……。
「──だか──早く──」
…………。
「ま──ここか──だろ」
………………何か声が聞こえる。
遠くではないところで誰かが話をしている。
朧げな意識では、はっきりと言葉が聞こえない。
「そん──なにも──おと──」
「いくら──でも──かけす──だ」
暗闇の底から段々と意識が戻っていくのを感じると共に、目の前で繰り広げられている会話がはっきりと聞き取れるようになる。
「──あのな、俺達が喧嘩を売ろうとしているのはこの街全てと言っても過言じゃないんだ。時間をかけるのは当然だろ」
「たかがこんな小さな街一つを荒らすのに、時間をかけるのは無駄だ」
「分かってねえな。お前も、お前のボスもこの街を舐めすぎてる。この街は裏社会の見本市。つまり世界中の悪党どもの巣窟だ。そんなところで無計画に暴れてみろ。一日と持たねえぞ」
「見た感じそうは思えねえけどなあ」
「この街から生きて帰った俺が言うんだ。もう少し、俺の言葉を信用してくれてもいいんじゃないか?」
「詐欺師の言葉をか? は、笑わせるんじゃねえよ」
意識がはっきりしていくにつれて、話しているのは二人の男だということを理解する。
その男たちが交わしているのは中国語。
広東語と同時に中国語も学んでいたおかげで、なんとか話の内容を聞き取ることができた。
完全に覚醒していない脳であっても、その会話が穏やかなものではないことが嫌でも分かってしまう。
やがてゆっくりと瞼を開け、顔をほんの少し上げる。
私が目覚めたことに気づいたのか、一人が颯爽と目の前に立った。
「おはよう。気分はいかがかな? シニョリーナ」
頭上から降り注いできた声に、すぐさま意識を失う前の記憶が巡る。
いきなり現れた真っ黒なコーデに染まった男。
その男にたった一人の弟子が床に倒されていく様。
腹に感じる鈍痛。
自身が出した吐瀉物の臭い。
床へ乱暴に顔を叩きつけられる衝撃。
最後まで起き上がることのなかった弟子の姿。
混濁していた意識が電流が走ったかのように覚醒し、反射的に身体を動かす。
だが、一歩も前に進むことなく強制的に動きを止められてしまう。
動きが止まった原因は、両手足首につけられた重々しい鉄の枷。
目に映る嵌められた枷と動かす度に鳴る金属音に、自身が囚われているということを理解する。
──そして、自身をこんな姿にしたのが誰なのかも。
「……最悪だ。お前が目の前にいるから余計に」
「おー怖い怖い。そう睨むなよ」
両手を上げ、わざとらしく怖がるそぶりをする目の前の男──ヴェスティに苛立ちが募り自然と眉根が寄っていく。
「今度は何を企んでる」
不機嫌を隠さない声音で駄目元で問いかけた。
すると、意外にもすんなりと答えが返ってくる。
「殺された人間が生き返った時、一番初めに何を望み、何をするか。答えは単純」
「……」
「自分を殺した憎き人間への復讐さ。だから俺はここにいて、君は無様な姿で囚われている」
「……懲りないな、お前も」
「前の俺とは違う。現に、張の手が伸びる前に君を攫うことができた。今度はヘマしないさ」
勝ち誇ったような笑みを浮かべ言い終えると、ヴェスティは優雅に煙草を吸い始める。
攫った、ということはもうここはロアナプラじゃないのだろうか。
いや、さっきの会話を聞く限りだとまだ街にはいるはずだ。
周りを見渡し、自身が今いる場所がどこなのか何とか把握しようと試みる。
コンクリートの壁に囲まれている小さな部屋。
窓一つなく、部屋を照らすのは宙にぶら下がっている電球一つから発せられる淡い光だけ。
残念なことに、ここがどこなのか皆目見当もつかない。
「言っておくが、逃げようとしても無駄だぞ。運よく抜け出せたとしても、外にも仲間の見張りを置いている。君にできることは何もないよ」
「……」
「まあ折角だ、少し二人で話をしよう。こうしてちゃんと会話ができるのも、最後かもしれないしな」
ヴェスティが後ろに立っていた男に一言声を掛けると、仲間であろう男はため息を吐きつつもドアの方へと向かっていく。
ドアが閉まる音が響き、二人きりになるとヴェスティは傍にあった椅子を引きずり、やがて私の目の前で腰かけた。
足を組み、ニヤニヤとした笑みを浮かべ口を開く。
「俺は、君の事をずっと想ってた。俺が死んだ後、君が張の妾としてのうのうと生きていた間も、ずっとだ」
