ロアナプラにてドレスコードを決めましょう   作:華原

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今回は糖度120%でお送りします。


69 水も滴る……

 白いパウダーを少しづつ肌の上に乗せる。

 そしてフェイスブラシを手に取り、目を瞑りささっと余分な粉を落としていく。

 

 仕上げに赤い口紅を唇に塗り、唇だけが目立たないようティッシュを押さえ、顔に馴染む色になるまで薄めていく。

 

 最後に軽く髪にヘアブラシを通し、鏡に映る自分の顔を見やる。

 

 ──自分で化粧をしたのはいつ振りだろうか。

 リンさんから「たまには自分でできるように」と、以前教えてもらったことが今頃になって活きるとは。

 

 

 多分、そこまで変な仕上がりにはなっていない……はずだ。

 

 

 

「ちゃんとおめかしできてるじゃん。あの人絶対喜ぶよぉ」

 

 

 いつの間にか隣に立っていたルカは、親指を立てにっこりと笑みを浮かべている。

 その様に思わず深いため息が出た。

 

「……こういうの、あんまり良くない気がする」

 

「大丈夫だよ。自信持って先生」

 

「い、いきなりこんな格好で行くのはちょっと……今までこういう事しなかったし」

 

「逆におめかししないで行ってた方がおかしいと思うよ僕は」

 

 今私が着ているのは、普段なら着ないものだ。

 首元に付いたタイを蝶結びにした袖が七分丈の白いブラウス。

 

 

 

 ウエストが引き締まっているように見せるロング丈の黒いハイウエスト・スカート。

 

 

 踵は低く、黒い光沢のあるピナフォア・ヒール。

 

 

 

 これらは全てルカが選んだもの。

 靴は以前依頼してくれた娼婦からいただいたものだが、それ以外は収納部屋にあった服だ。

 

 

 

 

 ──事の発端は一時間程前。

 昼食をルカと摂っていると、張さんから久々に「二人で会いたい」と呼び出しがあった。食べ終えて、いつもの服で出て行こうとしたのだが何故かルカに止められた。

「折角ならおめかししてこ! たまには媚び売らないと!」といつもより熱意を籠めたように言われ、私が言い訳じみた言葉を並べていたら「似合いそうな服選ぶのも修行の一環でしょ! 師匠なら付き合って!」ともっともな意見に押し負け、おしゃれをする羽目になったのだ。

 

 おしゃれをするからには化粧も必要だと、重い手を動かしなんとか仕上げたが……やはり違和感がすごい。

 慣れない服に身を包むのはいい。

 だが、彼から着飾って来いと言われた時以外はいつも普段の恰好だったのだ。

 

 着飾って彼と会うのは、まるで“そういう”ことを期待していると……彼に女として見てほしいと言っているような気がどうしてもしてしまう。

 

 

 ……これを言ったら、ルカに「今更だ」と呆れられるだろうか。

 

 

 

 

「──絶対揶揄われる」

 

「揶揄われたとしても内心大喜びだから。男心ってのはそういうもんだよ」

 

「でも」

 

「もう、つべこべ言わない! いつも通りの態度で行けば大丈夫だから!」

 

「う……」

 

 

 

 私のうじうじと言い訳する様に痺れを切らし、勢いよく叱るように言い放たれる。

 子供に叱られるなんて大の大人が情けないと思うが、今回ばかりは素直になれないので仕方ない。

 

 

 

「ビルまで僕も一緒に行くからさ。そしたら一人で街を歩かずに済むしいいでしょ。あ、汚れたら台無しになるからトゥクトゥク乗ろ。この時間ならまだ空いてるはず」

 

「……」

 

「そんな拗ねた顔しないでよ先生。それとも、僕が選んだ服気に入らなかった?」

 

「そういう訳じゃないけど……まだ心の準備っていうのが」

 

「パトロン待たせちゃダメでしょ。はい、行くよ」

 

 

 

 ルカに主導権を握られているのは気のせいだろうか。

 我が弟子ながら逞しいと思う反面、今はほんの少し憎らしい。

 

 

 

 手を握られ、弟子に引っ張られるまま家を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──もう帰りたい。

 

 

 心の中で半泣きになりながらも出かかった言葉を飲み込む。

 

 ここからは一人で大丈夫でしょ、とルカに笑顔で送り出され、彼がいる高層ビルへ入ったはいいものの、見知った顔である三合会の人たちからの視線が痛いほど刺さる。

 

