イエロー・フラッグから帰った後、私は酒を飲んでいたことにはお構いなしにシャワーを浴びた。
飲み足りないと思い冷蔵庫にあるビール一缶を一気に飲み干しベッドで横になる。
──まさか、この街であんな風に振舞う人間がいるとは思わなかった。
普通なら顔が整っている男性に口説かれたら多少は心が揺れ動くのだろうが、生憎私はそういう扱いを受けることに慣れていない。
初対面でああいうことをしてくるのは、正直気味が悪いと思う。
あの男の行動が本当に理解できなくて気色悪いという感情しか出てこなかったから拒絶したのだが、それを照れているだとかで片付けられ“可愛い反応”と言われたことにも嫌気が差す。
男性からああいう態度をとられた時は、どういう対応をすればいいのだろうか。
……アンナなら分かるのかな。
今度会ったら参考までに聞いてみようか。
そう考えている間に、シャワーを浴びて心地よい温度感と酒が入っているおかげか段々瞼が重くなりそのまま目を閉じた。
「──キキョウおはようー。可愛いアンナちゃんが遊びに来たわよー」
朝起きて、刺繍をしてから三時間ほど経った頃。おはようと言うには遅い時間だというのに、そう言いながらアンナが家のドアを叩いてきた。
刺繍していた手を止め、招き入れようとドアを開ける。
「おはよう、というかこんにちはだけどね」
そう言いつつアンナを家の中に招き入れ、椅子を一つ出すとその椅子にアンナが腰かける。
「コーヒーでいい?」
「ええ」
この前までアンナが来た時はココアを出していたのだが、『甘すぎる』と言われてしまってからはコーヒーを出すようにしている。
コーヒーを淹れコップを手渡した後、あまり好きではないコーヒー特有の苦い匂いが漂ってくる中、椅子に座り刺繍の続きを再開した。
何も言わず刺繍をする私を見て、口の端を上げながらアンナが話しかける。
「シスター服受け取ったわ。サイズもぴったりだったし、どこも変なところなかった。流石よキキョウ」
「それならよかった」
「はいこれ、服のお礼」
と、札束が入った封筒とは別に手紙らしき白い封筒を手渡された。
「なにこれ?」
「お金は私からだけど、そっちの手紙はあなた宛てのラブレターよ」
こういう話題は好きそうなものだからニヤニヤしてるのかと思えば、アンナの顔は意外にも面白くないといったような不満顔だった。
「なんでアンナがそんな顔するの」
「……その手紙を渡してきたやつ、顔が整ってていい男だと思ったから私から誘ったのよ。そしたらそいつ、なんて言ったと思う?」
「なんて言ったの?」
「『君の誘い方はこれっぽちもそそらない。もう少し男のツボを心得た方がいいぞ、Prostituta bambino』って」
最後の言葉は恐らくイタリア語だ。どういう意味なのだろうか。
私が考えていると、元々不機嫌だった顔を更に眉間にしわを寄せてため息をついたアンナがその意味を教えてくれた。
「……『子ども娼婦』って意味よ。私をガキ扱いしやがったのよ、あのエセ紳士」
なるほど、通りでそんなに不機嫌なのか。
アンナはこの街で割と有名な娼婦だと聞く。女の私から見ても綺麗だと思うくらい美人で、一人で歩けば必ず声をかけられるのだとアンナ自身から自慢されたこともある。
そんな女性が自ら声をかけたのにも関わらず、「子ども」と一蹴されたら不機嫌にならない訳がない。
特に、アンナは子ども扱いされるのを嫌うから尚更。
「更にムカつくのは、私がキキョウの客だと知った途端に“これを渡してほしい”って押し付けてきたことよ。──ねえ、キキョウ。あなた昨日妙にカッコつけたイタリアの紳士とイエロー・フラッグで飲んだ?」
イタリアの紳士かどうかは分からないが、
「顔は整ってるけど、心底気色悪い紳士ぶった男には絡まれたよ」
今思い出しても鳥肌が立つ。
「その男の名前聞いた?」
「確かヴェスティって言ってた気がする」
「やっぱり。あ、覚えなくていいわあんなクソムカつく男の名前なんて」
「……で、なんでそんな男から手紙を律儀に持ってきたの?」
アンナからの話を聞いて疑問に思ったのはそこだ。
ムカつく男が勝手に押し付けたのであればそれをわざわざ届ける義務もないはずなのに。
「あの男がどんな内容の手紙を書いたのか気になるじゃない。これで変な内容だったら街中に広めてやるわ」
