日本編、七話目です。
道路沿いに並んでいる様々な店舗。その内の一つである、ロシア語で書かれた看板を掲げているレストランでは、ヴァシリ・ラプチェフが夕食を摂っている。
ラプチェフが黙々とステーキを口に運んでいる中、テーブルの周りを囲んでいる数人の部下の一人が誰かへ電話をかけていた。
誰一人言葉を発さず、ただ携帯のコール音が鳴り響く。
だが、いくら待とうと相手は通話に応じない。
痺れを切らし、携帯電話を手にしている男はラプチェフへ声をかける。
「ダメです、ボス。バラライカにも他のメンバーにも連絡が取れません」
「もう一度だ。繋がるまでかけ直せ」
「ホテルも引き払ってるし、移動したところも見てない。一度モスクワに指示を仰いだ方が……」
部下が不安げな表情で提案した途端、ラプチェフは肉を切る手を止める。
瞬間、手にしていたナイフを目の前にいるその部下の手に勢いよく突き刺した。
「が、ああ……ッ!」
「指示を仰ぐなんてスカした言葉を使うな。俺が“もう一度”と言ったら“もう一度”なんだ。たまには椅子を尻で磨く以外の事でも気を遣ったらどうだ?」
呻く部下を鋭い視線で見据え、怒気を孕んだ声音で言い放つ。
少しの間を空けた後、ラプチェフは眉間に皺を寄せ焦燥の色を浮かべた。
「くそ……くそ、くそ、クソッ! あの雌犬焚きつけやがったな。でなけりゃ大頭目が俺を裏切る訳がねえ……!」
「で、でもどうしてあの女が俺達をハメるんで?」
ホテル・モスクワの大頭目から直々の命を受けタイから日本へとやってきた幹部。その女はかつて国に見捨てられた軍人だった経緯のせいか、例え同じホテル・モスクワの人間であろうと容赦なく潰す。
その証拠に、これまで何人もの仲間がバラライカによって文字通り“消されている”。
そんな狂気を纏っている女と連絡が取れなくなって既に数時間も経過していた。
ラプチェフ自身もバラライカら軍人を見捨てた側であったことから、今の状況に落ち着いていられる訳がなかった。
「あの女はアフガンに憑りつかれてる。KGBやGRU、高級党員層も憎くて仕方ねえんだ。そんなイカれポンチが俺を放っておく訳がねえ!」
ラプチェフの言葉に部下達の間で動揺の波が広がっていく。
「くそ、くそッ! このままじゃ俺はアイツに消され」
切羽詰まった様子で嘆いていると、唐突に言葉が止まる。
ラプチェフの言葉を遮ったのは、血を流している部下の手元から鳴り響く着信音。
すぐさま腰を上げ、ラプチェフは遠慮することなく乱暴に携帯を取り一瞬の間を空けず通話に応じる。
『――もしかしてご夕食中だったかしら? 随分優雅なことね』
聞こえてきた声音は、今まさに自分が連絡を取ろうと必死になっていた相手のもの。
憎たらしい言葉と馬鹿にしたような口調に青筋を立てながらも口を開く。
「てめえの方こそ、こっちの連絡を無視しやがったってのにいいご身分だな?」
『こっちは色々と準備があって忙しいのよ。あなたの様に寛げる暇もない程にね』
「……舐めた口利きやがって、このクソ売女」
『はッ、負け犬はよく吠えるとはこのことだな』
鼻で笑われ声を荒げたい衝動に駆られているラプチェフが次の言葉を吐く前にバラライカは話を続ける。
『我々は本目標を達成できる目前まで到達した。こんな遊び場で何も為しえなかった貴様はただの足手まとい。よって、もう貴様を生かす価値はない』
「……なんだと?」
『後任は僧侶、ブルガジビリだ。貴様よりはいい働きをしてくれるだろう』
「おい、ちょっと待て」
『“貴様には充分時間をやった。ただ金を毟り取る馬鹿にこれ以上割くものはない”。これが大頭目からの最期の言伝だ。よく噛みしめろ』
こちらの話を聞く気がないと言わんばかりに次々と言葉が投げかけられる。
バラライカの態度にとうとう我慢の限界が来たのか、ラプチェフはテーブルをバンッと叩いた。
「ふざけてんじゃねえぞこの雌犬が! てめえが大頭目を誑かさなきゃこんなことには」