 いつも洒落っ気のない女がめかし込んでいるのが珍しいとは言え、こちらを見ながらコソコソと話す様が目に入る度に居た堪れない気分になる。

 

 だが彼からの呼び出しを蔑ろにするわけにもいかないので、重い足取りのまま進み受付の人に声を掛ける。

 いつもと変わらない営業スマイルで対応をしてくれたのが今この場で唯一の救いだ。

 

 

 促されたままエレベーターに乗り込み、最上階へと向かう。

 

 

 扉が開きいつもの道順を進んでいると、社長室の前に彪さんが立っていた。

 

 

 

「よおキキョ……珍しい格好だな、どうした」

 

「……色々ありまして」

 

 

 

 私の姿を見るなり、彪さんは驚いたような声音を出す。

 

 

 

「へえ、とうとう媚びを売るようになったのか?」

 

「断じて違います。……ニヤニヤしないでください」

 

「わりィわりィ。ま、いいんじゃねえか? 大哥も喜ぶだろうよ」

 

「揶揄われる未来しか見えませんけどね」

 

 

 はあ、と小さく息を吐けば、彪さんは喉の奥でくくっと笑う。

 

 

「あー……だがタイミング悪かったな。その恰好は意味ねえかもしんねえぞ」

 

「え?」

 

「すぐ分かる。今日は別の部屋だそうだ」

 

 

 

 彪さんはこっちだ、と社長室とは真反対の方向へと向かう。

 少し戸惑いつつも、置いて行かれないよう彼の背中に着いて行く。

 

 

 

 ほんの数分歩くと、やがて一つのドアの前で立ち止まる。

 

 

 

 社長室以外に入るのは初めてなので、何の部屋なのかは分からない。

 

 

 そのまま彪さんは流れる様にドアを開けた。

 途端、目の前に広がったのはガラス張りの向こうにある広々としたプール。

 

 

 

 ──まさか、ビルの中にもプールがあるとは。

 

 

 確か、六年前に少しの間居させてもらった隠れ家にもあったはずだ。

 

 彼はプールが好きなんだろうか。などと考えていると、彪さんに「入れ」と言われ、はっとし足早に中へと入る。

 改めて見渡すと、誰かがプールで泳いでいるのが目に入った。

 プールサイドに郭さんが立っているので、泳いでいるのはきっと張さんだろう。

 

 どうもプライベートの時間らしく、呼ばれはしたが本当に私が邪魔していいものか……。

 そう考えている間に彪さんはつかつかと奥へと進みプールサイドへ出ると、何やら張さんへ声を掛けた。

 

 

 やがて水から顔を上げ、すぐさまこちらへ視線が向けられる。

 

 

 

 私の姿を見た彼は目を見開いた後、遠くからでも分かるほど愉し気に口端を上げた。

 彼に軽く手招きされ、何を言われるのか不安に煽られつつ向かう。

 

 

 

 プールサイドの入り口まで行くと、部屋の涼しさとは違う清涼感を肌で感じる。

 意を決し、相変わらず口端を上げこちらを見ている彼へ歩みを進めていく。

 

 

 

「今日は随分可愛らしい格好だな。やっと自分から着飾ってくれるようになったのか」

 

「そう思いますか」

 

「さあ? だが、そうだと嬉しいね」

 

 

 上機嫌な声音でそう言うと、彼は腹心の二人へ軽く手を振る。

 兄貴分の指示に忠実な彼らは、何も言わず颯爽とこの場から離れていく。

 

 

 おかげで、この広いプールに彼と二人きりとなる。

 

 

 いつもの整ったオールバックではなく、水でかき上げられているせいか、いつもと雰囲気が違うように感じた。

 

 

 もっと近くに寄れと言わんばかりに、再び手招きされる。

 抵抗することもなく歩みを進め、やがてプールの縁から顔を出している彼の目の前まで近づく。

 スカートが濡れないよう、膝の後ろに手を当てつつ折り込み屈む。

 

 

 

「折角可愛い格好してるお前に言うのはあれだが……ま、しょうがない」

 

「え?」

 

「一緒に入れよ」

 

「え……」

 

 

 

 まさかのお誘いに思わず目を見開く。

 

 この格好で入るわけにもいかないので、当然戸惑う。

 

 

「流石にこの格好では……」

 

「んなわけねえだろ。水着は用意してある」

 

「なぜ……って、サイズは?」

 

「んなもん俺とお前の仲だ。知らねえ方がおかしいだろ」

 

「……」

 

 

 

