ここから最終章突入です。
1 舞い戻った亡霊
太陽が沈み、辺りが闇に満ちた頃。
全壊してからようやく修繕が終わったイエロー・フラッグは、今日も今日とて荒くれ者達で賑わっていた。
怒号と笑い声がひしめき合い、以前の騒がしさに戻っている。
地元の住民達は決して近づかない、ロアナプラの中立地帯である酒場。
──そんなアウトロー達の憩いの場の入り口を潜る一人の男。
光沢のある革靴。
地面まで着きそうなほどのロングコート。
紳士が被るようなソフトハット。
身に着けているもの全てが黒に染まっている男は、長い足で颯爽と酒場の真ん中を歩いていく。
流れる様にカウンターに座る漆黒の男をバオはすぐさま瞳で捉える。
異様なファッションではあるが、そんな人間はこの街にはごまんといる。気にするほどの事ではないと、静かに「注文は」と無愛想に尋ねた。
「アマレットジンジャーを」
発せられたのは低いハスキーな声。
それだけならなんとも思わなかった。
──だが、バオは思わず動きを止めた。
男の声を聞いた瞬間、奥深くに潜っていた記憶が蘇る。
長らく存在を忘れていたが、一度聞けば一瞬にして顔や姿、佇まいを思い出せるほど印象深い男。
だからこそ、驚愕せざるを得なかった。
あの男はもう二度と現れないはずだった。
この街どころか、この世とおさらばし地獄へ行ったはずだ。
だが、聞き間違うはずもない。あの声は間違いなく彼のもの。
彼も女が好みそうな甘い酒──アマレットジンジャーをよく飲んでいた。
目を見開き、恐る恐る男を見やる。
バオの刺さるような視線に男は口端を上げ、ハットを脱ぐ。
露になった顔を見た瞬間、バオの目は更に見開かれていく。
「て、てめえは……!」
「Shh……騒がれると少し困るんだ」
人差し指を口に当て告げる。
柔らかい口調と笑みとは反対に、バオへ向けている視線には少しばかりの殺気が含まれていた。
銃口を向けられているかのような緊張感に冷や汗が溢れ出す。
指先一本も動かせないほど、今のバオに余裕など一切なかった。
「酒は出してくれないのか」
「あ……ああ……」
やっとのことで絞り出せたのは覇気のない声。
手先が震えることはなかったが、いつもより酒を作るスピードが遅くなる。
少し遅れて出されたグラスを揺らし、カラカラと鳴らした後、酒に口をつけた。
「やっぱり甘いなこの酒は」
「…………」
「どうしたんださっきから。そんな亡霊を見たような顔をして」
「……俺の目には、アンタは地獄から蘇った亡霊にしか見えねえぜ。いつ戻って来たんだ」
「なんだ、覚えててくれたのか。嬉しいねえ」
「忘れたくても忘れられねえよ、てめえの顔は」
はっと鼻で笑う男へ、一瞬躊躇った後更に言葉をかける。
「てっきりくたばったのかと思ってたぜ」
「まだこの世に未練があってね、死ぬに死ねなかったのさ」
優雅に佇む目の前の男をバオは怪訝な表情で見据える。
「とまあ、冗談はさておき……なんせこの街は久々だからな、少し聞きたいことがある。だが生憎時間がない、手短にいこう」
男がグラスを置きカウンターに肘をつく。
「──お、おいッ……!」
「しっかりしろ!」
瞬間、後ろから騒音が飛んできた。
何やら切羽詰まった様子の男たちは、テーブルに突っ伏している飲み仲間の一人に呼びかけている。
騒いでいる男たちへ店内の視線が集中する。
「こいつ急に血を吐きやがった!」
「な、なんで……ッ」
男たちの言葉に、周りの客がどよめき始める。
どよめきが更に広がる前に店を出ようと、いくら呼びかけても反応しない仲間の身体を無理やり起こす。
──テーブルから上がった仲間の顔には、血がべっとりと着いている。
白目を向き、顔のあらゆる穴から血が滴っている。
最早生きているか分からない仲間を担ごうと、肩に触れた。
その拍子に、流れる血の量が一気に増えたかと思うと、唐突に口から噴水のように血が溢れ出す。
「なっ……!」
カウンター越しから見ていたバオは思わず声を上げた。
痙攣しながら湧き出ている血の噴水は止まることなく、次第に周りへと飛沫が広がっていく。