仮にこれが本当にラブレターだったとしたら、その内容を知られるのは誰でも遠慮したいものだ。
だが私としては、この手紙を開けることを遠慮したい。
「開けなきゃダメ?」
「仮にもコーサ・ノストラのナンバー・ツーからの手紙よ。一応読んでおいたほうがいいと思うわ」
あの男マフィアのナンバー・ツーだったのか。
通りで身なりがいいはずだ。
本当は今すぐ捨てたいところだが、アンナの言うことも一理あると思い封筒を開ける。
中には便箋が一枚。その便箋には、たった一言だけ書いてあった。
その手紙の一言は英語でもイタリア語でもない、この街では恐らく私しか読めない言語で書かれてあった。
流石のアンナも読めないらしく、手紙を見た途端首を傾げる。
「ねえ、これなんて書いてあるの?」
「……」
「キキョウ?」
「さあ、私には意味が分からない」
「……」
私はどうしたらいいか分からず、咄嗟に“分からない”と言ってしまった。
いや、何と書いてあるのかは分かるのだが、
恐らく、アンナには私が嘘をついているとバレている。
その証拠に、目の前で小さくため息を吐いている。
「キキョウって嘘が下手くそよね。バレバレよ」
「……ごめん」
「いいわよ。──そんなに動揺してるキキョウは初めてだから無理には聞かない。だけど、どんな内容であってもあのクソ紳士の言いなりになる必要はないからね」
「……ありがとう、アンナ」
今の言葉が演技なのかは分からない。だけど、その言葉が多少の気休めになっていたのは事実だった。
「その調子じゃ、今日は私はいないほうがいいわね」
「……ごめんね」
アンナが気遣ってくれているのが分かって反射的に謝ってしまう。
情けないな、と自嘲する。
「謝ることじゃないわよ。また今度、ゆっくり話しましょ」
「そう、だね」
その言葉を発した後ドアが閉まる音がする。いつもなら見送るのだが、今はそんな気分ではない。
それほどまでにあの男が寄越した一言の手紙は私にとって不可解極まりないものだった。
キキョウの家を出てからしばらく歩いていた。
その間、私はずっと考え事をしていて上の空だった様に思う。
大分前に男に襲われたふりをしても冷静に対応していたあのキキョウが、あのクソ紳士からのたった一言であそこまで動揺するのは予想外だった。
あの男の私への態度も気に食わないが、その男がキキョウの“何か”を握っていることにも腹が立つ。
相手はコーサ・ノストラのナンバー・ツー。私如きがどうにかできる相手じゃないことくらい分かってる。
この苛立ちをどこへぶつければいいのか分からないまま歩く。
大通りにでてやけ食いでもしようかと思ったその時、黒塗りの車が私の横に停まった。
「ようアンナ」
高級そうな車の窓から声をかけたのは、この街で一番最初にキキョウを気に入り洋裁屋として営業させている人物──三合会の張維新。
彼とは過去にキキョウ絡みで一度話をしている。
キキョウが収納していた服を六千バーツで買ったと娼婦仲間と話した時に声を掛けられ、色々と話をした。そこから何回か顔を合わせる度に挨拶を交わすくらいの仲になった。
残念なことにこの男も誘ってもノッてきてくれないのだが、ムカつく断り方をしてこないという点においてはあの男よりも好感が持てる。
「ご機嫌ようMr.張。この昼間から娼婦に声をかけるなんて、よっぽど溜まっていらっしゃるのかしら?」
「ありがたいことに女には困ってないんでな。見知った顔が見えたんで声をかけただけさ」
「それは残念。だけど調子はいいようで何よりだわ、色々とため込むのは体に毒だものね。……これからキキョウのところに?」
「あぁ、ちょっとした頼みごとをな」
「キキョウはあなたが来ることを知らない様だけど?」
「たまにはサプライズでも悪くないだろう。──キキョウは元気そうか?」
元気かと言われれば元気なのだが精神的に元気じゃない。どう返答すればいいか迷ってしまったのもあり、早々に会話を終わらせようとする。
「ご自分で会って確かめてきたら? じゃ、私はこれからランチだから失礼するわね」
「おいおい、今日は随分つれないな。キキョウと喧嘩でもしたのか?」
「まさか、私とキキョウは大の仲良しよ? 喧嘩なんてするわけないでしょう」
「にしては不機嫌なツラをしている。仲良しな友人のところに行った後の顔とは思えねえな」