「……」
途端、ヴェスティの顔から笑みが消える。
瞳には一切の光が入らず、次第に氷のような冷たさを帯びた低い声音へと変わっていく。
「そう、君に──お前如きに、手こずらせてしまった不甲斐なさも……張より上手く立ち回ることができなかった未熟さも、コーサ・ノストラの馬鹿どもから解放させられなかった愚かさも、足手まといの仲間を早く処理しなかった後悔も、最後の言葉をくださった時の顔も……忘れるはずがない」
いつもの気取った紳士なものとは違う口調と、冷淡に告げられる話にどこか違和感を覚える。
自分の事のはずなのに、まるで
「この数年、君と張に復讐するためだけに時と金を費やした。そして今、復讐に必要な材料が揃い、ようやく俺の悲願が達成される。本当、生きててよかった」
そう言い放つ男の顔に浮かぶ、心の底から喜んでいるような──子供のような無邪気な笑みに背筋が凍る。
ふと、五年前のあの日の出来事が頭によぎる。
確かあの時、この男は……。
まさかと思い、胸の内に湧き上がった疑問を投げかける。
「……お前、その右目は」
「右目がどうかしたのか」
「…………いや、なんでもない」
──やっぱり。
思えばあの日、あの男は張さんに右目を撃ち抜かれていた。
だが目の前にある顔には傷一つついていない。
義眼かとも思ったが、どうやらこの反応だと違うらしい。
復讐だというなら、右目についても話で触れるはずだ。
そして、さっきの話しぶりと私の問いかけに対する反応。
間違いない。
こいつはヴェスティじゃない別の誰か。
確信を得た後、すぐさま別の疑問が浮かび上がる。
──じゃあ、目の前にいるこの男は一体誰だ。
嫌な汗が顔を伝い、思考を巡らせるも目の前の男に関して「ヴェスティの真似事をしている」ということしか情報にない。思い当たる人物が一人も出てこないのは当然だった。
「本当は今すぐにでも殺したいとこなんだが、君に会いたがってる男がいてね。色々済ませたらその男の元へ連れていく。この街とも永遠におさらばだ」
「……私に、会いたがってる?」
唐突な話に思わず困惑する。
戸惑う私に構うことなくぺらぺらと話しだした。
「さっきここにいた男や外にいる野郎どものボスだよ。この街で暴れるには俺一人じゃ心許ないからな。彼と取引した時、君を生きて連れてくる事を条件に人手を借してくれたんだ」
「……」
「話を聞くと、どうも彼は三合会と藤崎 仁に恨みがあるみたいでね。君があの極道と三合会幹部に関わりがあることを教えたら、真っ先に喰いついてきたよ。使えるものは何でも使うってね」
「……は?」
「それに、彼は究極のサディストでね。傷だらけの女を見ただけで射精する変た……素晴らしい嗜好の持ち主だ。特に美人の顔が歪んでいるのが好みだそうだ。非常に悩んだが、殺すよりもそんな男に送る方が君にとって地獄だろうと判断した」
ちょっと待て。
今、聞き捨てならない名前が出てこなかったか。
ぺらぺらと喋る話の内容が入ってこないほど、動揺していた。
「運が良ければ藤崎仁に会えるかもな。まあ、その時は無事じゃないと思うが」
「……そんな人、私は知らない」
なぜ彼の名前が出るのか。
なぜ私が彼との関わりがあると知っているのか。
連れて行くのが目的なら、この街にまだ留まっている理由はなんだ。
頭の中で多くの疑問が飛び交い混乱するが、つらつらと言葉を並べる様が癪に障り、冷静を装い嘘をつく。
「おや、薄情だな。師の親友であり、自分をこの街へ導いた人をそう言うのか」
「な……」
驚きのあまり息が詰まり、言葉にすることが叶わない。
ずっと抱いていた苛立ちと意地だけで保っていた平静が、言い放たれた内容によって崩れ去る。
「なんで知ってるのか。そう言いたげだな」
「……」
「伝説のヤクザが率いてるとはいえ、所詮周りはただのチンピラ。警戒が甘いんだよ。だから家に盗聴器を仕掛けられる。ま、流石にほんのちょっと苦労したけどな。ただ老人の話だけじゃ信憑性が欠ける。後は独自調査の賜物ってね」
「……どうやって」
「それは企業秘密」
気色悪い笑みを浮かべ、口に人差し指を当てる様に思わず顔が引き攣った。
「ああ、そうそう。君の家は消し炭になってるよ。あの可愛い弟子も焼け死んだみたいだが」
「……は?」
今、この男は何と言った。
私の家が灰になった?
