家から三十分程歩いた場所にある酒場──イエロー・フラッグは一週間前にレヴィと男たちの愉快な騒ぎによって穴だらけになっていたが、何とか修繕は終っているようだった。
店の中に入ると開店したばかりなのかまだ客が誰一人おらず、カウンターの向こう側で客を待っているバオさんに声をかける。
「バオさん、お疲れ様です」
「おう、キキョウか」
「お店直ったんですね。よかった」
「おかげさまでな。お前さん、あの時大目に金渡してくれただろう。今日は一杯だけサービスしてやるよ」
「え、ホントですか。まさかそんな気遣いができる人とは」
「おい」
「冗談ですよ。ではお言葉に甘えて……とその前に」
一つ間を空けて、アンナに渡すためのシスター服を入れている紙袋をバオさんに差し出す。
「アンナから依頼されたんですが、完成したらあなたに預けてほしいと」
バオさんは私の言葉を聞いた途端眉間に皺をよせ「アイツはまた勝手に」と呟き、渋々ではあるが受け取ってくれた。
「すみませんバオさん」
「別に気にしちゃいねえさ。……いつものやつでいいか?」
「勿論、お願いします」
そう返答するとバオさんは、私がここに来るときいつも飲む『Jack Daniel's』のボトルと氷の入ったグラスを出してくれた。
氷が浸かるくらいまで注ぎ、グラスが冷えてきたと感じたら酒に口をつけ喉に通す。
「やっぱり美味しいですね、このお酒は」
一週間ぶりのお酒に、無意識に口端が上がっていた。
──そこから2時間ほど飲んでいると、その間にどんどん客が来始めてあっという間にテーブル席は埋まり、いつもの騒がしさが店内を包んでいた。
初めてこの店に来た時は張さんと一緒だったからか妙な静けさがあったが、今では静けさの欠片もない。
まあ、私がベリーショートでTシャツにズボンという色気も何もない格好をしているおかげか、カウンターに一人で座っていても誰かに声をかけられることがないので、周りが騒がしくても別に問題はない。
いつものようにバオさんと喋りながら酒を飲んで、ボトルの中身がなくなれば新たにボトルを追加する。
今まさに追加したボトルを開けようとしたその時、妙に店内の空気が変わる。
だが、私は酒が入っているせいでそのことに気が付かなかった。
嬉々としてグラスに注いでいると、店内の空気を変えた張本人が私の隣から顔を覗かせた。
「お隣良いかな、シニョリーナ?」
「……」
今まで声をかけられたことがなかったので驚いてしまい、反応することができなかった。
声がした方へゆっくりと視線を向けると、顔立ちはよく、整えられた黒髪にワインレッドのジャケットと同じ色のベスト、そして黒のYシャツとスラックスという格好をした男が目に入る。
「隣、座っても?」
「……あ、どうぞ」
「ありがとう」
もう一度声を掛けられハッとし返答する。
男はジャケットを脱ぎ隣の席に置くと、私の隣に座った。
「やあ、バオ。アマレットジンジャーはあるかな?」
「あるぜ。まったく、くそ甘いもんが好きなのは相変わらずみたいだな」
「生憎、他の奴らみたいにウォッカやウィスキーを馬鹿みたいに飲むのは性に合わないんでな。どうだいシニョリーナ、君も一杯いかがかな?」
「……いえ、私はこれで十分ですので」
遠回しにこの酒を飲んでいることを批判されたような気がして少しイラっとしたが、酒と一緒にイラつきごと飲み込む。
男はバオさんから酒を受け取ると、機嫌がよさそうな声で再び話しかけてくる。
「すまない、君の気分を害するつもりはなかったんだ。お詫びに君のお代はこちらが出そう」
「いえ、結構です。自分の分は自分で払います」
「はは、随分芯がある女性だ。だが、君のような綺麗な女性はこんなところでそんなお酒を飲んでいるよりも、家でモーニングニュースを見ながら紅茶を啜っている方がお似合いだよ」
なんなんだこの男は。
妙に丁寧な言葉遣いというかなんというか。
人を馬鹿にしているのか舐めているのか、はたまた私が女だから紳士ぶった口調をしているのか。
──紳士ぶった?