『私から伝えることは以上だ。――それでは御機嫌ようヴァシリー。あの世でお仲間のKGB諸君によろしくな』
その言葉を最後に、携帯からはツーツーと通話の終了を告げる音が流れる。
すぐさまかけ直すが、いくらかけても応じる気配がない。
「クソッ! あのアフガンの亡霊がふざけやがって!!」
ラプチェフは怒号を響かせ携帯を地面に叩きつけた。怒りに任せ更に携帯を何回も踏みつける。
息を荒げ、潰れた携帯をしばらく見つめていた。
長い沈黙の中、ラプチェフはふと小さい音が鳴っていることに気づいた。
ピッ、ピッ、ピッと響く機械音を一瞬不審に思ったが、瞬間先程のバラライカの言葉を思い出す。
“あの世でお仲間のKGB諸君によろしくな”
ラプチェフは顔を青褪め、すぐさま棒立ちになっている部下達へ声をかける。
「ッお前ら! ここから早く逃げ――」
最後まで言い切る前に、凄まじい爆発音と熱風がラプチェフごと包み込んだ。
――轟々と燃え盛る店の中には、誰一人生きている者はいなかった。
「――店内から逃げた様子は無し。無事片付いたかと」
「まさかゴミ処理までする羽目になるとはな。大頭目は人使いが荒い」
「全くですな」
とあるホテルの一室。そこではバラライカを始め、ボリスやその他の
バラライカは葉巻を口に咥え、煙を吐き出しながら話を続ける。
「軍曹、彼からまだ連絡はないのか」
「ええ」
「そうか」
ソファに腰かけ優雅に紫煙を燻らす。口角を上げているバラライカにボリスは一呼吸間を空けて声をかける。
「随分機嫌がよさそうですな、大尉殿」
「ああ、なんせ向こうから我々と接触してきたんだからな。これであの街への帰還が幾分か早まった。彼の行動力の高さは評価に値する」
「ええ。このまま無事に事が済めば、彼女にも早く会えることでしょう」
「……そうだな。一刻も早く、我が友人と酒を飲みたいものだ」
ボリスの言葉に一瞬目を見開いた後、バラライカは角が取れたような声音で返答する。
そんな彼女の様子に周りの部下たちも笑みを浮かべた。
やがて短くなった葉巻を灰皿へ押し付け、ニヤリとした表情へと変える。
「諸君、本目標到達まであと少しだ。少々拍子抜けだが、最後まで気を抜かぬようにな」
「は」
バラライカの凛とした声音に、周りの遊撃隊のメンバーは全員口を揃えた。
――――――――――――――――――――――――――――
東京では連日雪が降り積もっている。
今夜も灰色の空から雪花が舞い落ちる。
東京の冷気に包まれた鷲峰組本邸では、前組長の時代から属している組員達が揃っていた。
広い座敷で正座し、全員同じ方向へ視線を向けている。
彼らの視線の先には白鞘を握っている銀次と吉田。そして、二人の間にいる雪緒が組員達と向かい合うように座していた。
「おい、チャカはどうした」
「それが連絡がつかなくて……」
「あの阿呆が……まあ、今はアイツだけに構ってる時間はねえ。――チャカ以外は全員揃ったな」
困惑と動揺が混じっている空気を感じながら、吉田は組員達を一瞥し再び口を開く。
「では、お嬢」
「はい」
雪緒は短く返事をし、一呼吸間を空けてから目の前のヤクザ者達を見据える。
「皆さんに集まっていただいたのは、鷲峰組の今後の指針についてお話するためです」
固い声音で始まった話に、銀次は白鞘を握る力を強めた。
「現状、若頭である坂東次男の消息が途絶え、現在も行方は分からないまま。ロシアンマフィアとの連携も閉ざされ、鷲峰組は窮地に立たされつつあります」
告げられた内容に組員達の間では動揺の波が広がっていく。
雪緒は緊迫した空気を感じ取りながらも、凛とした姿勢を崩さない。
「勿論、この現状を香砂会も黙ってはいないでしょう。頭がいないこの機に組をどこまでも追い詰め、徹底的に潰そうとしてくるはずです」
眼鏡の奥から除く瞳は微かに揺れ、不安げなものだっだ。