弟子が焼け死んだ?
── 一体何を言っている。
「……あの子に、何をした」
「この街を出るのに心残りは少ない方がいいだろ? 俺のちょっとした気遣いだ」
「答えろ! あの子に何をしたッ!?」
ずっと変わらない鼻につく笑みで話す男に耐えられず、大声が出てしまう。
強く握る拳は震え、何とか落ち着こうと呼吸を繰り返す。
確かあの後、ロットンさんや彪さんが来る予定だったはずだ。
もしルカが目を覚まさなかったとしても、きっと二人のどちらかが保護してくれている。
……そうだ。まだ希望はあるはずだ。
そうであってほしいと、心の底から願うしかない。
「君が寝ている間、仲間に様子を見に行ってもらったんだ。そしたら三十分もしない内に全焼。遺体一つ見つかってないとさ。小さい体だったから骨まで燃えやすかったのかもな」
「そんな、はず」
「仲間が記念に撮ってきてくれたんだ。見せてあげよう」
胸ポケットから何かを取り出し、「ほら」と得意げに目の前にそれを差し出される。
見せられているのは一枚の写真。
その写真には、焼けた家の残骸に人だかりができている光景が映し出されている。
だが原型を留めていないその家の周りは、慣れ親しんだ風景で。
──この焼けた家は、我が家であったことを確信する。
「ここまで焼けてたら、そりゃ遺体も見つかるわけがない」
違う。そんなわけない。
ルカの事だ。
きっと、私が気を失った後に起きて上手く逃げ延びてるに違いない。
例え誰かが救ってくれてなくても、あの子ならきっと……。
「しばらく起きないよう薬を打ったからな。あの子一人で生き延びた、なんて希望は捨てたほうがいいぞ」
「な……」
「子供とはいえ、やすやすと目撃者を放置しておくと思うか? 君と張への復讐に身を焦がしてきたこの俺が」
私の心を読んだかのような言葉に思考は止まり、否定さえできなかった。
そんなはずはないと自分に言い聞かせながらも、絶望にも似たこの感情は段々と強くなっていく。
「これで心置きなくこの街とおさらばできるだろう? 感謝の言葉一つくらい欲しいもんだ」
愉し気に言い放つ姿に、自分の中の糸が切れた。
瞬間、冷静でいることができず感情の赴くまま体が動く。
目の前の男に勢いよく飛びかかろうとするも枷が邪魔をする。
鉄枷が手足首に食い込むほど、前のめりになる。
だというのに、相手は顔色一つ、眉一つ動かさない。
それどころか、取り乱す私を嘲笑うかのような表情を浮かべている。
「いいねえ、その顔。ああでも、この様子だと目の前で殺した方がより効果あったかもなあ。しまった」
「ふざけるなッ!」
嬉しそうに呟く様に声と息が荒くなる。
「お前の狙いは私だろ! なんであの子まで!」
「嫌がらせに決まってんだろ。そんなことも分かんねえのか」
男は鼻で笑うと煙草を床に落とし、踏みつぶす。
どこの誰かは知らないが、この男はアイツと全くの同類だ。
我慢を覚えていない子供のように、自分の欲望の赴くまま師の服を奪い去り……。
──挙句には私の親友を手にかけた。
深く息を吐き、荒い呼吸を何とか整える。
「…………本当に、前と全く同じだな」
燻る怒りはそのままに、だが口調は冷静に告げる。
「自分の思い通りにならなかったら暴れ、人を傷つけ……それが許されると、自分が何よりも偉いと思ってる」
「あ?」
「まるで我儘が通らず癇癪を起してる子供のようだ。あの時から何も変わってない」
明らかに別人だが、敢えてヴェスティとして話す。