張さんから言われた“紳士ぶった着飾り野郎”という言葉が頭をよぎる。
「初対面なのに随分分かったようなことを仰いますね」
「ああ、そうかすまない。こちらは君のことを知っているものでね、つい」
私を知っている?
私はこんな男と会ったことなんてないはずだ。
勘ぐっていると、男は微笑みながら更に言葉を続けた。
「俺は、君にずっと会いたかったんだよMs.キキョウ」
男はそう言って私の左手を取り、手の甲にキスしてきた。
「なっ……」
男の行動に気持ち悪さを感じ、すぐに手を引っ込めた。
私の動揺を知ってか知らずか、面白がっているようにも見える男の笑みに腹立たしさを覚える。
「随分可愛らしい反応だ。あの男からはこういう扱いを受けてないのかな?」
「……この街でこういうことをする人間の方が少ないでしょう」
「はは、それもそうだ。──さて」
あの男というのは誰の事かは分からないが、今はそんなのどうでもいい。
私の頭の中では、目の前の男に対してこれ以上近寄ってはいけないという警鐘が鳴り響いていた。
男は私から警戒心をむき出しにされているにも関わらず、腹立たしい笑みを崩すことなく言葉を続ける。
「軽い挨拶はこれくらいにして、そろそろ名乗っておこうか。コーサ・ノストラのヴェスティだ、これからよろしくMs.キキョウ」
コーサ・ノストラは、確かイタリアのマフィアだったはずだ。
三合会とホテル・モスクワの存在感が大きすぎて他のマフィアの話はあまり聞かなかったのだが、どうやらこの街にもいるらしい。
「まさか、こんなに早く君と会えるなんて夢のようだよ」
「……私と誰かを勘違いされているのではないですか? 私はあなたが気にかけるような人間ではありませんよ」
だからとっとと目の前からいなくなってほしい。
折角いい気分で酒を飲んでいたというのに台無しだ。
「まさか。君を誰かと間違えるなんてありえない話だ。俺はここ数か月、君に会うことだけを楽しみにしていたというのに」
「生憎、私はあなたを楽しませることも退屈しのぎになることもできません。そういうことをお望みなら他の女性をお誘いください」
「この街の女性は確かに刺激的で面白いが、俺が求めているのはそれじゃない。──俺が興味を示しているのは、君の“腕”だよMs.キキョウ」
私の腕?
この男が何を言いたいのかよく分からない。
「ああ、ちなみに言っておくがあの童顔や……Mr.張のお気に入りだから近づいたわけではないよ」
「は?」
「俺は、“一級品の服を作った洋裁屋”に興味がある。オシャレに気を遣う人間ならば気にならない訳がないだろう?」
確かに、この男は多少なりとも身なりに気を遣っているようではある。
自分に何が似合うのかよく分かっているのだろう。
そんな人間がこの街にいるなんて思わなかったが。
「Ms.キキョウ。どうか、俺にも一つ仕立ててもらえないだろうか?」
「依頼であれば、このような場ではなく直接出向いてください。見ての通り私は今酒を飲んでいますので」
「ああ、これは失礼。少々気持ちが逸ってしまった」
「別に謝ることではないでしょう。……バオさん、また来ますね」
私は一刻も早く気持ち悪い笑みを浮かべているこの男の前から立ち去りたくて、グラスの中のお酒を一気に飲み干しお金を出して席を立つ。
「おう」とバオさんが一言発したのを聞き歩きだそうとした瞬間、私の歩みはまた男が手を掴んだことによって止まった。
「…………なんでしょうか?」
その時の私の顔は恐らく眉間に皺が寄っていて不快さが前面に出ていたと思う。
それとは逆に、男の方はとても愉快だと言わんばかりに口角を上げていた。
男は私の手を掴んだまま自分の酒に口をつけ話し始めた。
「まだ会ったばかりじゃないか。もう少し、この一人寂しく飲んでいる男との会話に付き合ってくれると嬉しいんだが」