「統率が取れなければ、対抗できるものもできない。よって、勝手ながら幹部会にて鷲峰組の跡目について協議いたしました」
胸の内にある感情を気取られないよう、雪緒は間を空けずに話を続ける。
「親である香砂会からの条件を受け、この度鷲峰龍三が息女――不肖、鷲峰雪緒が跡目を継承することと相成りました」
途端、ざわっと更に強い動揺と困惑が広がった。
つい最近まで極道の世界とは関係なかった女子高生が自分たちの頭になろうとしている。
突き付けられたその事実にどよめかない訳がなかった。
「不服も無論承知の上。でもこの組の大事、皆様の力を拝借したくございます」
雪緒が最後の言葉を言い終えても、組員達のどよめきは引くことはない。
不安や焦燥が入り混じる雰囲気に、雪緒は無意識に拳を握る。
少しの間を空けた後、黙っていた吉田が徐に腰を上げた。
「おどれら、お嬢がなんでここにいる思うとるんや」
吉田が組員全員に聞こえる声で発した瞬間、ぴた、とざわめきが止まる。
「儂らが香砂んところのど腐れどもに全部かっさらわれて、おっ放り出されるのをみちゃおれんと立ったんと違うんか」
真剣な表情と声音で言い放たれる内容に、組員は黙って耳を傾ける。
「お嬢自ら命張ろう言うてんねん! 己らの侠気咲かせるンやったら、ここをおいて外はあらへ」
「し、失礼します! 吉田さん、大変です!!」
「何やこらあ! 今どんな話してるか分かっとんのかッ! タイミング見ろやぼけ!」
高らかに告げようとした吉田の言葉は、屋敷の外で見張っていた下っ端の組員によって遮られた。
何やら焦っている組員の様子に、他の組員達は訝し気に眉根を寄せた。
「この総会以上に優先することがあるんか! 何があったんか知らんが後にしろや!」
「それが……!」
「邪魔するぞ」
言葉を続けようとした組員の後ろから別の声が飛んできた。鷲峰組がどよめいている中、すぐさま声の主は姿を現す。
その人物は、着物に身を包み、杖をついている老人。
関東和平会を設立し、極道の中の極道として全国に名を馳せている人物。
そして、その人物の後ろには彼を隣で支える有能な右腕。
――藤崎組組長、藤崎仁。そして若頭である佐伯。
二人の登場に部屋にいる全員が目を見開いた。
「ふ、藤崎の親っさん……!?」
「おう吉田。久々だな」
どよめく鷲峰組とは反対に、仁は冷静に声をかける。
「どうしてここに親っさんが……」
「急ですまん。だが、どうしてもお前たちに話しておかなければならないことがあってな」
「……親っさん、すんませんが見ての通り鷲峰組は総会中だ。どんな用件か知りやせんが、どうか後にしてもらえねえでしょうか?」
淡々と話す仁に銀次は眉根を寄せながら口を開いた。仁は表情一つ変えず言葉を続ける。
「そう睨むな銀次、お前らの状況はよく理解してるつもりだ。その上で話をしに来た」
「しかし」
「お前らが総会を開いてんのは坂東がいなくなったからだろ」
仁の口から出た名前に、銀次だけでなくその場にいる全員が再び目を見開いた。
「その坂東についてお前らには話しておくべきだと思ってな」
「……貴方は坂東さんの行方を知っていると、そう仰りたいのですか」
「ああそうだ。今あいつがどうなっているのかもすべて知っている。――それにしても、大きくなったな。お前さんと会うのは龍三の葬式以来か」
「……」
雪緒を見て仁はほんの少し柔らかな声音を出した。
多くの人間は早く坂東について話してほしいと声を上げたい衝動に駆られるが、普段お目にかかることがない大物の話を遮る者は一人もいなかった。
「ま、今は悠長に話している時間はないな。ひとまず前口上はここまでにしようか」
部屋には入らずひんやりとした廊下で立ち止まったまま、仁は真剣な表情で本題を切り出す。
「結論から言おう。――坂東は死んだ。けじめをつけるため一人でロシア人の元へ向かい、命を散らした」
「は……?」
「……そんな……嘘や! 若頭がワシらに黙ってそんなこと」
