――久々に立て続けに舞い込んできた複数の依頼を昨日終わらせたおかげで、今日は特に予定もない。
なので。久々に暇つぶしと練習もかねてカサブランカが二輪刺繍されたハンカチを作っている。
何もない時は、こうやって刺繍をするか自由に服を作って時間を潰すのが習慣だ。
時計を見ると針が13時を示している。
手を止めて昼食を摂ろうと自室に向かおうと腰を上げた。
そのまま作業場を出る一歩手前で、表のドアを叩く音が三回。
来客を告げるその音に『新たな依頼だろうか』と自室に向かっていた足を止めた。
こういう時は敢えてこちらからは声をかけず、一体何の用でここに来たのかドアの向こうにいる人物から発せられるまで待つと決めている。
だから今回も用心深く待とうと身構えた。
「キキョウちゃんいるー?」
瞬間飛んできたのは、聞きなれた呼び方とどこか軽さを含んでいる女性の声。
その呼びかけに帯びていた緊張を解き、足を動かしドアを開ける。
そこには、切れ長の目、真っ赤な唇、長い黒髪をポニーテールでまとめ、灰色のキャミソールに足のラインがはっきり分かるジーンズという背の高い細身の女性が立っていた。
「相変わらず可愛いわねえ、ほんと」
私の顔を見るなり開口一番ニコやかにそう言葉を発した女性に言葉を返す。
「挨拶代わりに毎回“可愛い”っていうのはやめてくださいよ」
「いいじゃない、アナタ可愛いんだから」
「……それで、どうされたんですかリンさん」
彼女の名前は“
三合会に雇われている闇医者だ。
その腕は確かなようで、三合会以外からもよく依頼が来るらしい。
私もリンさんに一時期世話になったことがあり、今でも仲良くさせてもらっている。
が、顔を合わせるたびに『可愛い』と言ってくるのは勘弁してほしい。
「フフッ、今日は暇だからキキョウちゃんをデートに誘おうと思って」
「デート? それはまた急なお誘いですね」
リンさんはたまにこうして時間ができたりすると私を外へ連れ出そうとしてくる。
腕のいい医者として割と忙しいからか気分転換があまりできないらしい。
だから『可愛い女の子とお出かけ』することによって普段のストレスを発散している、と彼女自身が言っていた。
「アタシが忙しいの知ってるでしょ? もしかしてこの後予定があったりする?」
「いえ、そういうわけでは」
「ならよかったわ! じゃあ早速付き合ってくれる?」
優しく声音で聞いてくる表情はとても柔らかいものだった。
断る理由もなく、その笑みにつられるように口の端を上げながら肯定の言葉を投げかけると、柔らかい微笑みに嬉しそうな表情が加わった。
――疲れた。本当に疲れた。
久々のお出かけだったのか、妙にテンションが高いリンさんにデパートやら普通の市場やら連れまわされること七時間。
職業柄もあり、普段家に籠りきりの私にとって長時間外を歩き回るのは相当疲労が溜まる行為だ。
そして、リンさんはテンションが高くなると走ったり、競歩か!と思うほど異様に歩調が速くなったりする。
「リ、リンさん……」
「なあに?」
「もうそろそろ帰りませんか? ほら、もうすぐ日も暮れますし」
私は運動もしないので当然体力がなく、これ以上歩き回るのは少ししんどい。
なので、申し訳ないが出かける前と変わらないテンションで前を行くリンさんに疲れきった声で“お出かけの終了”を提案する。
「そうねえ。――じゃあ、あと一軒だけ付き合ってくれる?」
まだあるのか!?
