ゴウゥッ!
耳のすぐ横を通った拳に僅か遅れて、突風が頬を撫でる。その風すらも最早打撃に等しく、楯無の頭を揺らす。だが致命的というには軽い、身体から反撃の力を奪い取るには足りない。
「フッ!」
鋭い呼気と共に、楯無の左腕が蛇のように走り、ルークの右腕に絡み付く。同時に右手で右肩を抱えるように掴んで、腰を落とし。
身体を回転させる力を使い、跳ね上げる!
『ヌウッ!?』
背中の上を飛び越えて、ルークは頭から床に落ちる。柔道の基本技のひとつ、背負い投げ。それに独自のアレンジメントを加えた殺人技である。固い床に、勢い良く、真っ逆様に頭を叩きつけられれば、頭蓋が砕けて脳漿を撒き散らすか、首があらぬ方を向くことになる。
だがルークは、頭が地に着く寸前で、床と頭頂の間に左手を滑り込ませた。彼本来の怪力に〈フォウマルハウト〉の金剛力が加わり、落下の勢いを全て受け止める。そればかりか、天井を向いている足を振り下ろし、楯無の顔目掛け強力な蹴りを繰り出して来た。
「くっ!」
すんでの所で首を傾け、攻撃をかわす。次いで素早く身を捻り、直撃をかわす。左肩の制服に、装甲が引っかかる。布を裂き、中の肉を抉る。
「……ッッッ!!」
悲鳴を噛み殺し、楯無は床を蹴る。横に逃げてから跳び退り、通路の中央に陣取った。
「……見た目の割に、随分身軽ですねえ」
軽口を叩くだけでも一苦労だった。口を開いたその刹那、喉奥から苦痛の叫びが暴れ出ようとするのを堪えるだけで、相当な体力と精神力が必要だった。その間にも、左腕の傷を確認する。肩から肘の上にかけて、縦に走った裂傷。痛むが、それだけだ。骨や神経に届くものではない。動かす分には問題はなかった。その度に脳髄を貫く激痛を度外視すれば。
(……集中を乱したゃダメ。今ナノマシンは制御をほとんど奪われてる……これ以上リソースは削れない)
楯無は瞳をルークから逸らさず、視界の端でビショップを見た。彼は楯無とルークの格闘戦から距離を置いている。
(……彼は……ナノマシンのジャミングに全力を割いている。攻撃に加わる余裕はない)
先ほど騙されたことを思えば、その結論も誘導されているという可能性は残るが。だが仮にそうだとすれば、最早楯無に勝利はない。即ち死。ならば、そんな可能性は考慮するに値しない。早々に放棄する。
(なら……ナノマシンの制御を取り戻そうと足掻くことは、止めちゃダメ)
今の楯無は、ナノマシンの制御能力を大幅に減じている。当然だ。ISのサポートを最小限しか受けられないのだから、自分の肉体すら完全には制御出来ない人間が、どうしてナノマシンまで十全に扱えようか。
それでも、完全に制御を捨てることは出来ない。先ほどは、ラスティネイルの表面を覆うナノマシンを操作されて、防御を妨げられた。侵食が更に進めば、身体の自由を奪われる可能性すらある。そこまでいかなくとも、ビショップが格闘戦に加わることになる。そうなれば捌き切れないことは明白だ。
ナノマシンにいくらかの意識を割きながら、鳩尾目掛けて伸びる腕を取る。打撃は効かない。投げは返される。ならば狙うは関節技だ。それも乱戦用の、手早くへし折る加減の効かない技。ルークの腕が伸びきった瞬間を見定めて、肘へ掌打を叩き込む。
「っ!?」
激痛。反射的に腕を引く。痛みの元を目で見て確認する暇はない。手を握り、開く。痛い。そして熱い。熱がそこから逃げていく感覚。――出血している。直前に触れたルークの肘には、赤く濡れた鋼。さっきまでなかった筈。
(
楯無は悟る。誘われた。敵は非武装非装甲だからといって、一切の侮りを持ってはいない。少しずつ、確実に、戦闘能力を削ぎにきている。それはとうに分かっていた。だが実際にその策に嵌まれば、どうしても冷静さを奪われる。
(左掌の裂傷……握力を大分殺されたわね……それに血で滑って、掴み技が使えない)
思考する。それは楯無に取り、心を落ち着かせるための儀式でもある。
故に思考する。次第に痛みは薄れ、顔には笑みが浮かぶ。それは楯無の心中を覆い隠す。鋼鉄製の仮面などよりよほど効果的に。
(さて、整理しましょう。彼らの目的は私じゃない。これは間違いない。なら玉砕覚悟の相討ち狙いは絶対にしない)
