──腕が折られてから一ヵ月。左頬の腫れも引きガーゼはとっくに剥がされ、あとは生活に馴染みつつあったギプスのみとなっていた。
そして今日、ついに腕を固定していたものが外されいつもより軽くなった左腕を自由に動かしてみる。
「痛みはある?」
「まったくありません」
左手を握ったり開いたり、腕を曲げてみたりしてみる。久々に動かすためなんだか変な感じだが特に問題はない。そのことに安堵してたまった息を吐く。
「ならよかった。今の状態なら帰っても大丈夫よ。大哥には私から伝えとく」
「本当にありがとうございました。リンさんのおかげです」
「どういたしまして。──じゃ、アタシはこれで。いつかまたゆっくり飲みましょ」
「その時は奢らせてくださいね」
この一ヵ月、ずっと面倒を見てくれた医者のリンさんは「楽しみにしてるわ」と言い残して部屋から去っていった。
腕を折られ高熱を出してしまった時、リンさんの看病のおかげもあって三日後には完全に熱は引いており、自分の家に帰ろうとしたのだがリンさんと張さんの二人に説得された。
『──私はもう大丈夫です。だから帰らせてください』
『ダメだ。腕が完全に治るまではここにいてもらう』
『何でですか』
『俺はお前のパトロンだ。なら最後まで世話するのは当然だろ?』
『もう十分お世話になりましたし、見ての通り大丈夫ですよ』
『キキョウちゃん。キキョウちゃんの大丈夫は大丈夫じゃないからその言葉の信頼度ゼロよ。それにまた無理して動かれたら腕の治りが遅くなる。アタシが面倒見た患者が中途半端な治りだって噂されて信頼が下がるのは避けたいの。だから完治するまで絶対ここにいてもらうわ』
『しかし』
『キキョウ』
『キキョウちゃん』
二人の有無を言わさない空気と眼差しに負け、大人しく腕が治るまで用意してくれた隠れ家でお世話になることになった。
説得された時『あんな威圧的な空気を出さなくてもいいじゃないか』とぼやきそうになったが、更に何か反撃を食らいそうなので口に出すことはしていない。
そんなこんなで大人しく待っていた一ヵ月。とうとう腕も完治し帰ってもいい許可が出た。
とはいっても張さんからはまだ許可は出ていないので、一応部屋で大人しくしておこう。
ちゃんとお礼も言っていないのに勝手にいなくなるのは失礼千万だ。
何もしていないのは落ち着かないなのでとりあえず左腕を動かし、いつもと違う感覚を感じながら『はやく服を作りたい』と心の中で呟いた。
──リンさんがいなくなってから三時間ほど経った頃。
左手の感覚を取り戻そうと軽く動かし続けていると、部屋の外から足音が近づいてくるのが聞こえた。
その音を聞いてドアノブに手をかける。
ドアを開けてみると、真っすぐこっちに向かって来ている人物が目に入った。
向こうも私の姿を捉えると、口の端を上げながら歩みを進める。
その人は部屋まであと一歩というところで足を止め、愉快そうな声音でこちらに話しかけた。
「腕が治るまでちゃんといい子で待てたな。偉かったぞ」
「……もし待ってなかったらどうする気でしたか?」
「そりゃ、きついお仕置きをするつもりだったさ。俺としてはそっちでもよかったんだが、お前が聞き分けいいおかげでそれは叶わなかった」
「それは残念でしたね」
勝手に出て行ったら何をされていたのやら。
どんな仕置きをするつもりだったのかは聞かない方が身のためだろう。
きっと碌な事じゃない。
張さんは部屋に入ることなくそのまま踵を返し一言発した。
「来い、家まで送る」
「……それも、貴方の“世話”のうちの一つですか?」
そう疑問を投げかけると肯定するかのように口の端をニヤリと上げる。
一人で帰るつもりだったのだが、どうやら今回も拒否権はなさそうだ。
拒絶することを諦めた私の態度を見て、ニヤついた顔のまま口を開く。
「言ったろ? “最後まで世話する”ってな」
そう言い放ち再び歩みを進める。
ロングコートの裾を靡かせている背中の後を追うように、一か月過ごした部屋を後にした。
『お前の家のことは気にするな』
家の様子を見たいと再度頼み込んだ時にそう言われたことがあった。
