「──直してほしいところがあればいつでも言ってください。……はい、それではまた」
「終った? じゃあ休憩がてらお喋りしようよ」
「そんな暇ない」
「そんな根詰めてたら倒れちゃうわよ」
翌日、いつも通りの時間に起床し作業を進めていた。
そんな中、不定期で現れるアンナが訪ねてきて第一声に『大丈夫?』と言いながら心配そうな顔を見せた。
度々アンナに休憩しようと言われ、そんな時間はないと私が言い、少しくらいなら大丈夫とアンナが言い返す……という押し問答を続けていると張さんから電話がかかってきて、今に至る。
よほど心配だったのか、アンナは何かと“休憩しろ”、“息抜きは大事だ”と言ってくる。
心配はありがたいが、今はそんなに余裕がない。
「ねえ、少しだけでもいいからさ」
「……アンナ、気持ちはありがたいけど今はそんな事している暇はないの。だから」
「“半月後はゆっくりできる”って言った。……だからずっと終わるの待ってたのに」
アンナは不満そうな顔をしながら文句を言ってきた。
そういえば、あの時はバラライカさんの依頼を受ける前だった。
だから今頃は余裕があると思っていたのだが、まさかあの直後に依頼を受けることになるなんて誰が予想できる。
「あの時はそう思ってたんだけどね。そうもいかなくなったの」
「じゃあ、いつならゆっくり話せるのよ。……ねえキキョウ。私が依頼した時の事覚えてる?」
「覚えてるよ。それがどうしたの?」
もう半年前になるが、私にとって初めて正式な依頼を受けたのがあの時だ。
忘れるはずもない。
一体それがどうしたというのか。
アンナは、懐かしむように微笑みながら話し始めた。
「あの時、正直断られるかと思ったの。だって、使いかけの化粧道具なんていらないに決まってるし。私だったら絶対受けないもの。……断られたらあなたに体を売る気だったのよ」
「え、女相手に?」
「ここじゃ珍しくないことよ」
女が女に体を売る。つまり、女同士で寝るということだ。
私には全く想像がつかないのだが、一体どういう風にやっているのだろうか。
……知ったところで実践するわけではないが。
アンナがそういう商売の仕方をしていると知っても、別に軽蔑しない。
というか、それは私には特に関係のないこと。アンナの商売に口出しするつもりない。
「そんな私の商売柄、絶対軽蔑されるし舐められるわ。特に女相手だとね、“娼婦”は気持ち悪がられるの。……だから、嬉しかった」
「え?」
「娼婦相手に品を売ってくれないところもあるのに、私のことを馬鹿にも軽蔑することも、否定することもなく依頼を受けてくれた。ちゃんと私を見てくれた。そんなこと初めてだったの」
実を言うと、私は娼婦がどんな生活をしているのかとかよく分かっていない。
ただ、生きるために体を売っている女性ということだけは知識としては知っている。
そんな私が否定する権利がどこにあるのか。
生きていくために体を売って、その体を飾るための化粧道具を渡そうとした人の依頼を断る理由が見つからない。
そう思ったから依頼を受けた。その気持ちは今でも変わらない。
「だからでしょうね。……あなたの傍はとても居心地がいいわ。つい来てしまうし、心配もしちゃうの」
「私は、自分のことしか考えてないよ。それにアンナが言っているほどいい人間じゃない」
「いいえ、あなたはとてもいい人よ。──まるで、“日向側の人間”みたい」
日向側の人間。
それはこの街に住んでいる人たちとは逆の人。
犯罪に手を染めたことがない、光側の世界に住む人達。
「確かに、私はここの人達よりは日向に近いのかもしれないね」
「……なら、戻るべきよ。あなたにここは似合わなさすぎる。今からでも遅くないわ。まだ、間に合うわ」
まだ間に合う、か。
