「一か月ぶり、ですかね。何事もなかったようで何よりです」
「ええ。そっちも元気そうで良かったわ。アナタと酒が飲みたくて急いで帰ってきたのよ」
「そう言うってことは、向こうの仕事は退屈だったんですか?」
「いや、割と楽しめたわよ。あんな人物に出会えるなんて、日本もまだまだ捨てたもんじゃないわね」
――バラライカさんがいなくなったロアナプラでは一層銃声が鳴り響き、ここぞとばかりに力を振るう人たちで溢れていた。
そんな暴れ者たちを主に三合会が抑えてくれたおかげで、なんとか街の秩序は保たれていた状態だった。
私の方は依頼はめっきり減り暇を潰すことの方が多かったが、たまに街の支配者たる彼の息抜きに付き合うこともあった。
電話で他愛ない話をしたり、二人で酒を飲んだり。
あと……何回か彼のベッドで一夜を過ごしたりもした。
その時のことは少し恥ずかしいので、あまり振り返らないでおこう。
とにかく、そんな喧騒な日々にようやく彼女が舞い戻ってきたことで次第に銃声も収まり、以前のように大通りを何の気なしに歩けるようになった。
そして、バラライカさんが日本から帰ってきて三日後。
彼女自身の仕事が落ち着いたのか“話がしたい”と呼び出され、淹れてくれた紅茶を片手に今こうして言葉を交わしている。
「随分ご機嫌ですね」
「そりゃ、あんな見事なヤクザに出会えたんだもの。全力で殺り合いたかったけど、今回は見送りにするしかなかった。それだけが本当に心残りだわ」
「ヤクザ?」
「ええ。――ねえキキョウ、あなたジン・フジサキって知ってるかしら?」
彼女の口から出た人物の名に思わず紅茶を飲む口が止まった。
動揺を悟られないよう、できるだけ平静を保ちつつ言葉を返す。
「……その人がどうかしたんですか?」
「彼、とっても素晴らしいご老人だったわ。一瞬とはいえこの私が怖気づく程の殺気を浴びせてきたの。この街でさえそんな人物はいないというのに」
「貴女が、ですか。それはとんでもないですね」
「ホントにね。今後また会うかもしれないから、アナタがもし知ってたら彼についての情報を教えてもらおうと思って」
そう言うバラライカさんはとても上機嫌で、今にも鼻歌を歌い出しそうな雰囲気だ。
彼女が私に聞いてきたのは、自身をここまで湧き上がらせた彼の事をもっと知りたいという、単なる興味本位だけなのかもしれない。
だが、生憎私は彼についてそこまで詳しいことは分からない。
それどころか、バラライカさんよりも彼について知らない部分が多い可能性の方が高いだろう。
だから、彼女の期待に応えることはできない。
「その人について貴女に教えられる情報は私にはありませんね。残念ながら」
「本当に?」
「本当ですよ。……それにしても珍しいですね、貴女がそこまで興味を持つなんて」
「それほど活きがいいヤクザ者だったのよ。彼に会えただけでも僥倖だったわ」
一体あの国で何があったのか知らないが、きっと彼女を満たしたきっかけがあったのだろう。
バラライカさんはその時の事を思い出しているのか、また満足げな笑みを漏らしている。
「そうそう、アナタにお土産があるのよ。今日はそれを渡そうと思って」
「そんなわざわざ……日本酒ですか?」
「洋裁に関する何かでもいいと思ったんだけど、それはいつでも取り寄せられるしね。折角なら現地でしか手に入らないものの方がいいでしょ。アナタ無類の酒好きで酒豪だし、ぴったりじゃない」
「ありがとうございます」
にこやかにバラライカさんが取り出した四合瓶の日本酒を受け取る。
瓶が入っている箱には純米大吟醸と書かれており、久々に見た文字に思わず口の端が上がった。
「バラライカさん」
「なに?」
「このお酒、よければ一緒に飲みませんか。結構飲みやすい種類なので貴女の口にも合うかと」
