー君と名付け、仲良しの話し相手にした。彼はとても賢く、D・K大学でオワク学を専門としている学生なので、わたしの疑問に対していつも適切な答えを用意していた。彼の言うことは間違いなく、一見すると非論理的に思える考え方もわたしが浅学なだけで、後々になれば彼の語ったことが正しい結論と成り得ることが多いのだ。わたしはその度に彼に謝るが、何度も彼の話を疑うことを止められないでいる。
彼は私を28番ちゃんと呼ぶ。それが私の名前らしい。彼にとって数字は絶対的なものであり、数字こそが神であると信じているらしい。というのも彼はピタゴラス教団の末裔で、代々数学を崇めてきたのだ。しかしその先祖は教団から異端児だと認識されて溺死させられた。理由は28が完璧で唯一無二の数字だと考えていたからだ。それはピタゴラスの考えとは相容れないものであったらしい。
教団は28という偶数を軽んじていたのだ、とブルーは言っている。そう教えられても、数学に素養のないわたしには理解できない。わたしには28が特別だという結論しかわからないのだ。そしてそのことだけに限れば、ブルーだってわたしと同じだ。28の研究資料は教団に殺された先祖と共にこの世界から消失した為、末裔のブルーも28が何故特別であるのかを知らないからだ。(そもそもその研究資料にしたって、実際のところ正しいのかわからない。証明するものが何もないのだから)
28。理由はわからないが、とにかくそれがわたしの名前なのだ。意味はあるかもしれないし、何もないかもしれない。ただの膨大な数字の一つでしかないかもしれず、またそうではないかもしれない。便器の水溜りに写った彼が私にくれた名前だ。他に名前が無かったので、わたしもそれを名乗っている。