 彼の言葉に顔に熱が籠る。

 目の前で浮かんでいるやりとした顔から瞬時に目を逸らす。

 

 

 

「私泳げないですよ」

 

「大丈夫だろ」

 

「本当に無理なんです」

 

「俺が傍にいるんだ。ここで溺れることはないと思うが」

 

「いや、でも……」

 

 

 

 私は学校もロクに行っていない上に、春さんと一緒にいた時も海やプールに興味がなかった。

 つまり泳ぎの練習をしたことがない。というより、泳ぎ方を知らないのだ。

 

 

 いくら彼が傍にいたとしても、迷惑をかけるだけで楽しくなるはずがない。

 

 

 だから入るのを渋るのは当然だ。

 だが、彼は引き下がる様子を一向に見せない。

 

 

 

「折角水着まで用意したのになあ。人の好意を無下にするのは良くないぞ」

 

「ありがたいですが、今回ばかりは遠慮させてください」

 

「楽しみ方は泳ぐだけじゃねえぞ?」

 

「お風呂より深い水に入ったことがないので、楽しむ余裕ないと思います」

 

「おいおい」

 

「本当ですよ」

 

 

 私が嘘をついているように見えないようで、張さんは困ったように眉を下げた。

 

 

「不安なら俺が支えてやるぞ」

 

「それだと、ずっと貴方にしがみつくことになってしまうので……」

 

「──ほう」

 

 

 しがみついた後も動かなくなる自信がある。

 流石の彼もずっとしがみつかれるのは困るだろう。

 

 

 私の言葉に何を思ったのか、張さんは愉快そうに再び口端を上げる。

 

 

「そこまで嫌なら仕方ねえな。無理強いは良くない」

 

「分かっていただけたようで」

 

「上がる。手貸せ」

 

 言われたまま右手を差し出すと、水に濡れた武骨な手が触れる。

 

 

 

 掴まれた次の瞬間──思い切り手を引っ張られた。

 

 

 

「わっ……!」

 

 

 少しの間もなく訪れた水の感覚と息苦しさにどうしたらいいか分からなくなる。

 口と鼻に水が入ったせいで余計に頭が混乱する。

 

 本能で何かに掴まろうと腕を動かすと、すぐさま強く引っ張られたおかげで水面に顔を出せた。

 そのまま彼の首元へ手を引き寄せられ、溺れないようにと何も考えずしがみつく。

 

 

 

 腰と背中に手を回され、咳き込む私を落ちつかせるように優しく背中を叩かれる。

 

 

 

「げほ、ごほッ……はあ……はあっ……」

 

「たまげた、本当に泳げねえのか」

 

「げほッ……そう……はあ……言った、でしょう……はあ……」

 

 

 

 何とか呼吸を繰り返し、段々と落ち着きを取り戻していく。

 咳も収まり、彼に文句を言おうとした途端、自分の今の姿に気が付く。

 

 自分から彼に抱き着いている構図に思わず体が硬直する。

 だが、溺れてしまうのではないかという不安から首元から手が離せない。

 

 

 

 恥ずかしさと不安でどうにかなってしまいそうになりながらも、何とか口だけ動かす。

 

 

 

「……どうして急に引きずり込んだんですか」

 

「お前があまりにも頑なだったんでな。ちと意地悪したくなった」

 

「無理強いはしないって言いましたよね」

 

「良くないとは言ったが、しないとは言ってない」

 

「屁理屈ですよ、そんなの」

 

「しょうがねえだろ。お前があんなこと言うもんだから」

 

「あんなこと?」

 

 

 どのことだ。

 落ち着いた頭で自身が言った言葉を振り返る。

 

 張さんは背中を叩いた手を止める代わりに、更に抱きしめる力を強めた。

 そのためどうしてもブラウス越しに彼の身体が密着するのを感じてしまう。

 

「ずっとしがみついてくれるってんなら試すしかないだろ」

 

「なッ……!」

 

 声だけでも上機嫌だと分かる。

 

 

 

 誤算だ。まさかそれで喜ぶとは。

 

 

 

「……ずっとは、迷惑でしょう」

 

「お前から触れてくれるのは滅多にないからなあ。絶好の機会を逃したくなかった」

 

「だ、だからってあんな無理やり」

 

「だが試す価値はあった。──現に今も、しっかり俺にしがみついてる」

 

 

 私の耳元に口を寄せ、艶のある低い声音で囁いた。

 

 

 

 瞬時に耳から背中を伝い全身に痺れが走ったような感覚を味わう。

 