先程、彼女は“私と酒が飲みたい”と言ってくれていた。
思えば、バラライカさんとは主に紅茶を飲みながら話すことの方が多かった。
折角の機会だ、機嫌のよさそうな“友人”と酒を片手に話すのも悪くないだろう。
私の誘いにバラライカさんは一瞬目を見開いた後、口端を上げた。
「ええ。ぜひ“友人”として、楽しくお話しましょキキョウ」
その時のバラライカさんはいつもより少し柔らかな微笑みを携え、機嫌の良さそうな声音を発していた。
――――――――――――――――――――――――――――
バラライカさんと日本酒を片手にお喋りした翌日。
こなすべき依頼もなく、いつものように刺繍をして時間を潰していた。
今日はバーベナという小さな花びらがいくつもまとまって咲く花。
紫や白、ピンクといった様々な色で構成し、鮮やかな模様を満遍なく入れていく。
ほとんど手を休めることなく作業を続ければ、外はいつの間にか夕陽が差し掛かっていた。
ふと時計を見やると、丁度十六時半を指し示していた。
まだまだ余裕があることを認識し、道具を作業机の上に置く。
渇いた喉を潤そうと腰を上げ、奥の自室へと向かう。
コップに水を入れ少しずつ喉へ通し、飲み切った後一つ息を吐く。
その時、ふと昨日のバラライカさんとの会話を思い出す。
『ジン・フジサキって知ってる?』
知らない訳ではない。
寧ろ、あの人にはとてつもない恩がある。
一生忘れることのできない恩人の一人。
だが、そうは言っても私と彼が顔を合わせたのはたったの一回。
その上、話した時間は数時間と満たないだろう。
そのせいか、私は彼については本当に何も知らない。
知っているのはヤクザ者であることと、師の友人だったということだけ。
この情報はバラライカさんが求めているものとはきっと違う。
だから“教えられる情報はない”と伝えた。
嘘ではないし、それで彼女も納得したのだから問題ないはずだ。
空になったコップをテーブルに置き、続きを再開しようと作業場へ戻る。
椅子に腰かけ、刺繍道具を手にしたその時だった。
ドアの方から聞き慣れた音が響き、咄嗟に視線を一点に向ける。
来客を告げる音が鳴ってから少しの間も空けることなく、久々に聞く声が飛んできた。
「キキョウさん」
私の名を呼ぶその声は、通訳としてバラライカさんと共に日本へ行った岡島のもの。
やはり、彼も街へ帰ってきたのだと今この瞬間に実感する。
「キキョウさん、いらっしゃいますか。ロックです」
何やら急かすように再び呼びかけられ、すぐさま腰を上げ足を動かす。
ドアを開ければ、そこには相変わらずホワイトカラースタイルの岡島が立っていた。
「久しぶり岡島。帰ってきてたんだね」
「ええ。お久しぶりです、キキョウさん」
「それでどうしたの。何か依頼?」
「いえ……少し、貴女と話がしたくて」
「話?」
「はい」
そう答える彼の表情と声音は真剣なもので、一体何だろうかと訝しく思ってしまう。
「……とりあえず、立ち話もなんだから中にどうぞ」
それでも昨日今日知った仲ではないので、ひとまず部屋へ入れる。
「失礼します」と丁寧に断りを入れながら入ってきた岡島を一瞥しドアを閉めた。
「コーヒーいる?」
「いえ、結構です」
即答されてしまった。
前まで遠慮しつつも私なりのもてなしを受けてたというのに、彼は最近コーヒーを飲まなくなったんだろうか。
まあ、人の味覚が変わることもある。そこを気にしたところで何もならないだろう。
そう考えながら来客用の椅子を取り出し、岡島の傍に置く。
自身も先程まで座っていた椅子を引っ張り、彼と向かい合う形で座る。
「あれ、そういえばレヴィは?」
「置いてきました」
「そっか。珍しいね一人で来るなんて」
「ええ、まあ……」
「……」
「……」
「…………」
「…………」
……あれ?