事実、ルークの足は止まった。誰がどう見ても、追い詰めているのは自分たちだ。この状況で余裕有り気な微笑みなどハッタリに決まっている。だがそう言い切れない何かがある。そう錯覚させることこそ楯無の狙いであると理解はしている。しかし、万が一。
意を決して踏み出したルークには、迷いが残っていた。あるいは恐れが。
(彼らは、ここで倒れる訳にはいかない。別働隊が任務を果たしてくれる? そんな甘い考えには縋れないでしょ? だって他は織斑先生・山田先生コンビ、それに真改ちゃんだもの)
間合いに入るまでの短い時間、ルークは通信を試みた。ナイト。応答なし。ポーン。応答なし。倒れたか、通信の余裕がないほどの激戦か。どちらにしても相手は怪物だ。目の前の少女が同類でないとどうして言える。
(彼らは、自分たちの手で任務を果たさないといけない。余力を残して私を排除しないといけない。だから理で詰める。直感には従わない、従えない)
ルークの攻撃を重傷だけはどうにか避けて凌ぎ続ける楯無を見ながら、ビショップはもう一度、周囲のナノマシンを精査する。罠を警戒してだ。結果、怪しいところは何もなし。本当に? もう一度。何もなし。ならばあの余裕はハッタリだ。その、筈だ。
(疑わしい点は徹底的に潰す。虱潰しにする。……そこまでは望めない。そんなことまでしてられない。時間を掛けるリスクと、疑念を残して攻撃するリスク……この天秤の傾きが変わった瞬間、終わる)
楯無は思考する。ルークの拳を受け流しながら思考する。ビショップの妨害に抗いながら思考する。装甲が掠めた肌から滴る血を拭いながら思考する。ナノマシンの制御を少しずつ少しずつ奪われながら思考する。
思考が加速する。脳髄が加熱する。更に思考する。更に、更に、更に。
(今はちょうど、左右で釣り合いが取れてる頃。ここが腕の見せ所。あなたたちが危険な戦場を渡り歩いてきたのと同じく、私は魑魅魍魎みたいな連中が跋扈している世界で、家を守ってきた。潜ってきた修羅場の「種類」が違う)
楯無の思考は、恐怖で狂うことはない。
楯無の思考は、苦痛で乱れることはない。
楯無の思考は、出血で霞むことはない。
楯無の思考は、疲労で鈍ることはない。
楯無の思考は、脳を破壊することでしか止められない。
(真っ当な勝負なら、あなたたちの圧勝、完勝。でも残念、私はそんな、勝てない勝負はする気がないの)
ルークが鋭いローキックを放つ。上に跳んでかわせば追撃で落とされる。バックステップ。逃げ遅れた左腿から出血。筋は無事。問題なし。
(私は十七代目更識楯無。私はIS学園生徒会長。あなたたちに、私を打ち負かす権利はない)
貫手を捌く。逸らし切れず、右上腕を抉られる。骨にまでは達していない。問題なし。
(あなたたちに……私を越える資格はないっ!)
鳩尾に膝蹴り。命中の瞬間に跳び、威力を殺す。それでも凄まじい衝撃。呼吸が止まる。浮いたところに右の打ち下ろし。左腕で防御。前腕から嫌な音が鳴る。受け止め切れずに左目を打撲、視界を失う。一時的なものだ、いずれ治る。問題なし。
床に叩き付けられる。身体がバウンドするほどの勢いを利用して素早く立ち上がるが、足に力が入らない。ふらつき、壁に背を着け身体を支える。
満身創痍と言う他にない姿になりながら、それでも楯無は微笑んでいた。ルークとビショップの背筋に凍るような悪寒が走った。近い感情を挙げるならば、恐怖。漠然とした、それでいて確信めいた予感。良くないことが、起こる。
「ルゥゥゥークッ!!」
「ッ!」
ビショップが叫ぶ。警告だ。何に対して? 決まっている、目の前の、傷だらけの少女だ。
ルークは走る。何かは分からないが、何かを仕掛けている。ルークの猛攻を受けながら、ビショップの目を盗んで。信じがたいが、直感は是と言っている。一瞬でも早く、潰す必要があると。
ビショップも同じ考えだった。ただ認識が違っていた。何かを仕掛けているのではない。既に、仕掛けを終えているのだ。
「……ふふ……」
ビショップの警告を、ルークがどう解釈しようと関係ない。状況は既に詰み。ビショップの「気付き」が、僅かに遅かった。
(この女……イカれてやがる!)
