独房はとても素敵な場所だ。敵はいないし、何をしたって誰も私を咎めない。この世界にこそ自由があった。孤独は苦痛ではなかったし、わたしにとって外の世界こそが苦悩で溢れていた。それに一人が寂しかったら便器の蓋を開くと仲良しの話し相手がいる。彼はわたしを否定しない。ガスマスクの人だって私の独房に黄色い食べ物を投げ入れるだけで、部屋を掃除するように命令したりしない。一日中ベッドの横になっていても構わないし、裸になって踊っても何も問題は無いのだ。唯一困ったことは、定期的に猛烈と死にたくなることがあるぐらいだ。私はベッドのシーツを使って首吊り自殺をしてみたり、舌を歯で無理やり噛み千切ろうとする。残念ながらどれも成功していない。どうしても最後の一歩が踏み出せないのだ。悔しいが、どうしようもない。わたしも生物であることを受け入れるしかないのだ。
毛布の中で泣きながら自分の存在を自覚することが嫌で仕方ない。あるいはビルの屋上から落下する自分を想像して幸せだと感じる。ブルーは私のこの発作を「死ねない病」と言って笑っている。彼はわたしに死ぬ気が無いと思っているのだ。それどころか生きたくて仕方ないとも考えている。わたしは何故か激しい怒りが込み上げ、便器の蓋を力強く閉じる。そして次こそは本当に死んでやろうと58回目の決意をする。
何度か、ガスマスクの人の前で死んでみようとしたことがある。唐突に自分の死ぬ場面を見せたくなるのだ。わたしはそういう時、彼が独房に近づく足音に注意深く耳を澄ませ、黄色い食べ物を投げ入れる瞬間を待ち構える。そしてそのタイミングに合わせてコンクリートの壁に向かって頭を何度も打ち付ける。額から血が出る。頭がじんじんと痛くなる。それから意識が朦朧としてくる。もうこれ以上は危険だと自覚するところまで続ける。その間、ガスマスクの人はじいっと私を見ている。止めるわけでもなく、喜ぶわけでもなさそうだ。森の中の一本の木を眺めているように静かに眺めている。その木はきっと他と何も変わらないのだろう。わたしが壁から離れると、彼は完全に興味をなくしてどこかに行ってしまう。わたしはこの瞬間こそ、何よりも堪え難いものだと感じる。こんなことは道化のやることであり、阿呆のすることだと自分を責めざるを得ない。だが、わたしは飽きもせずこれを続けていた。
わたしが泣きながらブルーに笑われると知っていながら相談していると、一度だけ彼が真面目に対応してくれたことがある。彼はしばらく黙り、「なぜ死にたくなる? 」と訊ねた。その顔はわたしの落下する涙の波紋によって歪んでいたが、どの時よりも神妙な表情をしていた。わたしは瞼を瞑り、ゆっくりと首を振った。わからなかったのだ。代わりに例え話をした。(わたしは自分で理解できないことを説明する際はこの方法を頻繁に使う)たぶん頭のなかにどす黒い煙が入り込み、そいつが私を死にたくさせているのだ、と私は言った。きっとその煙は化学物質かなんかの人体に悪い煙で、わたしは弱いのでそいつには逆らえないのだ。ブルーはそれを聞くとため息をついて何も答えようとはしなかった。話しても無駄だと知ると、彼はにやりと笑いながら相手を嘲るか、全く無視するかの二択になるのだ。この状態になったら、たとえ激しく罵倒しても返事はない。あるいはろくな返事がない。これでは便器の中を覗くだけの人間がいるだけだ。
わたしはその日も黄色い食べ物を胃に落とした。辛くても生きるのだ。誰かがわたしにそう促している。わたしは弱いのでそれに徹底して反抗できないでいる。ブルーはそれが生き物の強さなのだと言っていた。鼻持ちならない口調だったので、わたしは蛇口のハンドルを捻ってトイレの水を流した。