なんだろうかこの空気は。
もう話をする準備は整ったというのに、肝心の彼はどこか固い表情をするだけでまだ何も言ってこない。
岡島が緊張でもしているせいか、変な空気が流れてしまう。
どこか妙な雰囲気に首を傾げながらも、ひとまずこちらから声をかけてみる。
「岡島、話ってなに?」
私は彼のように気を遣う言葉をかけたりだとか空気を和ますような話をするのが得意ではないので、早速本題を切り出す。
声をかけると、岡島は俯いて一つ息を吐いた。
そして一呼吸間を空けた後、意を決したのかこちらを見据え徐に口を開く。
「日本で、ある人と会ってきました」
「ある人?」
「その人は日本の極道の頂点と呼ばれています。俺はバラライカさんと彼の会合に通訳として居合わせた時、何故かその人と話す機会がありました」
「……」
「彼はあるハンカチを持っていて、それには見覚えのあるマークが刺繍されてました」
「……マーク?」
「貴女自身が作った証として入れている、桔梗の花がメインのあのマークです」
その言葉に、思わず目を見開いた。
私があのマークを入れ始めたのはこの街に来てからだ。
――だがたった一つだけ、この街に来る前にそのマークを入れた物がある。
それを渡したのは勿論一人だけで、その人はバラライカさんの口からも出た人物。
「彼の名前は藤崎仁。この名に覚えがあるはずです」
「……岡島、急になに」
「藤崎さんに貴女の事を教えてもらいました。――貴女がこの街に来たきっかけとなった出来事を」
私の言葉を遮って、岡島ははっきりと言い放った。
彼に告げられた内容に、息が止まるような感覚に陥る。
私が、この街に来たきっかけ。
それを知っているのはこの街で誰もいなかった。
あのバラライカさんや張さんでさえ、私の過去は調べようがなかったと言っていた。
この街に来てから誰にも知られることのなかった“汚点”を、よりにもよって彼に一番に知られるとは。
だが、それよりも別の事実の方へ怒りが湧き上がる。
彼は、私が知らないところで私の過去をまさぐったのだ。
藤崎さんがただの通訳に話すわけがない。
つまり、岡島が自ら藤崎さんに進んで聞いたという事だ。
詮索されるのは嫌いだとあれほど言ったというのに、この男は……。
声を荒げそうになるのを必死に押さえ込み、何とか言葉を紡ぐ。
「それで? それを知ったところでどうするの」
「どうもしません。ただ、俺は知りたいだけです」
「何を」
「貴女がここへ来るきっかけは分かっても、結局この街に拘る理由は分からなかった」
またか。
一体何度この話をすれば気が済むと言うのか。
「前にも言った。私が欲しかったものを手に入れることができたから。だからこの街に」
「自分と同じ境遇を持った人間に囲まれて、無残に死ぬかもしれない日常が欲したものですか」
この男、さっきから私と会話する気が全くない。
その態度も相まって更に苛々が募っていく。
そんな私の内心を知ってか知らずか、彼は強引に話を続ける。
「一九六六年、四月四日。ある政治家と一般女性の間に一人の女の子が生まれた」
淡々と告げられる内容を、驚きも重なり黙って聞くことしか出来ない。
「その政治家は法務省勤めで、様々な地域活動にも参加しとてつもない人望を集めていた。次期総理大臣と噂されるほど、彼の人気は凄まじかった。――だが、ある事がきっかけでその道は閉ざされた」
一体、彼はどこまで知っているのだろうか。
そんなことまであの人は彼に教えたのか。
「政治家が最愛の妻を事故で殺害した。それがあまりにもショックだったのか、彼は精神が不安定になり政治活動は愚か、一人娘を育てることもできない。そんな中、娘を引き取ろうとある人物が名乗りを上げ、その人の元へ預けられた。その人物は、重富春太という洋裁屋だ」
「岡島、そろそろそこら辺に」
「娘が25になり、その洋裁屋は病で死亡。二人で切り盛りしていた店を娘一人で営もうとした時、実の父親が娘の前に現れた」
