――港に停まっている一隻の大型船。
“
バラライカは船内にある一室で葉巻を咥え椅子に腰かけていた。
その他にボリス以外の姿はなく、二人だけの空間にただ葉巻の煙が充満していく。
「軍曹、ロックは?」
「部屋に待機しております。連絡があるまでは大人しくしろと伝えてあります」
「今日ばかりは動かれるわけにはいかないからな」
自身が連れてきた通訳の所在を聞き、足を組み替える。
ふと、左腕にある腕時計を一瞥し、煙を肺に入れ再び吐いた。
「ブルガジビリは何に手間取っているのやら。これでは彼との会合に間に合うかどうか」
途端、鳴り響いた音に言葉を止める。バラライカは目の前にある受話器に手を伸ばし通話に応じた。
電話の相手と短く言葉を交わし、「ではまた」と告げ受話器を置く。
すぐさま腰を上げ、ボリスへニヤリとした表情を向ける。
「軍曹、時間だ。同士たちに伝えろ」
「は」
「これで、やっと私の仕事も終わる」
ボリスはバラライカの指示に従い、速やかに自身の携帯電話で遊撃隊の部下に連絡を取る。
バラライカは近くに置いていた軍用コートを羽織り、ブロンドの髪を靡かせた。
――鷲峰組と藤崎組が協定を結び数日。
ホテル・モスクワや香砂会から身を守るため、雪緒は藤崎組本邸で過ごしていた。
藤崎組と手を組んだことは他の組には知られておらず、今鷲峰組は孤立無援ということが周知の事実となっている。
そんな状態で弱点となる雪緒がいつ狙われるか分からない。
そこで仁の計らいで藤崎組が保護することなったのだ。
騒動が収まるまで予備校は休むべきだと仁に言われ、雪緒はそれに従い藤崎邸へ来てから外へ出ていない。ずっと広い屋敷で藤崎組に“客人”としてもてなされている。
つい先日までの重苦しさが嘘のような穏やかな日々。
だがふとした瞬間、こうしている間も鷲峰組の組員達……銀次はどうしているのかと思ってしまう。
藤崎組に来てからたまにしか顔を出してくれず、ほぼ会えていない。
会った時に最近はどうなのかと聞こうとすると、皆口を揃えて『お嬢が気にすることじゃない』と組の状況など極道の世界に関することを全く教えてくれない。
やはり今まで一緒に過ごしてきた人たちの身を案じないなどできはしない。
それに、一度は組長を継ぐと覚悟した身。だからこそ、尚更雪緒は気が気でなかった。
自身にできることは何もないと、今日も大人しくあてがわれた部屋で仁が暇つぶしにと与えてくれた本を読んでいた。
少ししか残っていなかったページを読み終え、外の空気を吸おうと立ち上がった瞬間。廊下から足音が聞こえてくる。
こちらに段々近づいてくるのに気づき、雪緒は恐る恐る襖を開け廊下に顔を出す。
「藤崎さん? どうされたんですか」
「なに、そろそろ読み切ると思ってな。新しいものを持ってきた」
「そんなわざわざ……ありがとうございます」
「籠らせてしまってるのはこっちのせいだからな。これくらいはさせてくれ」
仁は雪緒の前まで歩み進めると、片手にある文庫本を三冊手渡した。
「雪緒、この後客人が来る。少々騒がしくなるかもしれん」
「客人?」
「ああ。相手方ととても大事な話をするんだ。客がいる間は部屋で過ごしてなさい」
「……出歩くなってことですか?」
「すまない」
怪訝そうな雪緒へ仁は申し訳なさそうに謝罪の言葉を述べた。
屋敷内は自由に出歩いていいと言われていたが、客人が来るとなるとそうもいかないのだろう。
「分かりました」
雪緒は仁の言葉に嫌がることなくたった一言そう返す。
物分かりが良い少女の返答に仁は微かに安堵の笑みを浮かべた。
「少しばかり時間がかかるかもしれん。本だけじゃつまらんだろうから、何か欲しいものがあれば携帯で高橋に言いなさい」
