時計が午後の17時を指し示す頃。
こなすべき依頼もなく、久々に朝から刺繍に没頭していた。
今日の柄は様々な色のガーベラを一面にちりばめたもの。
赤、黄、ピンク、白、オレンジという明るい色で統一し、全ての花の輪郭に沿って白く小さいビーズも加えたので少し派手だが華やかさが感じられるものとなっている。
ハンカチのように使えるものにする訳でも人に売る訳でもないが、明るいものを作りたい気分だったので結果こうなった。
たまには趣味の物を贅沢に仕上げるのも悪くない。
さて、あと一輪だけ輪郭に沿ってビーズを縫えばこの作品も完成だ。
まだ陽が沈むまで十分時間があるのでゆっくり仕上げよう。
と、その前に喉が渇いたので一度手を止め水を飲もうと腰を上げる。
自室に向かい、コップに水を注ぎ少しづつ口に含み喉を潤していく。
やはり作業に集中していると自分の体の事は二の次になってしまうな。
これは昔からの性分なのできっと治らない。いや、治す気がないと言った方が正しいか。
半分以下となった残りの水を一気に飲み干そうと口に含んだ瞬間、唐突に聞きなれた音が響いた。
慌てて作業場に戻り、口の中の水を飲み込み音の発信源である携帯を手に取る。
「げほッ……はい、キキョウです」
何回かコール音を響かせた後、勢いよく飲んだせいで少し噎せながらも電話に出た。
『どうした、風邪でもひいたか?』
聞こえてきたその言葉と低い声で相手が誰なのか瞬時に理解する。
「失礼しました。至って健康なのでご心配なく」
『そうなのか? 久々に弱ったお前を見れると期待したんだがな』
「そんなもの見てどうするんですか」
『さあ? ただ、愉しいということだけは確かだな』
その言葉の後、一つ息を吐き出す音が聞こえた。
ヘビースモーカーである彼は、きっと今も煙草を吸いながら電話してきているのだろう。
優雅に佇みながら通話している様が目に浮かぶ。
「……それで、どうされたんですか張さん。わざわざ私の体調を気遣うためだけに連絡してきたわけではないでしょう?」
『はは、たまにはそれも悪くないな。――ちょいとお前に頼みたいことがあってな』
「服の依頼ですか?」
『あー……。まあ、そんなところだ』
張さんの返答に思わず首を傾げる。
いつもならもっとこう、気軽に依頼してきてくれるのだが今日は少し様子がおかしい気がする。
ただの気のせいだろうか?
『ひとまず、詳しいことはそっちに行ってから話す』
「あ、今回はこっちに来られるんですね」
『たまには、お前が淹れてくれるコーヒーを飲みながら話すのもいいだろう?』
私が淹れるコーヒーはいつもインスタントだ。
彼ならもっと上等な物を口にしてそうなものだが、なぜかそれでもいいと言ってくれている。
だから私は張さんが来るときは必ずと言っていいほどインスタントコーヒーを淹れてもてなしている。
これも五年前から続いている習慣の一つだ。
「今から来られますか?」
『ああ』
「分かりました。コーヒー淹れながらお待ちしております」
『楽しみにしてるよ』
そう言った後、張さんが電話を切ったことを確認しそのまま携帯を作業台の上に置く。
今から来るのであれば、恐らく20分前後で着くだろう。
それまでに、少し作業場の整理とコーヒーをいつでも出せる状態にしなければならない。
最初の歯切れの悪さが少し気になったが、まあ大したことではないだろうと結論付け、まず台の上の刺繍道具を片付けようと手を動かした。
「――張さん、もしかして相当だらしない生活を送られているんですか?」
「誰だって気が抜ける時くらいある」
「気が抜けるのは仕方ありません。ですが、多すぎるんですよこうなるのが」
「……疲れてたんだ。俺が常に気が休まらない立場なのは知ってるだろう」
「疲れてるなら煙草吸う前に着替えて寝てください」
思っていた通り、連絡をもらってから20分ほどでやってきた張さんをいつものように招き入れ、淹れたコーヒーを手渡ししばらく世間話をしていた。
