「――さ、キキョウちゃん。遠慮しないでドンドン飲んでね」
「ありがとうございます。それにしても、よくこんなに溜め込んでましたね」
「飲もうとは思ってたんだけど最近その暇がなくてね。まあアタシの職業柄この街で暇がある方が珍しいんだけど」
「お疲れ様です。あの、本当にいただいていいんですか?」
「いいのいいの! この量じゃどうせ一人で消費できないし」
立て込んでいた依頼をすべて終わらせ、仕事終わりの一杯を飲むためイエローフラッグに繰り出そうとしていた時の事。
片づけを終えいざ行こうとした瞬間、携帯から音が鳴り響いた。
電話に出た瞬間、もしもしと言い切る前に名乗りもせずすごい勢いで「この後暇!?」と聞かれ、驚いて思わず切ってしまいそうになった。
その気持ちを抑え落ち着いて話を聞いてみればリンさんからで、なんでも飲む機会を失った大量の酒を少しでも多く消費したいとのことだった。
別に置いといても問題ないのではないか、と尋ねたのだが『これ以上増えたら置き場に困っちゃうの』『キキョウちゃんお酒すごく強いから適任だと思って』など様々な誘い文句を言われた。
特にするべきこともない上に酒を飲みに行こうとしていた時だったので断る理由もない。
そういう訳で私は今、闇医者ビアンことリンさんの家にお邪魔している。
彼女の職場でもあるこの家は、比較的広いが隅々まで手入れが行き届いており、内装も落ち着いた雰囲気となっている。
一人で過ごすには広めなリビングの真ん中に置いてあるテーブルの上に酒をたくさん並べる彼女は満面の笑みを浮かべており、とても楽しそうだ。
「ほんとキキョウちゃんが仕事終わりで運がよかったわ。アタシの普段の行いがいいおかげね」
「あはは……」
貴女この前「クソむかついた男の内臓を二つ三つ売り飛ばした」とか言っていませんでしたっけ?
と言いそうになったが、お酒を振舞ってくれるリンさんの機嫌を損なるようなことはしたくないので心の中で呟くまでに留めておく。
「これで全部かな」と手を付けていなかった酒を全て引っ張り出す。
自宅に数十本もの酒を置けるなんて羨ましいとも思ったが、私はあの酒場で飲むのが常なので結局保管場所があっても意味がないな、と羨む気持ちはすぐなくなった。
「あ、ほらジャックダニエルもあるわよ。それもシナトラセレクト」
「そんなものまでほったらかしにしてたんですか。本当に勿体ない事してますね」
「ほったらかしてたんじゃなくて飲むタイミングを失ってただけよ。これから空ける?それとも別のにする?」
「最初からそれはちょっと勿体ないので、そこにあるジムビームにしましょう」
「はいはい」
私は基本的にジャックダニエルしか飲まないのだが、他の酒が飲めないわけではない。
人から酒を奢られる時は大体同じものをいただいているので、それなりの種類の酒を嗜んでいる。
ジムビームは割と飲みやすいと思っているので、最初の一杯はこれからいくのが妥当だろう。
リンさんは二つのグラスに氷を入れると、私が指した白ラベルの『Jim Beam』と書かれたボトルを開けて注いでくれた。
「じゃあ、今日は楽しみましょ! かんぱ」
自身のグラスを高らかに掲げ、心の底から楽しそうに発そうとした飲み始めの掛け声が止まる。
「……」
「……」
沈黙が落ちる。
その原因は家中に響いた来客を告げるチャイムの音。
目の前の彼女は先程までの満面の笑みと乾杯の姿勢のまま固まっている。
どことなく不機嫌な空気を醸し出しているのは気のせいではないだろう。
リンさんが出てこないからか、何かの用があって訪れた客人は催促するように再びチャイム音を鳴らす。
「…………」
「あ、あのリンさん。出なくていいんですか?」
「いいのよ。別に大した用でもないでしょ」
「気持ちは分かりますけど、そんなおっかない顔しないでください……」
彼女からしてみれば、折角の楽しい雰囲気をぶち壊しにされたのだから面白くはないだろう。
私だって楽しみのひと時を邪魔されればいい気はしない。