……と叫びそうになったが寸でのところで言葉を飲み込む。
「……分かりました」
「ありがと。これで本当に最後だから」
私の憔悴しきっている顔を見たからか、子供をあやすような言葉を投げかける。
「じゃ、行きましょうっ」
そう言ってリンさんは私の腕を掴み、足取りが重い私を引っ張るように再び歩き始める。
抵抗せず、ただひたすらリンさんに連れられるまま私も足を動かした。
「――おいロック。いつになったらそのだっせえホワイトカラーを脱ぐ気になるんだよ?」
「何回も言ってるだろ。これが一番落ち着くんだよ」
「この際だ、どうせなら仕立ててもらえよ。お前が気になってしょうがないキキョウさんによ」
「うるさいな、いいんだよこれで。あと彼女のことは気になってない」
イエローフラッグという酒場で、俺は仕事仲間の一人であるレヴィとカウンターで飲んでいた。
俺がラグーン商会に入ってからもうそろそろ3か月。銃声が毎日響き、死体が身近に転がっているこの街の雰囲気にも慣れつつあった。
その証拠に最初イエローフラッグに来たときは世紀末の酒場かと疑ったが、今では何も不思議に思わなくなっている。
レヴィは俺のあしらいをものともせず、更に言葉を投げかけてきた。
「は、よく言うぜ。ここに来るたび辺りを見渡して。まるで“人を探してる”ように見えるのはアタシの気のせいかい?」
「……気のせいだよ」
いや、気のせいじゃない。
レヴィの言う通り、俺はここへ足を運ぶたびに常連だと聞いた“ある人”がいないか周りを見ていた。
――その人と会ったのは丁度一か月前。
仕事もなく暇を持て余していた俺とダッチ、ベニーが事務所でゆっくりしていると、レヴィが急に“イエローフラッグ”へ行こうと言い出したことがきっかけだった。
内容はある人に“勝負”を挑むというもの。
二挺拳銃と呼ばれ、腕の立つレヴィが勝負を自ら挑みに行くほどなのであればどれほど強い人なのだろうと思ったが、どうもそういう物騒な勝負ではないらしい。
話を聞けば、その人は洋裁屋で武器も権力も持っていない。
だが、この街の支配者たち全員から殺されかけたにも関わらず生き延びている。
どこの映画の話だと思ったが、ダッチやベニーも否定どころか肯定する始末。
これだけでも驚いたというのに、更に驚く事実を聞かされた。
それは、俺と同じ日本人だということ。
武器もない。権力もない。挙句の果てには遥々平和な島国からやってきた。
この共通点が揃い“会って話してみたい”、“この街で唯一話が合うかもしれない”という思いが募るのは自然な事だった。
そしてイエローフラッグのカウンターでその人を待っている間レヴィと話をしていると、後ろから声をかけられた。
レヴィが話してくれた5年前に起きた“エセ紳士の暴走”についての話が気に食わなかったらしく少し不機嫌気味な声だったが、どこか柔らかさを帯びていたように思う。
待ちに待った同国人の顔を拝もうと声の方向に振り向くと――
そこにはツヤのある黒髪、どこか引き込まれそうなほど純粋な黒の瞳をした日本人の女性が立っていた。
正直、同じ日本人でもとんでもない派手な人間なのではないかと思っていたのもあり拍子抜けだった。
そのせいか挨拶を交わすことを忘れ、彼女から声をかけられてハッとする。
俺の隣に座った彼女が何も注文していないにも関わらず、酒場の店主はさも当たり前のように『Jack Daniel’s』と書かれたボトルと氷の入ったグラスを無言でカウンターに置いた。
『そういえばダッチがここの“常連”だと言っていたな』と、一連の流れにも納得していた時、彼女は酒を注いだ自身のグラスを徐に差し出してきた。
その行動の意味を汲み取り、響きのいいグラスの音を奏でた後彼女が美味しそうに酒を飲む。
その様があまりにも穏やか過ぎて、俺は挨拶の仕方を忘れたかのようになんと声をかけたらいいか分からなかった。
なぜ自分がこんな風になっているのか分からなかったが、俺のヘンな様子に気を遣ったのか彼女の方から自己紹介してきた。
“キキョウ”