「……」
「その父親は唯一の娘と長く会う事ができなかったせいで更に精神に異常を来し、一九九一年に娘を殺し、家に火を放って無理心中した。――と、表向きにはなっている」
「…………」
「実際に俺が今言った情報は真実といくつか食い違っている部分がある。そうですよね」
「…………」
答える気はないことを目線と態度で訴えれば、彼はまたお構いなしに話を続ける。
「実際は」
岡島は一つ間を空けて、言葉を続けた。
「貴女が父親を殺したんですよね? ――如月李織さん」
彼がはっきり告げたその名前に一瞬目を見開いた。
息がつまるような感覚になりながら、俯いて目を瞑る。
思い切り息を吐いて、静かに口を開く。
「その名前で呼ばれたのは久々だな」
最早怒りを通り越して、笑ってしまいそうになった。
本当なら今すぐ怒鳴ってもおかしくないのに。
人間は、怒り以上の感情を抱くと逆に冷静になるらしい。
顔を上げ、岡島の瞳を真っすぐ見つめる。
「ここからは日本語で話そうか。君と私だけの内緒話だし、丁度いいでしょ」
「……」
「少し、昔話をしようか」
半ばやけくそになりながらも、なんとか言葉を紡ぐ。
いつもなら、ここで“知らない”と突っぱねて追い返していただろう。
だが、何度も彼には詮索するなと忠告した。
それを無視してここまで話してきたのだ。
きっと、彼は自分が求めている答えを得るまで諦めないのだろう。
ならもう今回で終わらせるしかない。
ここでちゃんと終わらせなければならない。
そのためには、腹を括って事実を伝える他ない。
「当時、確かにアイツは日本じゃ有名な政治家だった。表じゃ愛妻家なんて言われてたみたいだけど実際にはそうじゃない。――私と母を殴るなんて当たり前、その上毎日のように母親をレイプする様を見せつけられた。終いには、母を殺した後もその死体を犯し続けてたよ。そんなヤツ父親だなんて思ったことは一回もない」
無意識に拳に力が入る。
今でもたまに夢に出てくるあの日々をなんとか言葉で伝える。
岡島はそんな私の言葉をただ黙って聞いている。
「表向きではいい顔をしていた政治家が妻を殺したってなれば、マスコミが動かないわけがない。母が死んだ時、一年間くらい毎日つけ回されてたよ。“人殺しの娘になった気分はどうか”、“罪を償う気はないのか”って何回も言われた。……おかげで私を引き取ってくれた人の商売にも支障が出て、日本じゃ何もできないって一緒に海外へ逃げたの。そこから騒動の熱が収まるまで日本には戻らなかった」
「……」
「日本でその熱が過ぎ去った頃、アイツが私の前に現れてね。その時言われた言葉を今でも鮮明に覚えてるよ。“育ててくれた男とは寝たのか”、“母親と似ていたぶりがいのある顔”だって。――母は私をアイツから常にかばい続けた末に死に、師は私を育てるために無理して病気で死んだ。私は二人がいたから生きてこれた。……そんな二人を、よりにもよってあの男が侮辱したことが何より許せなかった」
十数年ぶりに会った娘へ最初に放った言葉がそれだった。
ニヤニヤした顔で言われた言葉の羅列は聞くに堪えないもの。
今思い出しても腸が煮えくり返りそうになる。
「だから殺した。あの時、結局自分の感情のまま人を殺した私はあの男と血が繋がっているんだって嫌でも思い知らされた。そう思ったらもう全部がどうでもよくなって死のうとした時に、影でずっと気にかけてくれた藤崎さんが手配してくれて、ここへ辿り着いた。それがこの街へ来ることになったきっかけの真実」
「……」
「でもさ、私が体験したことでこの街の人たちからしたらものすごく普通の事なんだよね」
「……え?」
「父親に恵まれなくて、暴力を振るわれて、仕返しの為に殺して。……いや、どちらかといえば私はすごく恵まれてる方だと思ってる」
「なに、言ってるんですか」
淡々と自分の考えを告げれば、岡島は戸惑ったような声音を出した。