恐らく私とキキョウの間に何かがあったと思っているのだろう。
この男はキキョウのことになると過保護とも言っていいくらいに首を突っ込みたがる。
それが功を奏して、比較的安全にこの街で洋裁屋として商売できているのだが。
私としてもキキョウがいるおかげでここ最近退屈していない。
それのほんのちょっとしたお礼のつもりで、私が知っていることを話そうと口を開く。
「──キキョウのところに一つラブレターが届いたのよ。あなたのお気に入りに手を出すなんて馬鹿な男もいたものね」
「……ああ、全くだな」
「で、その手紙の差出人は妙に紳士ぶったイタリアマフィア。そいつとキキョウは既に会ってるわ。あの様子じゃ何かされたんでしょうね」
「……」
ここまで言えば相手は誰か分かるだろう。
張は何か考えているようでサングラスをかけ直し黙ってしまった。
私はそれに構わず更に言葉を続ける。
「ミスター、あまりキキョウを苛めないでね。キキョウは何も悪くないんだから」
「分かっているさ。キキョウについてはすべて正直に話すお前の事だ、今回も本当の事なんだろう?」
「ええ。それに個人的にあの男には少し痛い目見てもらわないと気が済まないの。だから何とかしてちょうだいね?」
「ああ。──すまないな、時間を取らせた」
そう言いながら張はちょっとしたお小遣いを差し出してきた。
情報提供の報酬なのだろう。キキョウなら“金をもらうために話したわけじゃない”って断るんだろうな、と想像して口の端が上がったが生憎私はそこまで自分に厳しいわけじゃないのでありがたく貰っておく。
「じゃ、ミスター。今度は柔らかいベッドの上でゆっくり話しましょ」
「考えておこう。──彪、出せ」
そう言っていつも断るくせに。と心の中で悪態をつき、黒塗りの高級車が去るのを眺めた。
勝手に言ったことを怒るかな。と私にしては珍しく変な心配をしてしまい、らしくないと頭を振り、何を食べるかだけを考えその場を後にした。
アンナが出て行ってからも、私は貰った手紙を見ていた。
そこに書いてあるのは私が生まれ育った国の言語。──そう、日本語だ。
日本を発ってから約二年。
まさかこの街で日本語を目にするとは思わなかった。
しかも、私が動揺する一言を。
とりあえず落ち着こうと手紙を自室の棚にしまい、砂糖をいれたココアを飲む。
何回か口をつけ、飲み終わる頃にはどうにか落ち着きを取り戻した。
止まっていた刺繍の続きを再開しようとした途端、表のドアから三回ノックが聞こえて来たかと思うと聞き慣れた声が飛んでくる。
「キキョウ俺だ。開けてくれるか?」
「……張さん?」
今日は何も連絡を貰ってない。だが、あの声を聞き間違えるはずもない。
私は恐る恐るドアを開けた。
そこには相変わらずロングコートを羽織りサングラスをかけている張さんの姿。
「どうされたんですか?」
「なに、近くを通りがかったもんだからついでにな。入っても?」
「あ、どうぞ」
私は戸惑いながらも張さんを中へ招き入れた。
今までは私のところに来る時や誰かを向かわせた時は必ず連絡をしてくれていたのだが、何も連絡をせず急に来るのは初めてなので驚いた。
困ることはないので別に気にしないのだが。
「コーヒー飲まれますか?」
「いや、今日はいい」
これもまた珍しい。
張さんがここへ来るときは必ずコーヒーを飲むので断られるとは思わなかった。
未だに戸惑いつつも椅子を出し腰かけるのを見て私も椅子に座った。
「……」
「……」
しかし、どちらも口を開かず沈黙が落ちた。
どうしよう。
なんでこんな微妙な空気になっているんだ。私が何かしたのだろうか。
とにかくこのままじゃ埒が明かないと思い私から口を開き声をかける。
「──あの張さん」
「なんだ?」
「私、何かしましたでしょうか?」
心当たりはないのだが、私がまた認識違いを起こし何かをやらかしたのかもしれない。
だが、さっきも言った通り心当たりがないのでもう直接聞くしかないと思い切って尋ねた。
私の質問を聞いて、張さんはサングラスをかけ直し一呼吸おいてから答えてくれた。
「いや、お前が何かしたとかじゃない」
「何かあったんですか?」
思わず聞いてしまった。
まぁ、これで“お前には関係ない”と言われれば素直に引き下がろう。
そう思ったのだが、