「ほう、あいつは最後までお前らに言わなかったのか。儂の言いつけもしっかり守ったようだな」
「…………言いつけ?」
吉田が堪らず上げた声に仁は感心したように呟いた。
その呟きを雪緒は聞き逃さなかったらしく、眉根を寄せ聞き返す。
「ああ。あいつにロシア人とけじめをつけさせたのは、儂だ」
平然とした顔で言い放たれた言葉に、ここまでで一番の動揺の波が広がる。
雪緒は仁を睨みつけ、できるだけ冷静に続きを促す。
「どういう、ことですか」
「前々からロシア人……ホテル・モスクワから協定を結んでくれと言われていてな。“利益をもたらす代わりに日本拠点を置く協力をしてほしい”、そう言って儂の
自身の考えを冷静に告げる。
誰一人口を挟むことを許さない緊張感が部屋全体に満たされていた。
そのせいもあり、鷲峰組はただ黙って仁の言葉を聞いている。
「これ以上儂らが築き上げてきたものを崩されるのは堪らん。だからこそ、好き勝手させないように動いてきた。それはお前らも知っていたはずだ。――だというのに、坂東を筆頭にお前らが露助どもを引き入れやがった」
瞬間、底の冷えるような声音が響く。
血と闇の世界で生きてきた男達であっても、これほどまでの重圧を感じたのは初めての事だった。
雪緒を始め、誰もが息を飲む。
「好き放題させないようにしておけるならまだよかった。だがどうだ。その結果ロシア人は大暴れ。より一層外のモンが調子に乗り始める始末。香砂会も自分らの事で手一杯で、いつまでたっても親らしいことをしない。――だから儂が坂東にけじめをつけさせた。“組員達に会うことなく、ただ一人で死ね”ってな。それでロシア人を殺せれば儲けものだと思ったんだが、アイツは死闘の末に敗れ死んだ。そうだな、佐伯」
「ええ。極道者らしく、きちんと筋を通して死にました。……立派な死に様だった」
佐伯は組員全員に聞こえるように坂東の最期を伝える。
そして、懐から白い布に包んだ何かを取り出す。
そのまま吉田の前まで歩みを進め、それを差し出した。
吉田は恐る恐る受け取り、ゆっくりと白い布を外す。
――出てきたのは、坂東が愛用していた白鞘の短刀。
その短刀を目にした途端、吉田は目を見開きながら言葉を洩らす。
「これは兄貴の……」
「確かに渡したぞ」
佐伯はそう言って、すぐさま仁の後ろへと戻る。
仁の話に始めはあり得ないと思っていた者たちは、佐伯が持ってきた白鞘を見て“坂東が死んだ”のだと確信する。
その事実に目に涙を溜める者。拳を強く握る者。思いつめたような表情を浮かべる者。
反応は様々だが、誰もが坂東の死を悼んだ。
「坂東は命を賭してしっかりけじめをつけた。ロシア人の事に関しちゃもうお前らを責めることはしない。――だが、まだお前らにはまだ始末をつけてもらわなきゃらんことがある」
「は……?」
耐えがたい事実を突き付けられてから切り替える間を与えることなく、仁は更なる話題を口にする。
「佐伯」
「はい。――高橋!」
その場にいる鷲峰組組員が混乱している中、仁が声をかけると佐伯はすぐさま縁側のガラス戸を開け、外の方へ呼び掛けた。
しばらくすると、庭の奥の方から次第に音が近づいてくる。
「――おら、しっかり歩け! てめえのその足は飾りか!?」
「うッ……! くそ、なんで俺がこんな」
「うだうだ言ってねえでとっとと歩け!」
怒号と共に現れたのは、藤崎組若頭補佐である高橋と複数の藤崎組組員。
そして、高橋たちに引き摺られるように連れてこられた一人の男。
その男は、鷲峰組の組員であるチャカ。
両手は後ろで縛られ、何度も殴られたかのような大きく腫れた顔。血が付いた薄汚れたスーツ。
チャカの姿に鷲峰組の組員達は全員驚愕する。
「チャカ!? お前なんで……!」
「藤崎の親っさん、これはどういうことなんで?」
吉田が動揺している隣で、銀次は咄嗟に仁へ疑問を投げかけた。
二人に挟まれている雪緒は目を見開き黙ったままチャカを凝視している。