鼻につくあの薄気味悪い笑みが剥がれた顔を見据え、こいつが嫌がるであろう言葉を言ってやる。
「そんな奴があの人に復讐する? あの人に手を出せるとでも?」
何年もこの街の支配者として君臨してきた彼と子供じみた男。
どっちがより上手かなんて考えなくても分かる。
相手が誰なのか分かっていない子供には、大人が優しく諭さなければならない。
そう思うと、驚くほど自然に笑みを浮かべていた。
「──叱られる前に、この街から出て行った方が身のためだよ。坊や」
柔らかな声音で告げると、顎に勢いよく男の蹴りが飛んでくる。
凄まじい衝撃の後からじんわりと滲み出てくる痛みを感じる間さえ許さないかのように、すぐさま髪を掴まれた。
「ふざけんなよ、このクソ売女が……ッ」
鋭い視線と声を向けられる。
だが、殺気を纏っていようと癇癪を起した子供など怖くない。
再び口端を上げ、目の前の子供の顔をしっかり見据える。
「お前に……言われたくないな、クソ野郎」
今度は拳で右頬を殴られる。
口の端が切れ、血が滴っていく。
途端、騒ぎを聞きつけたのか仲間の男が部屋に戻って来た。
仲間の声掛けに男は振り上げた拳を徐に下げ、荒い息を整えると髪から手を離した。
「……俺と彼の契約は、君を生かして連れてくる事だ」
まるで自分に言い聞かせるかのように呟いた後、新しい煙草を取り出し火を点す。
「だが、君の状態については問われていない。──つまり、手足がもがれていようが顔が歪んでいようが、生きてりゃ構わないってことだ」
再び乱暴に髪を掴まれ、無理矢理顔を合わせられた。
煙草の煙を吹きかけられ、思わず目を瞑る。
「すぐに連れ去るのはあまりにももったいない。張への手土産としても使わせてもらう」
笑みを浮かべながら言うと、男は顔だけで何か仲間へ合図を送っていた。
すると、仲間は手に小さなカメラらしき物を持ってこちらへ近づいてきた。
やがて男に髪を掴まれた状態でシャッター音が切られる。
「精々耐えて見せろよ。じゃないと面白くない」
あまりにも酷く歪んだ笑顔で呟かれたその声音は、吐き気を催すほどの気味悪さを帯びていた。
「──またか」
「ええ、またです」
高層ビルの最上階にある社長室の高級椅子に腰かけ、彪からの報告を受けている張は眉根を寄せ煙草の煙を吐き出す。
「ラチャダ・ストリートの娼館で、死体は売春婦のものでした。その売春婦は昨夜、客を一人とっています」
「……」
張がデスクを指先でトントンと叩く音を聞きながら、彪は報告の続きを口にする。
「他の売春婦や店主の話によれば、その客が帰りしばらくした後、例の如く血を吹き出し急死したそうです」
「その客については」
「中国系の顔の男です。ただその後の足取りは掴めておらず、現在捜索中です」
「監視カメラには」
「ワトサップにも確認してもらっていますが、今はまだ」
彪の報告に「そうか」と一言呟き、煙草を灰皿へ押し付ける。
新しい一本を取り出すと、張の後ろに立っていた同じく腹心の部下である郭がすかさずライターで火を点けた。
「他に死体は出てないのか」
「今朝、ブラン・ストリートで一つ。ほぼ同時刻にチャルクワン・ストリートで二つ出たと」
「バラライカとロニーの縄張りか。被害に関しちゃ
少しの冗談を交えながら考えを口にし、煙を吐く。
「妥当な路線でいけば、三合会やコーサ・ノストラに被害が偏ってるのも亡霊の復讐と捉えられるが……亡霊の方は、相変わらずのらりくらりとこっちの視線を掻い潜ってやがる。まだ確たる証拠がないのが痛い」
