ロアナプラで育ったのだから、まだこの時間帯なら一人で帰らせても大丈夫と思い家に戻ろうと立ち上がる。
──だが、私は忘れていた。
この子は『数日間にわたり強請ってきたしつこい子供』だということを。
家の中に戻ろうとした私のイージーパンツの袖を掴んできた。
「……君、離してくれないと困るんだけどな」
「どうしても、あんたの服が、必要なんだ」
震えた声で告げられる。
だが、私も譲るわけにはいかない。
また服を人にあげてしまえば、もう一度あの男に会う羽目になる。
そうなってしまえば穏やかな日々ともおさらばだ。
私の日常を、これ以上崩れさせはしない。
「悪いけど、本当にあげる服なんてないの。君だけじゃない、この世界の誰にもね」
「じゃあ」
「言っとくけど、金をいくら積まれてもあげないよ。これは金の問題じゃない。本当に『あげる服がない』から言っている。ないものはない。諦めて」
「……」
少しきつく言い過ぎた気もするが、ここまで言えば諦めてくれるだろう。
「……あんたの服をもっていかないと、殺される」
「は?」
「あいつ、あんたの服をみてもう一つ持ってこいって。じゃないと……殺すって!」
「……そう言われたっていう証拠はどこにあるの?」
「ない、けど……でも本当なんだっ!」
「ごめんなさい。私は君を信じることができない」
「……」
この子に何一つ情がない訳じゃない。
本当にそう言われているのかもしれない。
だが、私がこの子を救う義理はない。
……やっぱり、あの服をあげるべきではなかったのだ。
私が服をあげなければ、この子も私もこんなことにならずに済んだのに。
押し問答を始めてどれほど経っただろうか。
そろそろ家に戻りたい。
心の中で呟いたのと同時に、袖を掴む力が強まった。
「……じゃあ、服じゃなくてもいい」
「え?」
「服じゃなくていいから、あなたが作ったものをくださいっ!」
必死の形相だった。
本当に命を狙われているのかもしれないと思わせるほどに。
「……服じゃなくてもいいんだね?」
「うん!」
やはり自分は子供に甘いのだと、この時思い知った。
──私が考えに考えてあの子に渡したものは、刺繍の練習で製作したものだ。
ハンカチほどの大きさの布の端に、一輪のアマリリスを刺繍したもの。
あの子にドレスをあげた後、数日部屋に籠りきりだった時に練習した。
作品としては価値がない。
だから渡しても問題はないと思った。
価値がないもので平穏を保てるなら安いものだ。
やっとこれで、本当に安心できるだろう。
さっさと夕食を済ませ、明日に備えて早く寝よう。
寝てしまえば、またいつもの日常が待っているから。