「お前ら、こうなっちまった理由に心当たりはねえのか?」
「は?」
「あの男が何故
鋭い視線と声音を浴びせる。刹那、先程以上の緊張感が襲い掛かる。
「どうなんだ、誰でもいいからさっさと答えろ」
「…………」
返答を促す言葉でさえ重圧が更に押しかかる。
その上、チャカが捕らえられている理由が分からいのもあり答えを返せない。
誰もが口を噤む中、少しの間を空けた後雪緒がゆっくりと口を開く。
「分かりません。何故チャカさんが貴方がた藤崎組にこのような仕打ちを受けさせられているのかも、貴方が言う本題も皆目見当がつきません」
「……」
「藤崎さん、“うちの組員”が何かしましたでしょうか」
ほんの少し声を震わせながらも、そう言う雪緒の視線は仁を真っすぐ射貫いていた。
仁は一瞬目を見見開いた後、すぐさま鋭い視線を雪緒へと注ぐ。
「そういうってことは、本当にお前さんが鷲峰組を継ぐってことだな?」
「はい」
「……そうか。では可愛らしい組長さん。はっきり答えたその気概に免じて、教えてやろう」
「……」
鋭い声音のまま、仁は雪緒に向かって話を続けた。
「こいつはな、儂の
「なッ! 親っさん、それはホンマですか!?」
「ああ。本人は認めてはいないが、こいつのお陰でうちが損害を食らったのは事実。……お前らは儂がヤクでの商売を許さないのは知ってるよな? ――そして、儂のシマにヤクを流したヤツがどうなってきたのかも」
より一層低い声音で言い放たれる。
こんな冗談を言うような人物ではない。
そのことを理解している鷲峰組組員達は、仁の話が嘘ではないことを確信するのと同時に冷や汗を流す。
自分達の仲間が藤崎組の縄張りで勝手に麻薬を捌いた。
“鷲峰組が藤崎組に喧嘩を売った”と見なされても文句を言えない。
それがどういう意味を持つのか、分からない人間はいなかった。
「……まあ、そうは言っても儂とお前らの仲だ。争うつもりはない」
その言葉に誰もが安堵の息を洩らす。
ただ一人、仁は固い表情のまま話を続ける。
「だがこのまま何もなしってわけにはいかん。だからこいつのけじめをつけてもらう。――組長さん、お前さんにな」
「……え?」
急に再び声をかけられ、雪緒は戸惑ったような声を出す。
「お前さんに今ここで、儂の目の前でこいつを殺してもらう。それでこの件はチャラにしてやる」
「な……ッ!」
仁から告げられた言葉に、藤崎組以外の人間は全員目を見開きどよめき始める。
いち早く仁に抗議の声を発したのは銀次だった。
「親っさん、そんなことお嬢にはさせられねえ! そいつのけじめはあっしが……!」
「お前らじゃ意味がねえんだ。どの道そのお嬢さんがお前らの命背負うんだろうが。なら、これくらいやってもらわねえとな」
「親っさん!」
「組を背負うってことはそう言う事だ。子がやらかしたことは親が責任を取る。それが組長の義務なんだよ」
「それは……!」
「自分の手を血で汚す覚悟もねえ奴が頭になるなんざ、そんなの笑い話にもなりゃしない」
「だが、お嬢はついこの前までただの」
「堅気だったからそれは酷いってか? はっ、呆れすぎてものも言えねえな。善人だった奴が急に手を血で染めるってのはよくある話だ」
「お嬢は俺達の為に覚悟を決めなさった! そんなお嬢のためならいくらでも手を汚す! 血に濡れるのは俺達だけで十分なんだ! だから」
「うるせえぞ、銀次。餓鬼みてえにピーピー喚いてんじゃねえ。お前らはこの子に自分たちと同じ世界を生きることを望んだ。例えどんな理由があろうと、組長に据えようとしているこの現状がすべてを物語っている。――お前らはそんな覚悟もしてねえくせにその子を親にしようとしてたのか? あの龍三の舎弟も落ちぶれたもんだ」
銀次の昂ったような様子とは反対に仁は冷静に淡々と言葉を返す。
最後に呆れたように呟くと、銀次は苦い表情を浮かべとうとう押し黙った。
そして、それは他の組員達も同じだった。