「ありがとうございます。でも大丈夫ですよ」
「だが」
「読書は好きなので全然苦じゃありません。それに、藤崎さんが持ってきてくださる本は読んだことがないものばかりで、とても楽しいです」
少々過保護気味な気遣いに思っていることを口にする。
仁の対応は雪緒の中でこれまで共に生きてきた鷲峰組の組員達と重なり、自然と笑みが零れた。
「大人しく待ってます。夕飯の時に本の感想を伝えますね」
「なら、それまでには戻らんとな。楽しみにしてるぞ」
雪緒の微笑みに安堵の顔を浮かべる。
最後にそう言い残し、仁は踵を返しその場を去った。
部屋に一人残された雪緒は、早速仁が持ってきた本の一冊を開いた。
――雪が解け、露になった道路を一つの車が進んでいる。
その車はやがてとある日本家屋の前で停まった。
ドアを開け、中から現れたのは軍用コートを羽織ったバラライカとボリス。そして、通訳として連れてこられたロック。
バラライカは余裕の笑みを浮かべながらカツ、カツとヒールの音を鳴らし、重厚感のある大きな門の前まで歩みを進める。
「そう固い顔しないで頂戴ロック。あなたは私の通訳さんとして堂々と振舞っていればいいのよ」
「……はい」
バラライカがロックへ声をかけている間、ボリスは門の端にあるインターホンを鳴らす。
何か考えているような、思いつめているかのようなロックの表情にバラライカは再び口を開く。
「ねえロック、あなた何か私に言いたいこと。いや、聞きたいことがあるのかしら?」
「えっ」
「お出迎えが来るまでなら話を聞いてあげる。話してみなさい」
「……どういう風の吹き回しですか」
「気まぐれ、が一番近いかしら。そう深い意味はないわよ」
バラライカが仕事前に自身を気にかけるなどあり得ないことだと思っていたロックは訝し気に彼女を見る。
本当にただの“気まぐれ”なのか、または別の思惑があるのか。だが彼女の本心を知る術を持っていない。
ならば彼女の気が変わる前に動こうと、ロックは意を決し話を切り出す。
「バラライカさん、鷲峰組は……一体どうなるんですか」
「さあ? 前も言ったと思うけどそれは彼次第。まあでも、こちらから仕掛けることはないわ。なんたって、今鷲峰組は彼が面倒見てるようだし」
「藤崎仁が鷲峰組を、ですか?」
「偵察班の話では鷲峰組組員の何名かが毎日藤崎邸に出入りしているそうよ。それに、彼に話を持ちかけられた時から鷲峰組からこちらへ何のアクションもない。これらの行動からしてそう考えるのが自然」
「……そう、ですか」
バラライカの言葉に安堵を感じながらも、結局鷲峰組がどうなるかはこれから会う人物の考え次第で決まるという事にロックは複雑な心情となった。
卑劣な裏切りと悪意に満ちた世界とは無縁の少女。
何の罪もないただの女子高生が、そんな世界に巻き込まれてしまうのではないかとロックは気が気ではなかった。
――ロアナプラで今も凛と生きているであろう彼女のように、似合わない世界で生きてほしくない。
ロックは心の中でそう呟きながら、ほんの少し拳を握る。
それを知ってか知らずか、バラライカはやや間を空けてから再び声をかける。
「ロック、何故あなたがそこまで鷲峰組の行く末を気にしているのか知らないし興味もない。――だが、今日ばかりは言わせてもらう」
冷たい声音で威圧感を浴びせる。
ロックはすぐさまバラライカの方へ顔を向け、ブルーグレイの瞳を見据えた。
「どう思おうとお前には何も関係ない。此度の会合は我々が為すべき最後の大仕事だ。余計な事で下手をこかれるのはごめんだぞ」
今回の会合がホテル・モスクワにとってどれほど重要なものかは、ただの通訳であるロックであっても知っている。