花の名前でもあるその単語を、脳にしっかり焼き付けてから自身も名乗ろうとするが緊張して言葉が途切れ途切れになってしまう。
自分でも分かるほど明らかな挙動不審さに、キキョウさんは俺が英語が苦手だという考えに至ったらしく日本語で話かけてくれた。
親しみある言語のおかげか少し緊張が解け、やっとまともに言葉を発する。
自己紹介を済ませたところで、思わず想像していたのと違う、と口走ると苦笑気味に「慣れてますよ」と返された。
そのあと、ここへ来た理由を問われ正直に伝えたところ“日本へ帰らないのか”という問いをされた。今のところ予定はないと伝えると、キキョウさんはただ「そうですか」と一言返し、それ以上は何も言わず酒に口をつけていた。
その時妙な間が空いていたが、それには構わず俺も純粋な疑問を彼女にぶつけたところで、本来何の用事で来ていたのかを思い出させるように、レヴィが横から声をかけたことによって俺とキキョウさんの世間話は終了した。
あの後俺の中にはまた話したいという思いが残り、イエローフラッグへ足を運ぶ度に常連である彼女が来ていないか無意識のうちに探すようになった。
――それをレヴィにとっくに気づかれていて、指摘されたことがなんだか気恥ずかしく思わず気にしていないと告げる。
「なんだよ、別に恥ずかしがる事でもねえだろ。なんならこのレベッカ姉さんがお目当てのキキョウさんに会わせてやろうかあ?」
「だから気になってないって言ってるだろ。いい加減しつこいぞレヴィ」
ニヤニヤとこっちを見ながら「それは悪うございましたね」とほざく仕事仲間に心の中で舌打ちしながら、俺もグラスの中の酒を一気に飲み干した。
「――レヴィ? レヴィじゃない!?」
その時、妙にテンションの高い女性の声がレヴィの名前を呼んだ。
彼女も唐突に自分の名前を呼ばれたことに「あ?」と声が飛んできた方向を見る。
俺もほぼ同じタイミングで後ろを振り返り、声の主が誰なのか目で確かめる。
そこには、切れ長の目に長い黒髪をポニーテールでまとめた背の高い女性が満面の笑みを浮かべ目をキラキラさせてこちらを見ていた。正確にはレヴィの方を。
中国系の顔つきをしているその女性を見た瞬間、レヴィが「げッ!」とあからさまに嫌悪するような声を出す。
そんな反応を意にも介さず、女性は突然走り出し熱いハグをレヴィに食らわせた。
「久しぶりー!! 会いたかったわアタシの“二挺拳銃ちゃん”!!」
「リ、リン! なんでてめえが……!」
「アタシだってここでお酒飲みたくなることくらいあるわよっ。それにしてもまたグラマラスになったんじゃない!? ねえそうでしょ!」
「くっつくな! 離れろ!!」
「なんでそんなこと言うのよ! いいじゃなーいアタシとアナタの仲でしょ!」
「気色ワリぃこと言うなこのビアンが!!」
「もう冷たいわねー。前はもっと素直……って、あら?」
俺は一体何を見せられているのだろうか。
唐突に目の前で顔が整っている方である女性同士のやり取りを見せられて唖然としていると、リンと呼ばれた女性がやっと俺に気づいた。
瞬間、嫌悪感を前面に出しているレヴィから罵声を浴びせられても尚崩さなかった満面の笑みが消える。
「――ねえ二挺拳銃、図々しくアナタの隣に座ってるこの男はどちら様かしら?」
先ほどの明るく上機嫌な声とは正反対の冷めた声と鋭い視線。
隠されることもなく向けられる明らかな敵意に思わず委縮する。
「そいつはうちの新入りだ。噂ぐらい知ってんだろ?」
「ああ、そう。アナタが。……ふうん」
「え、えっと……」
こちらをじっと見つめる女性の鋭い視線にたじろいでしまう。
「噂通りってところね。それで、レヴィとはどういう関係なのかしら?」
「ど、どういう関係……といいますと?」
「質問を質問で返さないで頂戴。さっさと答えて」
冷たく言い放たれた言葉に理不尽を感じたが、口答えを許さない雰囲気というのもあり何が正解か分からないが、比較的平和に終わらせられるであろう言葉を出す。
「ただの仕事仲間、です」
「レヴィ?」
「そうだよ」
「……そう。ま、いいわ」