ただ本当にこの一ヵ月一度も帰っていないのでどうなっているのか心配していたのだが、それは杞憂に終わった。
壊れていたドアノブは修繕されており作業場も特に荒れている様子はない。
以前と違うのは、あの男の右目から垂れた血が床に染みついていることくらいだ。
これは後で軽く拭いてカーペットか何かで隠せばいいので何も問題ない。
ここまで面倒を見られているとなると、感謝より先に申し訳なさが勝ってしまう。
一ヵ月ぶりに帰ってきた部屋を一瞥した後、ドアの近くで佇んでいる張さんに向き直り頭を下げる。
「張さん、ここまでお世話してくださり本当にありがとうございました。また、多大な迷惑をお掛けしてしまったことを心からお詫び申し上げます」
「おいおい硬いな。俺とお前の仲だ、もう少し気楽に」
「日頃からお世話になっている貴方にここまでしていただいてそんな態度はとれません。──どうかここは私の言葉を聞いてくださいませんでしょうか?」
「……」
私の頑固としてこの態度を解かない姿勢に張さんは何も言わなくなった。
その無言を肯定と受け取り、言葉を続ける。
「今回の大量殺人はあの男が引き起こしたこととはいえ、私が元凶であることは事実です。だからあの日、この場所で貴方に殺されることも覚悟しておりました」
そう、私は殺されても仕方なかった。
私の腕を手に入れるために一連のことを起こしたと、あの男はそう言った。
なら例えどんな幼稚な理由であれど、私の存在が原因となったのは事実。
この街の支配者の一人であるこの人が、行動を起こした人物はもちろん、元凶である人間を許すわけがない。そう思ってた。
「ですが貴方は、私を撃つどころか生かしてくれました。……洋裁屋にとって命ともいえる腕を守ることすらできなかった私を」
「……」
私は洋裁しかできない人間だ。
そんな人間の腕が使い物にならなくなれば、生かす意味も何もない。
「その腕が使い物にならなくなった時点で私は無価値な人間となっていました。貴方が認めてくださった洋裁の腕を振るうこともできなくなったあの時の私は、ただのお荷物でしかなかったはずです」
ずっと考えていた。
どうして私は生かされているのか。
気まぐれなのか、それともまた何か別の思惑があるのか。
──だが、そんなことは最早どうでもいい。
「そんな私を、貴方は生かしてくれました。どんな真意があれど、それが私にとっての全てです」
そう、この人が何を思おうと私は
それは揺るぎない真実。
なら、今私がこの人に伝えるべき言葉は謝罪と感謝。そして──
私は下げていた頭を上げ、再び張さんの姿を目で捉え言葉を続ける。
「貴方によって生かされたこの命と腕は、もう貴方の物です。──だから」
サングラスの奥にある瞳を真っすぐ見つづける。初めて出会った時のように、ただひたすら真っすぐに。
そして、微笑みながら言い放つ。
「私を不要だと思ったら、いつでも殺してください」
私を生かすも殺すもこの人次第。どんな思惑があれど、その事実からはもう逃れられない。
後悔しないために行動する私を問答無用で殺していいのも、洋裁屋としての私を殺していいのもこの人だけだ。
「……はっ、何を言うかと思えば。やれやれ、どうしたもんか」
私の言葉を黙って聞いていた張さんが、頭を掻くような動作をしながら呟いた。
佇んでいた場所から足を動かし、真っすぐこちらに歩みを進めながらサングラスを外して素顔を露にする。
私の目の前まで来たとき、愉快でたまらないと言わんばかりに顔をニヤリとさせた。
「一体どこでそんな殺し文句を覚えたんだ」
「口説いてるように聞こえましたか?」
「ああ、今ここで口づけをしたいほどにそそられたよ。──お前はどこまで俺を愉しませれば気が済む?」
「愉しませるために言ったつもりはありません。ただ思ってることを言っただけです」
「なら、その真摯な気持ちには真摯に返さんとな」
言葉の続きを黒くて深い瞳から視線を逸らさずに待つ。
やがて視線を合わせたまま、武骨な手が私の左頬に触れ親指で撫でてきた。
少しこそばゆかったが何も言わずそれを受け入れる。
弧を描いている口がゆっくりと開かれ、低い声が耳に響く。
