「好きな人が出来たの」
「……なんて?」
それは唐突な告白だった。
深夜の午後十一時過ぎ、我が家の玄関前で毛皮のコートを羽織った彼女が帰宅した。その日は特に肌寒い日で、夜中まで彼女が外をブラついているというのが、私にはひどく心配で仕方がなかった。彼女からは友達と遊びに出かけているのだと連絡を受けてはいたものの、あまりの帰りの遅さに車を走らせようかと玄関で思案していたのだ。
彼女の帰宅はまさにその時で、私は安堵の溜息を吐くと共に、ほんの少しばかりの怒りを込めて遅くなった理由を問おうとする。しかし、私が質問するよりも速く、彼女は先程の衝撃的な言葉を発したのだ。
あまりの事に私は言葉が出なかった。困惑する私が彼女には情けなく映ったようで、皮肉げな言葉をいくつか投げかけてきた。
付き合って一年半ほどになる私たちの関係は、彼女曰く、私よりももっと魅力的な男によって壊されたらしい。
そして彼女は、その間男と一緒になるのだと、そう言った。
納得がいかない私の事など捨て置いて、少しばかりの軽い謝罪とこうなった経緯を話して……
午後九時過ぎ。
田島は行きつけのバーで手元のグラスを未練がましく見つめながら、この店のバーテンをしている友達のルイスに自分が見舞われた悲劇について語っていた。
「…なんだか劇的な語り口だな。んで?」
ルイスが微妙な表情で話の続きを促す。
「…相手に気圧されて…結局苦笑いしながら承諾して、『仕方ないな』って言って別れて……次の日に、愚痴を吐きにここに来た」
「なるほど…ま、好きなだけ吐いてけ。酒も飲んでくれると嬉しいがな」
「こんな話、酒が無けりゃ…くそぉ……」
震える田島の手元のグラスに、ルイスが器用に瓶の口からウイスキーを流し込む。
「その女と婚約とか?」
「…してた」
「この前までの関係は?」
「良好だった…ように見えた」
「そりゃ残念だったな」
「他人事だな。そうだろうさ…俺の気持ちなんて誰にも…」
「ああ。お前の気持ちは誰にも分からん。好きなだけ吐いてけ。裏切られたお前だけの特権だろうさ」
「…悪い。変な絡み方したな」
「気にすんな気にすんな。今日はパーッとやれ。パーッと」
「…全部、俺が悪いんだよ」
「なんて?」
「俺が…ヒック…俺が情けないばかりに…」
「なんかやったのか?」
「彼女に…心変わりさせるような不甲斐ない男だったら俺が……クソ…」
「なんだそりゃ」
「………死にたい」
「なんだと?」
「死にたいって言ったんだ…くそぉ…」
「…ああん?」
カウンター席で項垂れる田島がグラスをヤケクソ気味に口に運ぶ。ルイスはそれを呆れ気味に眺めていた。
田島はそんな視線が気に障り、八つ当たり気味に彼に尋ねた。
「なんだ、何かおかしかったか」
「いや別に」
「なんだよ。言いたい事があるなら、ハッキリ言えよ」
「…なら言うが、お前は馬鹿か?」
「なっ…誰が馬鹿だ!」
「いやいや、待てって。本気か?」
「何が…やっぱりお前に俺の気持ちなんて…」
「だからわかんねぇっつってんだろ」
「じゃあ何が不満なんだよ…!」
「お前な、女が寝取られたから死ぬのか?」
空になったグラスに再びウイスキーを注ぐが、田島はずっとルイスの方を睨みつけている。ルイスはそんな視線を受け流しながら、肩をすくめてバカバカしそうに頭を横に振っていた。
入り口のドアが勢いよく開くと、バーの常連の男が満足気にカウンター席に腰を落ち着けた。手には花束を持ち、白い歯を見せながら笑顔でルイスに報告をする。
「へっへっ、俺の妹が結婚したんだ。めでたいだろ!」
「だってよ。めでたいな」
「俺はめでたくない!」
「ど…どうしたんだよ」
「あー、気にすんな」
そう言うとルイスは手で小さくジェスチャーを取って、常連の男に田島から少し離れるよう促した。男は不思議そうに眉をひそめながらも、彼の指示に従ってカウンターを離れた。
「くそぉ…くそぉ…」
「…あのな、愚痴吐くのは良いが、弱音吐くのはお門違いだぞ。裏切られたんだろ?もっとキレろよ」
「でも…俺が男として魅力が無かったから…」
「魅力って?」
「言われたんだよ…セックスも下手で、下の大きさもパッとしない。顔も平凡。正直男としての価値はその間男の方が…くっ……上だって…」