「岡島、私はね普通になりたかったんだよ。普通に円満な家庭で育って、普通に学校に行って、普通に恋して結婚して。そういう人生を送りたかった。――でも、それは日本は当然、どこに行こうと絶対手に入らない」
「……」
「この街でアイツの名前を知ってる人間はいない。いたとしてもすぐに忘れ去られる。尚且つ人を殺しても誰も責めてこない。この街なら私は“普通”になれるの」
岡島の困惑している表情を見据えながら、言葉を続ける。
「似た境遇の人に囲まれながら、如月李織としてではなくただのキキョウとして死にたい。これが私が心から欲したものだよ」
そこまで言ってから徐に腰を上げ、足を動かす。
「キキョウさん……?」
「ちょっと待ってて」
戸惑う岡島を置いて足早に自室へと戻る。
そして、クローゼットの奥にある箱に手を伸ばし、その箱を持ったまま再び作業場へ向かう。
岡島は埃被った箱を持っている私を怪訝そうに見てくる。
作業机に箱を置き、蓋を開けた。
そこには、張さんから貰った銃と師から貰ったハンカチ。
そして――血で錆びた裁ちばさみが入っている。
ここ何年か手にすることはなかった裁ちばさみを持ち、数回刃の上を撫でながら話を再開する。
「岡島、私何回も言ったよね。“詮索されるのは嫌いだ”って」
「……はい」
「それを分かった上で、ここまで踏み込んだんだよね」
「…………はい」
「そう。――なら、私に殺されても文句は言えないってことも分かってるよね」
ナイフのように鋏を持ち、ゆっくりと岡島の方へ近づいていく。
目の前まで歩みを進め、彼を見下ろす。
未だ動かない岡島の胸倉を掴み、顔を近づける。
だが、彼の目には恐怖どころか、先程までの戸惑ったような色さえなかった。
こちらを見据え、ただ成り行きを見届けるかのような余裕さえ感じられる。
殺されかけているというのに、なぜこんな態度がとれるのか。
「抵抗しないんだ」
「ええ」
「怖くないの?」
「全く」
「どうして」
「貴女にその気がないからですよ」
即答されたその言葉に、思わず目を見開いた。
眉を顰め、訝し気にしながらも話を続ける。
「私は一度人を殺してる。君を殺すことに躊躇いなんてないんだよ」
「いいや、貴女は俺を殺すことはないですよ」
「どうしてそう言い切れるの」
「殺すなら鋏じゃなく銃でやった方が早い上に抵抗もしにくい。だけど貴女は敢えてその鋏を手に取った。抵抗できる距離なら男の俺の方が優位になる。そして何より、貴女は己の感情だけで人を殺してしまったことを悔いている。俺をここで感情のまま殺せば、また父親のような振る舞いをしたことになる。それは貴女が嫌っていることのはずだ」
「……でも、私には君を殺す動機が揃っている。あの時とは違う。それにここで君を殺したって誰も私を咎めない。あの男と同じだと言わない」
「周りがどう言うかじゃない。貴女は“自分が納得できるかどうか”で動く人間だ。――そんな貴女が、俺を殺す訳ないんですよ。現に今その刃を突き立てず、俺の話を聞いてくれていることが何よりの証拠だ」
違う。
私は本気で彼を殺そうとしている。
裁ちばさみを手に取ったのは、こんなくだらないことで彼から貰った銃を使いたくなかったからだ。
岡島の話を聞いたのは、不可解なことを不可解なままにしたくないから。
ただそれだけだ。
それだけなはずだ。
私には殺しの才能なんてない。
だが、彼は今無抵抗だ。
ここで一回でも喉に刃を突き立てば、例え男相手だろうといくらでもチャンスはある。
あの時だってそうだったじゃないか。
アイツの隙を見て、背中から一突きして、その後無我夢中で刺して。
一人でも男を殺せたのだ。
なら、彼だって殺せるはず。
――なのになぜ、手が動かない。
人を殺すことに躊躇いなんてあるはずもないのに、どうして。
自分の行動に少し動揺していると、ふと岡島の手が動いた。
そのまま胸倉を掴んでいる私の手の上に重ね、ぎゅ、と強く握ってきた。