だからこそ、バラライカがそこまで言う理由も全て理解していた。
ロックは冬の冷気とは別の寒さを感じながら、間を空けて返答する。
「分かっています。仕事はきちんとこなしますよ」
「それでいい」
ロックの言葉に満足し、バラライカはほんの少し口の端を上げた。
次の瞬間、遂に門の鍵が開けられる音が鳴る。
次第に門が開いていき、中から現れたのは黒髪をオールバックにまとめた眼鏡の男。
「お待たせしました、Ms.バラライカ」
「Mr.佐伯。お出迎えありがとうございます」
「こちらこそ、わざわざお出向きいただき感謝を」
「貴方に会うのはあの日以来ですわね。お変わりないようで何より」
「ええ、貴女も」
ロックを介さず、二人は英語で軽い挨拶を交わしている。
心の中で“俺いるかな”とロックは疑問を感じていた。
「通訳さんも、あの時はきちんと挨拶ができず申し訳ない。若頭を務めています佐伯と言います。既に聞いているかと思いますが、親父との会合の時は貴方に通訳を全てお任せします」
「え、えっと岡島です。でも佐伯さんも英語がお上手なのに」
「その方がそちらも安心できるだろうと親父が。ですが念のため俺も居合わせていただきます」
「そうでしたか。なら、そんな彼のお気遣いには感謝を伝えなければなりませんね」
バラライカの手前だからか、佐伯は日本人であるロックにも英語で話しかけた。
ロックへ通訳の仕事について概要を話したところで、佐伯は再びバラライカの方を見据える。
「親父が中でお待ちです。ご案内します」
そう告げると、佐伯は踵を返し門の中へと入っていく。バラライカ、ボリス、ロックも後を追うように続く。
三人は、そのまま藤崎と書かれた表札の隣を通り過ぎた。
藤崎邸へ招かれた三人は広い廊下を進む佐伯の後をついて行く。
解けずに残っている雪は、庭園を更にどこか寂しさを漂わせつつも美しさを感じさせるものとなっている。
そんな風景を目にしながら歩いて行けば、やがて佐伯は襖の前で足を止める。
「親父、お客人を連れてきました」
「ああ」
中から聞こえてきた声には、老いを感じさせながらも凛としたものが滲んでいた。
短い返答を聞き、佐伯は流れるように襖に手をかける。
これまでの和風な様式とは違い、皮造りの椅子が四つと低めのテーブルが用意されている部屋。
それ以外余計な物は置かれていないシンプルな部屋の中には、たった一人老人が椅子に腰かけていた。
穏やかな雰囲気を纏っている彼こそが、バラライカらを招待した人物。藤崎組が組長、藤崎仁である。
ロックは仁の姿を目にした瞬間、体中に電撃が走ったような感覚となった。
なんせ彼は、数週間前に雪緒と話した喫茶店で例のハンカチを落とした老人。
ロックの頭の中には明瞭に彼の顔が刻み込まれており、同一人物であると確信に近いものを感じた。
「急な呼び出しにも関わらずよく来てくださった。足を運んでくれたことにまずは礼を言う」
そんな中、仁は日本語でバラライカへと声をかけた。だが、ロックはすぐに反応ができなかった。
もう二度と会えないと思っていた人物が目の前にいること。
それが極道の中の極道として名高い人物だったこと。
その事実により様々な疑問が次々と生まれていく。
思わず自身の仕事を放り出してしまいたくなるほどの衝動がロックを襲っていた。
「ロック?」
寸でのところで自分の役目を思い出させたのはバラライカの声。
ここでしくじれば彼女に後でどんな目に合わされるか想像するのは容易いこと。
「……すみません、何でもないです」
ロックは喉から出かかったものを押さえ込み、代わりに謝罪を述べた。
次にすぐさま仁が放った言葉をバラライカへ通訳する。