 同時に羞恥も相まって顔に熱が帯びていく。

 

 

 

「……溺れたくないので、仕方なく……です」

 

「はは。びびってる姿はそそるが、お前の身長ならちゃんと足はつくぞ」

 

「え……?」

 

「手離して、ゆっくり降りてみろ」

 

「で、でも」

 

「俺は手を離さん。安心しろ」

 

「……」

 

 

 いつもより柔らかい声音にどこか安心したような心地になる。

 言う通りに恐る恐る手を離し、ゆっくりと沈む。

 

 彼の肩に手を置きながら足を伸ばすと、やがてプールの底に足がつく。

 もう片方の足も底につければ、さっきまでの不安は薄まり、自然と安堵の笑みが零れた。

 

 

 

 

「ちゃんと言う通りにできたな。いい子だ」

 

 

 

 

 張さんは柔らかい声音で呟いた後、背中から私の頬へと手を動かす。

 冷たい指先が頬を撫でる触感に思わず身震いする。

 

「……じゃあ、私は上がります」

 

「おいおい、こっからがお楽しみだってのに」

 

「何の話ですか」

 

「折角触れ合ってるんだ。もうちょいこのままでもいいだろ」

 

「触れあっ……今は違いま、すッ」

 

 

 いきなり腰に回っていた武骨な手に思い切り引き寄せられ、再び彼の体と密着し底に足が着いたことでできた隙間が再びなくなる。

 

 

 更に頬に熱が帯びるの感じながら、彼の顔を見上げる。

 

 

「そう睨むなよ」

 

「……離していただけると嬉しいんですが」

 

「断る」

 

 胸板を押し返そうと力を入れるがびくともしない。

 それどころか、余計に彼の腕の力が強まっていく。

 

 いつもより冷たい肌の感触が手の平に伝わる。

 

 

 

 ──彼の素肌に触れるのはいつもベッドの上。

 

 

 

 嫌でも思い出してしまうせいか、いつもより鼓動がうるさい。

 

「ひゃっ」

 

 突然、ブラウス越しから背中に指が触れ変な声が出てしまう。

 腰から背骨に沿って指先が徐々に這い上がって来ると共に、ぞわぞわとした感覚が背中に伝いびくりと肩が震える。

 頬に触れていた手が後頭部へ添えられ、彼の腕から逃げることもできず、両手で拳を握りただ耐えるしかできない。

 

「なに、してる……ですか」

 

「んー?」

 

「んう……ッ」

 

「服の上だってのに、いい反応するなあ」

 

「し、知りません……!」

 

「お前は背中触る度いつも体を震わせる。だが──」

 

 

 

 言葉を止めると、またしても彼の口が耳へ触れるか触れないかの距離まで近づく。

 

 

 

「こうして囁きながら触ると、もっといい反応をする」

 

「ひぁ……ッ!」

 

 どこか艶やかささえ感じる声音が耳から脳に響く。

 口が動く度ほんの少しだが唇が耳に触れる。

 同時に今度は上から背骨をなぞられ、また肩を震わせ己の口から何とも言えない声が漏れ出る。

 

「やめ、てくださ……」

 

「可愛い反応見せられてやめれるわけねえだろ」

 

「や……」

 

 

 熱い吐息が耳に触れる。

 

 

 自身が吐き出す息も熱が帯びてる気がする。

 

 後頭部を押さえていた手が離れ、頬が武骨な手に包まれる。

 拘束がほんの少し緩まったのを計らい、すぐに離れようと身体を捩る。

 

 

 やっとのことで背を向けることができたが、逃げることを許さないように少しの間もなく彼の両腕が後ろから伸び、瞬く間に引き寄せられた。

 

 

 今度は背中越しに彼の素肌が密着する。

 

「逃げることないだろ」

 

「……貴方が、触ってくるから」

 

「触るなってほうが無理な話だ」

 

 

 彼はくく、と喉の奥で笑う。

 

 

 

 そのまま更に強く抱きしめられる。

 心なしか鼓動がより早まった気がした。

 

「折角のおしゃれを台無しにしちまったな」

 

「……本当ですよ」

 

「悪かったよ。で、なんでこの格好を?」

 

 私がこの格好をしているのがどうも気になっていたようで、再び問いかけられる。

 今度は冗談めかした言い方ではないので、本当に疑問だったのだろう。

 

 

 どう伝えようか迷った後、口を開く。

 

 

「……ルカの押しに負けました」

 

「あ?」

 

「たまにはめかし込んだ方がいいと強く言われたので……。服はあの子に選んでもらったんですよ」

 