あまりの光景に店内すべての客が声を静める。
──やがて血が止まった頃には、足元に血の水たまりができていた。
力尽きたように血だまりへ体が倒れた瞬間、沈黙を破るように娼婦の悲鳴や男たちの困惑した声が響き渡る。
客たちは叫び声と怒号を上げながら、即座に店の外へ出て行く。
ただ一人、カウンターに座っていた男は微笑みを浮かべたまま優雅に酒を飲んでいる。
「ちと派手すぎたかな。まあ、最初はこんくらいが丁度いいか」
「て、てめえ……まさかまたこの街でなんかやらかす気か!」
「俺がただ観光のために戻って来たと思ったのか。なんともめでたい頭だな」
困惑するバオへ男は淡々と返し、「さて」と空になったグラスを置く。
「あんな騒ぎが起きたんだ、ここに長居するわけにはいかない。ので、俺の質問に素直に答えてくれると嬉しいね」
柔らかい口調と笑みはそのままでも、携えている視線は冷たいもの。
バオは、非常用としてカウンターの下にガムテープで張り付けている銃へ手を伸ばす。
「うちの店で騒ぎを起こしやがった野郎に話すことはねえ」
「勇ましいのはいいことだが、自殺行為はおススメしない」
男はコートのポケットから透明な液体が入った小瓶を取り出し、見せびらかすようにゆらゆらと揺らす。
「これを少しでも吸うとたちまちぐっすりだ。割った途端、空気中にすぐさま散布される。俺は耐性があるから問題ないが、お前はどうだろうな」
「……」
「お前がお寝んねしてる間に無事でいられるかどうかは、俺の気まぐれにかかってる。俺の事を知ってるなら、これがはったりじゃないのは分かるだろう。くだらない死に様を見せたくなかったら、銃から手を離すんだな」
バオは心の中で舌打ちし、目の前の男を忌々し気に睨む。
「……お前、また何かやらかしたらもう二度とこの街から生きて出られねえぞ。どうやって生き延びたのかは知らねえが、今度ばかりはそういかねえ。マフィアどもが血眼でお前を狙う」
「アイツらも全知全能じゃない。いくらでもやりようはある。鼠一匹が入り込める隙間は一つや二つあるもんさ。──それは前回、俺がこの身を持って証明してやっただろ?」
男が浮かべたニヤリとした笑みに背中に冷や汗が伝う。
そうだった。
こいつは一人であれだけのことをしでかした男だった。
「……今度は一体何が目的だ。まさかまた」
「それは今後のお楽しみ。──さて、世間話はここまでだ。マフィアどもが来る前に済ませよう」
自分より何枚も上手の男に勝てる見込みは明らかに低い。
ならばとにかく、まずは自分の命を優先する。
己にできることは、目の前のイかれた亡霊の質問に答えることだけだ。
「──明日には終わりますが、いつ頃来られますか」
「では、終わり次第連絡ください。すぐ受け取りに来ます」
「分かりました」
目の前の依頼人と言葉を交わす間、隣にいたルカは今のやり取りをメモしている。
私一人の時はしていなかったのだが、どの服が誰の依頼なのかルカにも見分けやすいように取らせることにしたのだ。
ずっと文字の読み書きをさせていたおかげか、今では簡単なものならすらすらと書けるようになった。
弟子の成長を感じれるのは悪いものではない。
──春さんもこんな気持ちになっていのたのだろうかと、時々思うことがあるのはここだけの秘密。
今度の依頼人──ラウルさんからはワイシャツとスラックスのクリーニングを依頼された。
大事な仕事があるから念のため、ということらしい。
依頼品をルカへと渡せば、手際よく畳んだ後、作業台の上に置いてくれた。
初めは皺が寄ってしまう畳み方をしていたが、今はそんなことなく丁寧に服を扱っている。
「いくらですか?」
「バーツなら四八〇、米ドルなら十五ドルで」
値段を告げると、ラウルさんはポケットから財布を手に取りドル札を差し出した。
躊躇いなく受け取り、丁度の金額であることを確認する。
「そういえば聞きましたか、例の噂」
「噂?」
「イエロー・フラッグの件ですよ」
イエロー・フラッグの噂?