一瞬怪訝そうな顔を見せたバラライカだったが、ロックが自身の役目を全うしようとしている現状に何も言うことはなかった。
「こちらこそお招きいただきありがとうございます。お目にかかれて光栄ですわ、Mr.藤崎」
「口が上手い事だ。まあ、とにかくお座りなさい。話はそれから」
「ええ」
仁の促しにバラライカとボリスは流れるように椅子へ座る。ロックも一足遅れてバラライカの隣へ腰を下ろした。
組織の長たる二人は笑みを浮かべながらお互いを見据えている。
だが、その空気はどこか冷たく、張り詰めたもの。
そんな中で二人以外に笑みを浮かべることのできる人間はここにはいなかった。
「さて、早速だが儂らの関係をはっきりさせよう。今後のためにもな」
「勿論。そのために日本へ来たと言っても過言ではありませんから」
「まずはお互い求めているモノを改めて認識しようか。――儂が貴女に求めるものは、これ以上戦火を拡大させないこと。一切儂の組に手を出さないで貰いたい」
「こちらが求めているのは一つ。日本にホテル・モスクワの確固たる拠点を。それ以外にありません」
「儂が言ったことを約束してくれるなら最大の助力をすると約束しよう。――と、言いたいところだが、その前に一つ確認したい」
「……なんでしょうか」
「今後は貴女が日本に居座るのか?」
バラライカは意外とスムーズに自分が求めていた言葉を引き出せたことに違和感を覚えた矢先、やはりそのまま話がまとまるまではいかなかった。
キャリアウーマンのようなビジネススマイルを浮かべながら仁の質問に答える。
「いえ、私は一時的な派遣に過ぎません。先日、日本支部長であったラプチェフ氏が“不慮の事故”で亡くなってしまったので、この後はモスクワからの後任が引き継ぎます
「ああ、あのレストランの爆破事故か。なんでもガス漏れによる引火が原因だったとか。巻き込まれたとは災難な」
「ええ、何とも不幸な男です」
ラプチェフを地獄へと導いた張本人は何の感情も込めることなく平然と言ってのけた。
仁もまた、顔に張り付けた笑みを崩すことなく話を進める。
「近頃の東京はとても物騒だ。今はどこもかしこも血の匂いが漂って仕方ない。例えただの事故だと言われても、何らかの陰謀があるとしか思えん。どう思うかね、お嬢さん」
「さあ? ただ、血の匂いは我々にとって嗅ぎなれたもの。平和な島国でその匂いを嗅げたことは、僥倖とも言えるべきでしょう」
仁の柔らかな表情に隠された言い難い“何か”を感じとりながら、バラライカは一瞬の間を開けることなく淡々と返した。
「そうか。そこに関しちゃ儂も強くは言えないな。……さて、話が逸れたな。別の人間が居座ると言うのなら、拠点についてはその後任と話を進めたい」
「それはつまり、助力をいただけるかは本日の会合では決められない、ということでしょうか」
「今の時点では協力するつもりではある。だが、お互いの利のため、信頼のため今後関わる人間と話がしたい。どう動くかはそこから決める。その方が色々と動きやすいんでな」
「……困りましたね。それでは困るのですよ、Mr.藤崎」
刹那、バラライカの瞳に鋭利さが帯びる。グロスが塗られた艶やかな唇を歪ませ、長い脚を徐に組んだ。
「我々ホテル・モスクワは一刻も早く東京に拠点を築きたい。そのためには貴方の助力は必要不可欠。ここではっきり決めていただかなければ、私もここを去る訳には行かないのです。—―我々の力を未だ理解できていないのであれば、今まで以上の戦火を御覧に入れましょうか。勿論、貴方の傍で」
仁の後ろで控えていた佐伯は思わず眉を顰めた。
明らかな挑発。
“この場で決断しないのならお前の縄張りで暴れる。それが嫌ならこちらの条件を飲め”。