 包み隠さず告げると、頭上からため息を吐く音が聞こえる。

 

「お前な、ガキ相手に押し負けてどうする。それも弟子に」

 

「あの子の修行の一環にもなると思ったので」

 

「全く」

 

 呆れたような声音で呟いた。

 確かに、何歳も年下の子に言いくるめられるのは大人としてどうかと自分でも思う。

 

 

 これ以上何か言われる前に話題を変えようと頭を巡らす。

 

 

 

「──あの子が選んだ服、気に入りませんでしたか?」

 

 

 

 少し考えて何気なく問いかけてみる。

 びしょ濡れになった今、聞いても意味はないかもしれないが。

 

 

 

 

「清楚な服もよく似合う。お前の弟子は将来有望だな」

 

 

 

 

 一つの間を空けることなく返って来た言葉に、思わず笑みが零れる。

 長年お世話になっているパトロンから弟子の事を褒められたら嬉しいに決まってる。

 

 

 

「ありがとうございます」

 

「ただ一つ言わせてもらうなら、お前が俺のために選んでくれたら完璧だった。まあ、おかげで普段と違うお前を見れた。今度ルカに何か褒美をやらねえとな」

 

「……あまり甘やかさないでいただけると」

 

「お前に言われたくねえな」

 

 

 反応に困ることを言われてしまい、少し言葉が詰まった。

 そのあとすぐさま返された一言に苦笑を漏らす。

 

 

 

 ──ふと、水に晒され無意識に寒気も感じていたからか鼻先がむずむずするのを感じる。むず痒さが段々強まってしまい、自然と鼻と口へ手を持っていく。

 

 

 

「はっ、くしゅ……すみません……」

 

 

 

 我慢できずくしゃみしてしまう。

 鼻をすすりながら謝ると、「上がるか」と彼は愉快そうに笑いながら言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 びしょ濡れになった服を脱ぎ、部屋の奥にある浴室で軽くシャワーを浴びる。

 用意されていたバスローブを纏い、タオルで頭を拭いていく。

 

 かごに置いていた服は彪さんが持って行ったようで、張さん曰く「裸で帰らせるわけにもいかねえだろ」と、どうやら乾かしてくれているらしい。──下着もあるので一瞬慌てたが、女性に預けているようでその気遣いはとても有難かった。

 

 張さんも入れ替わりでシャワーを浴びており、彼が上がって来る前にルカへ連絡しようとテーブルの上にある電話で「今日はしばらく帰れない」と伝えると「分かった。で、どうだった? 張さん嬉しがってた?」と面白がるように聞かれ、なんだか気に入らなかったので答えずに切った。

 

 プールを眼前に眺望できる位置にあるデイベッドに腰かけると、ぽたぽたと水滴が髪から落ちた。

 どうせすぐ乾くだろうが、滴ってこない程度に再び拭く。

 

 

 

「連絡は済んだか?」

 

 

 

 声のした方へ振り向くと、バスローブに身を包みタオルを首にかけた彼が目に入る。

 前髪は下がっており、先程とはまた違った雰囲気を醸し出している。

 

 

「ええ」と短く返すと、張さんがこちらへ近づいてくる。

 ふと、彼は足を止め私の髪に視線を向けた。

 

 

「髪くらいちゃんと拭け」

 

「拭きましたよ」

 

「まだ濡れてる。風邪ひくぞ」

 

「すぐ乾きますよ」

 

 私の言葉に「全く」とため息交じりに呟く。

 

 

 すると彼は私の前に立ち、唐突に頭がタオルで包まれた。

 

 

 

「あ、あの」

 

「なんでこういうとこはズボラなんだ」

 

 

 呆れたような声音を発しながら、彼は私の髪をガシガシと拭く。

 思いもよらない行動に、戸惑いよりもこの人に世話をさせている現状に恥ずかしさの方が勝る。

 

 

「自分で拭きます」

 

「俺がしたい気分なんだ、大人しくしてろ」

 

「でも」

 

「たまにはこういうのもいいだろ」

 

 

 ……どこか楽しそうにしているのは気のせいだろうか。

 こう上機嫌で言われてしまうと、何も言えなくなってしまう。

 

 

 やめる気配もないので、言葉通り黙って受け入れる。

 少し乱暴ではあるが痛くはない。それどころか、どこか心地よささえ感じる。

 彼の大きな手に包まれると、何故か無条件で安心してしまう。

 