ルークの腕が伸びる。拳は狙いを外れ、壁を虚しく粉砕した。楯無は壁に背を預けたまま、その場にしゃがみ込んでいた。笑いながら。
「ざんね、ん……でした」
べっ、と小さく舌を出し、ルークを見上げる。全身の関節部から火を噴く、鋼鉄の巨体を。
(ロクに制御も効かねえナノマシンを……
苦悶の呻き声を上げながら動きを止めた古兵は。
楯無と同じくらい、血に塗れていた。
「……私の、勝ちよ」
更識楯無の、返り血に。
――――――――――
現行のパワードスーツがISに劣る点は無数にあるが、中でも決定的なモノのひとつとして、密封性がある。
宇宙空間での作業を前提としたISは、露出が多く見えてもその実、装着者の全身を
パワードスーツはそうはいかない。装着者の身体を保護するのは、全て物理的な装甲だ。それを隙間なく施すことは事実上不可能。関節の可動域を確保するために、「装甲がない部分」は絶対に必要なのだ。
当然、それらの部分は柔軟かつ強靭な繊維で保護され、装甲の形状を工夫することで狙われにくくはしている。それでも、その守りは万全かと問われれば、否定せざるを得ない。
あるいは沼地や密林、砂漠といった過酷な環境が戦場であれば、関節部はより強固に保護されていただろう。だが市街戦用の機体にそこまでの保護は必要ない。むしろ重量が増える分、機動力や積載量が低下する。無駄どころか、邪魔になるのだ。
つまるところ。
ルークのパワードスーツ、〔フォウマルハウト〕には、装甲に隙間があった。それは銃弾で狙うには射線が通らず、多少の水圧で浸水する程度のモノではなかったが、意志を持つかのように動く血液の侵入まで防げるほどのモノでもなかったのだ。
「グ、ヌゥゥ……!」
関節部の隙間から忍び込んだ血液が一斉に発火、アクチュエーターの回路を焼かれた〔フォウマルハウト〕は最早、無双の剛力を発揮する機械鎧ではなく、装着者の動きを封じる拘束具に成り下がった。最新とはいえ尋常の技術で造られたパワードスーツに、ISのような自己修復機能はない。メカニックによる修理を受けなければ、正常な機能を取り戻すことはない。
(クソったれ、体内まで調べられるかよっ……!)
ビショップが歯噛みする。〔アンドロメダ〕は電子戦機だ。その演算能力をビショップの技術と知識が操れば、攻防兼ね備えた無敵の電子要塞となる。だがその能力は、人体にまでは及ばない。楯無はそれを知っていた。
『ルーク! 脱出しろ!』
『グゥ……すまん』
ビショップはナノマシンへの干渉を止め、素早く楯無へ駆け寄る。とどめを刺すため、そしてルークへの追撃を防ぐためであった。空中に散布されたナノマシンは囮であり、今の楯無にはそれを操る力も残っていない。それどころか、自分自身を動かすことも出来ないだろう。かろうじて開いている右目は揺れており、ビショップの姿を捉えているとは思えなかった。
それは正しかった。楯無は力尽きていた。意識を失う寸前であった。ビショップも、そしてルークも、楯無の瞳には映っていなかった。
楯無は、ビショップの後ろ、通路の奥から駆け込んで来る白い制服の少女を見ていた。
――――――――――
敵を捕捉。重装甲型一、軽装甲型一。
重装甲型は動きを止めている。その足下に傷だらけの楯無会長。刺し違えたか? 否、胸が微かに上下している。死んではいない。が、危険な状態だ。一刻も早く治療する必要がある。
――一刻も早く、敵を倒す必要がある。
「…………」
肩に担いだブレードに意識を向ける。長さ、重心を再確認。最適な斬撃部位を、計算ではなく経験で感じ取る。
「…………」
このまま走っていては間に合わない。得物はブレード一振り。敵に先んじる方法は唯ひとつ。投擲。
「……疾っ!」
疾走の勢いを乗せて、ブレードを投げつける。刃は敵の背から翼のように生えた何らかの装置の半ばまで食い込む。それが重要な機関であろうこと、様々な制約により他と比べて薄い防御しか持たないであろうことは、容易に推察出来た。
「ぐお……!?」
不意の衝撃に、軽装甲型が体勢を崩す。足が止まる。距離が縮まる。間合いに入る。
「疾っ!!」
地を蹴り跳び上がる。脚を突き出し、ブレードの峰に叩き付ける。金鎚で釘を打つように、ブレードが押し込まれる。
「ぐあっ!?」
ビギィッ!
