更新が大分遅くなってしまいました……
────暗い。
どこまでも続く闇の中。
明かり一つない暗闇でただ一人、気づいたら立っていた。
辺りを見渡しても何もない。
ただ暗闇が広がっているだけ。
それでも、不思議と恐怖は感じなかった。
一体どこまで続いているのか。
ゆっくりと、前へと歩みを進める。
一歩。また一歩とあてもなく彷徨う。
しばらく歩いていると、やがて一つのスポットライトに照らされた、錆びた姿見が見えてくる。
不気味に思うも、好奇心を押さえられず近づいていく。
鏡に自身の姿が映る。
そこにいたのは髪が腰まで伸び、やつれた顔の自分。
『どうして』
もう一歩前へ近づこうとした瞬間、鏡の中の自分が話し始めた。
『どうして、まだ生きてるの』
昏く、冷めた視線が刺さる。
『母さんと春さんを犠牲にして……なんで、まだのうのうと生きてるの』
「……」
『アイツを殺して、それで終わりにするべきだった』
「……」
『自由なんて望んじゃいけなかった』
無表情で、光が一切入っていない虚ろな瞳をした自分から自分へと問いが放たれる。
戸惑いつつもその場に留まる。
何故か、足が地面に張り付いたようにこの場から動けなかった。
体が強張っているのを感じながら、冷静に返す。
「そうかもしれない。でも、春さんがあの人に託した最期の思いを、無下にはできなかった」
『本当はそんなことどうでもいいくせに』
酷く冷めた声音で放たれた言葉に思わず目を見開いた。
口を噤む私を逃がさないと言わんばかりに、一瞬の間を空けることなく続ける。
『母さんや春さんが死んだことも仕方ないと思ってる』
「そんなこと」
『だから
「ちが」
『自分は幼かったから。春さんは病気だったから。そう言って全部仕方ないって片付けた』
「違う……ッ」
必死に否定しても、意に介さず鏡の中の私は矢継ぎ早に言葉を浴びせてくる。
拳を強く握り、目の前の私を睨む。
『そうやって自分の気持ちに素直になれないから、いつも彼の言葉を受け入れられない。だけど彼の傍にいると心地いいし、甘やかしてくれるから自分から離れることはしない』
「……」
違う。
──とは言えなかった。
言葉を詰まらせる私に、冷淡な声音が降り注ぐ。
『自分のせいで、仮にも夫だったクソ野郎に縛られてた母さんや、無理して病気になった春さんの事を考えれば、あの街から離れるか自死するべきだった』
「……」
『だけど死ぬ勇気も、自由やあの人の甘さを手放す覚悟もないしする気もない』
何か言い返そうとしても、何も思い浮かばない。
『後悔せず死にたいなんて言ってるけど──本当は死にたくない。自分勝手に生きたいだけ』
「そん、なこと」
『結局、その体にはあのクソ野郎の血が流れてる』
大きく目を見開く。
爪が食い込むほど拳を更に強く握り、唇を嚙みしめる。
『アイツは自分の思う通りに生きて、その結果母を殺した。私がやってる行動はアイツと同じ』
「私は……アイツとは」
『違う? 母さんと春さんを苦しめて、人を殺した。何が違うの』
咄嗟に否定しても、嘲笑が返って来るだけ。
『血は争えない。アイツと同じ醜い人間なの』
そんなこと、言われなくても分かってる。
心の底から憎んでいるアイツと同じ部類だと、アイツを殺した時からずっと。
だからこそ、何もしないまま命を捨てたという愚かな行動だけはとるまいとしてきた。
息が詰まりそうになりながらも、震える唇を開く。
「それでも私は……あの街で生きたい」
『……』
「母さんが繋いでくれた命があったから……春さんが教えてくれた生きる術があったから、あの街で彼に認められた」
大事な人たちを犠牲に繋げてきたこの命を無駄に終わらせまいと、自分なりに必死に生きてきた。
その命を彼に預けたのは、彼もまた命を繋いでくれた人だから。
「だからせめて、あの人に見捨てられるまで……殺されるまでは、あの街で生きてていいんだって、思いたい」
『すぐ見捨てられるに決まってる。だって今の私は──』
洋裁屋として価値がないじゃない。