デスクを叩く指が止まる。サングラスの奥の瞳を彪へ向けた。
「彪、ガキはまだ目を覚まさないのか」
「はい。リンに診せていますが、どうやら薬を盛られたらしくしばらくは目覚めないと」
「なんとしてでも叩き起こすよう伝えろ。アイツには起きてもらわにゃならん」
デスクの上に足を置き、やがて窓の外へと視線を向ける。
「キキョウを攫ったのが亡霊なら、野郎共と繋がってることを確信できるんだがな」
「……大哥、そのキキョウの事で一つ報告が」
キキョウが忽然と姿を消してから二日目。
張は彼女の行方も探してはいるが、街の安寧を優先するべき状況では多くの人数と時間を割くことはできず、何一つ情報が掴めていない。
このタイミングで攫われたのは亡霊が関連していることは明白だが、決定的な証拠がない。
唯一残った手掛かりである弟子も眠ったまま起きる気配もない。
女一人のために自身の組織を動かすには何もかもが足りない。
三合会タイ支部長として優先するべきことを考え、より慎重に振舞わなければならない。
例え、彼女の生死がどうあろうとも。
だからこそ大した情報を期待せずに、彪からの報告を黙って待った。
「実は……売春婦の死体にこれが」
歯切れ悪く言いながら彪が懐から出したのは、端々が血に染まっている茶色の封筒。
差し出されたそれを手に取ると、「
中身を確認されたのか、既に開いている封から指を入れ中のモノを取り出す。
出てきたのは一枚の写真。
そこに映っていたのは──髪を乱暴に掴まれ、口端から血を流している女。
「…………随分ご丁寧な報せだな」
昨日から姿を消していたキキョウの姿に、眉根を寄せほんの少し不機嫌さが混じった声音で呟いた。
「彼女は生きてる、ってか。舐められたもんだ」
「……大哥。例の死体にそれを置いたということは、やはり」
「ああ。十中八九、キキョウを攫った奴とヤクをばら撒いている奴らは繋がりがある」
遠慮がちに発せられた郭の言葉に同意した張から不機嫌さは消え失せ、淡々とした声音を発した。
「だが、攫った後も死体が上がってるってことは、まだ何か目的がありそうだな」
「大哥、少なくても相手はこの街を熟知しています。ならば大哥とキキョウの関係を知ってるのも当然。そこを狙われたのでは」
写真を見つめながら呟く張に、すかさず郭が自身の考えを口にする。
「その封筒は挑発するようにわざわざ大哥に宛てています。なら、大哥を狙っているのは明白」
「つまり、アイツは餌にされたってわけだ。ったく、こうなるのを防ぐために早々に保護しようと思ったんだがな。今回も先を越されちまった」
顎に手を添え、ふむ、と考えるそぶりを見せる。
「──妙だな」
「はい?」
「俺を狙ってキキョウを人質にするのは理解できる。が、にしては大事にしすぎてる。俺だけが狙いなら、わざわざ街中にヤクをばら撒く必要はない。──前回はキキョウが目的で街が荒らされた。だが今回は街が荒らされ始めたのとほぼ同時期に攫われている。その上わざわざこんな知らせを寄越したのなら、キキョウから目を逸らすための攪乱という線は消える」
淡々と吐き出される言葉を、彪と郭は黙って聞き続ける。
「亡霊の嫌がらせ、と言われればそれまで。だが、本当に俺だけが目的とは思えん」
「……あの男はたった一人の女のために街を荒らした奴です。十分可能性はあるかと思いますが」
「本人だろうとそれを真似してる奴だろうと、そこまで愚かじゃないはずだ。同じ轍を踏むとは思わん。……まあ、それは亡霊のみぞ知るところだがな」