なんとも嫌な音が鳴り、軽装甲型の背中の装置が切断された。ブレードはそのまま飛んで行き、天井に斜めに突き刺さる。回収は少々手間だ。ひとまず捨て置く。
「お前まさか、ポーンの……!」
軽装甲型の反応は素早かった。まだ空中に在る己に、金属で覆われた腕が伸びる。狙いは首。得物を失った今、パワードスーツに捕らえられれば脱するのは難しいだろう。
「っ!」
伸びて来た左腕を掴む。支点を得た身体は空中でもある程度の自由を取り戻した。右の蹴りを繰り出し、その勢いで敵の腕を捻る。
「く!
脚が顎を捉える。流石に固い。多少の衝撃は通っただろうが、ダメージは期待出来まい。さらに身体を捻り、回転させて左の踵を叩き込む。関節を極めながらの打撃だ、ダメージはなくとも体勢の維持は難しい。軽装甲型は前のめりに倒れ――
「舐めるなァ!」
「!?」
軽装甲型は跳んだ。腕を捻られ同方向に蹴られる勢いを利用して、一回転した。腕を掴んでいた手を振り解かれ、同時に己の首を掴み、床に叩き付けられる。
「がっ!?」
その前に、首と小指の間に滑り込ませた手を跳ね上げた。幸い、小指一本で腕力と背筋力の全てを跳ね返せるほどのパワーアシストはないようだった。パキンと軽い音が鳴り、軽装甲型の小指が手の甲まで曲がり、首を締める握力が緩んだ。叩き付けも弱々しい。受け身と後転で衝撃を殺し、素早く立ち上がる。
「おいおい……随分手癖の悪い……お嬢さんだ、な!」
軽装甲型が小指を元の位置に戻す。声音から軽薄な男かと思ったが、なるほど軍人だ。根性は十分にある。
「あんた、さっきおっさんが言ってたヤツだな。確かに……ヤバいぜ、お前」
「…………」
おっさん……というのは、先ほどの兵士らか。かなりの手練れだった、一手違えれば、倒れていたのは己だ。彼らがどのようなことを伝えたのかは知らないが、おかげでかなり警戒されている。最も、先の攻防に因る部分も大きいだろうが。
しかし。もう一人の敵――重装甲型の大男をちらと見る。彼は動かなくなったパワードスーツを力ずくで剥ぎ取っていた。凄まじい怪力である。楯無会長が彼のパワードスーツを無力化してくれて助かった。もし健在であれば、少々手荒に相手をする必要があっただろう。
「…………」
「……ちぃ」
徒手空拳でじりじりと間合いを詰める己に、軽装甲型の男が舌打ちする。彼の目的が、大男がパワードスーツを解除するための時間稼ぎであることは明らかだった。彼自身も高い格闘能力を持ってはいるが、本職は前衛ではないのだろう。火器の類は見当たらない。恐らく電子戦機。となると、物理的な防御力と攻撃力を担う仲間が不可欠の筈。それが一時行動不能となれば、復帰まであらゆる手を尽くして凌ぐのは当然だ。
その目論見を潰すべく、更に一歩。左足を前に出し、半身になりつつ前傾姿勢を取り、拳を握った右手を目の横に据える。思い描くは一匹の獣。身を縮めて総身に力を溜め、獲物に飛びかかる直前の姿。
「…………」
手早く片付ける。さもなくば大男が戦線に復帰する。パワードスーツを失っているとはいえ、あの体格が既に凶器。戦闘技術も相当に高いと伺える。挟み撃ちを受ければ捌き切れない。
なにより。
倒れている少女を見る。
白い制服は血塗れだ。肌も、髪も。
嫁入り前の身体を傷物にするわけにはいかない。今ならばまだ、本音と十六夜によって痕も残さず治療出来る。
今ならば、まだ。急げば、まだ。
故に。
「……斬る」
既にお気づきの方も多いと思いますが、私は傷だらけの美少女とか古傷のある美少女とか隻腕だったり隻眼だったり車椅子だったりする美少女とかが大好きです。多分世間一般で言うとこの変態に当たります。
でもリアル世界で人を傷つけるのは基本的に犯罪なので止めましょう。