だが中々本題へ入ってくれないのでこちらから催促すると、少し困ったような表情を浮かべ
「あー…」とまた歯切れの悪い反応を見せた。
その様子に首を傾げつつも、彼が持ってきていた紙袋を受け取り中を見てみれば
胸の部分に一つ小さな穴が空いているワイシャツが出てきた。
穴の周りに燃えたような跡があるのが目に入り、原因が何なのかすぐ分かった。
この穴は煙草の火が落ちてできたもの。
これくらいなら修繕するのは簡単で別に作業も苦ではない。
だが、私はそれを見た瞬間盛大なため息を吐きたくなる症状に駆られた。
――実は、彼がこういう状態の服を持ってくるのは初めてではない。
この人は、これでもかというほど煙草で服に穴を空けるのだ。
この前はジャケット、その前はズボン、その前の前はコート……
と、もう癖なのかと言いたくなるレベルでタバコの火を服に落としている。
最初は『誰だってこういう時はある』とあまり気にしていなかったのだが、こう何回も穴を空けられると嫌でも気になってくる。
争いごとに巻き込まれたり他人に煙草を押し付けられたりという不可抗力ならまだしも、煙草の火をうっかり落として何回も空けられるのは、はっきりいって気分がいいものではない。
「その言い草、まるで母親だな」
「人にここまで言わせる貴方はまるで子供みたいですよ」
「そんな強張らせてると綺麗な顔が台無しだぞ」
「そう言えば私が動揺するとお思いなのでしょうがそうはいきませんよ」
例えお世話になっている人でも、今回ばかりははっきり言わせてもらう。
「私以前言いましたよね? 『服に穴を空けるのが趣味でないのなら気を付けてください』と」
「お前が仕立てた服を傷つける趣味は持ち合わせてないさ。ただちょいと不注意でな」
「この前も、その前も、その前の前も同様に“不注意”だと仰っていましたね。では貴方はその不注意を直す気はないと、そう捉えてよろしいので?」
「おっと、今日は一段とキツイな。――悪かった、だからそんな不機嫌になるなよ」
誰のせいだと思っているんだ、全く。というか本当に悪いと思っているのか。
再び言い返そうとした時、ニヤニヤとしている顔が目に入った。
「……私の小言はそんなに面白いですか?」
「ああ、すまん。そう言っていても、結局お前は俺の頼みを聞いてくれるんだろう?」
ああもう。なんでこういう時にそんなことを言うんだ。
色々小言を言ってはいるが、この人の言う通り断ることは全く考えていない。
それを簡単に言い当てられてしまい、思わず言葉を飲み込んだ。
まるで、今までの言葉は全部意味がないと言われているようで少し気恥ずかしい。
「分かりませんよ。私の気が変わるかもしれませんし」
「それは困る。お前が仕立てた服はお前しか完璧に直せないからなあ」
「ならもっと大事にしてください、本当に」
「俺もあれ以上の小言を貰うのは勘弁したいからな。いや、そういうお前は珍しいからたまにはいいか?」
「張さん」
冗談を諫めるように名を呼ぶと、張さんは愉し気な表情のままくくっと笑った。
この人にはこれ以上小言を言っても無駄な気がするな。
そう思いながら小さくため息をつき、サングラスの奥にある瞳を見ながらゆっくり口を開く。
「お怪我はありませんでしたか?」
「ああ。流石に自分の煙草で火傷を負うなんざ格好がつかない」
「服に穴空けてる時点でついてないですよ」
「それもそうか。なら、今すぐ挽回しねえとな」
張さんはそう言うと、優雅に組んでいた長い目の前に足を崩し腰を上げた。
空になったコーヒーカップを私の後ろにある作業台の上に置いたと思えば、そのまま顔が近づいた。
椅子に座ったままの私を見下げるその顔は、愉快だと言わんばかりに口の端が上がっている。
「なあキキョウ、俺にその挽回のチャンスをくれないか?」
「私に対してかっこつけても何の得もないと思うんですが」
「男は女の前じゃかっこつけたいもんさ。勿論、この俺も例外じゃない。――口説きたい女の前なら尚更」
普通なら「何を言っているんだ」と引かれるような台詞。