残り少なくなった煙草を一気に吸い、長くなった灰と共に灰皿へと押し潰す。
新たに煙草を取り出すことなく、写真をぺらぺらと揺らす。
瞬間、張は何かに気づいたのか手を止め、すぐさま写真を裏返す。
「……」
張の目に映っているのは、綺麗な字で書かれた短い一文。
眉根を寄せしばらく見つめた後、一つため息を吐き胸ポケットに入れる。
「今回はちと気味が悪すぎる。これは、俺たち以外の誰かにも動いてもらいたいところだな」
そう呟くと、張は徐に立ち上がった。
「大哥、どちらへ」
「この件に首を突っ込みたがってるはずの野郎に会いに」
口端をニヤリと上げ、彪の問いかけに答えた。
郭が手にしているロングコートのポケットに手を入れ颯爽と羽織る。
二人の部下は顔を見合わせつつも、社長室を出て行こうとする張の背中に着いて行った。
「──というわけで、お前らに協力を頼みたい」
「張さん、ウチは便利屋じゃないんだ」
張が向かった先はラグーン商会事務所。
優雅にテーブルに長い足を置き、硬い面持ちをしているラグーンの面々へ語られた事務所へ赴いた理由を聞いたダッチはすぐさま拒絶の意を示す。
「これはラグーン商会というより、レヴィとロック。お前達二人への依頼だ。俺たちは街の安寧を最優先に動かねばならん。女一人に割ける時間と人はちと少ない」
張が煙草を取り出すと、彪が慣れた手つきで火を点す。
「正直、アイツを攫ったのが亡霊だっていう確証は得ていない。が、確実に攫った奴とヤクをばら撒いている人間は繋がっている。キキョウを探すうち亡霊に近づけるかもしれん。お前達二人がキキョウを探し、俺達はヤクをばら撒いている人間を追う。そっちの方が効率がいい」
腕を組み、壁に凭れ掛かっているレヴィの隣に立っているロックは怪訝な表情を浮かべた。
確かに三合会として動ける理由は少ない。それでも、彼女が消えたというのにいつものように飄々としている張の態度が彼から滲み出ている不機嫌さの要因だった。
いくら三合会タイ支部長の立場があれど、もう少し何かあるだろう。と口に出すことはできないので、ロックは心の中で呟いた。
「でもよ旦那、今んとこアイツがこの街にいるのかさえ可能性は五分五分だ。正直、生きてるのだって怪しい。そうだろ?」
「……張さん。さっき彼女を攫った人間と繋がってる、そう言いましたよね。その根拠はどこから」
煙を吐き出す張へ二人はそれぞれ問いかけた。
足を下ろし、灰皿へ煙草を押し付ける。
「相手は随分気前が良いらしくてな。今朝出た死体におまけがついてた」
そう言って懐から一枚の写真を取り出した。
テーブルに置かれた写真をダッチが手に取り、ラグーンの他の三人も後ろから覗き見る。
写っている光景に、特にレヴィとロックの二人は驚愕した表情を浮かべた。
「ご丁寧にこれを送って来たってことは、まだアイツは生きてる可能性が高い」
「……この裏の言葉は」
ダッチが裏返した途端に現れた文字の羅列を見やり、ロックが怪訝な声音を出す。
「そっちの真意は分からん。──ロック、お前さんこういうのは得意分野だろ。お前お得意の探偵ごっこがアイツを救うカギになるかもしれん」
「……」
「レヴィ、お前はアイツにデカい借りがある。その借りを、今まさに返すチャンスじゃないか?」
「……」
二人の身体が一瞬硬直したのをダッチは背後で感じとり、眉間に皺を寄せる。
──完全にあっちのペースに持っていかれた。
張維新がたった今切った手札はあまりにもこの二人に効きすぎる。