 目を瞑り、しばらく安らかな気分に浸っていると彼の手が止まった。

 タオルが外され、視界が開けると真っ先に張さんの顔が目に入る。

 

 

 

 だが彼はまだ私の頭に視線を向けており、徐に直接髪に触れる。

 

 

 

「伸ばさないのか」

 

「伸ばす予定はないですね」

 

 短い方が何かと楽な上に、年中暑い気候だと伸ばす気になれない。

 

 

 

 ──昔は母のようになりたくて、せめて髪だけでも真似たいと伸ばした時期はあるが、この街に来た時からその気は失せた。

 

 

 

「俺が伸ばしてほしい、と言ったら?」

 

「……長い髪が好きなんですか?」

 

「別にそうじゃないが」

 

 

 確かに長髪の方がより女性らしさは出るだろうが、今まで彼に伸ばしてほしいと言われたことがないので些か驚いた。

 張さんは私の短い髪を指先でいじりながら「ただ」と続ける。

 

 

「長い方がキスしやすいと思ってな」

 

「…………髪にキスするんですか?」

 

 

 

 意味が分からず首を傾げる。

 私の問いかけに彼はふっ、と息を吐くように笑う。

 

 

 

「キスはしたいところにするもんさ。それに、場所によって意味も違う。──例えば」

 

 

 言葉を区切り、髪をいじっていた指先を止めた。

 そのまま彼が少し前屈みになり視線が同じ高さになる。やがて私の左手を優しく掴むと、流れるように自らの口元へ運ぶ。

 

 

 

「ここは称賛」

 

 

 

 一言呟いた後、彼の唇が指先に軽く触れる。

 

 思わず手を引っ込めようとするが、強く握られ逃げることができない。

 

 

 

「ここは懇願」

 

 

 

 次は掌に口づけされる。

 

 目の前で繰り広げられる行為に、次第と顔に熱が集まり始める。

 

 

 

 

「敬愛──欲望──恋慕」

 

 

 

 

 手の甲から手首へ。手首から腕へと、ゆったりとした動きで次々に唇を寄せていく。

 口づけしている間も、彼の瞳はこちらを向いたまま。

 

 

 どこか艶かさを感じる視線に、喉が詰まる感覚が押し寄せる。

 

 

 

 ──そうして彼の手が離れたかと思ったのも束の間。

 

 

 今度は、首筋に指先が触れる。

 

 這わせた後を追うように、次第にゆっくりと彼の顔が首筋へ近づいていく。

 バスローブがはだけ、露になった肩をごつごつとした手が包み、優しい力で押し倒される。

 

 驚きと羞恥からか、抵抗することを忘れた。

 ……いや、抵抗する気など最早なかったかもしれない。

 

 

 どのみち、熱のこもった視線から逃れることなどできるはずもない。

 

 

 

「執着」

 

 

 

 

 首筋で吐息を感じた後、すぐさま唇が触れる。

 

 

 

 

「誘惑」

 

 

 

 次に耳元で囁かれ、思わず身体が震えた。

 

 

 耳から背骨に伝う甘い痺れを我慢するように拳を握るが、間を空けることなく武骨な右手が左の拳を包む。

 

 すぐさま、力を抜けと言うように指先が触れる。

 無言の命令にも似た行動に手の力を抜くと、ゆっくりとお互いの指が絡み合う。

 

 

 顔を上げ、彼は空いた左手で私の頭へ触れる。

 

 

 

「親愛──そして」

 

 

 

 鼻先がぶつかりそうなほどの距離で呟く。

 言葉を区切り、今度は頭から唇へと手が触れる。

 

 

 

「愛情」

 

 

 

 そっと指先で唇を撫でた後、私の頬を大きな手が包む。

 目の前にある彼の顔には、柔らかい笑みが浮かんでいる。

 

 

「髪が長くなれば、お前を愛でる部分も増える」

 

「……揶揄わないでください」

 

「揶揄っちゃいない。ただ、今のままじゃ足りないって話さ」

 

「足りない?」

 

「ああ」

 

 

 一体、何が足りないのだろうか。

 彼の言葉の真意が掴めず首を傾げる。

 

 

 

「いくら言葉を交わそうと、どれほど触れ合っていようと、お前の全てはまだ俺のモノになっていない」

 

 

 途端、彼の顔から笑みが消え、真剣な眼差しが降り注ぐ。

 

 

「なあキキョウ。そろそろ俺の傍に来る気はねえか?」

 

「……」

 

「俺はいつまでもこんな曖昧な関係でいるつもりはないぞ」

 