だが、雰囲気と合っているせいで全く違和感がない。それどころか、よりダンディズムさを感じさせるものとなっている。
これはきっと、この伊達男の為せる業なのだろう。
どうせなら、私のような女ではなくもっと綺麗な女性に使えばいいものを。
「……私にそういう冗談を言っても面白くないのによく飽きませんね」
「全く、少しは靡いてくれてもいいんじゃないか?」
「冗談を本気にするほど間抜けではありません」
「やれやれ。相変わらず気難しいことだ」
この人が洋裁にしか興味がないつまらない女を本気で口説くなんてありえない話。
だからこれは冗談なのだと結論付けいつものように受け流す。
こういうやり取りは、きっと彼が飽きるまで続くのだろう。
早くその時が来てほしいものだ。
「そんな困ったお嬢さんは、この後用事はおありかな?」
「……貴方からの依頼をこなす以外は特にありませんね」
飽きもせず彼から出た気障な口調に触れることなく返答する。
またため息つきたくなって少し間が空いてしまったが、まあ気になるほどではないだろう。
「そりゃよかった。なら、ちと早いが久々に食事でもどうだ。」
「酒ではなく、ですか?」
「ああ、たまにはパトロンとしていいもん食わせないとな。どうせまたサンドウィッチばかり食べてるんだろう?」
「別にいいじゃないですか。手軽ですし美味しいんですよ、サンドウィッチ」
毎日外食や宅配ピザより時間も金もかからない上に健康的。
これを咎められる筋合いはないと思うのだが。
「お前の食生活を責めてるわけじゃない、そう怒るな」
「怒ってないです」
「ふっ。さて、俺としてはこれからお前に美味い中華を食わせたいんだが、どうする?」
私としてはさっさと服の修繕を行いたいのだが、どうやら急ぎではないらしい。
それに、彼は今日“そういう気分”らしいので私に断る選択肢はほぼない。
「では、お言葉に甘えてぜひご一緒させてください」
「決まりだな」
私の返答を聞いた張さんは一言そう言うと、近づけていた顔を離す。
「では早速行こうか、Ms.キキョウ」
決まり文句のような台詞を言ったかと思えば、まるで女性をエスコートするかのように手を差し出された。
だが、なんだか照れくさくてその手を取ることが憚られる。
「俺のエスコートじゃ不満か?」
「……いえ、そういうわけでは」
「なら、取ってくれると嬉しいね」
ニヤニヤとしているその表情に顔が引き攣りそうになったが、お世話になっている人の手前そうする訳にもいかない。
結局、今私がするべきなのはこの人の気まぐれに付き合うことだけだ。
照れくさい気持ちのまま目の前にある武骨な手をおずおずと取る。
その時また、彼は満足そうな顔を浮かべくくっと笑った。
「――やっと着いたね」
「ええ。とても長くて退屈だったわ」
「でも、これでまたいっぱい遊べるよ」
「そうね。どうせなら満足するまで遊びましょ」
「ああ、早く嗅ぎたいな。あの心地いい鉄錆の匂い」
「早く触れたいわ。あの愛しい温かさ」
「早く聴きたいな。あの綺麗で高らかな声」
「早く見たいわ。あの素敵な表情」
「待ちきれないね、姉様」
「本当に楽しみね、兄様」
<中華料理店にて>
「――ほら、遠慮することはないぞ」
「いや、遠慮とかじゃなくて」
「さっき美味しそうに食べてたじゃないか。好きなんだろう?」
「好きですけど、それとこれとは」
「じゃあ何も問題ないじゃないか。折角だ、たくさん食べとけ」
「もう満足です……。それに何回もおかわりするのは」
「好きなモン食うのは恥ずかしがることじゃない」
「そういう訳にもいかないんです」
「いいから食っとけ。おい、これもう一つくれ」
「あ、ちょっと――」
張さんが頼んだのはごま団子。
そして、ごま団子を食べてる時のキキョウは本当に美味しそうに食べるのです。
普段あまり感情をはっきり顔に出さないキキョウのその顔を見たいがために頼んじゃう。
そして、食事の後は二人で一杯――。
次回から、とうとうあの子たちのお話になります。