自分たちが死ぬ覚悟はできていても、雪緒自身の手を汚すことを考えていなかった。
それを見抜かれてしまい、誰もが返す言葉を失っていた。
「組長さん、お前さんの覚悟を見せてくれ」
そう言って仁は懐から黒い脇差を取り出し、雪緒の方へ投げる。
目の前に転がったそれを目にし、雪緒は拳を握る。
誰もが黙って見ている中、目を瞑り一つ息を吐く。
やがてゆっくりと手を動かし、仁が投げて寄こした脇差を手に取った。
「お嬢!」
「銀さん、もういいんですよ。……藤崎さんの言う通り、
「……ッ」
「皆さんも、どうかそのまま見守っててください」
思いつめたような表情を浮かべる組員達に笑みを見せそう言うと、腰を上げ中庭の方へ足を動かす。
「アイツは高橋らが抑える。安心して喉元をかっ切るといい」
「…………お気遣い感謝します」
隣を通り過ぎようとした時、仁は告げる。
その言葉に立ち止まり、一瞬時の方を見ると一言だけ返し再び歩き始めた。
靴も履かないままさく、さくと雪の上を進む。
やがて、藤崎組の組員達に身動きが取られぬように抑えられているチャカの前に立つ。
「お、お嬢? まさか本気で俺を殺すなんて、んなことしねえよな?」
「……」
「俺は藤崎組のシマに手を出してねえんだ。手を組んでたやつが勝手にやっただけで……なのにこいつら勘違いして」
「でも、貴方が捌いていた麻薬が出回ったのは事実。……藤崎さんのことは銀さんや坂東さんから聞いていました。義侠を重んじ筋を通す人物。“彼こそ本物の極道”だと。彼らがそこまで言う人物が嘘をついているとも、勘違いを起こし貴方をこんな目に遭わせるとも思えない」
「お、おいおい……まさか組員の俺よりその堅物ジジイの言う事信じるってのか? それはちょっと酷いんじゃないかなあ雪ちゃん」
「私たちは今躓く訳にはいかないんです。こんなところで、躓いている場合じゃないんです」
チャカを見据えながら、手にしている脇差を両手で握り刃を抜く。
鞘から現れた刃は少しの曇りもなく、冷たく光っている。
「今の貴方は鷲峰組には必要ありません」
「ちょっと待ってくれよ! そんなひでえこと言うなよ雪ちゃ」
「いい加減その臭え口閉じやがれ。てめえも極道の端くれなら黙って組長の刃を受け入れろッ」
「が!」
軽い口調でだらだらと喋る様に我慢できなくなったのか、高橋はドスの利いた声を発しながらチャカの顔へ拳を叩き込んだ。
真っ白な雪の上に血が飛び散った。
髪を掴み、無理矢理顔を上げさせる。
雪緒は口から血を流しているチャカを見据え、両手で脇差を握りなおす。
やがて、徐に無防備となっている喉元へ刃先を向けた。
部屋から庭の様子を窺がっている組員達と仁は、ただ黙って見守っている。
――だが、数分経っても雪緒は刃を突き立てることはなかった。
手は震え、何度も白い息を荒く吐き出している。
やがて痺れを切らした仁が促すように言葉を投げかけた。
「どうした、さっさとやらんか」
「……」
「さっきまでの威勢はどこへ行ったんだ。ほら、あと数センチ前に動かせばそいつを殺せるぞ」
「…………」
仁の言葉に雪緒は手を動かそうとする。
だが、何故か手が言う事を聞かない。
目の前にいる男を自分が殺さなければいけない。
そうしなければ前に進めない。
自分の手を血で染めなければ、彼らと同じ世界に立てない。
それは頭では理解している。
――理解していても体が拒んでいた。
自分が人の命を奪わなければならない現状に、どうしようもなく怯えていた。
その怯えが、手の震えを一層激しくさせる。
そんな雪緒の様子に、仁は一つ息を吐き口を開く。
「どうやら、組長の役目はお前さんには重すぎるらしいな」
「……」
「お嬢……」
「分かったか? 自分らの軽い命のために堅気にここまで望んだのは、他でもねえお前らだ」
仁は部屋にいる鷲峰組全員に低い声音で話しかける。
「本当に呆れ果てた野郎共だ。年端もいかねえ娘にこんなもん背負わせやがって。誰も止めなかったのか」