告げられた途端、右腕に痛みが走った。
顔をしかめ、瞬時に腕を見る。
──目に映るのは、肘から下が無くなった腕から血が滴っている様。
『あのクソ野郎との因縁にあの人を、街を巻き込んだ上に、腕も無くなった。それでもまだあの街にいるつもり?』
困惑と共に強くなる痛みに、思わずうずくまる。
『今の私には、何の価値もない』
頭上から浴びせられる温かさを微塵も感じない声が、酷く頭と胸に突き刺さった。
──瞼を閉じたまま過ごしていると、段々と朧げだった意識がはっきりとしてくる。
外の明るさが、瞼の膜を通って薄っすらと伝わる。
ゆっくりと時間をかけ目を開けた途端、眩しさに思わず目を瞑る。
光に慣れながら、再び少しずつ開けていく。
最初に目に入ったのは白い天井。
横に視線を向ければ、カーテンがひらひらと靡いている窓から光が差している。
次に目に映ったのは、真横のサイドテーブルに置かれている花瓶。
白いその花瓶には、綺麗な花束が生けている。
萎れてないところを見ると、最近誰かが入れたようだ。
再び顔を正面に戻す。
体が重く、起き上がろうにも動けない。
小さく息を吐き、まだぼーっとする頭で考える。
ここはどこだろうか。
今はただ、清潔感が保たれている綺麗な部屋にいることしか分からない。
いつから寝ていたのか。微かに覚えている記憶を辿る。
ヴェスティを真似た男に襲われ、監禁された。
あいつに暴言と暴力を浴びせられながら、あの部屋で数日は過ごしたはず。
それは覚えているのだが、後半は記憶があやふやではっきりと思い出せない。
……ああ、そういえば私を誰かに渡すと言っていた。
まさか、ここはロアナプラではないのだろうか。
あいつの思い通り、私はどこかの誰かにいいようにされるのだろうか。
なら、こんなところで寝ている場合じゃない。
自分がどういう状況にあるのか、今すぐ起きて確かめなくては。
起き上がろうとするが、何故か体に力が入らない。鉛のように重く、中々起き上がれない。
それでも何とか踏ん張り、ようやく腕を動かせた。
──瞬間、凄まじい違和感に襲われる。
無意識に動かした右腕の感覚が何かおかしい。
違和感の正体を掴もうと、いつもより軽い右腕を上げた。
「──念のため再検査しましたが、やはり薬物の反応はありません。なので、本人の気力次第としか」
「気力、ね。前もそう言っていたが?」
「こればかりはどうしようもありません。人体は稀に医療の範疇を超えることがありますから」
リンは自身の雇い主と淡々と言葉を交わしていた。
来客用の部屋で、椅子に腰かけ優雅に煙草を吸い始める張へ灰皿を差し出す。
紫煙を燻らす上司を見ながら、リンは心の中でため息を吐く。
以前まで自身に用がある時は電話で呼び出すか部下を寄越していたのに、ここ最近は張自ら足を運ぶようになっていた。
そして毎回花束を持ってきては自身に渡してくる。
現に今回も後ろにいる彪が花束を持っている。
だが、その花束は決して自分への土産ではない。
花束を贈る相手こそ、彼が直々に出向いてくる理由だ。
「まあ、ヤク漬けにされなかっただけマシだろ旦那。アイツが高価な生贄だったってのが不幸中の幸いだ」
「おいレヴィ」
「んだロック、そう睨むなよ」
リンの診療所の前で張とばったりと出くわしたレヴィとロックも、部屋の端で二人の話を聞いていた。
いつものように発した軽口を諫められ、レヴィは悪気を感じることなく肩を竦める。
「そういや、この前コーサのごたごたに巻き込まれたらしいな。警察署が派手に模様替えされてたとワトサップが嘆いてたぞ。後始末も終わって待ちに待ったバカンスだったってのに、アイツも運が悪い」
「ありゃ不可抗力だ。こっちだって豚箱に放り込まれて散々だった」
「お互い忙しねえな。こっちも上海の後始末がまだ少し残ってるというのに、休む暇もない」
「まだ終わってなかったんですか? てっきり全部片が付いたから戻って来たのかと」