彼女はそう言ってのけたのだ。
佐伯はふざけるなと叫びたい衝動に駆られた。少しばかり自身より短気な高橋がこの場にいたなら、彼女を思い切り罵倒していたかもしれない。
いや、仁を慕う人間ならばそうするのが普通だろう。
だが佐伯は若頭として立場を弁えることを優先し、その衝動を腹の底で押さえつけた。それでも藤崎仁の後継者である彼の瞳には怒りの色が滲んでいる。
背後で醸し出されている怒りの空気に仁は内心苦笑しながら、ゆっくりと口を開く。
「はっはっは、何とも血の気が多いお嬢さんだ」
仁は冷たい空気をあしらうかのように、軽快な笑い声を出した。
「そちらの武力を侮っているわけじゃない。寧ろ、危険視しているからこそこうして話をしている。放っておいても問題なければ、ラプチェフ殿と同じように相手にしなかったよ」
「では、何故あのようなことを? ここで“助力をする”とはっきり言ってくれれば話はすぐに済むというのに」
「今ここで貴女とそう約束したとして、その後任とやらがこちらに何の害もないとは言い切れない。会ったこともない人間を信頼するなんてのは無理なのでな。その上、儂らヤクザ者とマフィアは相容れない。例え同じ闇の世界の住人だとしてもな」
鋭利な視線を向け続けるバラライカへ、微笑みながら話を続ける。
「そんな相容れない者同士、肩を並べようと言うんだ。ならそれなりに慎重に事を運びたいと思うのは当然じゃないか?」
「――意外ですね。まさか、貴方がそのような事を言うとは」
微笑を浮かべてはいるものの、その声音は先程よりも鋭さを帯びていた。
隣に座っているボリスは、彼女の様子に戸惑ったような表情を浮かべている。
「かつて貴方は敵対していた多くのヤクザ者を潰し、たった一人でその地位まで昇りつめた。その強さから恐れと尊敬を集め、今も尚その権力を誇っている。金と権力ではない。力のみで這いあがってきた。そんな貴方は“私と同じ”だと思っていたんですが」
「……貴女と同じ、とは?」
「血と喧騒に満ちている世界で生きてきた。そんな人間がここまで挑発されても尚平穏無事に終わらせようなんて、笑い話にもなりはなしない」
途端、お互いの顔から笑みが消える。
言葉では言い表わせない程の冷たさが、部屋にいる全員を包み込んだ。
沈黙が落ち、誰もがこの会合の行く末を見守ることしができずにいる。
「は、ここまで言う奴は久々だな」
しばらくし、先に口を開いたのは仁だった。
「“お前”、本当は一体何を望んでる。ここまで来ると、こっちと全面戦争したいとしか思えねえぞ」
「そうなっても構いません。だが、戦争になって困るのはそちらでは?」
「舐められたもんだ。まあ、ここ数年若いモンにそういうのは任せきりだから落ちぶれたと思われんのも仕方ねえか」
仁は独り言のように呟き「はあ」と一つ息を吐いた後、再びバラライカを見据えた。
その瞳は、バラライカのものよりも鋭く冷徹で一切の光が入っていない。
先程まで隠されていた彼の感情が表立っている。
――殺気。
その言葉が一番ふさわしい彼の視線に、ロックは言わずもがな、数々の修羅場を潜ってきたボリスでさえも息を詰まらせた。
目の前で真っ向から浴びているバラライカは、久々に最大の緊張感に見舞われ身動き一つとれなくなっていた。それでも目を逸らすことなく、彼の瞳を見据え続ける。
「確かに、お前らと殺り合ったらタダじゃすまない。血は多く流れるだろう。――だが、儂らはそれを惜しむような生き方はしていない」
ロックは震えた声音で仁の言葉を伝える。
「儂や儂の組員は仁義の為ならいくらでも血と命を差し出せる。儂ら極道は仁に生き、義のために死ぬが本望。それはお前ら外のモンには到底理解できないことだと知っている。そんな奴らと争って香砂のバカにいい思いをさせるなんざ御免なんだよ」