何を疑っているのか分からないが、俺とレヴィの返答を聞いてひとまず納得したようだ。
なんなんだ、一体。
「じゃ、二挺拳銃ちゃん! 折角だから三人で飲みましょう!!」
また上機嫌になった彼女がレヴィを抱きしめながら飲みの席を共にしようという提案をしてきた。
正直、理不尽にもほどがある挨拶をしてきた相手と飲みたくはない。
彼女の言葉に「あ?」とレヴィがなにやら意外そうな声を出す。
「珍しいな、お前が男を飲みに誘うなんざ」
「え、何言ってるの。三人っていうのは」
「リンさん、あまり彼をいじめないであげてください」
突然背後から飛んできた声が、リンという女性の言葉を遮った。
耳に響いたのは一か月前にこの場所で聞いた柔らかい声。
バッと声の方へ振り向くと、呆れながらこちらを見ている女性が立っていた。
それは、俺がこの一か月無意識のうちに探していたその人で。
見た瞬間、俺の中には嬉しさのような感覚が巡る。
――ああ、やっと会えた。
――――――――――――――――――――――――
「最後の一軒」と言ってリンさんが連れてきたのはイエローフラッグ。
リンさんはもっと落ち着いた雰囲気の酒場を好んでいるはずなのだが「急なお誘いに付き合ってくれたお礼」と、デートの締めとしてここを選んだらしい。
これが彼女なりの気遣いなのだろうとその言葉に甘え、日が沈んで間もないにもかかわらず既に賑やかな雰囲気に包まれている酒場へと足を踏み入れた。
「相変わらず賑やかねえ」とリンさんがあたりを見渡していると、ふとその行動を停止させある一定の方向を凝視していた。
目線の先を追っていくと、カウンターに見覚えのあるタンクトップに長髪の赤毛の女性と白シャツで黒髪の男性の後姿が。
あれは――レヴィと岡島さん?
あの後姿を見るのは一ヵ月ぶりくらいか。
レヴィもよくここへ飲みに来る常連の一人。恐らく、岡島さんはレヴィの一杯に付き合わされて一緒にいるのだろう。
「……レヴィ? レヴィじゃない!?」
リンさんは嬉しそうな声を上げ、いつの間にか勢いよく走りだしレヴィに思いっきり抱きついた。
「久しぶりー!! 会いたかったわアタシの“二挺拳銃ちゃん”!!」
「リ、リン! なんでてめえが……!」
リンさんはレヴィの事も相当可愛がっているようで、会える頻度が少ないためかその時間を埋めるようにこうして毎回熱い抱擁を食らわせている。
レヴィはその挨拶がよほど気に食わないらしく、抱きつかれるたび引きはがそうともがくがリンさんの執拗なひっつきが勝り離すことができない。
ということを何十回も見ているので、私としては見慣れた光景。
だが、隣に座っている置いてけぼりの岡島さんはそうではない。
まさしく開いた口が塞がらないようで、驚きで唖然としている。
レヴィとの攻防を繰り返していたリンさんが、その岡島さんにようやく気付き「…あら?」と動きを止めた。
「……ねえ二挺拳銃、図々しくアナタの隣に座ってるこの男はどちら様かしら?」
レヴィに抱き着いていった時のテンションを大幅に下げ、鋭い目線と冷たい声音を岡島さんへ送っている。
――ああ、また始まった。
これはリンさんの悪い癖でもある。
実はこの人、相当な男嫌いなのだ。
医者の仕事を請け負うときも、男に対しては報酬が高く、大金を持っている人物しか治療しないが、女性は格安で請け負うこともある。
例として『もし女性が頬に傷、男性が刃物で刺されている現場に遭遇したらどっちを先に手当てするか』という質問をしたら、一瞬の躊躇なく『女性』と答えるような医者。
それが理由でついた呼び名が「闇医者ビアン」。
その呼び名にリンさんは「ただ男が嫌いなだけ」と言っているが、あまり気にしてはいないようだ。
そんな男嫌いが岡島さんを例外にして敵意をむき出しにしない訳もなく、通常運転でレヴィの隣に座る同国人へ理不尽な態度を取っている。
何も知らない側からすれば、初対面の人に何故こんな理不尽を味わわされているのか理解に苦しむのが普通だ。
「じゃ、二挺拳銃ちゃん! 折角だから三人で飲みましょう!!