ここに来る前まではそうだったのかもしれない。
だけど、もう戻れない。それは私が一番分かっている。
「ありがとうアンナ。でもね、私は戻れないの」
「どうして」
「そっちの私は、もういない。死んだの。だから戻れない」
あの人が、私を殺してくれたあの時。そう覚悟を決めた。
「私はもう振り回されたり、後悔したりしない。そのためにここにいるの」
言っている間、真っすぐ見つめてくるアンナの眼から逸らすことなくそう言った。
「……何をやらかしたのか知らないけどさ、キキョウ。とにかく、“戻れない理由”があなたにもあるのね」
「ええ」
「そっか。なら、仕方ないわね。もう何も言わないわ。……ごめんね、急にこんな話しちゃって」
「悪い気はしなかったし、いいよ。……たまにはゆっくり話すのも悪くないね」
事実、不思議と過去を振り返っても嫌な気がしなかった。
きっと、お互い深く入り込まないこの関係性が心地いいのだろう。
これくらいが丁度いいとアンナもよく分かっている。
「その年齢で、ほんとしっかりしてるよ。アンナは」
「え、キキョウだって私とそんなに歳変わらないでしょ?」
──ちょっと待て。アンナは確か十七歳。
そこまで変わらないということは、実年齢よりはるか年下に見られている。
「ねえアンナ、私のこといくつくらいだと思ってるの?」
「二十歳前後?」
……複雑だ。
これは喜ぶべきなのか悲しむべきなのか。
「二十六よ、私」
「ええ!? 嘘よ絶対!! あと四年したら三十よ!? にしてはキキョウ若すぎよ!!」
「とりあえず、褒め言葉として受けとっとくね……」
確かに東洋人は少し幼く見える節があるが、ここまでとは。
アンナはよほど衝撃的だったのか、私の顔をじろじろと見ている。
見られるのは少し恥ずかしいのでそろそろやめてほしい。
「アンナ、そんなじろじろ見ないで」
「あ、ごめん。つい気になっちゃって」
そう言うと、アンナは素直に離れてくれた。
羨ましい、とかなんとかぶつぶつ呟いていたが。
「じゃ、そろそろ帰るわ。……また、来ていい?」
「まだしばらくはゆっくりできないから相手できないかもしれないけど、それでもいいなら」
「ありがと。キキョウ、無理はしちゃだめよ」
「ええ、アンナも。気をつけて帰ってね」
アンナは最後にそう言って、年相応の可愛い笑顔を向け帰っていった。
あの子はきっと、この街に生まれていなければ娼婦として生きることもなく、普通に暮らし、普通に学校に通って、普通に恋愛をしていたのだろうと思う。
だが、もうそうなってしまったものはしょうがないのだ。
この街で生まれ、生きていくために体を売って娼婦になった。
そうするしかなかったのだろう。
だからといって、あの子のためになにかしてやろうとか、助けてあげようとかそんなことは思わない。
生きていれば辛い目に合うのは誰でも一緒。
きっとアンナもそれを分かっている。
だから私が戻れない理由を聞くこともなく、仕方がないと言ってくれたのだ。
そんなアンナの優しさが、私に洋裁を教えてくれた、あの優しくて温かいあの人を思い出させる。
──いけないな、こんなんじゃ。
少しでも過去を思い出すとこれだ。
アンナはあの人じゃない。だから、あの人に重ねるなんてしていいわけがない。
私は頭を整理しようと自室へ向かった。
そして、クローゼットの奥にしまっているあの錆びた裁ちばさみを持つ。
ここに来た当初は、過去を振り返ってしまいどうしようもない不安に襲われた時が何度かあった。
そんな時、この裁ちばさみを持っていると落ち着いた。
“私がここに来た理由”を、再確認できるから。
深く息を吸って吐く。この動作を何回か繰り返した後、裁ちばさみを元の場所に戻し、作業場に向かう。
そして私は何事もなかったかのように、作業を始めるのだ。