「先程も言いましたが、そういうことをお望みなら他の女性をお誘いください。貴方なら選び放題なのではないですか?」
「それは誉め言葉として受け取っておこう。だが、俺が今口説きたいのは他の誰でもない君なんだよ」
「私を口説いても何もなりませんよ」
「女性を口説くのに何か理由でもいるのか?」
「しつこい男は嫌われるって聞いたことありませんか?」
めんどくさい。非常にめんどくさいこの男。
なんで私が初対面の男の暇つぶしに付き合わなければいけないのか。
本当に早くここから立ち去りたい。いい加減この手を離してほしい。
手を振り払おうとしたが、さっきよりも強い力で掴まれてしまい離すことができない。
「……離してください」
「そんなに嫌がられると傷つくな。ま、今日はとりあえずこれくらいで我慢しようか」
男がそう言い終わった瞬間、掴まれている手を引っ張られ私の体は男に引き寄せられていた。その後腰に手を回され、何が起きたか分からないまま左の頬に柔らかい何かが触れる。
──頬にキスをされたのだと一瞬の間を置き理解した私は、男の体を力いっぱい押して距離を取った。
すぐさま眉間に皺を寄せ、苛立ちを隠すことなく睨みつける。
「フッ、本当に可愛い反応だ」
気色悪い。
その一言で更に嫌悪感が増した。
これ以上言葉を交わしたくなくて、無言のまま振り返り足早に店の出入り口へ真っすぐ向かった。
後ろから「また会いに行くよ」と声が聞こえ、あの腹立たしい笑みで言っているのだと思うと無性に苛々した。
……気色悪い、本当に気色悪い。
帰ったらシャワーを速攻浴びようと決め、怒りのせいか酒のせいなのか熱くなった顔を夜風にさらしながら帰路に就いた。
キキョウが去った後のイエローフラッグ。
カウンターでは未だに酒に口をつけながらバオと話しているヴェスティの姿があった。
「──中々可愛いシニョリーナだったな。あんな反応をされてしまってはつい虐めたくなってしまう」
愉快に口の端を上げながら酒を飲んでいるヴェスティを見て、バオは眉間に皺を寄せながら告げる。
「おい、あまりやりすぎると依頼も受けてもらえなくなっちまうぞ」
「それは困る。しかし、俺にとっては挨拶代わりのつもりだったんだが刺激が強すぎたらしい。一体張からどんな扱いを受けているのか心配になる」
「この街じゃ女どもにあんなことするのはお前さんだけだ」
「だからこの街の男どもはモテないんだ。ヴェロッキオもお前もな」
「余計なお世話だ」
そうバオが言い終わると同時にヴェスティはグラスに入っている酒を飲み干し、追加を頼む。
「ま、やっと見つけたウサギをここで逃がすわけにはいかないんでな。これからはできるだけ慎重にいくとするよ」
「……ヴェスティ、お前ホントにキキョウを“口説き落とす”つもりか? そんなことしたら張の旦那が黙ってねえぞ」
「んなこと知るか。それに、これで俺の側についたらアイツの悔しがる顔が見れて、洋裁屋の腕も好きにできる。一石二鳥ってやつだ」
「ったく、どうなっても知らねえぞ」
「欲しいものが目の前に転がっていたら、迷わず手を伸ばさなきゃ手に入るモンも入らねえ。──俺の欲しいものは今目の前にある。なら手を出さねえわけにはいかねえだろ?」
「なら勝手にしろ。ただし、ウチに被害が出ないようにしてくれよ」
「できるだけ努力するさ。ま、もしド派手にやる時が来たら──」
何が何でも潰してやる。
そう呟いている彼の顔に浮かんだ酷く歪んだ笑みを見るのは、カウンターの向こう側でグラスを拭いている店主のみ。
当の店主は彼の顔を見ようと動じずただ自分の仕事をこなし、周りの客は近くにいる客同士でヒソヒソと声を潜めながら会話をするという、酒場としてはあまりに異様な光景だった。
はい、フラグ即回収。