いたって大真面目に田島がそう言うと、ルイスは今度こそ呆れ返って溜息を吐いた。
訝しげな田島を他所に、ルイスはカウンター下の棚に手を突っ込んだ。それからちょっとした物音を立ててから、ステンレスのリボルバーをカウンターに投げ捨てた。
「これ、使え」
「…え?」
「これでその女と男をぶっ殺せ。頭にパーっとぶっ放して来い」
「…は?」
「殺すんだよ。このままずっと、舐められたままでいいのか?」
「…じょ…冗談だろ…」
するとルイスは丸い弾倉を外して、棚から出した弾丸を慣れた手つきで一発ずつ装填していき、玩具でも扱うみたいに弾倉を回してから元の位置に嵌め込んだ。
「モノホンだ、好きにしろ。アソコのデカさが男の価値なんだろ?店長秘蔵の五〇口径のマグナムだ、これがお前のイチモツだって言ってぶっ放して来い」
ルイスは呆れた調子で冗談めかしながらもそう言った。それから新しいグラスを出してそこにウイスキーと氷を入れると、自分の口に流し込む。そして尋ねた。
「何か?お前はその間男に、魅力で劣って、負けたってのか」
「負けたっていうか…その…くそ…」
「あのな、アナキン・スカイウォーカーがオビワンに負けたのは、アソコが小さかったからじゃないだろ」
「………なんの話だ…」
「簡単な話だ。例えばな、お前が異国の故郷の実家に里帰りする。お前は家族の反対を押し切って十年の歳月をかけてやっと成功して帰ってきた。喧嘩別れしてしまった父の想いを今になって理解し、勝手に飛び出した事を謝罪して、家族として受け入れてもらえればと思いながら故郷の地に足を運ぼうとする。しかし、直前のスマトラ沖地震の津波で家族も故郷も皆無くなってしまった…なんて経験をしたなら、まだ『死んでしまいたい』って気持ちもわかる。だがな、女を寝取られただけで死にたい、ってわけだろ。マジで言ってんの?」
「……悪いか」
「悪いかどうかじゃなくて、どんだけめんどくせぇんだよ。忘れろ」
「忘れられるか!」
「でも忘れなきゃ一生お前はその『男の負け組』のレッテル貼られたまんまだぞ。ウザかねぇのか」
「………」
「それに、なんで女と間男の方にキレねぇんだ」
「そ…それは……」
「理由あんのか?」
「男には怒ってるさ…でも、彼女の事は本当に愛してるつもりだったんだ…今になって責めるなんて…」
「なんだそりゃあ。捨て台詞まで吐かれたんだぞ?それで『自分が情けない』ってのは女に影響されすぎだ。殺すか、殴るかして来い。んで、忘れろ。ほれ」
「生涯を誓い合った仲だったんぞ…」
「売春婦なんて毎晩別の男と生涯誓い合ってるから安心しろ」
「……どうすれば良いんだよ」
「いやだから、殺すか殴るかして来い」
「い…いやそれは…」
「んじゃ間男の方だ。ほれ、ぶっ殺して来い」
「……でも…」
田島は歯切れの悪い声をあげるだけで、まだ納得しきれていない様子だった。ルイスは話にならないと言わんばかりに溜息を吐き、それからグラスを突き出してこう言った。
「はぁ…よし、よーく考えてみろ。お前は俺からみりゃ死ぬほど真っ当に生きてる社会人で、女と家庭を築くために汗水垂らして働いてた男の鑑みたいな奴だ。対して間男の方は?人の女パクって勝手に穴に突っ込んで悦に浸り、女は女で捨て台詞に『男の価値がうんたらかんたら』ってな具合だ。さぁて、どっちがクソッタレだと?」
「…………でも…」
「でも?」
「でも…俺は彼女を取られた。それが事実だろ…だから…」
「だから?」
「だから……だから、その…えっと…」
「よし、それじゃもう少し考えてみような。お前はベッド上のテクのせいで女を取られたと思ってるわけだが、お前は女と寝た経験はどれくらいある?」
「えっと…彼女と二回くらい…」
「思い出すのは辛いかもしれんが、彼女がイッた回数は?」
「お、覚えてるわけないだろ!なんなんだ!」
「んじゃ間男の職業とか分かるか?」
「…くそ、分かるよ……学校の教師で、野球部の顧問だって。若い男で、大学時代からモテてたって、まだ関係が発覚する前の彼女から話をよく聞いてた…今思えば…はぁ…」
「よし、確信が取れたな。お前は経験人数は一人で二回だけ。間男はエイズ感染寸前のプレイボーイ、野球やってんなら本当にプレイボーイだな。ほら、二つボールも…」