「あ?珍しいな、お前が男を飲みに誘うなんざ」
ひとまず岡島さんへの尋問を終わらせたリンさんがまた元のテンションに戻り言葉を発する。
誘いの言葉に岡島さんは複雑そうな顔を見せた。が、リンさんが男を飲みに誘うのは珍しいどころかありえない。
だからきっと、その三人の中に岡島さんは含まれていないはずだ。
ここまでくるともはや不憫でしかない。
「え、何言ってるの。三人っていうのは」
「リンさん、あまり彼をいじめないであげてください」
同じ日本人として少しくらい助け舟を出そうとリンさんの言葉を遮ると、岡島さんが勢いよくこちらを振り向いた。
私の姿を捉えた途端に少し嬉しそうな顔を浮かべたのは、きっとこの状況から脱せるという安心感から来ているのかもしれない。
その期待に応えられるか自信はないが何もしないよりはマシだろう。
「男性に対してそういう態度をとるのは貴女の悪い癖ですよ」
「あら、アタシは少しお話してただけよ?」
「私の目には理不尽に当たっているようにしか見えませんでしたが」
「しょうがないじゃない。アタシの二挺拳銃ちゃんの隣に見知らぬ男がいたら警戒心を向けるのは当然でしょ?」
「貴女のは警戒心じゃなくて殺意に近いですよ」
「随分この男に優しいのね。同じ日本人だから?」
「同郷の者と仲良くしたいと思うのはいけませんか?」
そう言葉を発しながらなぜまた岡島さんを睨んでいるのか。
おかげで嬉しそうな顔が引っ込みすっかり委縮してしまっている。
「おいリン! てめえいい加減離せ!!」
リンさんと押し問答していると、未だ体に巻き付いている手から逃れようと再びレヴィがもがき始めた。
その抵抗になぜか微笑みを浮かべ「あらあら」と言いながら逃がさないよう上手く絡んでいく。
この人、実は医術以外にも何か極めているのではないかと思うのはこれで何度目だろうか。
「しつけえんだよこのクソビアン!」
「いいじゃない、たまにしか会えないんだし! はいぎゅうーッ!」
「ぐえッ」
カウンターでドタバタとしている二人に苦笑を洩らし、その隣で困惑顔を浮かべている岡島さんに声をかける。
「お久しぶりです、岡島さん」
「あ……お久しぶりです」
こういう時は彼も気楽に話せる日本語の方がいいだろう。
そう判断し、あの時のように故郷の言語で話しかける。
「彼女……リンさんは男性に対して少し厳しい人でして、男性と話すときはいつもああいう態度になるんです。だからあまり気になさらないでください」
「はあ」
あんな態度を取られた後では気にしない方がおかしいが気休め程度にはなるだろう。
それが功を奏したのか、先ほどよりは困惑が薄れた表情に変わっていった。
「……あのキキョウさん、俺英語でも大丈夫ですよ?」
「え、そうなんですか? 私はてっきり」
流暢な英語を彼の口から聞かされ少し驚いた。
苦手じゃなかったのか……。
「すみません、誤解させるようなことを」
「いえいえ。――お隣いいですか?」
「あ、どうぞ」
きっと、あの時は同じ日本人ということに驚いただけだったのだろう。そう結論付けあまり気にしないことにする。
一言断りをいれてから岡島さんの隣に腰かけると、いつものようにバオさんがすかさずJack Daniel’sと氷入りのグラスを出してくれた。
「すみませんバオさん、騒がしくて」
「いつものことだ。おめえさんが気にすることじゃねえ」
やはり常連に優しいなこの人は。
気前のいい店主の心遣いに口の端を上げ、グラスの中に酒を満たしていく。