「ヤクが絡むとちとめんどい事になるのさロック。あんなタチの悪いもんだと特にな。ま、後は上海支部への引継ぎだけなんで俺の仕事はほぼ終わってるが」
──張が飛龍衆のボスを殺し、上海で抗争を繰り広げた後も組織は慌ただしく、しばらく上海に留まっていた。
彼が帰る頃には花束の送り先も目覚めているだろうとリンも含め誰もが思っていたが、現実はそうならなかった。
すぐ近くにある病室で彼女が眠り続けて約三か月。
目の前のマフィアは、かなりの頻度で見舞いに来続けている。
「まあ、ひとまず脳にも異常は見られませんでしたし、そろそろ起きてもおかしくはありません。念のため、神経や脳を重点的に再度検査を──」
「張さん?」
彼女が目覚めない事に若干の不機嫌さを露にしている彼の雰囲気を感じ取り、リンがフォローにも似た言葉を発すると、彼女の小さい弟子であるルカがひょっこりと顔を見せた。
呼びかけられた張は口端を上げ、ルカの方へと顔を向ける。
「ようルカ、いい子にしてたか?」
「ちょっと、今は話してるから部屋に……」
家が燃やされた時から、師匠である彼女の傍に居たいと言う本人の希望と張からの命令により、ルカはリンの元に置かれていた。
自身の仕事場に子供であっても男がいることにリンは嫌気を指していたが、意外にも仕事の邪魔になることはなく、その上料理も作ってくれるのでそれなりにルカを気に入りつつあった。
そんな居候を追い出そうと立ち上がるが、張が手で制したことで黙って座る。
「今日もお見舞いに来てくれたんですか?」
「まあな」
「ありがとうございます。先生きっと喜びますよ」
「だといいがなあ」
笑顔で交わされる会話には、どことなく空虚さが滲み出ていた。
ルカは笑みを浮かべながら張の傍へ近寄り、彪から花束を受け取る。
ピンクのバラやガーベラの中に、薄紫のトルコキキョウが混ざっている色鮮やかな花束の香りがルカの鼻腔を通り抜けていく。
「レヴィ姉さんとロックさんもお見舞い?」
「うん、今日は依頼なかったから」
「そっか」
ルカは花束を抱えながら今度は二人に近づいていく。
「こいつが行きたがってたからな。アタシはその付き添いだ」
「よく言うよ、お前だっていつ行くのかって何回も聞いてきたじゃないか」
「お前がずっとそわそわしてたから聞いてやったんだろうが」
二人の掛け合いにルカは思わず「あはは」と笑う。
その笑いにお互い気まずくなったのか顔を逸らし口を噤む。
「じゃあ早速先生のとこ行こうよ。話しかけたら起きるかもしれな──」
にこやかに言い放たれる言葉は最後まで続くことはなかった。
ルカの声を遮ったのは、部屋の外から響いた何かが倒れる音。
その場にいた誰もが怪訝な表情を浮かべ物音がする方へ顔を向けた。
張が目配せすると、リンは「アタシが行きます」と即座に立ち上がる。
「アンタ達はここで待ってなさい」
自身に着いていこうとするロックとレヴィ、ルカへ告げる。
ルカの不満そうな顔を見ることなくリンは颯爽と部屋を後にし、つかつかと歩みを進めた。
歩みを止めることなく、そのまま物音がする病室のドアを開ける。
瞬間、目に映ったのは誰もいないベッド、倒れている椅子。
──そして、三か月も眠っていたキキョウが点滴に繋がれたまま呆然と床に座り込んでいる様。
あまりの光景に思わず目を見開くが、すぐさまキキョウの元へと駆け寄った。
「キキョウちゃん、大丈夫? 怪我は?」
「……」
彼女の様子から目覚めてベッドから落ちたのは明白だった。
長時間眠っていた体では上手く起き上がることができなかったのだろう。
リンは自身の患者の状態を確かめるべく声を掛けるが、呆然としたまま反応は返ってこない。
「キキョウちゃん?」
再び呼びかけると、今度は言葉は返ってこないものの顔をゆっくりとリンの方へと向けていく。
以前より少しやつれたその顔には、何やら焦りと不安な色が滲んでいた。
「リン、さ……」
「ようやく起きたのね、よかったわ。ひとまずベッドに──」
反応があった事に安堵しながら、キキョウをベッドへ促そうとする。