だからと言って、玄関の方向を鋭い眼光で睨みつけるのはどうなのか。
二回鳴らしても出てこないリンさんに痺れを切らしたのか、今度はドンドンと直接ドアを叩きながら大きな声で呼びかけてきた。
「リン!いるのは分かってんだ! とっとと出てこい!!」
玄関の方から飛んできたのは“中国語”で発せられる怒鳴り声。
その声を聞いた瞬間、機嫌の悪さが頂点に達したのか自身のグラスを乱暴にテーブルへ置き、鋭い眼光を携えたまま足早に部屋を出て行った。
嫌な予感しかしない。
それにあのおっかない顔のまま出て行ったところで話が丸く収まるとも思えない。
私もグラスを置き、リンさんの後を追おうと腰を上げる。
「うるっさいのよアンタ! 一回で出なかったんだからその時点で帰りなさいよ!!」
「中から声が聞こえてんのに帰るやつがどこにいるんだ!」
「居留守を使ってるって分かってんなら察しなさいよ! 気持ちを汲み取ることもできない訳!?」
「なんで俺がお前の気持ちなんか汲み取らなきゃいけねえんだ!」
先程の男性の怒鳴り声とリンさんの大声が一瞬の間も空けることなく交互に聞こえてくる。
リンさんとここまで派手に、しかも中国語で怒声を浴びせ合う人物は一人しかない。
少し遅れて玄関に着くと、私の姿を捉えた来客と目が合った。
「キキョウか? お前なんでこんなところに」
「お久しぶりです郭さん。先程リンさんに一杯のお誘いをいただきまして」
「相変わらずこの女の暇つぶしに付き合わされてるのか?迷惑なら断ってやればいいものを」
「仕事が終わって時間も空いてたので丁度良かったんですよ」
リンさんと怒鳴り合っている時のしかめっ面を引っ込め、
英語で声をかけてくれた男性の名は“
黒い長髪を後ろでひとまとめにし、黒のスーツに身を包んでいる彼は、言うまでもなく三合会の一員。
体術に長けていて腕も立つことから、よく張さんの周りを警護しているらしい。
そして張さんの事を心から尊敬しており、自分に警護を任せてくれることを誇りに思っているようだ。
絶大な忠誠心を持ち、ボスの敵は必ず潰すという姿勢から彼の事は一目置いていると張さんから聞いた。
そんな自分のボスからあまり離れない彼がどうしてここにいるのか。
「そういう訳だから。ほらさっさと帰りなさいよ」
「俺だって長居するつもりはねえ。だが、お前から例のモン受け取ってこいって大哥から言われてる。それをとっとと渡してくれればお望み通り帰ってやるよ」
「……ほんとあの人は性格が悪すぎる。わざととしか思えないわ、このクソ野郎をよこすなんて」
呆れ顔で発された郭さんの言葉にリンさんは苦々しい表情を浮かべ呟いた。
雇い主である張さんの名前が出てしまえば、無理やり追い返すわけにもいかないのだろう。
「アンタも得意の空気の読めなさを生かして断りなさいよ。“なんで俺が行かないといけないんですかあ”って」
「そんな我儘誰が言うか。お前みたいに礼儀も知らねえクソ女じゃあるまいし」
「……なんですって?」
瞬間、この空間の温度が一気に下がった気がした。
敵意むき出しの鋭いその声で彼女が郭さんの言葉で更に不機嫌になっているのは表情を見なくても分かる。
というか見たくない。触らぬ神に祟りなしだ。
だが、そんなリンさんの目の前に立っている郭さんはたじろぐことなく口を開く。
「事実だろ。普段世話になってるはずの大哥に敬意の姿勢を一切見せねえ傲慢な女。何か間違ってるか?」
「うるさいわね。アンタのその異常な忠誠心をアタシに押し付けるなって何回も言ってるでしょ? 大哥がいなきゃ何もできない餓鬼が、偉そうにすんじゃないわよ」
「その歳になって礼儀の一つも覚えられねえお前の方が餓鬼だ」
「相変わらずクソむかつく野郎ね」
「お前ほどじゃない」
実は、こういうやり取りは今に始まったことではない。
リンさんと郭さんは昔から仲が悪いらしく、顔を合わせる度に嫌味や罵詈雑言をお互い浴びせるのだ。
最初こそこのやり取りに戸惑ったが、何年も見ていれば自然と慣れてくるもので今では恒例行事だと諦観している。