「……」
「あくまでも戦争を望まないのは自分の保身の為じゃない。香砂につけ入る隙を与えないためだ。――だがな、こっちの話を聞かずお前が己の欲望のままに動くってんなら、容赦はしねえ」
言葉を区切り、身を乗り出す。
殺気に満ちた視線を向けながら、極道の頂点と呼ばれている男が告げる。
「俺の縄張り。子供らに手を出したその時は、俺が直々にその首落としてロシアに送り付ける」
「……」
「利益のためだけに動いている自分らの物差しで測ってこっちの事を知った気でいるようなら、それはとんだ間違いだぜ。お嬢さん」
約四十年前、極道による抗争で多くの血が流れた。
東京では数々の組が存在し、お互いの縄張りを侵そうと抗争による火種は大きく広まっていた。
そんな血の連鎖を止めようと、一人の男が動いた。
杖に仕込まれた刀を携え、自身の組に抗争を仕掛けた組を残らず壊滅に追い込んだ。
組長であれば基本後ろで構えているものだが、彼はそんな男ではなかった。
自ら前線に立ち、先陣切って血を浴び続けたのだ。当時、背中に掘られた藤の花の刺青には、まるで雨のように常に血が滴っていたという。
やがて彼の鬼神の如き強さに恐れた周りの極道たちは、彼の傘下に入ることを決めた。
これが関東和平会設立の発端となり、抗争の激動を終焉に導くこととなった。
そんな背中の藤の花に血を滴らせながら抗争を終焉させた人物を、周りは“
――闘争心と侠気は、老いた今でも尚衰えてはいない。
バラライカはそれを今、身をもって実感した。
同時に“戦争となれば自分もタダでは済まない”ことも。
仁が最後まで話し終えてからしばらく間を空けて、バラライカはやっとのことで口を開く。
「――どうやら、私は貴方をとことん見くびっていたようです。大変失礼なことを言ってしまい申し訳ありません、Mr.藤崎」
「なに、自分の力を誇示しようとするのは力を持っている人間の性でもある。特に、貴女のように強い力をもっていれば尚更だ」
「貴方ほどではありません。これほど見事な殺意に当てられたのは久々です」
「怖がらせてしまったかな?」
「いえ、寧ろ貴方のような強者に出会えたことに喜びを感じていますよ」
「はは、物好きなお嬢さんだ」
バラライカが素直に謝罪の言葉を述べると、仁は殺気を無くし柔らかな表情へ戻る。
「Mr.藤崎。貴方の考え、理解いたしました。では、今この時を以て我々は武装を解除し、本来の持ち場へと帰還します。今後の事は、全て後任に一任いたします。貴方とホテル・モスクワが無事組めたのか、その結果を楽しみに待つとしましょう」
「その後任へはこちらから連絡を差し上げた方が?」
「いえ、今度はこちらからコンタクトを取らせていただきます。貴方にまた手間を取らせるわけにはいきませんので」
「分かった」
先程までの冷徹さは無くなり、すんなりと会合の結論が出された。
それはつまり、バラライカの日本での仕事が終了したという意味となる。
ロックはこうもあっさり終わることに少し驚きながらも、どこかで安堵を感じていた。
ロアナプラでも滅多に味わえないとてつもない殺気をバラライカの横で浴びたのだ。
アウトローの世界に多少慣れていたとしても、彼にあの突き刺さるような視線は刺激が強すぎた。
震えた声でもちゃんと通訳できたことに我ながら凄い、と思うのも無理はないだろう。
ほんの少し余裕が生まれ、ロックの中では再び彼に対しての疑問が浮かんでくる。
ヤクザ者の頂点であるということは嫌でも理解させられた。
そんな彼と“彼女”に一体どういう関りがあるのか。