この男はそれをよく理解しているから質が悪い。
「ダッチ」
ロックが呼びかけたその真意を分からぬダッチではなかった。
だが敢えて応えることなく、張を見据え口を開く。
「……張さん、これはどう考えてもあんたに向けた招待状だ。俺達を巻き込まないでもらいたいね」
「残念ながら、この街の住民ってだけでもう巻き込まれてんだぜダッチ。それはお前さんもよく分かってるだろ」
「だとしても血の噴水ショーの観客でいた方がまだマシだ。自分からショーの役者になるつもりはねえ」
「己が望もうと望んでなかろうと、このショーは無理やり舞台上に引っ張り出されるのさ。どこぞのクソ野郎の気まぐれでゲストが決まる、クソみたいなルーレットによってな。そんなもんとっとと終わらせたいだろ」
「……ダッチ、俺は亡霊の目的が張さんだけとは思えない」
言い終え、張が新しい煙草を取り出したタイミングを見計らい、ロックは自分の考えを徐に口にする。
「確かにこの写真は挑発とも取れる。だけど、本当に張さんだけが目的ならここまで大事にする必要はないはずだ。相手にとって敵が増えるだけで、なんのメリットもない」
「はは、ノッてきたなロック。──お前の言う通り、ちと今回は狙いが不明瞭すぎる。だからこそ気味が悪くて仕方ねえ。なら、頼れるとこには頼らねえとな」
「……なら尚更、ウチが首を突っ込む理由は」
「ダッチ、この話アタシは受けるぜ」
言葉を遮ったのは、これまで黙っていたレヴィだった。
彼女から放たれた言葉が意外だったのか、ダッチはすぐさま振り向く。
──サングラスに隠れた瞳に映ったのは、とても冗談を言っているようには見えない真摯な表情。
「正気かレヴィ。いくら借りがあるとはいえ渦中に突っ込んでいくのは」
「それもあるけどよ、このままだとこの馬鹿は確実に暴走する」
言いながらロックの後頭部をバシッと叩く。
叩かれた部分をさすりながら睨んでくる視線を意に介さず話を続ける。
「旦那の依頼とアタシの借りを返す手伝いって名目がありゃ大分動きやすい。街がこの状況なら尚更だ」
「だが」
「今回は相手が国じゃない分まだマシだ。──亡霊どもを見つけたら迷わず撃っちまっていいんだろ、旦那」
「ああ」
ダッチ、と最後にレヴィは呼びかける。
ラグーン商会のボスとして決断を求められている。
──頭をガシガシと掻きしばらく思案した後、やがて諦めたように溜息を吐いた。
「…………まあ、アイツは昔からの馴染みだからな。このまま死なれるのも後味が悪い」
「決まりだな」
ダッチの言葉を聞き、張は満足げな表情で呟いた。
「何か分かったら連絡くれ。今は少しでも情報が欲しい」
「あいよ」
「頼んだぞ」
途中まで吸った煙草を灰皿に押し付け腰を上げると、張は最後に短く告げ部下を引き連れ颯爽と事務所を後にした。
漂っていた緊張感の余韻が消えぬまま、ロックは写真を眺めているダッチへと声を掛ける。
「ダッチ、早速だけど俺達は動くよ。一刻も早く彼女を見つけないと」
「慌てるなロック。ご丁寧にこれを張に送ったってことは、まだ生かしとく意思が向こうにもあるんだろ。その気がありゃ、弟子もろとも始末してるはずだからな」
「でも、こんな状態なら今何されてるか……」
「焦っても何も始まらねえ。まずは、この言葉の意味が何なのか探るのも一つの手だぜ」
焦燥の色を浮かべているロックを宥めつつ、手にしていた写真を手渡す。
渡された写真を裏返し、丁寧な字で書かれている文字を目で追い怪訝な表情を浮かべ口にする。
「──