「李織さん……いえ、キキョウさん。俺は藤崎さんから話を聞くまで貴女は血に染まってないと信じ込んでた。それが貴女の凛々しさを目立たせる一つの要素だとも」
「……何言って」
「でも、この手を血で染めても尚、貴女は優しさを捨ててはいない」
「…………優しくないって何回も言ってるでしょ」
「この街の闇に染まった人間は誰でも目が濁り、一かけらの情さえかなぐり捨てる。でも貴女はこの街で誰よりも優しく、凛々しくて、綺麗な女性だ。父親を殺したのだって自分の利益のためじゃなく、母親や恩師を侮辱されて怒り、行動した故の結果だ。人殺しは決して世間から許されることじゃない。だけど、貴女の“それ”は街の住民たちの“それ”と全く違うんだ」
全部知ったかのように放たれる言葉の羅列が全く理解できない。
だが、岡島の瞳はあまりにも真っすぐで、本気で思っているのだと感じさせた。
「俺は、貴女の過去を知っても尚この街に居るべきではないと思ってます」
「……は?」
「このままここにいれば、どんな死に方をするか分からない。貴女のように幸せになるべき人はここにいちゃいけないんだ」
「……」
「キキョウさん、どうかこの街ではないもっと安全な場所で」
「それ以上戯言いったら本当に刺すよ、岡島」
余りにも身勝手な事を言われ、きつめな言葉になってしまう。
だが、この際そんなこと気にしてる余裕はない。
きちんと伝わるように、目を見据えたままはっきり告げる。
「何で勝手に私の居場所を君が決めるの。私の幸せも、居場所も私が決める。それが私が求めた自由で、幸せそのものなの。過去を知ったからって、その権利もあると思ったら大間違いだよ」
「…………」
「それに、私からしてみれば君の方がこの街に似合わない」
「え?」
「どうして日本に残らなかったの。例え会社に見捨てられても、まだ手を血で染めてない君なら日本でいくらでもやり直せるはずだよ」
「……それ、は」
「私が求めていたものを全部持っていたのに、どうしてそれを捨てたの。何もかも持ってた君が、どうしてそんな身勝手な事が言えるの」
心なしか声と拳が震えてくる。
そう、岡島はかつて私が日本にいた頃求めていた普通を持っていた人間だ。
暴力に苦しむことのない家庭に生まれ、学校にも普通に行けて。
普通に暮らして、平穏な日々を過ごす。
そんな素晴らしいもの全て捨てて、彼はここへ舞い戻ってきた。
私にはそれが到底理解できない。
そんな彼に“この街に似合わない”なんて一番言われたくない言葉だ。
嫌味とさえ思えてくる。
「ただ正義漢ぶって何もできない君にだけは、幸せだのなんだの言われたくないよ」
過去を知って何か力になりたいだとかそんなことを思ったんだろう。
本当に私をこの街から追い出したいなら、どんな手段を使ってもするはずなのだ。
だが彼にはその手段を思いつくことも、実行できる力もない。
そんな上辺だけの人間に動かされるほど私は馬鹿じゃない。
「じゃあ、あのマフィアならいいんですか」
「え?」
「張さんに俺と同じ言葉を言われても、納得できるんですか」
「……あの人は絶対言わないと思うけど、もし言われたら少なくても君よりかは響くよ。彼は私をこの街で一番知っている人だから」
「あの男はただのマフィアですよ!? いくら気に入られてるからって価値がないと思えば何の気兼ねなく切り捨てる! そんな男の何が貴女をそこまで……ッ!」
「何が言いたいのか分からないけど、彼は私を洋裁屋として生かしてくれた。そんな彼だから切り捨てられようと、殺されようと、この街から追い出されたとしてもきっと後悔しない。私にとって彼はそういう人なんだよ」
岡島はどこか怒ったような表情を見せたが、それには構わず淡々と返す。
私の言葉に驚いたのか唖然とし、何も言わなくなった。
瞬間、握られていた力が弱まったのを見計らない胸倉から手を離す。
困惑で揺らいでいる岡島の瞳を見据えながら、再び口を開く。
「岡島、今回は君の勝ち。殺さないでおいてあげる」
「……」