喫茶店で話していた“遠いところ”というのはロアナプラなのだろうか。
この人なら、彼女がなぜあの街にいるのか知っているのだろうか。
そう考えながら、柔和な笑みを浮かべている仁へロックは視線を向ける。
だが、今この場で聞ける勇気は無い。
バラライカに“邪魔するな”と釘を刺された上に、先程の彼の様子を見たとくれば尚更個人的な事で口を開くのは“非常によろしくない”。
だが、分かっていてもロックの視線は仁を捉えたまま外さない。
「通訳さん、儂の顔に何かついてるか?」
「……えッ!?」
その視線に気づいたのか、仁はロックへと声をかけた。
あまりに唐突なことに、ロックは変な声で反応する。
「さっきからこっちを見ていたのでな。何かあるのかと思ったが」
「い、いえ……その……すみません」
「ロック?」
「え、えっと……」
バラライカの固い声音での呼びかけにロックは言い淀む。その様子に、仁は微笑みを消すことなく言葉を続けた。
「さて、ひとまず結論も出たことだし少し休憩にしないか? その後、また今後について話をしよう」
戸惑っているロックに代わり、後ろで控えている佐伯が仁の言葉を伝える。
バラライカはロックを一瞥した後、微笑みながら返答する。
「分かりました」
「その間なんだが、この青年をお借りしたい」
「え?」
「彼を、ですか?」
「たまには組員以外の若者と話すのもいいと思ってな。なに、貴女には何も関係ない話だ。この会合には何の支障も生まないことを約束しよう」
仁の言葉にロックは更に困惑の表情を濃くさせた。バラライカは訝し気に仁を見つめた後、やがて再びロックへ視線を向ける。
「あの、バラライカさん……?」
自身を見つめるバラライカの視線に、ロックは思わず彼女の名を呼びかける。
少しの間を空けた後、口端を少し上げながら仁の方へ視線を戻す。
「そこまで言うなら、構いませんよ」
「ありがとう。通訳さんも構わないか?」
「お、俺も大丈夫、です……」
断れるわけないよ、と内心呟きつつ答える。二人の答えに仁は満足そうに微笑み徐に腰を上げた。
「何かあれば佐伯に遠慮なく言ってくれ。じゃあ通訳さん、早速だが着いてきてくれ」
「は、はい」
「ロック――くれぐれも、粗相のないようにね」
その冷徹さを帯びた声音に、ロックは「はい」としか答えられなかった。
「すまないな、急に連れ出して」
「いえ……」
なんでこんなことになったんだ。そうロックは思っていた。
今自分は別の部屋で、藤崎仁と二人きりで話をしている。そんな状況をすんなり飲み込むことは出来なかった。
畳の上に敷かれた座布団の上で正座し、緊張の面持ちで仁の顔を見据える。
「一つ確認なんだが、君は喫茶店で儂のハンカチを拾った青年だよな? 儂の事は覚えているかな」
「……はい」
「そうか、よかった。間違いだったらどうしようかと思っていたところだ。――まさか、こんな形で再会するとはな。人は見かけによらないとはまさにこのことだ」
仁は微笑みを浮かべ呟き、胡坐をかきながらロックを見つめる。
「君もロアナプラからこっちへやってきたと聞いた。元は日本で何してたんだ」
「しがないサラリーマン、です」
「だろうな。まだ君からは“日向”の気配が消えていない。だから儂も見抜けなかったわけだが……そんな君がどうして裏社会に身を投げたんだ」
「……会社に見捨てられて、そこで今の仲間に拾われました。そこからはそこで生きている、という感じです」
「なるほど、それは災難だったな。だが、いつでも日本へ帰れただろうに」
「……」
仁の言葉にロックは口を噤んだ。
彼の言う通り、確かにいつでも帰れただろう。だが、それでも帰らなかった。帰ろうと思わなかった理由は、自分自身が一番理解しているからこそ言葉にするのに躊躇いがあった。