「それは」
「違うんです、藤崎さん。……これは全部、私が決めたことなんです」
「……」
雪緒は震える声音で仁に背を向けたまま口を開く。
「彼らは必死で止めてくれようとしてました。だけど、私はこの家で育った鷲峰龍三の娘。そんな私が一人だけ日の当たる場所でのうのうと生きるなんて、できません」
「……」
「坂東さんがいなくなった今、親である香砂会と対等となるには向こうの条件を呑むしかない」
「…………」
「私が組長を継ぐことで少しでも皆さんの助けになるなら、そうするしか」
「お前さん、何を勘違いしてやがるんだ?」
「え?」
「お前さんみたいな小娘が組長になった所で何かが変わる訳ねえだろう」
さも当然と言わんばかりに言葉に、雪緒は思わず振り向いた。
目に入ったのは、心の底から呆れたような仁の表情。
「どう考えたって香砂政巳が言ったことは言いがかりの難癖だ。そんなもん真に受けたところで、あのクソガ……組長が素直に受け入れるわけがない」
「……」
「香砂会は和平会でも一際目立ってる。東京で馬鹿みたいに圧力をかけまくってるからな。そんな組を仮にも引っ張ってる男はお前さんより上手だ。組を継いだところで、また変な言いがかりをつけて盃の話を無かったことにするだろうさ」
「…………」
仁は次々と言葉を投げかける。
次第に雪緒は顔を下に向け、黙ってしまう。
「――じゃあ、どうすればいいんですか」
間を空けて返ってきたのは、未だ震えている雪緒の声。
「じゃあどうすればここにいる皆が助かるっていうんですか!」
瞬間、雪緒は顔を上げ吼える。
脇差を力強く握り、目に涙を溜め、仁を睨みつけながら言葉を続ける。
「このままだと皆が香砂会に潰されてしまうんです! 例え香砂にその気が無くても、直系でと言ったなら私が背負うしかないんです! ここにいる皆の命が、明日が、名誉が私にかかかっているのなら、そのために覚悟を決めること以外に私に何ができるっていうんですかッ!」
「……」
「私が組を継げば皆が少しでも窮地から脱せる可能性があるならそうするしかないじゃないですか! 日向の世界から背を向けて、闘おうとして何が悪いんですか!?」
雪緒の中でこれまで必死に抑えていた感情が溢れ出す。
響き渡る悲痛な叫びを、その場にいる全員ただ黙って聞いている。
激しく呼吸を繰り返し、やがて目に溜めた涙が雪緒の頬を伝うのと同時に脇差が手から滑り落ちた。
「もう私に残された道は、これしか、ないんですよ……」
大粒の涙を流し、俯きながら絞り出すような声で呟いた。
仁は一つ息を吐き、やがて自身も中庭へと降りる。
項垂れている雪緒の前まで歩みを進め、今度は柔らかい声音で話しかける。
「酷な事を言うが、お前さんにできることは何もない。これは儂ら極道者の話なんだ。龍三の娘であってもこっちの話に関わらせちゃいけねえんだ」
「……」
「お前さんは、日向の世界で生きるんだ。その方が龍三やこいつらの為にもなる」
「でも……それじゃ、皆が」
「ああ、このままじゃ全員死ぬかもしれん。――だが、そんなのは儂も気に食わん」
「……え?」
雪緒が顔を上げると、仁は口の端を上げた。
涙に濡れた顔を見ながら話を続ける。
「儂も香砂は嫌いでな。このままアイツの思い通りにはさせたくない。だが、さっきも言った通り香砂は一際目立っててな。人手は多いに越したことはない」
「えっと……?」
話題が唐突に変わり、雪緒は困惑した表情を見せる。
そんな雪緒を見据え、仁は口の端を上げたまま一呼吸間を空け再び口を開く。
「ここに来た一番の目的は、香砂を潰すために手を組まねえかって話を持ちかけるためだ」
はっきり告げられた内容に、鷲峰組は再びざわついた。
雪緒は目を見開き、言葉の続きを待つ。
「香砂と争うとなればそれなりの覚悟が必要だ。……だが、今のお前さんの様子じゃそれは期待できない」
「……」