「その代わり、絶対に私の過去は口外しないこと。それを破ったら張さんに頼ってでも君を殺すからね」
「…………はい」
まあ、きっと彼はこんな個人的なことに付き合わないだろうが。
そんな事を思いながら裁ちばさみを箱へ戻し、蓋を閉める。
「もう君と話すことはないよ。帰りなさい」
「……」
「岡島、さっさと出て行って」
「最後に一つだけ、いいですか」
「なに」
まだ何かあるのか。
その感情が声音に乗ってしまったが、こればかりは仕方ないだろう。
「貴女は張さんに……」
そこまで言うと、岡島は言葉を止め、そのまま黙ってしまう。
一体何なのだろうか。
聞くならさっさと聞いてほしい。
「…………いいえ、やっぱりなんでもないです」
「そう」
しばらくしてやっと出た言葉に短く返答し、小さく息を吐く。
全く気にならないと言えば嘘になるが、正直これ以上
「話はこれでお終い。レヴィによろしく伝えといて」
突っぱねるように伝え、箱を手に取り自室へと戻る。
クローゼットの奥へ箱を戻している間、足音とドアが閉まる音が聞こえた。
「はああああ……」
岡島がやっと帰った事実に、大きなため息が出た。
あそこまで詮索されたのに割と冷静に話せていたことは我ながら凄いと思う。
ただ、一つ気がかりなのはあそこで殺さなかったことを後悔しないかだ。
だが、あそこで手が動かなかったということは、無意識で彼を殺すことに抵抗があったのかもしれない。
まあ、彼が言いふらしたりしなければ後悔することはないはずだ。
後は岡島が誰かに言わないことを祈るしかない。
それにしても、本当に疲れた。
まさか、仕事以外でここまで疲れることがあるとは。
“貴女はこの街に居るべきじゃない”
ふと、先ほど言われた言葉が頭の中で反響する。
そのせいか、収まっていた胸の内のモヤモヤが再び湧き上がってくる。
そのモヤモヤをどう処理していいか分からず、もう一度大きなため息を吐く。
しばらくその場から動かず考え、こういう時は酒を飲むに限ると家の鍵と財布を手に足を動かした。
ここで、本編では語らないキキョウ/李織さんの家庭事情を。
政治家だった父親は息子が欲しかったのですが、生まれてきたのは女の子。
それが気に入らなかった父親は娘である李織にきつく当たりました。(この時点ではまだ暴力はない)
そのことに母親が酷いストレス状態となり何度も妊娠しましたがその度に流産し、ついには妊娠できない体となります。
母親が妊娠できなくなったのは李織のせいだと考えた父親はついに暴力を振るうようになります。
この子だけは守ろう、と母親は必死に李織をかばい続けました。
そんな生活が小学校まで続き、ある時李織は重富春太と出会います。
春太と話していくうちに自分の家庭が異常であることを再認識し、母親が殴られているところを見て、勇気を出し始めて父親に抵抗します。
激昂した父親は怒りに任せて李織の腕を折り、殺そうとしますが母親が必死にしがみつき李織を逃がします。
春太のところへ逃げ、警察とともに再び家へ戻ると既に死んでいる母親を犯している父親の姿がありました。
父親は金がある政治家ということもあり実刑には至らず、国の監視の元、李織と離れて暮らすことになりました。
李織は春太と過ごしている間は、とても平和な日常をおくります。
キキョウさんはずっと大好きな母親が自分のせいで死んだと思っています。
父親を殺した時、「こんな自分は生きてはいけない」と思い自殺しようとします。
そんな時に仁さんがやってきてなんとか生きるよう説得し、ロアナプラで今も生きています。
ちなみに……母親は「如月 桜」という名前です。
容姿はただキキョウさんの髪が長くなった感じ。
香港編でキキョウさんが桜綾さんに一層母親に重ねていたのは、名前のせいでもありました。
大分長くなりましたが、キキョウさんの過去については以上です。
次の話はキキョウさんがやけ酒するお話となります。
少しだけでも楽しみにしていただけたら嬉しいです。