黙ってしまったロックに仁は苦笑を浮かべ、再び口を開く。
「まあ、君について深く聞くつもりはない。儂よりも君の方がこちらに聞きたいことがあると見受けられる」
「え……」
「違うのか? さっきの反応からそうだと思ったんだが」
そう言うと、仁は徐に着物の袖の中へ手を伸ばす。
中から取り出したのは――喫茶店で目にした例の白いハンカチ。
「君にはこのハンカチを拾ってもらった恩がある。恩返しと言っては何だが、儂に答えられるものなら答えよう」
ロックはそのハンカチを目に映すと、無意識に拳に力を入れる。
――あの時逃したチャンスが目の前に。
また逃がせば、今度こそ二度と訪れない。
そう思うと、心臓の鼓動が異様に早くなるのを感じた。
意を決し、これ以上ない程緊張しながらゆっくりと口を開く。
「俺が聞きたいのは、そのハンカチを作った人物についてです」
ほんの少し震えた声音を出しながら、ロックは仁を見据える。
「貴方が大切にされているハンカチ。そのハンカチに刺繍されているマークを俺はよく知っています」
「……」
「そのハンカチにあるマークは、あの街で彼女が作った服全てに刺繍されているものです。今俺が着ているスーツにも」
「…………」
ロックの言葉を聞いた瞬間、仁の顔から微笑みが消えた。
真剣な表情で、ただロックの話を聞いている。
「貴方はあの時、“親友の孫娘が作ったもの”だとそう言いましたよね。なら、貴方は彼女について必ず何かを知っているはずだ」
「………………」
「あの人――キキョウさんについて、貴方が知っていることを教えてください」
“詮索されるのは嫌い”
そう言った彼女は日本でこんなことをしている自分を許さないだろう。
だがそれでも、聞かずにはいられなかった。
ロックが最後まで言い切った後も、仁は黙って見据えるだけ。
沈黙がしばらく流れ、やがて徐に口を開く。
「青年、そのキキョウとやらはロアナプラで洋裁屋を営んでいるのか?」
「はい」
「その洋裁屋の師の名前は、分かるか?」
「確か、重富春太と。彼女本人から聞きました」
一流である彼女が“自分は一生追いつけない”と評した洋裁の師。
少し前に、その師に育てられたのだと話してくれた。
その師の名前を聞いた途端、仁は目を見開いた。
そして、目を伏せ一つ息を吐く。
「そうか、あの子はまだ……そうか……」
仁はどこか安心したような。だが僅かに困惑の色が滲んでいる声音で呟いた。
少しの沈黙が流れたが、すぐさま仁はロックへ再び視線を向ける。
「確かに儂は、このハンカチを作ってくれた子の事をよく知っている。何故あの街にいるのかの理由もな」
「じゃあ」
「だが、君がそこまで肩入れする理由がわからん。あの子と何か特別な関係を築いているのか?」
「俺と彼女はただの客と職人という関係です。ですが、あの街に住む数少ない日本人としてどうしても気がかりなんです。――裏切りと血で満ちている世界に、あんなとても優しい人がいるのかが分からない。周りのように血で手を染めたわけでもない、普通の人が悪徳の都で何故日本に帰らず、悪徳の都に拘る理由を少しでも知りたい」
「興味本位か」
「違うと言えば嘘になります。ですが、どうしても知りたいんです」
一瞬の間も空けず答えたロックを見据え、一つ息を吐いて仁は半ば諦めたような表情を浮かべた。
「長い話になるぞ」
やがて、静かに自身がよく知るある女性の事について話し始めた。
老人のキャラ設定で「昔○○」と呼ばれていた、っていうのよくあるじゃないですか。
ああいうありきたりなものもすごく好きなんです。
早くも、あと二話くらいで日本編も終わりです。