「だからここにいる全員の命、儂に預からせてもらえねえか?」
「え……?」
「儂がここにいるヤクザ者どもの命を背負ってやる。お前さんが背負おうとした全てを、儂が肩代わりしてやる」
「……でも、香砂がなんていうか」
「儂が全部責任取るっていうんだ。それに、あいつにはちょっとした“貸し”があるんでな。なら尚更そうそう強くは出ないだろうさ。老いぼれがどこまでやれるか分からんが、ここまで来たらとことんやってやる」
仁は雪緒へ余裕の笑みを見せる。
「後は儂に任せてくれるか?」
ヤクザ者の頂点と名高い極道が、自分の代わりに組を引っ張ってくれる。
自分以上に香砂と対等に渡り合えるであろう人物が、自ら名乗りを上げてくれた。
血に濡れる覚悟を見せれなかった自分は足手まとい。
だが、この誘いに乗って裏切られるかもしれない。
様々な感情がこみ上げる中、雪緒は再び仁の目をきちんと見つめる。
多くの非道を行ってきたはずの極道者のその目は、恐ろしい程真っすぐだった。
――自身を射貫くその目を見つめ返しながら、雪緒は無言で頷いた。
雪緒の了承を得、仁は満足そうな表情を浮かべ後ろを振り返り、唖然としている鷲峰組組員へ凛とした声音で話しかける。
「組長さんの了承は得た。お前らの命はこれから儂が預かる。文句ある奴はいるか?」
仁から叱責を受け、雪緒の心情も知った。
そして堅気に命を張らせようとした情けない自分たちを、彼が生かそうと動いている。
そんな現状に誰が文句などつけられるというのか。
――二人の組長の意思に誰も異を唱えることはなかった。
「――あの子はちゃんと部屋に戻ったな?」
「ええ」
「よし。じゃあ始めろ、銀次」
鷲峰組と藤崎組が手を組んだこととなった後、仁は雪緒をその場から去らせた。
雪緒が自室に戻ったのを確認し、銀次へと声をかける。
銀次は白鞘を握りしめながら、中庭へと降りる。
その足は、未だ高橋たちに抑えられているチャカの方へと真っすぐ向かっていた。
「声は出させるな。一瞬で終わらせろ」
「承知」
短く返答すると、銀次は鞘から刃を抜く。
切っ先をチャカへと向け、構える。
「お前さんがやった事にしちゃ軽いが、親っさんからの命だ。声を上げる間もなく冥土に送ってやりやしょう」
「ま、待ってくれよ……ッ! 俺はただ利用されただけだ! 殺すのはあんまりじゃ」
「聞いてられんな、無様な男の喚きというのは。なあ佐伯」
「そうですね」
いつの間にか部屋の方へ戻った仁はチャカの様子を佐伯と共に嘲笑した。
途端、チャカは頭に血を上らせ激昂する。
「んだとこのクソジジィッ! ああ!? テメエはただの老いぼれだろうが! 古くせえジジイが調子に乗ってんじゃ」
「銀次、早く終わらせろ。聞くに堪えん」
吼えるチャカを冷めた目で見ながら、呆れたような声音で銀次へ声をかけた。
刹那、白鞘の刃がチャカの首へと振り下ろされる。
――降り積もる雪の上に、鮮血が滴り落ちた。
もうこの場にうるさく喚く人間はいない。
「見事だ、銀次」
「勿体ないお言葉で」
仁は短い賞賛の言葉を贈り、銀次はそれに冷静に返した。
白鞘に着いた血を懐紙で拭う銀次に微笑を浮かべながら呟く。
「これでうるさい者はいなくなった。お前らがつけるべきけじめもつけさせた。――さて」
言葉を区切り、鷲峰組全員に聞こえるよう凛とした声音を出す。
「一世一代の大勝負だ。ど派手に行くぞ、お前ら」
これから起こるであろう激しい争いに思いを馳せ、仁は愉しそうに口の端を上げた。
本格的におじいちゃんが動きます。
◇余談
今話で「ロアナプラにて――」が100話目に突入しました。
書き始めはまさかここまで続くとも、たくさんの人に見ていただけるとは思っていませんでした。
改めて、ここまでキキョウの物語を見てくださった方々に感謝を。
まだまだお話は続きますので、暖かい目で見守ってください。
これからも、よろしくお願いします。
――華原より、皆様へ。