が、その言葉を意にも介さずキキョウは左手でリンの白衣の袖を強く掴む。
「リンさん……これは、どういうことですか……」
「……」
「私の、腕……なんで……」
「キキョウちゃん、落ち着い」
「答えてください……ッ、なんで……!」
自身の質問に答えないリンに、キキョウは震えた声で問い続ける。
──肘から下が無くなった右腕でリンの白衣を掴もうと伸ばすも、ただ空を切るだけ。
声と共に左手も震わせながら、今まで見たこともない困惑した表情がリンへと向けられる。
どんな言葉を口にすべきか悩んでいる内に、次第にキキョウの呼吸が荒くなり、表情も崩れていく様にリンは考えることをやめ、彼女の両肩を優しく掴む。
「キキョウちゃん、それは後で説明する。今はベッドに」
「腕が……私の、腕……ッ……腕が……、なんで……ッ!」
異様に取り乱す彼女の姿に、「まずい」と胸の内で呟く。
これ以上混乱させてしまえば、どんな行動を取るか分からない。
だが、鎮静剤を打とうにもこの場には自身一人しかない。
応接室にいる誰かが来てくれることを願い、大声で呼ぼうと顔をドアへと向ける。
──が、目に入った人物に開きかけていた口を閉じた。
「キキョウ」
「…………張、さん」
低い声音で彼女の名を呼ぶと、呼吸を乱しながら涙目となっている顔が向けられる。
白衣を掴む手が緩んだ一瞬の隙をつき、張は彼女の体を引き寄せた。
覆いかぶさるように抱き締められても尚、キキョウの震えは止まらない。
「ちゃ、さ……ごめん、なさ……ッ、うで……うで、が……ッ」
半分を失った自身の右腕を見ながら震えている。
一体何に対しての謝罪か分からぬまま、張は落ち着かせるように更に抱き寄せた。
「もう、なにも……なにも、ない……」
キキョウが張の腕の中に収まったのを見計らい、リンは彼女の姿を一瞥した後、鎮静剤を取りに足早に部屋を出る。
彼女の荒い息と酷く震えた声が、二人きりとなった空間でより張の耳に響く。
「ど、どうし、よ……ッ……これ、から……ど、した……らッ……」
より一層荒く、浅い呼吸を繰り返し、必死に言葉を口にする。
腕を失いパニックとなっている彼女を、張は宥めることも慰めることもせず、ただ抱き締めたまま。
「どうし、よ……ど、し──」
同じ言葉を繰り返す彼女に、左手を離し、顔へ伸ばすと顎を掴んだ。
そのまま自分の方へ向かせると、流れるように口を塞ぐ。
「──ッ……!」
一瞬体が硬直した後、抵抗するように動く。
数秒経ってから唇を離しては塞ぐ。愛し合うような甘いものではなく、ただ落ち着かせるための作業を繰り返す。
数回同じことを行えば、やがてキキョウの抵抗もなくなっていく。
──唇を離すと、浅かった呼吸も落ち着き、ゆっくりとしたものとなっていた。
涙が溜まっている黒い瞳をサングラス越しに見据えながら、顎から手を離し流れるように頬を大きな掌で包む。
「落ち着いたか」
肩で息をしながらこくりとゆっくり頷く。
頬の上を滑る指が離れると、キキョウは張の顔から目を逸らす。
「……ごめんなさい」
「気にするな。取り乱すのも無理ない」
「…………張さん、私の腕は」
眉根を寄せ重い声音で投げかけられる問いに、張は眉尻を下げ言葉を選ぶ。
沈黙が続き、キキョウは左手を拳を作る。
「今度はだめ……だったんですね」
「……」
「リンさんでも、元に戻せなかったんですね」
微かに手を震わせながら、右腕を見つめる。
「……アイツはやることをやった。こうして生きてるだけでも運がよかった」
「分かってます。別にリンさんを責めようとは思ってません。……悪いのはあの男と、私です」
彼女の呟きに張は一瞬片眉を上げた。
それに気づくことなく、キキョウは眉根を寄せたまま静かに続ける。
「私が、意地っ張りだから……不器用だから……あの男との駆け引きが上手くいかなかった。だから、こうなった」
「お前が意地を張らずとも、あいつはどの道いたぶってたと思うが」
「そうかもしれませんね」
ふっ、と自嘲するように一つ笑う。