 

 告げられた内容に目を見開く。

 本気で私を自身の傍に置く気があるとは思えない。

 

 

 ……だが、彼のまっすぐな瞳が冗談だと思わせてくれない。

 

 

「何度も言っているが、俺はお前の全てが欲しい。身体を差し出されただけじゃまだ足りない」

 

「……」

 

「たった一言、俺の傍にいたいと──俺の女になってもいいと言ってくれれば、それでいい」

 

 

 

 絡まっている彼の指に力が入る。

 

 

 

「まだ、その気にはなれねえか」

 

 

 

 いつもの冗談を言う時とは何もかも違う。

 

 ──かつて、抱かれてもいいかと問われた時と同じ表情を浮かべ、同じ声音をしている。

 

 

 

 彼の傍。

 

 つまりこの人の隣に立つ気があるかどうかを、今は問われている。

 

 

 

 しばらく考えた後、意を決し彼の瞳を見据える。

 

 

 

「貴方の隣に立つべきなのは、私じゃありません」

 

「なぜそう思う」

 

「……私には洋裁しかありません。頭もよくない上に、力もない。何の取柄もない。貴方の傍にいるには、私には色々なものが足りなさすぎる」

 

「じゃあなぜ抱かれた」

 

「それとこれとは話は別のはずですよ。私は抱かれてもいいと思ったから抱かれた。貴方の隣に立てると思ったからじゃありません」

 

 

 あの時は抱かれてもいいかどうか。それだけの話だった。

 だから、彼の傍に立つ女性が現れたらこの関係も終わりにするべきだと思っている。

 

 

 ──抱かれたからといって、彼の隣にいれると思い上がるのは違うだろう。

 

 

 私の返答を聞くと張さんは眉間に皺を寄せ、静かに話し始める。

 

 

「確かに、俺はそれなりの立場にある。ただの女にはちと荷が重いかもな」

 

「……」

 

「だが、俺がそこまで考えてないと思うか?」

 

「え?」

 

「俺やバラライカが気にかけてるとは言いえ、それを抜きにしてもお前はこの街の荒くれ者ども相手に上手くやっている。香主や龍頭相手にも臆さず、毅然と振舞った肝っ玉もある」

 

「えっと……」

 

「芯を曲げないのもお前の強みだ。自分を曲げないのは時に厄介だが、お前は曲げれないんじゃなく敢えて曲げない。これは大きな違いだ」

 

 

 私の戸惑いに構うことなく張さんは話を続ける。

 

 

「気立ての良さも、肝っ玉のでかさもそこらの女とは別格だ。そして、何年も俺と信頼関係を築いてきた。これほど俺の隣にふさわしい女はいない」

 

 

 頬を指先で撫でながら告げられる内容が、どこか気恥ずかしく思わず目を逸らす。

 

 

「これから先そんな女は出てこない。お前以上の女を俺は知らない──お前なら、俺の隣が務まる。そう確信してる」

 

「……そん、なこと」

 

「俺はお前をよく知っている。だから疑いようもない」

 

 

 

 彼が冗談を言っているようにも見えない。

 恐らく、本気で私が隣にふさわしい女だと思っている。

 

 

 買い被りにも程がある。

 

 

 彼の言葉に呆気にとられてしまい、黙ってしまう。

 

 少しの沈黙の後、張さんは頬を撫でる指を止める。

 

 

「なあキキョウ。今までお前の我儘はなるべく聞き入れてきたつもりだ。それはこれからも変わらない。お前が望むもんは、俺が与えられるもんなら何だってくれてやる。できうる限りの望みは叶えてやる」

 

「……」

 

「これ以上何が要る? ──俺の傍に居たいと言わせるために、後は何をすりゃいい」

 

「…………」

 

啊、我可爱的花(なあ、俺の可愛い花)。これでもお前は俺の隣に居たいと、微塵も思えないのか」

 

 彼の傍に居たい。この人と一緒に居たい。

 

 彼の隣にふさわしい女であったなら、恐らく望んでいたかもしれない。

 ──だが、私は決してその立場を望んではいけない。

 

 彼の瞳を見据えたまま、静かに口を開く。

 

 

「張さん。私は今まで、貴方から色んなものを貰ってきました」

 

「……」

 

「パトロンとして支えてもらって、ルカを弟子に招くことも許してもらえて……貴方の腕に包まれてる時、言葉通りクソ野郎の事を忘れさせてくれた」

 

 

 空いた右手で頬にある大きな手に触れる。

 

 