だが、これ以上この話を引っ張るのは互いのためにもならないはずだ。
なにより、氷がこれ以上溶ける前に酒を飲みたい。味の薄くなった酒が一口目なのは勘弁したいものだ。
「あの、郭さんは張さんの命令で何か受け取りに来たんですよね?なら早く渡した方がいいですよリンさん」
「ほらキキョウちゃんにまで気を使わせた。謝りなさいよ」
「自分の落ち度を他人のせいにするとはな。いい加減キキョウの謙虚さを見習え。――とまあ色々言いたいが、キキョウの言う通りだ。これ以上の話は無意味だ、早く出せ」
「アタシに命令しないで頂戴。……はあ」
一つため息をつき、リンさんは足を動かし奥にある部屋へ入っていた。
「すまねえなキキョウ。見苦しいところ見せちまった」
「今更ですよ。それに、喧嘩するほど仲がいいとも言いますし」
「気色悪い冗談はやめてくれ」
郭さんは私の言葉に少し困ったような顔を浮かべた。
この人はあまり笑わない彪さんとは対極で表情が豊かだ。
愉快そうに口の端を上げる時の表情は、どことなく張さんと似ている。気がしなくもない。
「そういえば、張さんはお元気ですか?」
「ああ、今も立派に仕事をこなされてるよ。その仕事もそろそろ落ち着く。近々一杯誘いがあるかもな」
「どうして折角の空き時間を一人で過ごされないんでしょうかね」
「さあな、俺にはあの人の考えてることは分からねえ。ま、大哥と一杯やれるだけありがたいと思っとけ」
「ええ」
ダメもとで聞いてみたが、やはり分からないか。
彪さんにも前同じことを聞いてみたが、返答は全く同じだった。
三合会の中でも一番近く張さんを見ている郭さんと彪さんでさえ、未だに彼の考えていることは分からないらしい。
だが、別に知ったところで何かが変わるわけでもなし。
結局、私たちはそれでいいのだ。
「ほらとっとと持っていきなさいクソ野郎!」
リンさんの勢いがある声と共に、ものすごいスピードで私の背後から銀色で小型のキャリーケースを前に突き出した。
「てめえもっと丁重に扱え。これがどういう代物かお前が一番分かってんだろ」
「ちょっとした小遣い稼ぎの道具」
「ふざけやがってこのクソ女。早くどっかの男にでも刺されろ」
「アンタも早くそこら辺の野良犬の餌になりなさいクソ野郎。とにかく、渡すもん渡したんだから消えなさいよ。アタシとキキョウちゃんはこれからお楽しみなんだから」
「はあ」
ため息をつきながら受け取り中身を確認すると「確かに受け取ったぞ」とリンさんへ言葉を投げかけすぐにキャリーケースを閉じた。
あの中身が何なのか知ったところで意味もないので質問はしない。
それに、知らな方がいいこともある。
「邪魔したなキキョウ」
「お疲れ様です。張さんにもよろしく言っといてください」
「おう」
郭さんは私に一言そう言ってから、受け取るものを受け取って用はないという風に颯爽とその場から去っていった。
「アタシには最後まで一言も謝らなかったわあの野郎。……いっそアタシが完全犯罪で殺ろうかしら」
「リンさん、そんなことしたら三合会の人全員から命狙われますよ。多分」
言っていることが果たして冗談なのか本気なのかは分からないが、彼女なら本当にやりかねないので一応忠告をしておく。
「だからこその完全犯罪よ。ま、どうせすぐくたばるでしょうからアタシが手を下すまでもないだろうけど」
「それ言うの何回目か覚えてますか?」
「さあ、数えてないから知らないわ。ま、そんなことどうでもいいじゃない! さ、早く乾杯しましょ!」
「わっ、急に押さないでくださいリンさん」
リンさんは郭さんが来る前のテンションに戻り私の背中を押した。
この人はいつも切り替わりが早いので驚かされる。
だが、それが彼女のいいところでもある。
そしてリビングで放置されていた酒は、やはり氷が溶けていて薄くなっていた。
郭さんも割とお気に入りです。
二人の掛け合いを本当は中国語で出したかったのですが断念しました……。
いつかちゃんと翻訳して修正できればいいなあ。