「それでも、私はあいつに意地張った事、後悔してません。あんな男にへりくだるなんてごめんですから」
「こんな状態なのにか?」
「ええ。──ただ」
キキョウは言葉を区切り、呆れた表情を浮かべている張を見上げる。
「もっと上手く立ち回れていたら、せめてあの子だけでも巻き込まずに済んだんじゃないかって……」
「……」
「そう思うと今回ばかりは……流石に、いつもみたいには振舞えませんね……」
淡々と話しながら、手の震えが酷くなっていく。
「何かあってもあの子なら、きっと……そんな甘い考えがどこかにあったんでしょうね」
「……」
「たった一人の弟子を逃がすこともできずに……まだ、教えてない事たくさんあるのに」
手だけでなく、声までも震わせながら、キキョウは張から目を逸らし俯いた。
張はただ黙って、彼女の後悔による呟きを聞いている。
「私を置いてく……みんな……今度はルカまで……」
「……」
「私だけなら、まだよかった。でも、あの子まで失うなんて……こんなの、何回あっても慣れないもんですね……」
自身を庇った母が殺され、その母を殺した父を殺し、身を粉にして育ててくれた恩師も死に、ロアナプラでできた親友も無残な姿に変えられた。
この経緯から、彼女は誰かに置いて逝かれるくらいなら先に自分が死ぬ方をよしとしてきた。
そんな臆病でありつつも、必死に気高く生きていた彼女は今度は弟子を失い、今はただ男の腕の中で震えることしかできない。
彼女の過去も街での生き様も知っているからこそ、張は虚しく吐かれる独白を遮る気にはなれなかった。
「こんなことになるくらいなら、弟子を取らなければよかったと……そう思ってしまう」
「……」
「あの子もきっと……私なんかの弟子になったこと、後悔して──」
「先生」
消えそうな程の小声での呟きが止まる。
キキョウは下を向いているため、聞こえてきた声の主は分からない。
だが目に映さずとも、声が耳に入った瞬間その人物の姿が思い浮かぶ。
自身を先生と呼ぶのはたった一人。
既に死んだ事実を思い出し、すぐさま気のせいだと、幻聴だと言い聞かせようとするも、またも思考が遮られる。
「先生」
再び呼びかけられ、呼吸が止まる。
胸の内に湧き上がる期待に鼓動を速めながら、ゆっくりと声のした方へ顔を向けた。
「──ル、カ……?」
キキョウの目に映ったのは、いつの間にかリンが連れていた自身の弟子。
死んでいたと思っていた愛弟子が、目の前にいる。
混乱しながらも、その眼はルカから離れることはない。
少しの沈黙の後、先に動いたのはルカだった。
リンに背中を押され、張の腕の中で固まっている師匠へ一歩、また一歩と近づいていく。
「先せ──」
キキョウの前でしゃがみ、顔を合わせ声を掛ける。
ルカの呼びかけは、彼の頬に伸ばされた手によって遮られた。
包帯に包まれている右腕も必死に伸ばし、切断部分の肘でルカの頬に触れている。
「る、か……ルカ……」
うわ言のように名を呼びながら、震えた左手で頬を包んだ後、その手はルカの癖っ毛で柔らかい髪へ。
「先生」
まるで本物かどうか確かめるような手つきに、ルカはほんの少し口端を上げ、彼女の手と右腕を優しく掴む。
「僕は、ちゃんと生きてるよ」
泣きそうな笑顔と震えた声音でたった一言告げる。
途端、キキョウは堰を切ったように思い切りルカを引き寄せた。
「せん、せ……くるし」
「よかっ、た……ほんと……よかった……」
母が我が子にするように、顔を摺り寄せ抱き締める。
体を震わせながらも、抱き締める力は一向に緩まない。
師の見たことのない姿に驚くも、やがてルカも彼女の背へと手を回す。
「怪我は……なんとも、ない……?」
「大丈夫だよ」
「火傷、とか、してない? 薬、打たれたって……」
「してないよ。薬は後遺症もないってさ」
不安気に放たれる問いに間を空けることなく答えていく。
柔らかな空気が漂う中、張は黙って立ち上がりドアへと歩みを進める。
張が部屋を出ると、入り口で控えていたリンは静かにドアを閉めた。