「何より“邪魔になったら殺す”と。他の誰でもない貴方自身が殺してくれると、はっきり言ってくれた」

 

 数えきれないほど人を殺し、血に塗れたこの手で殺してくれる。

 狂っているかもしれないが、あの時の言葉に心から歓喜したのだ。

 

 

 ──死にたくても、死ぬことを許されなかったから。

 

 

「感謝してもしきれません。……そんな貴方の傍はきっと、とても心地いいのでしょうね」

 

「なら」

 

「だからこそ、怖いんですよ」

 

 

 一切考えてこなかったわけではない。

 

 

 抱かれて、その先はあるのか。

 もし、その先があるなら彼と共に生きることになるかもしれないと、我ながら馬鹿なことを考えた。

 

 彼の隣は茨の道だ。

 外に出る時は一切気を許せず、常に命が危ぶまれるのだろう。

 

 だとしても、彼の隣という立ち位置は控えめに言っても魅力的と思える。

 

 彼と共に生きるのは私にとって悪いことではない。寧ろ幸せだと感じるだろう。

 ──だからこそ、幸せが壊れた時の絶望は計り知れない。

 

 一度味わった幸福が崩れ去ったら。

 そう考えると怖くて、とても彼の隣にいてもいい権利を欲することはできない。

 

 

 

 こんな臆病な私が、彼の隣にふさわしいとは思えない。

 

 

 

「その心地よさがなくなるのが、何より怖い。だから貴方の隣は望めない」

 

「……」

 

「ごめんなさい、張さん」

 

 黒い瞳を見据えたまま、はっきりと答える。

 張さんは目を逸らしふむ、と考えるそぶりを見せる。

 

「そうだったな。お前はこういう話には慎重……いや、臆病になることを忘れてた」

 

「……」

 

「つまり、だ。来るかも分かんねえその時に怯えてると。逆に言えば、その怯えさえどうにかなれば、俺の隣にいてもいいってことだな?」

 

「え」

 

「どうなんだ」

 

「…………そう、かもしれませんね」

 

 他にも色々あるのだが、一番の要因ではあるので肯定にも似た言葉を返す。

 

「言質は取ったぞ。……やれやれ、もっと気楽に考えればいいものを」

 

「そういう訳にはいかないでしょう」

 

「はは、お前らしい」

 

 息を吐くように笑うと、いつもの飄々とした笑みを浮かべた。

 やがて両手から手が離れ、彼はデイベッドの端に腰かける。

 自身も体を起こし、はだけていたバスローブを直して隣に座る。

 

「ったく、これからも骨が折れそうだ」

 

「諦める選択肢は」

 

「愚問だな。今更、引けるわけもない」

 

「……頑固ですね」

 

「お前もな」

 

 呆れたような表情で言われ、思わず苦笑いを浮かべる。

 

 

 

「その内、うだうだ考える余裕もなく俺の傍に居たいと言わせてやる」

 

 

 

 ニヤリとした笑みで言った後、流れる様に頬へキスをされる。

 何を言っても諦めてくれなさそうな雰囲気に、心の中でため息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

「──ああ、順調だ。後はあんたらが暴れてくれればいつでも動ける。……それに関しては無事に用意できたら連絡する。楽しみにしててくれ……ああ、じゃあまた」

 

 

 人の気配が一切しない古倉庫。

 錆びた鉄骨に腰かける男の声以外には、かすかに外から波の音が響く。

 

 

 

 男は通話を終えると、携帯をポケットに入れる。

 すぐさま煙草を取り出し、先端に火を点す。

 

 

 

 所々穴が空いている天井を見上げ、煙を吐く。

 

 

 

 

「ああ……ようやくだ……ようやく貴方のために動ける」

 

 

 

 

 微笑みを浮かべ、誰もいない空間で一人呟く。

 

 やがて煙草を口に咥え腰を上げる。

 傍に置いていた黒いロングコートを羽織り、男は高らかに革靴の音を響かせその場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

= 予告 =

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『本当に哀れで馬鹿で間抜けで、意地を張ることしか能のない愚かな女だ』

 

 

 

一人の男は嘲笑い

 

 

 

『お願いだから……もうやめてください……もう、疲れたの……』

 

 

 

一人の女は泣き崩れ

 

 

 

『お前一人くらい背負える』

 

 

 

大悪党は毅然と告げる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──ロアナプラにてドレスコードを決めましょう

 

              最終章 『What is lost is lost.』──
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




と、いうことで、次回から最終章に入ります。
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