「聞きたいのは俺の方だ。──単刀直入に聞こう。お前、ヴェスティに会ったのか?」
逆に質問された。
つい昨日の事なのに何故ここまで早く耳に入るのか不思議だ。
だが隠すことではないので事実を話そうと張さんからの質問に答えた。
「昨日、イエロー・フラッグで会いましたよ」
「その時何かされたか?」
何かされた、と聞かれればされたのだが私としてはあまりいい出来事ではなかったので言いたくはない。
「……あまり、いいことはされませんでしたね」
「何された?」
どう返答しようか迷いながら答えたので曖昧な事を言ってしまった。
だが、私のそんな迷いには構わず張さんは間髪入れずに質問してくる。
これはちゃんと答えるまで逃がしてくれなさそうだと諦め、何をされたのかを話そうと息を吐いてから口を開く。
「いきなり左手と頬にキスをされました。初対面でそういうことをされたので不快極まりませんでしたよ」
「──そうだな、全くもって不快だ」
私の返答を聞き張さんは一言そう言うと、椅子から腰を上げそのままこちらに近づいてきた。
座っている私を見下げていつものように余裕そうな笑みを浮かべながら言葉を続ける。
「お前の商売道具である腕だけでなく、可愛らしい顔にいきなり唾をつけるとは。紳士の風上にもおけねえな」
「可愛らしい顔については否定しますが、紳士の行動だったかどうかは確かに疑問を感じますね」
先程の微妙な空気とは違い、普段喋るような気楽さが出てきたことに安堵して私も微笑を浮かべながら答える。
「何を言ってる、お前は顔が整っているんだ。少しは自信を持ってもいいと思うぞ」
「そんなことないですよ」
「相変わらず謙遜ばかりする。──いつか、お前が俺のために粧しこんだ姿も見てみたいものだ」
そう言いながら張さんは微笑みがら私の左頬に触れてきた。
少し驚いたが、特に意味はないのだろうと思い触れられたまま返答する。
「機会が来れば、いずれはするかもしれませんね。その機会がいつ訪れるか分かりませんが」
「なら、今はその時を待つとするか」
「待っていても来るのか分かりませんよ?」
「いつ来るか分からないのがいいんじゃないか。賭け事と一緒だ、分かっちまったらつまらないだろ?」
「賭け事と一緒にするのは結構ですが、その賭けは当たらないと思いますよ。私がイカサマするかもしれませんし」
「俺はそっち方面は得意でね。そのイカサマを見破るだけさ」
「それは、見破られないよう注意しないといけませんね」
「ふっ、せいぜい気を付けることだ」
私は久々この人と世間話に花を咲かせている今の状況を無意識に楽しんでいた。
だがそんな私の気持ちは、この会話が終わっても未だに張さんの手が頬に触れている事で薄れていく。
……一体いつまでこうするのだろうか。
「あ、あの張さん。そろそろ離していただけると」
「……ああ、そうだな」
私が素直にやめてほしいと言うと、すんなりと頬から手を離してくれた。
そして少し下がっていたサングラスをかけ直し、再び椅子に座り足を組んで話し始める。
「お前と会うとどうも口が回っていけねえな。お喋りな男は嫌いか?」
「いえ、貴方との会話は割と楽しめていますよ。それに、そんな事を今更気にする必要はないですし」
「それもそうか。ならお言葉に甘えて、もう一つ俺の話を聞いちゃくれないか?」
私は「はい」と言って、そのまま張さんの話を聞いた。
「──では、また完成したら連絡しますね」
「ああ」
話の内容は服の依頼で、今度は替えのスーツを二枚と白のスーツを一着ということだった。
いつも黒ばかり着ているので白を頼むとは思わなかったが、この人の気まぐれなのだろうと自分で完結し特に何も突っ込まなかった。
張さんは話し足りないのか、本題を言い終えても椅子に座っており再び私に話しかけてきた。
「たまには“完成した”以外の連絡をもらいたいもんだな」
「たかが洋裁屋がマフィアのボスに気安く連絡できる訳ないでしょう」
「お前からの連絡ならいつでも歓迎するんだがな。一人寂しく飲んでる時に誘ってくれてもいいんだぞ?」
「そんなことで貴方を呼び出すほど私は馬鹿じゃありませんよ」
「つれないな」
「そういう立場でしょう、私は」
いくらこの人が誘いを待ってると言っても、酒に一杯付き合ってほしいというだけでマフィアのボスを呼び出す人間がどこにいるというのか。