「もしお前が俺の行く道の邪魔になった時は、俺がこの手で殺してやる」
その言葉を聞いて、心なしか更に口の端が上がるのを感じていた。
私はその顔を抑えることなく言葉を返す。
「きっと、貴方にならいつ殺されても後悔はないですよ」
「まったくお前は……あまり煽ると本当にキスしちまうぞ?」
「私の正直な気持ちです。というか、どこで煽りを感じたんですか」
私はただ心から思っていることを言っただけだというのに。
「ここで引き下がるのは、男じゃねえな」
「え?」
何か呟いたような気がしたが小声だったのでよく聞き取れず思わず聞き返した。
すると頬を撫でていた指の動きが止まり、男性特有の大きい手の平が左頬を包み込み顔の向きを固定される。
そのまま近かった顔が更に近づき、何をされるのだろうかと身構えている内に前髪を搔き上げられた。
──直後、感じたのは額に柔らかい何かが当たっている感触。
何をされているのかは一瞬で理解できた。
だが、なぜこんなことをこの人がしているのかが分からず、頭が真っ白になり体が硬直する。
唖然としている間に額から柔らかい感触が離れ、目を細め満足げな表情の顔が自身の目に映りこむ。
「──あまり男を煽ると、これ以上の事されちまうぞ?」
目と鼻の先で発せられるその言葉にハッとする。
煽ったつもりは全くないというのになぜそんなことを言うのか。
というか、今の行動に気恥ずかしさの欠片もないのだろうか。
色々疑問が浮かび上がったが黙っているのも何なので、とりあえず何か返そうと口を開く。
「……貴方は煽られると、いつもこういうことされるんですか?」
ああ、何を聞いているんだ。馬鹿なのか。そんなこと聞いてどうするんだ私。
「さあ? 俺を煽るやつは滅多にいないからな。なんなら今試してみるか?」
「……遠慮しておきます」
心の内の嘆きを表に出さないようなんとか平静を装う。
こんな状態でも会話を成立させている私をよくやっていると褒めてほしい。
やがて頬を包んでいた手の平が「そいつは残念」と言葉とともに離れる。
言葉とは裏腹に口の端が上がっていてご機嫌の様子だった。
何故かは知らないが。
外していたサングラスを再びかけ、あの黒い瞳を隠してから再び言葉が発せられる。
「久々の我が家だ、ひとまず今日はゆっくりしとけ。近々一杯付き合えよキキョウ?」
「では、やるべきことが終わってからご一緒させてください」
腕が治った今、ヴェロッキオさんの服を作らなければならない。
それは張さんも了承済みだ。
「できるだけ早く終わらせてくれよ。で、お前の時間が空いたら誘ってくれ。特別にそっちの都合に合わせてやる」
「分かりました」
張さんは最後まで愉快そうな顔を浮かべながら、ロングコートの裾を靡かせて部屋から去っていく。
その背中をしばらく見送り、ドアを閉める。
鍵をかけた後、その場で力が抜けたようにしゃがみ込んだ。
「はああああ」
顔を両手で覆い、溜まっていた息をすべて吐き出す。
顔の熱と早まっている心臓の鼓動を抑えようと深呼吸を繰り返した。
いや、別にあの人に恋心を抱いてるからドキドキしてます。とかそんな少女チックな事ではない、断じてない。
私がこうなっている原因は自身の失言だ。
何が『煽られると、いつもこういうことされるんですか?』だ。
いくらなんでもあれはない。いかにも「期待しています」と言っているのと同義だろう。
恥ずかしすぎる。
ああいうことに慣れていないからとはいえ動転しすぎだ。
思えば、あの男からキスされた時はここまでならなかった。あの時は怒りはあれどここまで動転してはいない。
なら、今回だってちゃんと冷静になって言葉を発することもできたはずなのだが、多少気を許した相手だと違うのだろうか。
しばらくうずくまり気持ちを落ち着かせた後、再び息を吐き立ち上がる。
どうして自分があんなことを口走ってしまったのか分からない。
これは考えてもどうしようないと思い、考えるのをやめ、ひとまず足を動かし一か月ぶりの自室に向かう。
顔の熱はその頃にはすっかり引いていた。
今回は少しキキョウと張さんの関係が変わる話。