あの時のようにグラスを差し出すと、彼も自身のグラスを持つ。
「乾杯」
声を揃え、グラスのぶつかる音を打ち鳴らしてお互い酒を喉に通す。
「どこ触ってんだてめえ! クソ!!」
「ただのスキンシップじゃなーい。いいでしょ別に?」
「ふざけんな!」
静かに飲む私たちとは反対に、隣の美人二人は未だに激しい攻防を続けている。
その様をちらりと見ながら岡島さんは言葉を発した。
「ああいう人に躊躇いもなく、あんなに意見言えるなんてすごいですねキキョウさん」
「リンさんとは少々気心が知れてますから。ちなみに、ラグーン商会の皆さんもその中に入ってるんですよ」
「ええ、そんな気がします。……あの、キキョウさん。」
「なんですか?」
「失礼な話なんですが、キキョウさんは俺よりも年上だと聞きました。なので、その……敬語じゃなくても」
日本で育ったからか、年上から敬語を使われるのはあまり慣れていないのだろう。
私としては、そこまで親しくなっていない人に対しては敬語を使っているのだが、まあ彼がそれを嫌だというなら仕方ない。
「分かった、じゃあここからはこの口調でいくね。名前も呼び捨てで?」
「ええ」
「分かった。じゃあ、改めてこれからよろしくね岡島」
「はい」
彼の要望通り敬語を外すと、岡島さん…岡島は安堵したようで微笑んだ顔を見せた。
さっきまでの話し方がそんなに嫌だったのか…。彼も割と変わり者のようだ。
すっかり氷の冷たさが広がった酒に口をつけ、大好きな味を堪能する。
口内に広がる風味を楽しんでいると、岡島が恐る恐るといった感じで話しかけてきた。
「――キキョウさん」
「なに?」
「マフィアをパトロンにしてるって本当なんですか?」
この街では周知の事実なのだが、彼はまだここへ来て日が浅い。
私を“普通”だと評価する人間にとっては信じられないことなのだろう。
「うん、そうだよ。それがどうしたの?」
「いやその、抵抗はないんですか?」
「最初はあったよ。洋裁屋を営む前は、ひっそりと生きていこうって決めてたから」
「ならどうしてマフィアをパトロンに?」
「自分のため。それ以上もそれ以下もないよ」
彼は相当相手に対して関心が高いらしい。
この街では他人に深く突っ込まないのが常識でもあるのだが、それは今から叩き込まれていくのだろう。
一刻も早くそのルールが彼の身に染みてほしいものだ。
「キキョウさんは、日本へ帰らないんですか?」
「……」
私の名を呼んだ後に続いた言葉に思わず目を見開いた。
まさかここでそれを聞かれるとは思っていなかった。
――いや、考えてみれば彼が疑問に抱くのは当然か。
「私も、帰る予定はないね」
「なぜですか?」
「この街の居心地がいいから。それじゃいけない?」
「でも」
「岡島」
これ以上深入りされるのは正直遠慮願いたい。
私は何か言いかけた岡島の言葉を遮り、焦げ茶色の瞳を見つめる。
「私と君の関係は、今はただの顔見知り。……私はただの顔見知りに深入りされるのは好きじゃない。だから、今日は勘弁してくれないかな?」
「……すみません」
「分かってくれて嬉しいよ」
ここまで言っても引いてくれなかったらどうしようかと思ったが、素直に謝ってくれたのでまあ良しとしよう。
氷が次第に解け始め、少し味の薄くなった酒に口をつける。
――折角の酒が好みの味から少し遠ざかっていた。
あの街に話が通じそうな人間がいるかもしれない時の安心感ってすごそうですよね。