だが、あの店で何か起きるのはいつものことだ。今更何を聞かされても驚くことはないが、聞いておいて損はないだろう。
いえ、と一言返すと、すぐさま噂の内容を知らされる。
「昨夜、客の一人が死んだそうですよ」
「ラウルさん、それいつもの事だよ。あの店で人が死ぬなんて何もおかしいことじゃない」
「確かに、あの店じゃ何も珍しくはないでしょう。──ただ死んだだけなら、ね」
意味深な言葉に思わず首を傾げる。
ルカも気になっているようで、ラウルさんの方を見つめ話の続きを待っている。
「なんでも、何の前触れもなく急死したんだとか。その時の有様といったら酷いモノだったそうです。突然噴水のように血を吐き出し、体内にはほぼ血が残っていなかった。死体の足元には一瞬にして真っ赤な水だまりができたそうですよ」
それは確かに異常な死に方だ。
ルカも想像したのか「うげえ」と舌を出し、吐くような仕草をしている。
「──それともう一つ、面白そうな話がありましてね」
「もう一つ?」
「ええ。店主の話によれば、騒ぎを起こしたのは亡霊だとか」
「え?」
「正確には、“今まで死んだと思われていた人間”だったそうですよ。──その亡霊は、何年か前にこの街で麻薬組織を率いてマフィア達を相手取った男だとか」
──淡々と告げられた内容に思わず目を見開く。
こちらの戸惑いに気づいていないのか、ラウルさんは話を続ける。
「前回より派手な演出ですが、やり口は同じだそうで。当時の事件を覚えている人間は、亡霊が舞い戻って来たと噂しているようです。マフィア達が躍起になって探してるみたいですよ」
唐突に血を吹き出して死んでしまう薬物。
その薬物を撒いたのはあるイタリアマフィアの男。
心当たりがありすぎる内容に、心なしか鼓動が早まっていく。
……あの男の事を忘れるはずもない。
だが、アイツは死んだ。
張さんやバラライカさんに追い詰められた後、まだ生きていたヴェロッキオさんに処分されたはずだ。
──人を殺すことに長けている彼らが殺し損ねるなど、あり得るはずがない。
「先生、大丈夫? 顔色悪いよ」
「……大丈夫だよ」
ルカが心配そうな表情で私の顔を覗き込む。
久々にあの男の事を思い出したせいで、嫌でも気分が悪くなる。
「ああ、失礼。女性にこの話は少々刺激が強すぎてしまいましたね」
「いえ、お気になさらず。──ラウルさん、その亡霊についてもっと詳しいことは分かりますか? 例えば容姿とか、名前とか」
「そうですねえ……名前までは分かりませんが、背は高く、全身黒ずくめだったらしいですよ」
「……そうですか」
この情報だけでは何とも言えない。
落胆したことが表情に出てしまっていたのか、ラウルさんは「すみません、お力になれず」と苦笑していた。
「まあとにかく、街はまたざわついてます。くれぐれも気を付けください。貴女のような可憐な女性を狙ってくるかもしれませんから」
「……ありがとうございます。ラウルさんもお気をつけて」
「ええ。では、今日はこれで。また明日」
物騒な話をした後とは思えない柔らかな微笑みを浮かべ告げると、ラウルさんは颯爽と外へ出て行った。
それにしても、何とも後味が悪い話だった。
あの男と決まったわけではないが、バオさんが冗談で話すわけがない。
きっと、アイツに似た誰か。……そうであってほしい。
「先生、ほんとに大丈夫? 休んだ方がいいんじゃ」
「……大丈夫だよ。ごめんね、心配かけた」
未だ心配そうな表情を浮かべているルカを安心させようと、笑顔を浮かべる。
「…………聞いていいか分かんないけどさ、さっきの亡霊に何か心当たりあるの?」
流石に気になってしまうか。
自分でも分かるほど取り乱したのだから、無理もない。
ごまかしは効かないと判断し、今度は素直に答える。
「ないわけじゃない。だけど、あり得ないんだよね」
「え?」
「生きてるわけがないの。──五年前にその亡霊は始末されたはずだった。それはバオさんもよく知ってるはずなのに」
思わず眉間に皺が寄る。
あの男が舞い戻ってきたなんて、とんでもない悪夢でしかない。
「その亡霊と何があったの?」
「……ルカは知らなくていいよ」
「先生と何か関りがあるなら知っておきたい。僕も今回関わるかもしれないし」
「そんなこと」
「ないとは言い切れないでしょ? 念のため知っておきたいんだ、自分の身を守るためにも。……お願い、先生」
懇願するような目つきと表情を見据える。
……確かに、何も起きないとは限らない。
話して何か問題が起きるわけでもない。
この子の言う通り、知っておいて損はないだろう。
──
一つ息を吐き、ルカの顔をまっすぐ見つめ口を開いた。
とうとう始まりました最終章。
散りばめてしまった伏線を回収する時……。
このまま完結まで突っ走れればいいなと思ってます。