少なくてもそれができる人間は私ではない。
「なら、俺から誘えば付き合ってくれるのか?」
「……まあ、その時抱えてる依頼量によって変わると思いますが、張さんからの誘いなら断ることはないですよ」
「そうか」
私の返答を聞くと張さんは満足そうに口の端を上げた。
そして椅子から腰を上げ、ポケットに手を突っ込みドアの方に向かっていったので私はドアを開けた。
部屋から出る前に、「ああ、そうだ」と張さんが声を出す。
「キキョウ、あの着飾り野郎と何を喋っても構わねえが“いいように”はさせるなよ」
それは、あのヴェスティという男には警戒しろということだと理解した。
昨日あったことを思えば警戒しない訳はないが、素直に「分かってます」と一言だけ返す。
「分かってるならいい。ではキキョウ、今度は一杯やりながら話そう」
そう言ったあと、彼はいつものようにロングコートの裾を靡かせて去っていった。
しばらく後姿を見送ったのだが、少し遠くなった頃にはなにやら煙草を吸っていたのが見えた。
やはりここで吸うのを我慢してくれていたのだと、張さんの気遣いを再び感じつつドアを閉め中に戻る。
──少し遅めの昼食を摂ろうと自室に戻り、サンドウィッチを食べながらさっきの張さんの行動を振り返っていた。
あの人と会って約一年が経つが、今日のようなことは初めてだった。
まず何の連絡もなしに来たこと。そして、頬に触れてきたこと。
連絡についてはサプライズだとか言って気まぐれで済むのだろうが、頬に触れてきたのには少し驚いた。
ああいうことをするような人ではないと思っていたから。
だけど、下心があってやった訳ではないと確証はないがそう思う。
なら何を思ってそうしたのかと聞かれると、困ってしまうのだが。
左頬に手をやり、そういえばあの男にキスされた場所だったと今更思い出す。
それが張さんが触れてきたのと関係があるかは分からない。
分からないことばかりだが、あの男とは違い張さんから触れられた時は何も嫌な思いをしなかった事だけは確かだ。
あとは考えても無駄だと結論付け、皿を片し作業部屋に戻った。
キキョウと話を済ませ、俺は近くに待たせてあった車に乗り事務所に向かっていた。
好みである味の濃い煙草を何本か吸っていると、運転している彪が話しかけてきた。
「大哥。何か機嫌を損ねるようなことがあったんで?」
「あ?」
「いつもより煙草の数が多いと思いまして」
そう言われ、確かにいつもより吸い殻が多いことに気づいた。
俺は無意識だったのだが、腹心のこいつからすればそう思うのだろう。
機嫌を損ねるようなことねえ……。
あるとしたらあれしかない。
「──あの着飾り野郎、とうとうキキョウに手を出しやがった。別に接触するのは構わねえが、その手の出し方が気に入らねえ」
「あの男、なにやらかしたんです?」
実際俺は見ていないから本当かどうかは分からないが、キキョウ本人がそう言ったのだから事実なのだろう。
「左の手の甲と頬にキスだとよ。全く、あいつはいつから絵本の中の王子様になったんだ。おとぎ話の住人ならそれらしく、馬で綺麗な王女様を見つける旅に出てほしいもんだ」
「その綺麗な王女様を見つけたからそういう行動をとったのでは?」
「もうすでに別の男に口説き落された後だってのにか? それはそれで物語は面白くなりそうだが、生憎俺はおとぎ話の住人じゃねえからな」
そんな会話をしている間にもまた一つ、また一つと吸い殻が増えていた。
それが俺の苛立ちを表しているようにも見えたが、そんなことはどうでもいい。
問題は、あいつがわざわざ人目につく場所でそういう行動をとったということだ。
まるで、“いつでも盗ることはできる”と言わんばかりに。
高級品を自ら意図せず作り出すあの手は尊敬に値する。
かく言う俺も尊敬している一人であり、その手は俺の手の内にあるモノだ。
それがあの男に汚された。
それは許しがたいことであり、これ以上キキョウに変なちょっかいを出されるのは気分が悪い。
ま、あいつの行動をキキョウが「不快」だと言ったのは愉快だったが。
俺はまた新しい煙草を出しライターで火をつけ、ため息のような息とともに煙を吐き出した。
今回はアンナと張さんのキキョウに対する思いの変化を書きました。
最初と今とでは少し違うことが表現できてたらいいなあ…と。