「もうやめろ!何が言いたいんだ!」
「いや、場数が違うのに比較されるのおかしいだろって話だよ」
「だからなんの話だ…」
「お前、気付いてないのか?」
「何がだよ」
「お前が負けそうな部分で勝敗決められてんだぞ?顔だってお前はそこまで悪くない、職歴で見たらお前の方が上、給料だって公務員の教師よりお前の方が高い、セックスに関しては経験不足、アソコの大きさなんて生まれつきだろ?それで裏切ったアマはこう言うわけだ。『男の価値はチンコの大きさで決まるわ!』何が男の価値は上、だ。そんな勝敗あるか。お前はさ、アホらしくねぇの?」
畳み掛けるようにルイスがそう言うと、しばらくの間、田島は黙ってグラスに映る自分を眺めて、今の言葉を頭の中で反芻していた。それから玄関先で自分を蔑むような視線を送っていた女と、一目だけ見た自分の苦手な軽薄そうな間男の顔を思い出し、ゆっくりと口を開く。
「………………………なんか腹立ってきた…」
「だろうな。それで?」
「……なんで俺がこんな思いしなきゃならんのだ」
「うん、うん」
「……なんで俺のチンコの大きさをとやかく言われなきゃいけないんだ」
「よし、よし」
「なんで…なんで!なんだって!俺があんなクソ野郎に女を寝取られて!裏切った女に貶されて!……クソッタレがぁ!」
「んじゃ、どうする?」
「…殴る……」
「片方?両方?」
「片方!」
「女?間男?」
「間男!女を殴るのは気が引けるから!」
「いいぞ、奴らと違ってお前は紳士だもんな。女に手を出さないなんて最高にクールじゃんか、かっこいいぞ」
「ああ!我慢してた分、はらわたが煮えくり返ってきた!今すぐ殴りに行きたい!」
「よし、そしたらバットで後ろからぶん殴って来い」
「卑怯じゃないかな?」
「同じような痛みを与えると考えろ。お前は不意打ち喰らったわけだろ?それも女を寝取られて一時は死も覚悟したんだ、それに比べりゃ優しい優しい」
「だな!よし!そうと決まれば家からバット持ってくる!クソッタレ、絶対にボコボコにしてやる!」
「よーし、その意気だ」
「木製と鉄製、どっちがいいかな⁉︎」
「木製にしよーな。鉄で後頭部殴ると下手したら死ぬから」
「木製でも変わらなくないか⁉︎」
「大丈夫だ。全力で人を殴るとバットの方が折れるから」
「どこ情報だ…?」
「俺…じゃなくて友達」
「分かった!釘バットでぶっ潰してくる!」
「うん、釘も死ぬからやめよーな」
「でも俺の家のバット、近所のガキどもが遊んで釘だらけになっちまって…」
「そしたら…ほれ。これ貸してやる」
ルイスはまたもカウンターの棚に手を突っ込むと、中くらいの木製バットを引っ張り出して田島に渡す。先端には何やら英語でサインが書かれていたが、二人とも気にもしていなかった。
「…ありがとな。お前のお陰で色々と考え直せたよ。これで奴をぶっ飛ばしてやる…!」
「おう。さっきはああ言ったけど、流石に殺すなよ」
「ああ!それと、女にはなんて言おうかな!」
「そうだな…なんかカッコよくて、相手に屈辱的なセリフが良いな」
「なんかあるか?」
「うーん……"地獄で会おうぜ"…いや違うな……"俺の相棒に…"…違うなぁ…あ、こんなんでどうだ?」
「どんなの?」
「いや、やっぱ長いからやめだ」
「気になるよ。言ってみろ」
「マジで長いぞ?」
「いいから」
「それじゃちょっとカットするか…あー、ゴホンッ…"私は怒りに満ちた懲罰をもって大いなる復讐をなす。私が彼らに復讐をなす時、彼等は私が主であることを知るだろう"…ダメだな。現実でやっちゃあ……」
「……イイな、それ!」
「……いや、イイか?これ」
「よし!じゃあ、行ってくる!」
「うーん……まぁ、いいや。何度も言うけど殺すなよ?」
「分かった!半殺しにしてくる!」
「あー…まぁ、いっか!」
意気揚々と飛び出して行った田島を見送ったルイスに、先程の常連が訝しげに尋ねた。
「…一体、何の話だったんだ?」
ルイスは肩をすくめてから、飄々とした調子でこう言った。
「愛についての話さ」
常連は何かを察したような顔をしたが、ルイスは言葉に何の意味も込めていなかった。